記憶喪失の情報屋

中 真

記憶喪失の情報屋

 汽車が止まっている駅を歩く女は俺の見慣れない白いワンピースに身を包んでいた。足を踏み出す度に裾が女の足に絡みついたり、蹴り上げられて風を孕んだり。ゴロゴロと車輪の付いた小さめの茶色い鞄を一つ引いているが、それが女に残された持ち物全てなのだ。


 汽車の車両と手に握っている切符を交互に見て、自信無さげに自分の席を探している。


 女は今日、この町を出ていく。


 見送りと言うべきか護衛と言うべきか、後ろからついて行っている俺はやや危なっかしい様子の彼女を苛立たしい気持ちで睨んでいる。


 以前の彼女はこんな鈍臭そうな女じゃなかった。お世辞にも治安がよろしいとは言えないこの町で、一人、したたかに渡り歩けるような。そんな女だった。


 あの事故までは。


 苦い思い出に顎に力が入り奥歯がギリッと音を立てる。目の前の女ははたと足を止める。切符をじいっと見つめ、首を傾げる。俺は出かかった舌打ちを寸でのところで止める。


 分かっている。彼女がこうなってしまったのも、彼女のせいではない。分かっては居るんだ。


 白いワンピースの裾は立ち止まった彼女と同様に静止している。忙しなく動いていた時も目障りだったが、動かなくなっても嫌悪感は無くならない。


 以前の彼女は、細身の黒いスーツを好んで着ていた。時にはそれ自体が凶器になりそうな程に細く高いヒールをカツカツと鳴らし、長い黒いコートに身を包み、颯爽と夜の町を歩いていた。数多くいいオンナを見てきた俺が言うんだから間違いねぇ。どこをとっても彼女は一級品だった。それは彼女の商品であった情報にも言えることだった。


 情報屋としての彼女は、間違いなく優秀だった。俺らも幾度となく世話になったし、頼りにしていた。顔馴染みだからと言って時々格安で情報を流してくれることもあった。まぁ、あれらもこの町の治安部隊である俺らに恩を売って、贔屓にしてもらう計算込みだったんだろうが。そこが良かった。


 この町では綺麗事だけでは生きていけない。上手くやっていくには、悪知恵を働かせなきゃならねぇ。


 事実、彼女は上手くやっていた。ヤバい情報を手に入れても、滅多なことが無けりゃそれを悟らせない。客の見極める目もピカイチだった。高く買ってくれるのは勿論のこと、売った後に自分の身の安全も考え抜いていた。


 俺が初めて彼女に接触したのも、仕事の上司に引き合わせられた時だ。よろしく、と笑顔で会釈する小柄な女に最初は有益な情報が得られるのかと心配したものだ。全くの杞憂だったが。


 数を重ねる内に俺はこの情報屋を痛く気に入るようになった。極め付きは偶々入ったバーで彼女が飲んでいた時だ。仕事ではなく、完全に私的な理由でバーの奥まった席で一人、グラスを傾けていた。珍しく少し酔っていた彼女の頬は火照っていて、いつもの鋭さと相まって、色気が香り立っていた。


 それから何度か誘ったりしたが、仕事の時の彼女は取り付く島もない無かった。代わりにプライベートの時に捕まえれば、無下にされることはない。


 今までのオンナとの関係は短く、すぐに燃え尽きてしまうマッチのようなものばかりだった。だからか、心地良い距離感が長く続くこの関係は、どこか新鮮だった。今は俺もあいつも仕事があるが、いずれはと性懲りもなく考えていたものだ。


