ハートで縫い合わせて

館西夕木

ハートで縫い合わせて



 大事なものは失って初めて気がつく。


 そして、気づいた時点でもう遅いのだ。





 1



 ジリリリリ、と目覚まし時計が甲高い音をまき散らす。


 窓から差し込む朝日が眩しい。


「う、うーん」


 もう朝か。


 まだ眠いけど、今日は日直だから早く起きなきゃいけないのだ。


 いけないんだけど。


 まだ寝てたい。


 頭の中でクリームをかき混ぜられているようなとろとろとした睡魔が、あたしの瞼を重くする。


 もうちょっとだけ……


「よーし」


 あと五秒だけ寝たら起きよう。そうしよう。


 あたしは目を閉じて五秒数える。


 五。


 四。


 三。


 二。


 一。


「うーん」


 もうあと五秒だけ……


 五。


 四。


 三……


「おーい眞昼まひる、もう六時過ぎてるよ。今日は日直なんでしょ」


「……はーい」


 ドアが開いてママが部屋に入ってきた。こうなるともう観念するしかない。まだ眠気は残っているが、あたしは起き上がる。


「ふわぁ」


 パジャマを脱ぎ、ブラジャーを付ける。Tシャツを着てハーフパンツを穿き、靴下を履く。冷水で顔を洗って歯を磨く。歯磨き粉のしゅわしゅわした刺激が眠気をかき消してくれた。


「よしっ!」


 リストバンドを左手首にはめ、ランドセルと横断バッグを持ってリビングに向かった。


「おっはよー!」


 すると、愛犬のグラ、カイ、レックの三匹が足にまとわりついてくる。この子たちはあたしが幼稚園の頃に飼い始めた。犬種は三匹ともパピヨンだ。きゃんきゃんと呑気に鳴きながらじゃれてくるのが可愛い。


「はいはい、みんなおはよう」


 言いながら、あたしはテーブルにつく。


 今日の朝ごはんはベーコンエッグとサラダ、トーストが二枚にデザートのヨーグルトか。


「いただきまーす」


 バターをたっぷり塗ったトーストに齧りつく。さくさくとした食感とほどよい塩分がたまらない。


「眞昼、もう一枚食べる?」


「うんー」


 もう一回おかわりして、トーストは計四枚食べた。朝ごはんはしっかり食べないとね。


 食後のお茶を飲みながらニュース番組をぼんやり眺めていると、朝の星座占いが始まった。こういうのは信じてるわけではないが、ついつい見てしまう。


『――第三位は乙女座のあなた』


「おっ」


 あたしの星座だ。


『なにをやっても上手くいく日。ただし、人付き合いだけには注意が必要かも。みんなと仲良くしてね。ラッキーアイテムはハート型の小物』


 三位か。まずまずの順位だ。


「眞昼、そろそろ行かなくていいの?」


「分かってるって」


 ランドセルを背負い、玄関に向かった。


「行ってきまーす」



 2



 今日もいい天気、富士山がよく見える。五月もそろそろ終わりだ。


 まだ人気のない運動場を歩く。校舎の時計は七時十分を示していた。


 下駄箱で上履きに履き替える。

 うちのクラスは誰も来ていない。


 校舎の中もがらんとしており、上履きと床が擦れ合う音がいつもより大きく聞こえる。最上階に着いた。六年二組の教室に入り、自分の席に荷物を置く。


 普段の騒がしさが嘘のようだ。


「ああ、重いなぁ」


 机の上に上半身を預ける。胸が支えられて楽だし、ひんやりとしていて心地いい。


 朝の気持ちのいい空気と静かな教室。


 この清々しい時間を独り占めしたいけれど、あいにく日直は男子一人女子一人のペアで努めなくてはならない。


「あいつ、まだ来ねーのか」


 仕方ない。先にやっておくか。


 日直の仕事はたくさんある。朝の清掃に朝の会や帰りの会の司会、授業の合間の黒板消しに号令などなど。


 あたしは掃除ロッカーから箒とちりとりを取り出す。


 それにしても毎日ちゃんと掃除をしてるのに朝になると埃が溜まってやがるのはどういうことだ?


