第7話.パンツは脱がなきゃ話にならないだろうがッ!

 面をかぶると大声が出せる。逆に言えば、稽古を始める前のぼくは小声でオドオドしてて、要するにカッコ悪いのだ。

 そのことがわかったのが、まさにその日だった。


 ぼくはふだんから呂律が回る方じゃない。早口言葉を喋らせれば、言い切った文句よりも舌を噛む回数の方が多いくらいだ。


「正志は英語よりも日本語の勉強しないとね」


 母親にすげなくそう言われたことがある。とにかく造語の癖があり、三歳児まで言葉が話せなかったという。何でもかんでも指差して「ター、ター」と鳴き声を上げるみたいに物事を呼び習わすので、当時を思い出す時、必ず母は「ターター正志」というあだ名を付ける。

 だからなのか、いつのまにかぼくは自信を持って何かを話すのが苦手になっていた。


 小学校時代、とみなは振り返る時に一緒くたにして語るけれども、その実は六年間に相当する。最初の一年、二年の時に感じた世界と、最後の五年目、六年目に感じた世界は雲泥の差がある。だから「小学校時代」なんて容易い言葉で語るのは大変難しい。おそらく小一の頃ハマっていたものと、小六の時にハマり出したことを比べればありえないほどの違いがあるはずなのだ。

 ぼくにとっての〝小学校時代〟というのは、だから端的に言うとその最後の二年間──受験戦争にひしがれて、たくさんの競争に煽られて学校に居場所を失いつつあった、あの頃を指している。同じクラスの男子生徒にいじめを受けた記憶や女子に「キモい」と蔑まれ、無視されていた記憶。それを克服しようとしてさらに空回りし、余計に自信を失くしてしまった歴史がドッと襲いかかって背中に被さる。


 ぼくにとって、勉強というものはそれを乗り越えて、チャラにするための唯一の逃げ道でしかなかった。


 勉強して良い進学校に行くことだけが〝脱出〟だった。

 勉強して良い成績を取ることだけが大人に認めてもらえる唯一の方法だった。

 そして、勉強して身に付けた知識だけが、唯一間違いなく自信を持って話せる内容であった。


 けれどもそんな〝強がり〟は、母親には見透かされていた。父親に至ってはぼくのことを見向きもしていなかった。ぼくは記憶になかったが、ある日頑張りすぎたらしい昼下がりに、星が見えると喚いたことがあるそうだ。母の言った言葉なので実際のシチュエーションがどうだったのかはわからない。しかし真昼に星が見えると嘯いた我が子を見て、「やらせすぎた」という反省をもたらしたのは確からしい。結局、だからぼくの中学受験は第二志望合格でお勉強ざんまいからは解放されたのだ。

 とにかく地元の交友関係の外側に出ていければなんでもよかった。外に出て行くことさえできれば、いじめられることも蔑まれることもない。

 

 ただ、まさかその果てにあるのがこのような激しい運動部の世界だとは、当時は思っても見なかった。


「ヤーーーー!」


 発声。


 とにかく雑巾から最後の一滴を絞り出すように、ひたすらに声を出す。先生の太鼓の音に合わせて、何よりも最初に行う稽古。


 ぼくの相手は中嶋だった。背丈は一八〇センチメートル。ぼくはそれよりも十五センチ下で、圧倒的な体格差である。それが怒鳴りつけるように吼える。嘶く。迸る。

 声と声のぶつかり合い。しかしそれはさざなみが崖っぷちにぶつかって飛沫になるようなはかない弱さしか持っていない。


 太鼓が鳴る。ぼくは相手を代わった。


 ぼくが入学したての頃、剣道部の技練は三人一組で動いていた。これが後で変わるのだが、それはまた別の話。

 高等部の先輩方を除いて、上座から順番に各部員をもう一度配置し直してみよう。あえてここでは敬称を略させてもらう。


 第一グループ。北島。三木。窪田。

 第二グループ。飛田。久川。黒崎。

 第三グループ。佐伯。遠藤。湯浅。

 第四グループ。中嶋。大木。星野|(ぼく)。


 この並び順だと、ぼくは技を大木に打ちに行き、中嶋がぼくに技を打つことになる。もちろんそれは、中嶋が大木に打ち込むよりは遥かにマシなのだけれど、それでも中嶋の振り下ろす一撃を受けると言うのは、きつい。

 それを初めてしたのは、初めて人を打つ「正面打ち」の稽古からだった。


 前に三本。後ろに三本。面を打つと同時に足を捌く。素振りと同等の基本動作に、実際に人を打つという練習である。ぼくは二番目。まずは大木が自分の保護者ほどの高さにある中嶋に向かって振り下ろす、微笑ましい光景を眺めてから第二陣の準備をする。

