最終話


 晴れ渡った青空に夕陽が溶けて、さらに夜色へ染まっていく頃。

 エメリードのなかでも上品で落ち着いた雰囲気をもつ飲食店の一角に、ニーシャはいた。両親と並んで座るニーシャの向かいには、ジルゲンと彼の両親が座っている。

 料理が並び、それらを口に運びながら会話を挟むその空気は、一見すると和やかなものである。この場において、胸中余裕がなく、思考の半分を別の事柄へ割いているのは、ニーシャだけだろう。

 婚儀前の、食事の席だった。


「ニーシャさん」


 ジルゲンの父親が、気遣わしげにニーシャを見ていた。


「体調が悪いのかい? 顔色があまり良くないな……」

「ほんとね……無理しないでいいのよ?」

「……ニーシャ、」


 何かを言いかけた母を、ニーシャはテーブルの下で制する。そして、心から心配してくれているパトグ夫妻の言葉に、ニーシャは首を振った。


「大丈夫です。心配してくださって、ありがとうございます」

「なんともないなら、いいんだが」

「緊張してるのか? 何度か両親と顔を合わせてるのに」


 くすりと笑うジルゲンは、ふたりきりで会う時より柔らかな雰囲気を作っている。ニーシャはジルゲンの言葉を繰り返した。


「緊張……そうね、そうかもしれない」


 そう言って、ニーシャはジルゲンと目を合わせる。瞬間、ジルゲンの纏う穏やかな空気が、わずかにぶれた。普段と様子の違うニーシャと纏う空気の変化に、気づいたらしい。

 しかしニーシャは婚約者の表情の変化を最後まで見ずに、ジルゲンの父親――パトグ商会の代表ジラード・パトグへ、話を切り出した。


「――突然ですが、お話ししたいことがあります」

「うん? なんだい?」

「ソレイスについてです」


 ニーシャの横顔に、視線が突き刺さる。けれどニーシャは、ジラードから目をそらすことはしなかった。

 ああ、聞いているよ。そう言ってジラードがニーシャやニーシャの両親へ笑顔を向けて続けた。


「外での販売が軌道に乗りそうだと。――昔、君のお祖父様の力になれなくてね……その後をお孫さんの君が引き継いだと、お父様からずいぶん前に伺っていたんだ。だから、ニーシャさんのもとで、君とお祖父様、皆さんの夢が叶うことを、私もとても嬉しく思うよ」

「――……」


 ああ、どうして。ニーシャはこぼれそうになった言葉を呑み込み、口を噤んだ。

 ジラードは、『もの』を心から愛している人だ。そして、正真正銘、一つの商会を背負いその職と立場を誇りとしている『商人』だった。

 その時、その場の流れに乗ろうとしたのか、はたまたニーシャの道筋を断とうとしているのか、黙っていたジルゲンが口を開いた。


「そう、ニーシャ。君にはまだ伝えていなかったが、前に大きな取引を進めていると話しただろう? その件が、決まったよ。ソレイスを専門として扱ってくれるなんて、君の夢が叶ったも同然だ」


 得意気に話すジルゲンの目は、笑っている。婚約者の夢に手を貸せたことを嬉しく思っている。他の人には、そう見えるだろう。けれどニーシャは、その瞳の奥から覚えのある『圧』を受け取った。ジルゲンも、ニーシャに隠す気はないのだろう。

 ――余計なことは言うな。

 そう、心の声が聞こえてくるかのようだ。


「そういえば、相手は聞いていなかったな。ジルゲン、どこの店だ?」

「ああ、」

「――シーサ」


 ジルゲンの驚きに満ちた目が向いた。


「シーサ、ですよね」


 一瞬、動きを止めたジルゲンは、しかしすぐに薄い笑みで取り繕った。テーブルの奥でジラードが驚嘆したように何かを言っていたが、ジルゲンはそれに反応せず、薄笑みを浮かべた口を開く。


「そうだよ。よくわかったな?」


 ニーシャは凪いだ瞳で、ジルゲンの歪な笑みを躱す。


「調べたの。――あなたが何も教えてくれないから」


 ぴり、とジルゲンの空気が変わった。それでもニーシャは、目をそらさず見据える。たわむれではない雰囲気に、ニーシャの両親はもとより、パトグ夫妻も何かを察して訝しんでいるのが視界の端に映る。この機会を活かせなければ、すべてが水の泡だ。