 教室内のゴミを掃き集め、一か所にまとめる。ちりとりに移そうとかがんだところで、


「いやー、悪ぃ、遅れちまった」


「おせーよ、芹澤せりざわ


 芹澤が教室に飛び込んできた。


「ちょっとニュース見てたら遅れちまったぜ」


 今日あたしと一緒に日直を任されている芹澤日輪あきすけは、集合時間を十五分も遅れてやってきた。この時間だとすでに他の生徒もちらほら登校している。


「寝坊したんだろ」


「ち、ちげーし」


「お前、ニュースなんて見るキャラじゃないだろ。見ろ、あたし一人で床掃除したんだぞ」


「朝からうるせぇな。そんなにかっかするともっとでかくなるぞ、


「ああ?」


「おわ、分かったよ、箒を構えんじゃねぇよ」


 芹澤はあたしよりも頭一つ分背が低い。当然、腕力もあたしの方が上だ。


「叩かれたくなかったら、さっさと黒板消しはたいてこい」


「へいへい」


 芹澤は黒板から黒板消しを手に取り、窓を開けてぱんぱんとはたき始めた。


「ったく」


 黒板周辺は芹澤に任せ、あたしは掃除を再開する。


「……」


「眞昼、おはよう」

「おはよう、眞昼ちゃん」


「おー、おはよう」


 八時前になって未夜みや朝華あさかが揃って登校してきた。


 未夜は髪を三つ編みにし、藍色のカーディガンと水色のスカートといった落ち着いた服装だ。


「日直大変だね」と朝華が言った。


「本当だよ。芹澤のやつ遅刻しやがって、あたし一人で床の掃除したんだ」


「ふふっ、おつかれさま」


 朝華は長い髪をポニーテールに結び、フリルのついた花柄のワンピースを着ていた。


 二人とも、女の子らしい服装だ。


 とっても可愛らしくて、きっとあんな服はあたしには似合わないだろう。


 デカ女という言葉が心に深く突き刺さる。


 たしかにクラスでは男女合わせても一番背が高いけど、別に好きでデカくなってるわけじゃない。

 

 四月の身体測定では166センチだった。


 もうすぐ、あの人の身長を追い越してしまうかもしれない。


 隣を歩くあの人を、あたしはいつも見上げていた。


 記憶の中のあの人は、とても大きかった。


 とても……



 3 



 それから朝の会の司会をこなし、普段通りの日常が始まった。


「上の方は任せたぞ」


 授業が終わり、黒板に満遍なく書かれた字を消す。


 芹澤の身長では上まで届かないので、あたしが消してやる。粉がかかると嫌なので、リストバンドはこの時だけ外すのだ。


「しょうがねぇな」


 キュッキュっと、独特な摩擦音が鳴る。


「おー、さすがデカ女」


「ああ?」


「嘘嘘、おわっ、ぷは。なにすんだデカ女」


「ふん」


 芹澤の頭の上で黒板消しをはたいてやった。カラフルな粉が宙を舞い落ちる。


「うぎゃあ、目に入ったぁ」


 そう言って芹澤は水道へ走っていく。


 芹澤は本当に困ったやつだ。


 いつも何かにつけて突っかかってくるし、教室で騒ぎまくってうるさいし、人の言うことは聞かないどころか、先生の話も聞かないことがある。先生に注意されるまで騒いだりするので、そのおかげで授業が中断することもしょっちゅうだ。


