大樹

ハクセキレイ

第1話

 

「大樹」と言う名前は大樹のように泰然とした人になるようにと願って付けられた。

彼はその由来を誰から聞いたのかは覚えていない。母だったのか、父だったのか、よくわからない。

ただ、大樹のイメージは彼の中に強く残った。

何事にも動じない、大きな太い樹。その下に人が集い、雨風を凌ぎ、木陰で憩う。来るものは拒まず、去るものは追わない。

彼はその名前の通り「大樹」のようでありたいと願い、そうあるように努めた。誰の求めにも応じ、優しくあろうとした。不平不満は口にせず、やるべきことを坦々とこなした。そうしていると、彼の周りには自然と人が集まるようになった。体良く利用しようとする人もいたが、構わなかった。彼は集まった人々を決して区別せず、男性も女性も、大人も子供も、みんな等しく接していた。

大学を卒業し、地元の役所で働き始めた。それから何年かすると、彼の横に一人の女性が寄り添うようになった。彼女は職場の後輩で、もの静かな女性だった。何がきっかけということは無かった。時折、彼女が彼に話をし、彼はそれを静かに聞いていただけだ。仕事の不安や悩みから始まり、両親のこと、友人のこと、そしていつしか、過去の恋愛や、大切なものについて。

「先輩って本当に樹みたいですね。いつも変わらずにそこにある感じで、なんだか安心します」

一緒に働いてしばらく経った頃、彼女はそう言って彼に笑いかけた。彼も笑みを返した。

それから少しして、彼女は彼に交際を申し込んだ。

その1年後、二人は一緒になった。

結婚しても彼は変わらなかった。仕事では面倒ごとも嫌な顔せず引き受けるので、周囲からの信頼は厚かった。それは家でも同様だった。朝は5時半に起き、朝食のトーストと目玉焼き、味噌汁を作った。朝食と合わせて二人分の弁当も用意した。夜は自然と先に帰宅した方が用意することになっていたが、大抵は彼が作るようになっていた。

休日は彼女と二人で過ごした。彼は彼女が行きたいと言ったところに行き、したいことをして、食べたいと言ったものを食べた。

もちろん、喧嘩をすることもあった。大抵は些細なことがきっかけだった。怒るのは彼女で、謝るのは彼だった。そのたび彼は反省し、心から謝罪をした。そして、同じ失敗は繰り返さないよう気をつけた。トイレのスリッパは揃え、脱衣所の電気はきちんと消し、まな板は食材によって使い分けた。

生活は安定し、彼は幸せだった。

しかし、いつからか彼女は少しずつ塞ぎがちになっていった。食事中や、寝る前、ちょっとした時に不意に黙り込んでしまう。時には彼の顔をじっと見つめて、小さなため息を漏らした。彼には原因がわからなかった。何かあったら言って欲しい、と伝えたが答えは決まって、なんでもない、の一言だった。

それから彼は日々の生活に、より一層気を使うようになった。彼女の負担を減らすべく、仕事は早く切り上げ、彼女より先に家に帰るよう努めた。食事は彼女が苦手なもの、嫌いなものはすぐさま除外した。部屋は毎日寝る前にきれいに片付け、彼女が気持ちよく過ごせるようにした。

彼女が何かに困っているのなら寄り添っていたかった。

しかし、そうして彼が頑張れば頑張るだけ、彼女は余計に黙りがちになっていった。 

その日、彼が家に帰ると、玄関にはすでに彼女の靴があった。

「今日は早いんだね」

「ええ、ちょっとね」

机の上には彼の好物が並んでいた。ロールキャベツにポテトサラダ、それからご飯。彼女はどこか浮足だっているようだった。コロコロとよく笑った。久しぶりに彼女の笑顔を見た気がした。

「デザートにケーキも買ってきたの」

夕飯後、彼女は紅茶を淹れ、冷蔵庫から白い箱を取り出した。中にはシフォンのショートケーキと、ガトーショコラが入っていた。

「どっちがいい?」

「どっちでも。先に君の好きな方を取りなよ」

「いいえ、今日はあなたが先。ほら選んで」

彼女は笑っていたが、その声にはどこか切羽詰まったような、有無を言わせぬ響きがあった。

「本当にどっちでも良いのだけど…。そしたらシフォンケーキをもらおうかな」

「それじゃあ、どうぞ」

二人はケーキを食べ、紅茶を飲んだ。その間、二人はしゃべり続けた。仕事のこと、通勤中にあったこと、同僚と交わしたささやかな世間話。会話はにこやかに進んでいたが、そこには微妙な緊張感が漂っていた。

「ねぇ」

彼女のその声は硬く、不自然に大きく響いた。

「さっき、なんでシフォンケーキを選んだの?」

「…ごめん、シフォンケーキの方が良かった?」

「ううん、なんでシフォンケーキを選んだのか聞きたいの」

「なんとなく、君はガトーショコラの方が好きだったかな、と思って」

「そう」

それだけ言うと、彼女は黙り込んだ。そして二人は黙ったまま、食器を片付け、風呂に入った。風呂上りに彼がソファに腰かけて本を読んでいると、彼女は無言で寝室へ向かって行った。時刻は午後9時半。まだ寝るには早い時間だった。