 ジルゲンがいやに明るい声で言う。


「それは悪かった。君を驚かせたくてね」

「ええ、驚いたわ。シーサ領主の叔父がお相手なんて」

「……!」


 明らかに顔色が変わるジルゲン。両親達も息を呑むあるいは驚きに声を漏らし、その場の空気は一気に張り詰めた。

 ニーシャは言葉を止めない。


「装飾専門店、雑貨屋、露店。シーサには、装飾品を扱うお店が大小含めて十店舗はあると聞いたわ。エメリードより広くても、決して大きくはない港町よ。すべてのお店に足を運んで、ソレイスを一目見てもらうことは難しくないはず。それなのにあなたは、……何もしていない」

「まるで見たような口振りだ。何か誤解しているみたいだが、俺は話を持ちかけたさ。ただ、彼らのお眼鏡にはかなわなかったらしい。でもたまたま貴族様の目にとまってね。そのままその御方と取引を進めたんだよ」


 何もおかしなところなんてないだろう、ジルゲンが呆れたように肩を竦めた。余裕をみせているようでいて、少なからず動揺しているらしい。ニーシャの両親も同席しているのに、態度を取り繕えていないのがその証拠だ。

 事前に、すべて任せてほしいと伝えておいてよかった。どこか現実味を感じていない頭の片隅で、ニーシャはそう思った。

 ジルゲンが、まるで諭すように続けた。


「ニーシャ、君は婚約者を疑うのか?」

「疑うわ。だって、相談したり探ったりすればソレイスの未来さきはない。そう言ったのはあなたでしょう」


 それに、とニーシャは背もたれに挟んでいた鞄から書類を取り出して、体の前で掲げる。ジルゲンの目が、大きく見開かれた。


「この帳簿、聞いていた売価の百倍で記録されているのは、なぜ?」

「何のことだ」

「必要以上に高く設定しているのは、どうして?」

「その書類と俺は関係ない。勘違いだろう」

「あなたの署名があるわ」

「誰かが俺を騙った。真似るのはそれほど難しくない」

「……それなら、これは?」


 重ね持っていたもうひとつの書類を表に出す。ニーシャは途中の数行を指でなぞった。


「『ソレイスを永続的に販売する。また、他者への販売・贈与は行わず、ソレイスの売買は両者間のみとする。なお、取引は代理である影の者により行うこととする』」


 数枚めくって、ニーシャは紙面の下部を指し示す。三つ、息を呑む音が聞こえた。


「――あなたのお家の印章でしょう?」


 パトグ商会を示す紋様と商号が、朱く主張していた。その下には、ガリス・シーサの名と印章も同じく並ぶ。


「……『影の者』だと?」


 ジラードが低く唸るように言った。


「ニーシャさん。貸してくれるかい?」

「……どうぞ」


 ニーシャは手を差し出すジラードへ、帳簿の写しと契約書を渡した。その場に紙をめくる音が響く。離れた席から聞こえてくる談笑と食器の音が、まるで別世界のように遠かった。

 ニーシャは向かいへ目をやる。そこには、顔色をなくして茫然と料理しか乗っていない卓上を凝視する婚約者の姿。

 それでもニーシャは、言葉を止める気はない。息を小さく吸って口を開いた、その時。


「……あれはなんだ」


 怒りで掠れた声がニーシャへ向いた。


「どこで手に入れた」

「……」

「なぜ君が持っている! ニーシャ!」

「ジルゲン!」


 パトグ夫人がジルゲンの肩を抑えた。ニーシャの肩にも、守るように母親の腕が回っていた。大丈夫、そう言って母親の腕を軽く叩くと、母は瞳を揺らしながらもそっと腕を離した。

