第86錠 黒と色彩のアーティスト⑦ ~日常~


(……こんなところで寝てる人、初めて見た)


 東屋の中に戻ると、ベンチに寝そべっている男の人がいた。

 

 黒のスーツ姿で、仕事でつかうバッグを枕代わりに、靴も脱がずに眠っていた。


 まだ若そうなのに、ちょっとくたびれた感じの人で、お兄さんというよりは、オジサンいう方がピッタリで、あまり関わりになりたくないなと思った俺は、その後、オジサンが眠るベンチの傍にしゃがみこんだ。


 ベンチの下には、ランドセルを隠していた。

 

(早く帰らないと、お父さんが帰ってくる)

 

 そう思った俺は、そそくさとランドセルを背負うと、東屋から走り去った。

 

 だけど、この時、寝ていたオジサンが、俺の日常を大きく変えることになるなんて


 この時は、全く想像していなかった。





 



 


 黒と色彩のアーティスト⑦ ~日常~









 ◆◆◆


 

 梅雨の時期が過ぎで、空がカラッと晴れ出したある日、俺はまた、公園の東屋の中にいた。


 あれから、しばらく、友達との約束を破ることなく、落ち着いた日々を過ごせていた。

 

 だけど、落ち着いたと言っても、家に帰れば、よく父に殴られていた。


 でも、その頃は、それが当たり前でもあったから、殴られるのも普通だった。


 ある意味、麻痺していたのかもしれない。


 お父さんに殴られるのは、俺が、お母さんの才能を奪ったから。

 

 だから、テストで100点をとっても、かけっこで1番をとっても、絵のコンクールで入賞しても、お父さんは、俺のことを好きにはなってはくれない。


 母の才能を奪った俺のことが、憎くて仕方ないのかもしれない。

 

 だから、母が、また絵を描けるようになるまで、この生活が、ずっと続くのだと思った。


(お母さん、今日は描けてるかな?)

 

 父が求める『黒い絵』を、今日こそは描けるだろうか?


 でも、父はあの絵を、最高だというけど、俺は、母の描く黒い絵が、あまり好きではなかった。

 

 母の絵は、少し不気味だ。

 黒一色で描かれた絵の中に、扉が一枚だけ。


 見ていると不安になるし、扉の向こうからは、もっと恐ろしいものが、たくさん出てくるんじゃないかと思った。


 だから、アレのどこが芸術的なのか、幼い俺には、全く分からなかった。

 

 なにより俺は、あの絵じゃなく、母の描く色鮮やかな絵の方が好きだった。


 幼い頃、よく散歩に出かけた先で、風景画をスケッチしてくれた。

 

 小さい俺を膝の上に乗せて、母は水彩の絵の具を使って、あっという間に、美しい絵を描いた。


 地味で殺風景な公園の景色が、母が筆をとるだけで、おとぎの国のような煌びやかな世界に生まれ変わる。


 純粋に凄いと思った。


 葉っぱの一枚一枚が、様々な色で彩られて、色と色が混ざり合う様を見ているだけで、胸がワクワクした。


 だから、偉い芸術家たちが認めた、怖くて暗い扉の絵よりも、母が笑いながら描いてくれた明るい風景絵の方が好きだった。


 でも──


(もう……描かないのかな?)


 母は、アトリエに籠もって、ずっと黒い絵ばかり描いてた。

 

 お父さんのために書く絵は、いつもあの暗い絵で、もう俺のために絵を描いてくれることはなのかと思うと悲しくなった。


「痛…っ」


 すると、心の痛みに連動するように、昨日、蹴られた場所が痛んだ。


 東屋で宿題をしていた俺は、痛みに耐えるように蹲る。


 多分、痣になっている気がした。

 

 理由はわからなかったけど、昨日は、背中から押さえつけられるようにして蹴られた。

 

 まるで、踏みつけにされるみたいに──


 だから、少し動くだけで痛みを感じて、表情が強ばる。


 でも、今日も友達と約束をした。

 だから、死んでも守らなきゃいけない。


(宿題、やらなきゃ……っ)


 前に樋口から聞いた言葉が、ずっと、心に突き刺さっていた。


『他のメンバーから不満がでててさ。もう、黒崎のことは誘ってやんないとかいいだして』


 仲間外れにされるのは嫌で、樋口の言葉を何度も頭の中で繰り返しながら、必死に宿題を続けた。

 

 約束は守りたい。でも、宿題を終わられていなかったら、また、お父さんに殴られる。


 日常を守るために、必死だった。


 心も体もすり減らして、今の一瞬を生きるために、必死だった。


 でも、そんな時だった。

 

「はい、五十嵐いがらしです」


「?」


 瞬間、背後から声が聞こえた。


 振りむけば、この前、このベンチで寝ていたオジサンがいた。


 今日も黒いスーツを着ていて、だけど、この前みたいにくたびれた感じはなくて、手にスマホを持ったオジサンは、誰かと話をしてるみたいだった。


「はい、お時間の変更ですか? はい、20時ですね。かしこまりました。では、のちほど、ホテルにて、お待ちしております」


 仕事の電話なのか、品よく会話をするお兄さんの姿は、ベンチでいびきをかいていたオジサンとは、全く違った印象だった。


(この前と、全然違う……)


 あまりにギャップがありすぎて、驚いていると、いると、次の瞬間、そのオジサンと目があった。


「あぁ、来てたのか?」


「……!」


 そう言ったオジサンは、俺の方に、ゆっくり近づいてきた。

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