彼女の後を追ってベッドに潜り込む。声をかけようかと思ったが、なにを言えばいいのかわからなかった。

「あのね」

しばらくして、彼女が口を開いた。

「私はあなたを選んだの、わかる?」

彼は寝返りを打って彼女の方を向いた。彼女は彼に背中を向けていた。

「だけど、あなたに選んでもらった気がしないの。特に最近そう感じる。別に私じゃなくてもいいんじゃないか、なんて」

彼は黙って頷いた。

「きっとあなたは私じゃなくても同じようにするんでしょうね。それがあなたのいいところで、そこに私は惹かれたんだと思う。だけど」

彼女は寝返りを打ち、彼に振り返った。

「私は私としてあなたの横にいたい。誰でも良かったなんて思いたくない。わがままなのかもしれないけれど」

彼には彼女が何を気にしているのかよくわからなかった。彼は彼なりの方法で彼女を大切にしているつもりだった。

「僕は君を選んだんだよ。だから結婚したんだろ?」

「そうね、そうかも知れない。だけど、そういうことではないの。わからない?」

彼女はそう言って再び彼に背中を向けた。

彼女の小さな背中を見つめながら、きっと今、彼女に何か声をかけるべきなのだろうと考えていた。しかし、なんで言えば良いのかはわからなかった。君は特別なのだとか、そういうことを言えばいいのかも知れない。だが、どう特別なのか、と聞かれると困ってしまう。そうして色々と考えている間に、彼女が小さな寝息を立て始めた。そこで答えは保留して、彼も一緒に眠りについた。

翌朝、目を覚ますと机の上に一枚の紙が置いてあった。しばらく家を出て一人で考えたい、帰りたくなったら連絡する、あなたも何かあったら連絡して、急にごめんなさい、だけど心配しないで、と書かれていた。それは確かに彼女の字だった。

その夜は豚の生姜焼きと白菜のお味噌汁を作って食べた。一人で食べる食事は少し味気なかった。

彼女がいなくても日々は淡々と過ぎて行く。

時々、彼女が言ったことを考えた。だが、やはりその趣旨をうまくつかめなかった。「私は私としてあなたの横にいたい」彼女はそう言った。しかし、彼にとって彼女は彼女でしかない。彼女はなぜそんなことを言ったのだろう。彼女の代わりになるような人なんていない。世界のどこを探しても、彼女と同じ人間なんていないのだから。

彼女が帰ってきたのは、出て行った日からちょうど一週間後だった。

「ごめんなさい」

彼女はそう言って離婚届を差し出した。すでに彼女の署名がしてあった。

「私がわがままなのよ。あなたには大切にしてもらっている。それはわかってるの。だけど、私はこのまま耐えることができそうにない」

「耐えるって何に?」

「何かしら。私にも良くわからない」

彼女は笑った。それは久しぶりに見る笑顔だった。

「この一週間、私、ウィークリーマンションを借りて一人で過ごしていたの。自分でご飯を作って、洗濯して、しっかり掃除もした。毎日きちんとしようって決めていたの。だけど、ダメだった。木曜日くらいには疲れちゃって、コンビニでお弁当買って、服は脱ぎ散らかして、シャワーで汗だけ流したらすぐに寝ちゃった。それで、朝起きて、あぁ、これだなって思ったの。これが欲しかったんだって。久しぶりに息を吸った気がした。わかる?」

彼女は彼を見つめる。彼女は彼に分かって欲しいとは思っていないようだったし、実際彼には良く分かっていなかった。

「わからなくてもいいの。私にとってそうってだけの話だから。わかっておいてもらいたいのは、決してあなたが悪い訳じゃないってこと。だけど、私はあなたと一緒にはいられないってこと。この二つだけ」

彼は素直に頷いた。今度は彼女が言うことが理解できた。理由はどうあれ、彼女がもう一緒にいられないと言うのであれば、一緒にはいられないのだろう。

「君にとっていいように変わることはできないだろうか?直すべところがあれば直すんだけれど」

「それは私にもわからない。強いて言うなら、私はあなたに変わって欲しくない。私に合わせるようなことをして欲しくないの。だけど、私といるとあなたは私に合わせて変わってしまう。それが耐えられないのかも」

彼女は小さく頭を下げて、ごめんなさいと言うと家を出て行った。机の上に離婚届を置いたまま。

彼女が出て行ったあと、彼は彼女の言葉の意味を考えた。彼にはそれが矛盾しているように思えた。相手の求めに応じて、自分のできることをするのは彼にとって当たり前のことだった。だから、彼女の求めに応じようと努めてきた。しかし、それが彼女にとってはそれは苦痛だったらしい。ではどうすればいい?彼女の求めに応じないように努めれば、彼女の苦痛は和らぐのだろうか?だが、それでは彼女の求めに応じたことになるのでは?思考はぐるぐると回り続け、着地すべき場所を見失ってしまった。

結局、どんなに考えたところで彼女が無理だと言うのであれば無理なのだ。彼女の意志を無視して一緒にいて欲しいなんて、間違っている。それが彼の結論だった。

テーブルの上に置かれた離婚届と向き合う。すでに彼女の名前は書かれている。彼女の名前の隣に自分の名前を書き入れる。

「大樹」

一本の大樹のように泰然と、今自分はそんな人間でいられているのだろうか?

大きく息を吸って、辺りを見回す。部屋は綺麗に片付いている。時刻は午後17時を過ぎたところ。そろそろ晩ご飯の支度をしなければいけない。

何事にも動じない。そうあるべきなのだ。

だが、何のために?

その問いが彼の頭の中でリフレインし、いつまでも鳴り止まなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大樹 ハクセキレイ @MalbaLinnaeus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る