第12話
三月の初めに浴室の改築は終った。瓢箪形のバスタブは寝台のように体が伸ばせた。洗面台には照明灯のついた三面鏡が設えられ、シャワー状にも水を出せる蛇口からはボイラーによっていつでもお湯が出た。浴室はボタン操作で、換気、暖房、乾燥の機能を備えていた。洗面室の入口は金色の金属製の把手の付いた木目模様の厚手のドアで、外部からの視線は完全に遮断されていた。幹夫は浴槽に漬かって浴室を眺め回し、ほう、と思うのだった。確かに願いは実現した。ここまでは短い年月ではなかった。しかし、実現してみればあっけない感じもした。これが求めていたものかな、という落着かない気分だった。ミサエとの確執がなければ幹夫はもっと素直に喜べたかも知れなかった。ミサエとの溝を深めるという代償を支払ったという思いが幹夫の気持を後味の悪いものにしていた。しかもミサエとの対立はこれで終るわけでもなかった。
菜香も宗造も改築してよくなったと言った。しかしミサエだけは一月経っても前の方がよかったと言い続けた。印象的だったのは新しい風呂場になってもミサエが明かりを点けずに入浴することだった。ミサエはダイニングキッチンの明かりを利用するために洗面室のドアを開けたまま入浴した。前の浴室なら曇りガラス一枚を透してくる光で不自由はなかっただろうが、今度の風呂場ではドアを開けても、洗面室を過ぎて浴室まで光は届くまいと思われた。なぜそこまで明かりを点けないことに固執するのかと考えた時、幹夫がふと思ったのは、ミサエは老いた自分の体を見たくないのでは、ということだった。それは自惚れの強いミサエにはあり得ることのように思われた。ある日、幹夫はそのことを菜香に話した。菜香は「おなかの傷を見たくないのやないかね」と答えた。ミサエは若い頃潰瘍を患って胃を切っていた。姑との確執が潰瘍の原因だった。手術の後も、姑の手前ゆっくり休むことはできず、力仕事をしたために、まだ癒えていない内臓はヘルニアを起こし、癒着してしまった。ミサエの腹の胃の辺りは手術の傷が残り、ヘルニアのために膨れていた。そんな痕跡を見たくないのだと菜香は言うのだった。
ミサエと対立を続けていた姑は、舅の死後、宗造の弟の世話になる道を選び、家を出ていった。宗造は長男だったが母の世話をすることになった弟に親からもらった一町近い田畑を譲った。ミサエは全部やる必要はないと思った。彼女に言わせれば
浴室の改築という幹夫の懸案は解決したが、新たな問題が生じていた。それは新しい風呂場の輝きにも影を差すものだった。テレビがあるために、洗面室に入るドアが半分しか開けられないのだった。テレビは改築前の位置にそのまま置かれていた。改築後は新しい風呂場の出入口に当る場所になるので当然移動しなければならないはずだった。しかし、テレビは動かなかった。それはミサエが一日の大半を眺めて過ごすものだったからだ。ドアを普通に開けると、勢い余って金色の把手がテレビに当るので、ドアを開ける度に力を加減する必要があった。毎日の散歩を終えた犬を浴室で洗うために入る時は、犬を抱えているために体を半回転させて入らなければならなかった。それでも幹夫は、風呂場が改築されて三カ月ほどはその不便さにも耐えられた。一つの願いが成就された満足感があったからだ。それに工事の代金の三分の二を親が支払ってくれたことで、ミサエに対する遠慮も生まれていた。しかし、その不便さが半年も続くと、テレビの隣室への移動はどうしてもやらなければならない課題となった。テレビの存在こそはダイニングキッチンがミサエの個室と化した最大の要因だった。テレビがあるからこそミサエはそこに腰を据えているのだ。従ってテレビの移動はミサエにとって自分の居場所を脅かされることであった。ミサエが浴室の改築に抵抗したのも、改築の是非の問題というより、それが自分の居場所の不安定化につながることを直感していたからだと思われた。ミサエはテレビの移動に頑強に抵抗した。家人が不便を被っている様を毎日見ながら、また「テレビを動かさな不便だ」という訴えを聞きながら、半年の間、彼女はテレビを動かそうとは決して言わなかった。食卓の椅子に座り、巌のごとく、という表現がぴったりの顔付きと態度でテレビを見続けるミサエに、テレビの移動を要求することは勇気が必要だった。幹夫はミサエとの次の衝突を覚悟しなければならなかった。
家 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711
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