 苛烈に揺らぎ赤黒く燃えている双眸が、ニーシャを射貫く。けれどもう、怖くはなかった。

 大きな声ではないのに、怒りと絶望で焼け付くような激しい感情で割れる声が彼の口から飛んでくる。


「あれほど言ったのに、探ったのか。こそこそと、シーサに来ていたんだな?」

「行っていないわ」

「じゃあどうやって手に入れるんだ。嘘をつかないでくれ」

「あなたとは違う」

「どういう意味だ」

「そのままの意味よ。嘘をついて、私利私欲に走ったあなたとは違う。……今のあなたの言動は、認めているようなものよ」

「……っ」


 例えジルゲンが認めなくても、誤魔化しようのない証拠がある。どれだけ否定しようと、誰が見ても、明らかなのだ。

 不意に、静かに書類へ目を通していたジラードが椅子を下げた。全員の視線が彼へ向く。と、同時に、ジラードは深々と頭を下げた。


「――申し訳ない」


 夫人も同じように謝罪の言葉と共に頭を下げる。ニーシャの両親は、言葉に詰まっていた。


「こんな……、愚息がどれだけニーシャさんを、あなた方の大事なものを傷付けていたか……いくら頭を下げても足りない。本当に申し訳ありません」


 そうしてジラードは、未だ燻った目をしているジルゲンを「お前は、」と厳しい眼差しで刺し、怒りを滲ませた。


「ひとの夢を利己心で踏みにじっている。婚約者であり、大事な顧客で、私たち商人が尊重すべき、『ものを作り出す人』の夢だ。それなのにお前は……ソレイスを市場に乗せず、私への報告とも異なる――宝石に匹敵する高値で、ただ一人に売り渡していたのか。それも、裏の人間の手を借りて」


 詰問のようでいて答えを期待していないジラードの淡々とした責め。それに比例するように、ジルゲンの方から歯を噛みしめる音が聞こえた。

 ジラードが、突き放すように続ける。


「理由は聞かなくともわかる。儲けを多くして、それを自分だけのものにしたい……そんなくだらない理由で、お前はパトグの名を。彼女を。そしてソレイスを、土足で踏みにじっている。その重さを考えろ」


 ジルゲン。ジラードが固く鋭い針を彷彿とさせる声音で、息子の名を呼ぶ。


「――お前に商人の資格は、ない」


 静寂が落ちた。

 ニーシャは向かいに目を向ける。ジルゲンの表情から、激しい感情が消えている。何も浮かんでいないようでいて、しかし、その双眸からは冷ややかな諦観が透けて見えた。

 これで、最後だ。ニーシャはパトグ夫妻を見やってから、ジルゲンへ戻す。目は合わなかった。


「その書類を、然るべき機関に提出するつもりはありません。……ジルゲンさん。私の望みは二つです」


 利己的なのは、ニーシャも同じだった。ジルゲン個人を見ず、『商人』として利用していたのだから。

 ――それでも。

 それでも、ジルゲンを信じたいと思っていた時は確かにあったのだ。


「一つ目は、婚約の破棄。二つ目は、今後ソレイスに、延いては『装飾店カラルア』に関わらないこと。それさえ約束してくれるなら、あなたのしたことにこれ以上触れない。……呑んでくれるでしょう?」

「――……ふ、」


 嘲笑にも似た息が彼の口からこぼれ落ちる。視線は交わらないまま、ジルゲンが皮肉のこもった声で続ける。


「『呑む』以外に、選択肢はないだろう」

「そうね」

「――この瞬間から、君とは赤の他人だ。関わることもしない。ソレイスの未来さきとやらの邪魔もしない。これでいいだろう」

「ええ。……ありがとう」


 それに返る声はなかった。

 パトグ夫妻からの再度の深い謝罪を両親が受け取り、見送りを固持して席を立つ。

 自信と慢心に溢れていた姿からはかけ離れた、諦観と自棄に満ちたジルゲンの姿。それを見つめたニーシャは一度だけ深く礼をして、背を向けた。



 外に出て、空を見上げる。蒼い光が夜気に溶けて、こうこうと地上を照らしていた。

「――……」

 ニーシャはそっと深呼吸する。

 重く胸を満たしていた息苦しさが、少しの尾を引いて消えた。





 ***





 肌をくすぐる優しい風。

 それに梳かれるように、コバルトブルーの髪の毛がわずかに揺れ動く。さらさらと音が聞こえてきそうだ。

 サルヴァは視線の先、石柱の天辺に座る少女の背中へ声をかける。


「ニーシャ」


 振り向いた彼女が、サルヴァの名前を呼び返した。次いで危なげなく石柱から飛び下りた彼女は、「久しぶり」と口元でほほ笑んだ。


「だな。手紙、ありがとな」

「先に報告だけはしておきたくて」

「兄さんにつかまってさ……ごめん」


 本当なら、ニーシャが問題に立ち向かった日の翌日に会おうと思っていたのだ。しかし、待ちきれなかった兄につかまっていきさつを報告することとなり、その後は事務のふたりに一月近くも休んだ理由を根掘り葉掘り聞かれ。その上、新規商談や既存契約先との発注増加などが狙ったように重なって、うまく時間が取れなくなったのだ。