 いずれは、何だというのだろう。


 それが何だったのか自覚したのは、皮肉にもそれらが手に入らなくなった後だった。


 彼女が襲われた。


 夜に家で襲撃され、縛られ、家ごと放火された。犯人は彼女が壊滅状態にまで追い込んだファミリーの残党。数日前に治安部隊が制圧した奴らの仲間だ。


 そう。あの事件は治安部隊俺らの失態が招いたものだ。


 ファミリー全員をあの夜抑えていれば、彼女が家を無くすことも、記憶を失くすこともなかったんだ。


 医者いわく、火事により長い間低酸素状態が続いた為、脳に、特に記憶に支障をきたしているとのこと。それでもあこ惨状を生き延びたのは、奇跡だと言った。


 奇跡なんかじゃねぇ。縛られた彼女が血を流しながらも這いつくばって風呂場に辿り着き、燃え盛る家の中で大量の水を流し続けた機転と根性の当たり前の結果だ。


 それが優秀な情報屋の、最期となった。


 助けられた彼女は武器であった記憶も鋭い頭脳も、無くなっていた。大仰な機械に通したり、変な電線を幾つも頭にくっつけて医者は記憶喪失だと告げた。


 そんなこと、医者じゃない俺にだって言えらぁ。彼女の俺を見る目ですぐに分かる。


 この女は、俺の事を覚えていない。まっさらになって、毒気も魅力もなにも、全て抜け落ちちまった、薄っぺらい外見しか残っていない。


 俺の惚れた彼女は、もう、どこにも居ない。


 目の前の女はやっと乗るべき車両を見つけたらしく、少し高い汽車の乗り込み口に足をかける。段差は大きく、女は自然と引いていた鞄から手を離し、両手を手摺りへと掛けて自身を引き上げるように汽車に乗り込む。しかし残された荷物に履いているサンダルの踵が当たってしまい、鞄が倒れる。その音に気付き、振り向いた女は数段高い汽車の上でしゃがみ込み慌てて手を伸ばすが、まるで届かない。


 その様子に我慢しきれなかった舌打ちしながら、俺は乱暴に荷物を持ち上げ、女に押し付ける。困ったような笑顔で女はそれを受け取る。


「ありがとうございます……ミスター・ロック」


 しおらしい敬語も、伏せ目がちの表情も、何もかもが気に入らない。何よりも彼女の面影が少し残っているのも気に入らなければ、彼女の面影を探そうとしている自分にも腹が立つ。


 だがそれも今日までだ。情報屋として生きていけないこの女は今日、この町を去って行く。汽車に乗って鞄一つ分に収まってしまう程に少ない荷物を抱え、俺の知らない何処か遠くの土地へと行く。


 つい、また舌打ちが出る。女はただただ苦笑する。


 記憶も置いていけるのは、さぞ気軽だろうと思う。後悔に苛まれることなどないのだから。


 汽笛が鳴る。もうすぐ汽車が出発するのだ。女は何度も慌ただしくお辞儀をすると、席へと向かう。上司からは無事汽車が走り出すまで見送れと命じられている。女が記憶を無くしたと知らない輩に狙われないようにとのことらしいが、今の腑抜けた様子では彼女だと気付く者もいないだろう。


 それでも上司命令を守ろうと、俺はどかりと駅のベンチに腰を下ろす。煙草とライターを取り出して、火をつける。吐き出された煙は直ぐに消えるというのに、俺の中の苛立ちは全く消えない。あの女がなかなか指定席の窓から顔を見せないのも、状況を助けていない。


 便所なら、俺が見送った後にしろと内心悪態つく。ゆっくりと動き出した重たい汽車を一瞥し、もう帰ってしまおうかという考えが頭を過る。だが煙草も火をつけたばかり。一服終わる前に立つのも、あの女を意識しているようで癪だ。


 汽車の窓に目をやるが、女は相変わらず顔を出してこない。このまま完全に見えなくなってしまうまで女の無事を確認できなかった場合、上司にどう報告するか。煙草からあがる煙を眺めながらぼんやりそんなことを考えたいた時、聞き慣れた声が汽車の音と共に駅に響く。


「相変わらず好きね。その安煙草」


 驚き、声の方を見ると、見慣れた姿が目に入る。汽車の窓に肘を乗せ、駅のベンチに座る俺を見下ろしている彼女は細身の黒いスーツジャケットを羽織っている。食わせ者の笑みを浮かべる優秀な情報屋は、先程の白いワンピースを脱ぎ捨てたようで、鎖骨が覗くシャツも黒である。


 あっけに取られて俺は煙草を取りこぼす。言葉も出ずに、動き出した汽車に乗っている彼女を穴が開くほど見詰める。


 夢を見ているのだろうか。俺は。


 ふらりと灯りに釣られた羽虫のように、走り出す汽車と並走する。しかし駅には見送りの人達がいる上、汽車も速度を上げている。徐々に汽車から身を乗り出している彼女と俺は離れていく。


 気が付くと俺は駅の端に立っている。もうこれ以上は追えない。混乱している俺を心底楽しそうに見詰めている彼女の笑い声は、本格的に走り出した汽車の轟音に呑まれることは無く俺の耳をくすぐる。右手を口に当て、俺に向けてキスを投げた。


「バ〜イ、レニー」


 指先だけを動かすように手を振ると、そのまま汽車の窓の中へと消えていった。


 小さくなっていく汽車が見えなくなっても、俺は暫く動けずにいた。しかしじわじわと状況を理解しはじめると、思わず笑いがこみあげてくる。


「あんにゃろう! やりやがったな!」


 文句を吐くが、口角が上がっている。先程の苛々は嘘のように無くなっていて、実に愉快だ。


 踵を返し、仕事場へと向かう。上司には、確かに優秀な情報屋を見送ったと報告しなければ。だがいずれ彼女はこの町へ戻ってくるのではないだろうか。それもそう遠くない日に。

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