第87錠 黒と色彩のアーティスト⑧ ~意味~
「あぁ、また来てたのか?」
振り向きざまに、そう言われ、俺は目を見開いた。
『また』ということは、よくここに来ていることを知ってるということだから──
「毎日のように、ここで勉強してるよな? でも、アチィだろ。熱中症になっちまうぞ?」
季節は春をすぎて、夏にさしかかろうとしていた。
梅雨が明けてからは、夕方の気温が急激に高くなり、いくら木陰とはいえ、涼しいとは言い難い。
でも──
「大丈夫です」
そうハッキリ返すと、俺は背を向け、また宿題を始めた。
早く終わらせて、サッカーに行こう。
でも、そのオジサンは、東屋の中に入るなり、明るく話しかけてきた。
「ジュース、買ってやろうか?」
「いらないです」
「遠慮すんな。喉、渇いてるだろ?」
「かわいてない」
「ほんとかぁ? つーか、この公園の水、マズすぎるだろ?」
「え? そうなの?」
「そうだよ。カルキ臭ぇっていうか、俺の田舎の水とは大違い!……て、やっぱ水分とってねーじゃねーか。ちゃんと飲めよ。熱中症で死ぬぞ」
(……なんだろう、この人)
しつこく水を飲め飲め言ってきて、ちょっと、うるさい人だなとも思った。
それに、さっきまでの紳士的な口ぶりが、一気にくだけた感じになって、この人の素は、こっちなのかなと思った。
それに、死ぬなんて言われても、あまりピンとこなかった。
熱中症で死ぬとは思わなかったし、たとえ死んだとしても、それならそれで、いいと思ったから。
「いいよ。死にたいから」
「…………」
ちょっと、なげやりな感じで返せば、オジサンは、立ち止まり、そして、黙り込んだ。
困ってるんだろうな?
でも、こう言えば、めんどくさがって、あっちに行くと思った。
勿論、本気で死にたいと思っていたわけじゃなかったけど、お父さんのいる家に帰えるのは、死にたくなるくらい怖くて、いっそ、熱中症で死んじゃえば、楽になれるかも?と思ったりした。
そして、それから暫く、俺が勉強に集中していると、オジサンは、いつの間にかいなくなっていた。
(……いない)
何も言わず行くなんて、薄情な大人だと思った。
でも、大人なんて、そんなもんだ。
頬に叩かれた痕が残っていても
体に蹴られた痣があっても
俺が『転んだ』といえば、それであっさり引き下がる。
面倒ごとや厄介ごとには
できるだけ関わりたくないと思っていて
だから賢い大人は
上手く理由をつけて逃げるんだ。
これは自分には、関係のない話だからって……
「なぁ! どっちがいい?」
「うわ、冷たっ!」
だけど、次の瞬間、首筋に冷たいものを押し当てられた。
驚いて振りむけば、そこにいたのは、さっきのオジサンがいた。
「あぁ、わりぃな。そんなに驚くとは思わなかった。それより、お茶とスポーツドリンク、どっちがいい?」
そう言って、俺の前にペットボトルを二本置いたオジサンは、そのまま俺の向かいのベンチに腰かけた。
(……なんで?)
会話に困って、逃げたのかと思った。
でも、実際は、飲み物を買いに行っていたのかもしれない。
俺の目の前には、麦茶とスポーツドリンクのボトルが、二本仲よく並んでいて『飲め』と言われているのがわかった。
でも、素直に飲めるわけなんてなくて
「いらない」
そういって拒絶すると、俺は、またノートに目を向けた。すると、オジサンは
「あぁ、やっぱり、甘いジュースの方が良かったか?」
「違うよ。喉が渇いてないから、いらないっていってる」
「そんなわけねーだろ。こんなに暑いのに。つーか、渇いてないと思っても、渇いてるもんなんだよ。それと、さっきの話は、どういう意味だ?」
「え?」
さっき――そう言われて「死にたい」といった時の話だと、なんとなく思った。
でも、どういう意味かと聞かれても……
「どうって……っ」
死にたいって、それ以外に、意味がある?
このおじさん、何を聞きたいんだろう?
「あぁ、分かんねーよな? 実は『死にたい』って言葉には、100通りくらい意味があるんだぞ!」
「え!?」
冗談交じりに言われた言葉に、思わず反応する。
何言ってるんだろう?
言ってる意味が、分からなかった。
一つの言葉に、100も意味があるなんて──
「オジサン、国語苦手なの?」
「国語の問題じゃねーよ。人の心の問題だ」
「心……」
ますます意味が分からなくて、宿題をする手が、自然と止まってしまう。
でも、オジサンの話には、不思議と引き込まれた。
まるで、吸い寄せられるように――
「意味って、どんな?」
「そうだなぁ……まずは『仕事に行くのがダリーから、死にたい』『失敗して恥かいたから、死にたい』『不細工だから、死んで生まれ変りたい』『お金がないから、死にたい』『構ってほしいから』『寂しいから』あとは――『生きたい』」
「え?」
「生きたいから、死にたくないから──助けて」
その言葉に、思わず息をつめた。
死にたくない?
助けて?
そして、そのオジサンの言葉が反芻するたびに、父に蹴られた背中が痛みだして、目の奥が熱くなった。
「一言で『死にたい』って言っても、人によって、
「……っ」
目の奥にたまった熱は、次第に体の奥にも広がって、鉛筆を握る手が、気持ち悪いくらい汗ばんだ。
でも、さっきの死にたいに、深い意味なんてなかった。
ただ、オジサンを追っ払えればいい。
そう思っていった言葉。
だから、そこに重さなんてなくて
でも、なんでだろう?
気を抜くと
涙が、溢れそうだった。
「ッ……俺! 友達と約束してるから!」
そういって立ち上がると、俺は逃げるようにノートと筆箱を、ランドセルの中にしまい込んだ。
だけど──
(あ、ランドセル……っ)
いつもは、東屋の中に隠しているランドセル。
だけど、今日はオジサンがいるから、無理だと思った。
でも、そこに──
「置いていってもいいぞ」
「え?」
「ランドセル。どの道、クライアントと会う時間、変更になっちまったし、俺がみはってってやるよ。ただし、これは持ってけ!」
「──っ!」
そう言って笑ったオジサンは、俺にスポーツドリンクを手渡してきて、思わず受け取ってしまった。
暑さで、汗ばんだペットボトルには、水滴が張り付いていて、それでも、ひんやりと冷えたドリンクの感触は、一度熱くなった体を、冷やしてくれるようだった。
「言っとくけど、俺がさっきいった『熱中症で死ぬ』って言葉は、軽い意味じゃないからな」
「え?」
「お日様、なめんな。冗談じゃなく死ぬぞ」
「………」
それは、本気で心配しているようで、その目の真剣さから、言葉の重みを感じ取るようだった。
オジサンがしつこく、ジュースを進めてきたのは、俺が熱中症で倒れて、死ぬことがないように──
「おじさん、変な人だね。名前、五十嵐って言うの?」
「そうだぞ。カッコイイ名前だろー。お前は?」
「俺は、黒崎 彩葉」
「彩葉か。いい名前だな。サッカー、楽しんで来いよ、彩葉!」
そういって、笑顔で送り出してくれた五十嵐さんは、案外、悪い人ではないと思った。
だけど──
(なんで俺が、サッカーやってるの知ってんだろう?)
そんなことも同時に考えて、ちょっとだけ怪しい人だと思った。
*あとがき*
https://kakuyomu.jp/works/16816927861981951061/episodes/16818093080703553070
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