 救いなのは、問答無用ではあるが、前日に兄から予定を空けとくよう言われていたため、翌日に顔を出すだろうニーシャへ『急用で時間が取れなくなった』と書き置くことができたことだ。その返事として、同じく置き手紙で『ソレイスを守れた』と報告をもらっていた。

 そうして、一週間が経った今日。やっとニーシャと顔を合わせることができたのだ。 

 サルヴァは頭上のまぶしい空色に目を細めてから、眼下の町並みときらきら揺らめく海を見下ろす。


「よかったな」

「サルヴァが助けてくれたからよ」

「……うーん。たしかに、力になりたくて情報を集めたけど、それはあくまでも材料だ。それを引っ提げて立ち向かったのはニーシャの強さで、ソレイスの未来を救ったのはニーシャの力だ」


 彼女の夢が、途絶えることなくその手に戻った。その事実が、自然と笑ってしまうほどに嬉しい。突き抜ける晴れやかな青空につられるように、サルヴァは、にっと歯を見せてニーシャへ笑いかけた。

 透きとおった海に似た翠色の双眸が、まぶしそうに細められる。


「サルヴァ、本当にありがとう」

「ははっ、うん。どういたしまして」

「…………でも。でもね、サルヴァ」

「うん?」


 言い淀むニーシャに首を傾げる。まさか、まだ抱えていることがあるのだろうか。サルヴァの表情が真剣なものに変わったその瞬間、


「ソレイスを守りたいだけじゃなかったの」


 思いの外しっかりとした声音で、ニーシャがそう言った。

 言葉の意味をつかみきれず、サルヴァは繰り返す。


「守りたいだけじゃなかった?」

「……そう。婚約を、取り消したかった。……お互いに形だけのものだったから、なおさら」

「……それは、利害関係で結んだ?」

「……ええ」

「そっか」


 驚きはしたが、それだけだ。利害の一致で婚姻するいわば政略結婚は珍しくない。切羽詰まっていればなおさら、その選択しか浮かばなかったのだろう。


「婚約の解消が行動する理由の一つでも、おかしいとは思わないよ。利害が一致しなかったら、意味がないしな」

「……そうだけど、そうじゃないの」


 揺らぐ瞳が緊張している。華奢な肩に力が入っていた。


「ソレイスの件が曖昧なときから、『婚約』という縛りをなくしたいって……心のどこかで思ってた。気づかないふりをしていたけれど、……消えなかった」


 薄く寄った眉に、ニーシャの葛藤と感情の大きさがみえた。ニーシャのきれいな唇が言葉を形づくっていく。


「あなたに出会って、あなたを知ってからずっと……、心にあった」


 世界の音が、彼女の声だけになった。そう思えるほど鮮明に、何にも邪魔されることなくサルヴァの鼓膜を揺らす。


「――好き」


 水気を帯びた瞳が、翠玉のようだ。


「好きよ、サルヴァ。……なくすことが、できなかった」

「なくさなくていい」


 言葉尻に被せて否定する。なくす必要なんてない。ニーシャの『気持ち』は、サルヴァが求めていたものだ。

 サルヴァは、そっとニーシャの頬へ手を伸ばす。


「――ニーシャが好きだ。好きだから、守りたくて。好きだから……君を奪いたかった」


『気持ちが違っても構わない』。白い花の丘で口にしたその言葉に嘘はない。ないけれど、それ以上に彼女の心が欲しかった。

 兄が『横恋慕みたいなもんだ』と言っていたが、その通りだ。正真正銘の横恋慕。守りたいだけ。救えればいい。……そんな、純粋な人間ではない。

 ニーシャの指が、彼女の頬に添えているサルヴァの手に重なる。ニーシャが、ぽつりと問う。


「……私で、本当にいいの」

「それは俺の台詞」

「私は、サルヴァがいいの」

「俺もニーシャがいい」


 お互いに見つめ合って数秒、どちらからともなく吹き出した。

 心も体も軽かった。久しくなかった穏やかで心が弾む空気に、わけもなく笑いが止まらない。

 くすくすと笑うニーシャの睫毛がしっとりと濡れている。見つめていると、伏せられていた目が上がり、ぱちりと視線がぶつかった。そしておもむろに、ニーシャの腕がサルヴァの首に回された。