 これが低学年の子だったら可愛げがあるしまだ分かるが、あいつは一年生の頃からずっとこの調子なのだ。


 なんでこんなやつと一緒に日直の当番が回ってきてしまったのだろうか。


 二時間目が終わり、二十分休みに入る。


「よっしゃー、ドッジボールすっぞ」


 男子たちがボールを持って運動場へ走っていく。その中に、芹澤の姿もあった。


「おい芹澤、先に黒板消すんだよ!」


 芹澤は一瞬だけ立ち止まり、こちらを見るとあろうことか、あっかんべをしやがった。


「この野郎」


「おわぁ、ジャイアントが来るぞ」


「なんだとコラぁーっ」


 ぎりぎりのところで取り逃した。


 本当にむかつく。


 あのクソガキ、三時間目の分は全部一人で消させるからな。


「眞昼ちゃん、私たちも手伝うよ」


 未夜と朝華が手伝ってくれた。


「ごめんな」


「いいよいいよ」


 未夜がにっこり笑う。


 その笑顔に、不満と怒りが和らぐ。


「芹澤くん、今日はいつも以上に騒々しいね」


 朝華が言う。


「あれじゃない? 眞昼のことが好きなんじゃない?」


「はぁ? なに言ってんだ未夜」


「だってよく言うじゃん。男子は好きな子には意地悪したくなるって」


「あー、眞昼ちゃんと一緒に日直になったから、それで調子に乗っちゃってるのかもね」


「いやいや、意味分かんないし」


 好きだったらむしろ優しくするもんだろ。


 あの人と比べたら、同学年の男子なんてガキにしか見えない。


「勇にぃは、優しかったなぁ……あっ、ごめん」


「いや、いいって」

「……」


 あの人――勇にぃの話は半ばタブーのようになっていた。四年前に東京に行ってから一度も静岡に帰って来ず、勇にぃの話題を出すとみんなが暗くなってしまう。


「私、トイレ行ってくるね」


「あっ、うん」


 朝華は顔を曇らせ、小走りで教室から出て行った。

 