 そしてぼくの番。振りかぶって、振り下ろす。ぺちん。あれ? おかしいな。もう一回。ぺちん。うーん。なんかへんだ。もう一回。えいっ。がちん。今度は硬い鈍い音。


 戻る三本もいまいちで、今までやってきた素振りとやらが、一体なんだったのかを考えざるを得なかった。


 さて、しかし考える間も無く、ぼくは中嶋の振り下ろす竹刀を受けることになる。


 いくら面を被っていて、理論的に問題ないと知っていても、目の前で体格差十五センチメートルもあるような大柄の同級生から、竹刀を叩きつけられるような経験はふつうない。ぼくは怖くて目を瞑った。そして暗くなった視界に、火花が散った。さながら後頭部にでもできたのではないか、というほど強かに竹刀を打ちつけられて、次の体の動かし方がわからなくなるほどビリビリッ! と全身を揺さぶった。

 全力で引き下がる。しかし中嶋の体格差は歩幅にも出ていた。大股で下がっても彼の前進に対して間に合わず、だんだんと間合いが狭くなる。あれあれ。こんなはずではないのに。ぼくはやってる途中はメガネをつけてないにもかかわらず、中嶋の目つきが悪くなるのを感じずにはいられなかった。


 次。切り返し。


 これは剣道の基本練習の一つで、左右斜め四十五度の角度で切り掛かる。重要なのは振りかぶって振り下ろすことで、ただ左右に振り回せば良いわけではない。あくまで縦の動作。振りかぶる時は握り拳を頭上に持ってゆき、そこから左手首のを駆使して的確に振り下ろす。右。左。右。左。これを行き四本。帰り五本の合計九本の一連の流れで行う。

 これもぼくはなんとなくやってみて納得がゆかず、中嶋にいまいちな表情をされてしまった。


 そんなこんなで基本的な技練習をいくつかやってみる。面打ち。小手打ち。胴打ち。この辺は素振りでやっていても一連の動作でやるのは初めてなので、なかなかうまくゆかない。ただ見よう見まねでやってるだけ。

 できる人はできる。ぼくも真似してやってみる。うまくゆかない。当たり前っちゃ当たり前だけど、ぼくは初めて自分の身体の融通の効かなさに驚いた。もちろん体育が得意科目だったわけでもないし、サッカーや野球と言った球技はてんで苦手だ。しかし水泳や体操クラブに通った経験から、多少はできるだろうと言う自負もあったのだ。


 けれども、そんな過去の実績なんてすっからかんだった。ぼくはただのしろうとであり、棒すらもマトモに扱い切れないルーキーでしかなかったのだ。


 結局この日は色々やって、釈然としないまま終わった。ふつうに疲れたし、何をやってもうまくいかず、周りを見る暇なんて全くない。ぼくは中嶋の目だけがずっと怖くて仕方なかった。そして大木に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 県大会が近いと言うのでだんだん先輩方も厳しい稽古から試合練習が増えつつあった。その日ぼくらがまだ一年生という理由から帰してもらう時、先輩方もまた、試合練習のための中休みに入っていた。


「よお、初めての稽古はどうよ?」


 久川先輩が茶化す。やっぱり辞めたくなったろ? と言わんばかりのにやけた笑顔だ。


「きっついです」

「だよな。でも、最初なんだし、みんなうまくないんだし。そんなに気に病むことないぜ」


 まるで、ぼくが中嶋や大木に対して感じている負い目を知っているかのような言い方だった。たぶん、ぼくだけが〝ほんとうの〟初心者であることを知ってるからだろうけど。


「ありがとうございます」

「明日もがんばろうな」

「はい」


 それから、窪田先輩も、佐伯先輩も励ましの言葉をくれた。飛田先輩は喝を入れてくれた。なんかみんなそれとなく気にかけてくれていたことが嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。

 そんななか、ぼくは防具を外し、道着を脱ぎ、袴を脱いだ。そこには汗でぐっしょり濡れたトランクスがあった。体育着で練習していたから、ぼくはてっきり道着を着る時もパンツを履く物だと思っていた。だが、周りの反応は違った。いま初めて気がついたらしく、ぼくの下半身をみて一斉に噴き出した。


「星野……おまえまさか履いたままやってたのか?」


 代表して、窪田先輩が声をかけた。心なしか声の端が震えている。


「え? ああ、はい」

「ああ……そうだよね。知らないと……そうだよね」

「……え、剣道ってノーパンでやるんすか?!」


 すっとんきょうな大声で尋ねてしまった。


 その時、ちょうど夏野先生が師範室からのそのそと歩き出していた。部屋から道場までの通り道に、ちょうど廊下側に張り出した中学生用の着替えロッカーがあり、中等部の生徒はみな廊下で着替えている。だから先生は、ぼくがトンチンカンな疑問を丸ごと声に出したその場に、ちょうど割り込むようにして入ったわけなのだ。

 そして、夏野先生がまるでその会話の一部始終を聞き耳立てて知っていたかのように、さも当然と言ったふうにぼくらの会話に入ってきたのである。


「星野。パンツは脱がなきゃ話にならないだろうがッ!」


 この一喝で、中等部高等部問わず大爆笑となったのは言うまでもない。そしてそれからしばらくの間は「パンツ小僧」というあだ名がついてしまい、大変気まずい思いをしたのであった。

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ヘタレ剣道一本勝負 八雲 辰毘古 @tatsu_yakumo

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