「っ、」

「――サルヴァ」


 肩口でニーシャの声がくぐもる。彼女の片手が、サルヴァの手首につけられた腕飾りを覆う。指が飾り越しに肌へ触れる。そうして、何かを耐えるように手首ごと握られた。

 サルヴァは小さく震える細い体をそっと抱き締めると、海色の髪を梳いてから、頭に添えるように手を止めた。

 サルヴァ、と。もう一度名を呼ぶその声は涙で濡れていた。


「……助けてくれて、ありがとう……っ」


 泣きじゃくる手前のような声に、サルヴァは小さくほほ笑むと、


「……当然だろ」


 そう一言、優しさを溶かした声色で囁いた。

 サルヴァは手首へ視線を落とす。細い指の間から覗く、茜色が灯り透き通る碧の石を見つめる。乳白色の石と連なって輪を作るそれは、陽の光を柔く受け止めて輝いている。

 加工をしても幻想的な色合いを損なわない、稀少な石。

 ニーシャの、そしてニーシャの家族の夢と想いが込められた石。

 夕陽が沈み溶け込んだ海のような、美麗な鉱物。

 言うなれば、『ソレイス』という名の、宝石。 

 サルヴァはそれを瞳の奥に映しながら、寄り添うようにニーシャを優しく抱き締めた。











 ――二年後。



 サルヴァは船の上から、エメリードの港に顔を巡らせていた。

 そろそろ姿を見せてくれなければ、時間になってしまう。間に合うという話だったが、何かあったのかもしれない。


「……しょうがないか」


 切り替えるように息をついた、その時。


「サルヴァ!」


 届いた呼び声に、サルヴァは欄干から身を乗り出す。間に合ったようだ。サルヴァは見とめた人物の名を呼ぶ。


「センダさん!」


 船から降りて、センダの前に立つ。ほら、と胸を封筒で叩かれた。


「届いたぜ。お待ちかねのあの人から」

「変な言い方やめてくれ」

「いっつも首長くして待ってるだろー」

「大事な情報源だからだよ……」


 封筒を裏返して宛名を確認したサルヴァはセンダへ礼を告げるなり、踵を返して階段へ足を掛けた。


「おー、気を付けて行ってこいよ。あの子とも仲良くな!」

「はいはい」


 腕を大きく振るセンダへ手を振り返しながら、サルヴァは甲板に足を着けた。

 荷積みを終えて出港に向けた準備が整いつつある甲板は、ディジット商会の船員が各々動き回っていた。そのなかを進むサルヴァは、元いた場所に立つ人物の隣へ足を進める。

 欄干に手を掛けて港や町の入口を見下ろすのは、船内で数少ない女性の一人だ。


「ふふ、まだ手を振ってる」

「返さなくていいよ、ニーシャ」


 船下へ軽く手を振るニーシャはくすくすと笑いをこぼす。

 サルヴァはニーシャの言う通りまだ見送りの挨拶を続けているセンダを一瞥すると、微苦笑してもう一度手を上げた。


「手紙?」


 ニーシャが不思議そうに手元を覗き込む。宛名を見せると、納得の声を上げた。


「『赤髪定期便』……サルヴァが前に教えてくれた情報屋さんね」

「そう。本業は商人だけどな」

「何度聞いても不思議な関係ね」

「はは」


 笑って誤魔化すサルヴァ。これが初めてではなく、何度か交わしている慣れたやりとりだった。


(さすがに、二年前の件でソレイスの闇取引を代理していた人だとは言えない……)


 もともと伝えるつもりもないが、少なからず興味を抱いているから、時間の問題かもしれない。

 ……二年前のシーサで、契約書の原本と帳簿の写しを揃えてくれた赤髪の青年。彼との交渉で、サルヴァは貯めていたお金を小切手で渡した。事前に用意していた額は中型の商船を一艘は買えるもので、彼の予想を良い意味で裏切ったようだった。そして、それとは別件でサルヴァ自身のために持ちかけた話が決め手となったのだ。