 いつからか、勇にぃは触れてはいけない存在のようになってしまい、勇にぃの名前はできる限り話題に出さないようにしていた。


 給食を食べ終えた後は、掃除をして昼休みとなる。


「おい男子ども、ちゃんと掃除しろよ」


 机を一度奥にまとめ、手前側の空いたスペースを箒で掃き清めてから雑巾で乾拭きをするのだが、箒係の芹澤はそれを野球のバットのように構え、


「へいへーい」


 と言った。


「行くぜ、トルネード投法」


 お調子者グループの男子が雑巾を投げ、芹澤が箒で打ち返す。


「おりゃっ」


 雑巾をふわりと天井まで上昇し、やがて重力に従って落ちてくる。


「お前、いい加減にしなよ」


 左手で芹澤の首根っこを掴む。


「やめろ、離せジャイアント」


「遊ぶのは掃除してからだ」


「離せー」


 芹澤が暴れる。両手であたしの手首を掴み、解放されようとめちゃくちゃに振り回そうとする。


 芹澤の手があたしのリストバンドにかかった。


「あっ」


 伸縮性のある生地をやたらめったらに引っ張る。あたしはあたしで、勇にぃに貰った大事なリストバンドに触ってほしくなくて、無意識のうちに腕を引き上げた。


 そして――







 びりっ。






 何かが破れる音が鳴った。



 4



「え……?」


 手首にの内側に違和感を覚えた。リストバンドで覆われた感触がではないのだ。何かこそばゆいものを内側に感じる……


 あたしはすぐに芹澤を離し、リストバンドを外す。


「……嘘」


 裏が表側になるようにめくり、状態を確認する。


 まさか。


 そんなわけない。


「……やだ」


 しかし、目に移ったのは想像通りの惨状だった。


 生地の一部分が破れ、ほつれた糸が飛び出てしまっていたのだ。穴は大きくはないものの、完全に裂け目ができてしまっている。


「……あぁ」


 足に力が入らず、気づけばあたしは床に崩れ落ちていた。


「眞昼」

「眞昼ちゃん」


 未夜と朝華が駆け寄ってくる。


 二人が何か言っているが、まるで耳に入らない。




『あたし、こういうの欲しかったんだ』




 リストバンドを貰ったあの日の光景が思い起こされる。


〈ムーンナイトテラス〉の店内で、四人ではしゃいだあの日が……


 勇にぃに貰ったリストバンド。


 世界に一つしかない、あたしと勇にぃを繋ぐリストバンド。


 それが、それが……


「うわぁああああん」


 涙が溢れて止まらない。


 破れてしまったことも悲しかったけれど、なによりも悲しいのは、勇にぃとあたしの絆にひびが入ったような気がしたからだ。



 5



「大変申し訳ございませんでした。ほら、あんたももう一回ちゃんと謝んな!」


「……ごめんなさい」


 その日の夜、芹澤が母親と一緒に謝りに来た。


「眞昼、芹澤くんもわざとやったわけじゃないんだし……」


 ママが気まずそうにあたしを見やる。


「いいよ、別に」


 あたしは言った。


 わざとやったわけじゃないってことは分かってる。


 でも別に許したわけじゃない。


 ただ、一秒でも早く一人きりになりたいからそう言ったのだ。


 芹澤たちが帰ると、あたしはすぐに自分の部屋に戻った。


「あっ、眞昼」


 ベッドに飛び込み、枕を引き寄せる。


 目が痛くなるほど泣いたのに、涙は収まってくれない。


 リストバンドを胸に抱き、枕に顔を押し当てる。


「うっ、ひっく」


 もう元には戻らない。


 ほつれただけでなく、引っ張ったせいで小さな穴ができてしまっていたのだ。


「眞昼」


 ママがそっとドアを開けた。ベッドの横に座る。


「ほら、これ」


 そう言って、ママは小さな袋をいくつも見せる。


「なにそれ」


 ママは作り笑いをして、


「ワッペンだよ。穴はこれで塞げばいいじゃない」


 ウサギや猫などの動物やサッカーボールに野球ボール、アニメのキャラクターなど、色んな種類があった。


「これなんかいいんじゃない、星が黒地に合っておしゃれで……」


「……」


「これも可愛い……」


「……」


 ママは声を硬くして、


「眞昼、起きたことをいつまでもくよくよしてたって、何にもならないよ?」


「……」


「勇くんも、そんな眞昼を見たら、『なにやってんだー』って怒るんじゃないかな」


「……!」


 勇にぃ……


「なるわけないじゃん。今まで、一回だって帰って来たことないんだし、これからも、ずっと、帰ってこないもん。勇にぃの話はしないでよ」


 もう悲しいのか怒っているのかも分からない。ただ溢れる感情をママにぶつける。ママが悪いわけじゃないのに、自分で自分が抑えられない。


「でも――」


「勇にぃは関係ないでしょ! っていうか、勇にぃなんてどうでもいいし」


「どうでもよくないからそんなに泣いてるんじゃん? 勇くんに貰った、泣くほど大事なものでしょう」


「うっ……」


「いつか勇くんが帰って来た時に、眞昼だって分かってもらえるように、ずっと大事につけておかなきゃ」


「……」


「ほら、どれがいい?」


 ママはテーブルの上にワッペンを広げる。


「……そのハートのやつ」


 あたしは赤いハート型のワッペンを指さした。


「おっけー」


「あっ、ママ、あたしが自分でやるから」


「はいはい」


「やり方教えて」


「はいはい」


 涙を拭って起き上がる。

 

 勇にぃ、あたし、信じてるよ。


 いつか絶対帰ってきてくれるって。


 あなたが帰ってくるまで、あたし、ずっとこのリストバンドを付けてるから。


 大事にしてるから。

 

 あたしがどれだけ大きくなっても、子供の頃の面影がなくなっても、これを目印にしてね、勇にぃ。



 *


























 そして月日が経ち、少女は大人になる。

























 *



「やっと終わった」


 三月から四月をまたいで行われていた県外遠征が終わり、あたしは二週間ぶりに我が家へ帰ってきた。テレビ、スマホも禁止のバレー漬け生活。昨年の惨敗を反省し、基礎からみっちり鍛えなおし、県外の高校との試合で実戦経験を積んだ。


「ただいまー」


 二週間ぶりにスマホを確認すると、未夜からラインが来ていた。


「……なんだろ」


 届いたメッセージに目を通した瞬間、思わずスマホを落としそうになった。


 涙が込み上げてくる。



『勇にぃ帰ってきたよ!』






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