 ――サルヴァ個人の情報源として、シーサがある国バルリア、延いてはその国が属する大陸全域を商圏としたあらゆる情報を定期的に売って欲しい。

 提示した報酬に満足そうにうなずいた青年は、そうしてサルヴァとの交渉に応じてくれたのだ。


(こうやって定期的に報告してくれるから、去年の大陸の市場調査でかなり助かったんだよな)


 サルヴァは一年間、兄の許可と指示のもと、東北の大陸への本格的な販路拡大に向けた調査として、一年間の航海に出ていた。

 それからさらに一年経った今日。ふたたび長期の航海へ出るのだ。ニーシャと共に。


「今度こそ、ソレイスを遠い地に広げていけるのね」

「お互い、準備に時間かかったな」

「でも、もっと可能性が広がったわ」


 凜とした声に少しの笑みが滲んでいる。

 サルヴァはニーシャから、ソレイスの原石とその後の生成過程について教えられた。外へ出すべきではないと断ったが、『ディジット商会と共にソレイスの可能性を広げたい』と言われてしまえば、受け入れる以外の選択肢はない。

 ニーシャはこの二年間、職人の技術を磨くと共に、ソレイスの生産や生成過程の調査、実験に費やしていた。そうして、高確率で質を保ったまま一度に採れる量を増やせる条件を見つけたのだ。

 サルヴァは脳裏によみがえった言葉に軽やかに笑った。


「『直接ソレイスの魅力を伝えたいから船に乗せて欲しい』って、帰ってきて早々言われたのはおもしろかったな」

「……交渉は早いほうが良いでしょう?」

「ははっ、長期戦覚悟だったのか?」

「だって、あなたのお仕事に連れていってという意味なのよ。……そんな簡単に許可はもらえないと思ったのに」

「あっさりだったな」


 一つ返事とまではいかないが、二日足らずで兄と父から許可が下りたのだ。もっとも、実際にソレイスを見てもらえば根っからの商人であるふたりが逃すはずはないのだが。

 ざん……、と波打つ海に視線を移したニーシャが、弾む声で言う。


「あなたと海に出るのも、ソレイスを知ってもらうのも、知らない景色を見ることも、楽しみでたまらないわ」

「ずっとそわそわしてるもんな」

「ふふ」


 また一つ笑みをこぼしたニーシャは、碧く透き通る海を見下ろし、これから進む大きな海を見渡し、サルヴァへ向き直る。

 頬を桃色に薄く色付かせ、エメリードの海のような瞳を柔らかく細めて、溶けるように笑った。


「今までも、これからも。あなたのそばで夢に近付いていけることが、すごく嬉しい」


 鮮やかなコバルトブルーの髪を、風が優しく揺らす。

 サルヴァは熱をもった顔を片手で覆った。


「ニーシャ……不意打ちはやめてくれ……」

「あら、いいじゃない。本当のことだもの」

「それだけじゃなくて……」

「なんのこと?」


 どんな顔で笑ったのか自覚がないニーシャに「なんでもない……」と絞り出す。

 不思議そうに瞬きをして見上げてくる姿がどこかあどけなくて、サルヴァは熱の引かない頬をそのままに、眉を下げて笑った。


「俺も、これからも進んでいく『道』にニーシャがいてくれて、嬉しいよ」

「ふふ、一緒ね」

「だな」


 ふたりして頬を仄かに赤く染めながら、くすくすと笑う。


「サルヴァ」

「ん?」

「私、あなたに会えてよかった。諦めなくて、よかった」


 彼女が焦がれていた海。白くまぶしい陽の光がきらきらと水面を飾る。日が落ちて、茜色に色付くと、ソレイスのように夕陽が海のなかへ溶けていく。

 いくつもの美しい姿をもつ海を背に、ニーシャは同じくらいきれいに破顔した。


「だって、すごく幸せだもの」

「――」


 湧き上がる熱に突き動かされた。小さな驚きの声ごと、引き寄せた体を抱き込む。


「幸せだよ、俺も」


 そう紡いだサルヴァの心は、出港の合図に隠されて、彼女だけに届けられた。


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碧のつなぐ先 紀田さき @masuzaki

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