透明のview

詠三日 海座

透明のview

 びゅうはいつからか透明だった。

 自分の名前が呼ばれなかっ時だろうか。見覚えのない人から手を振られたように思った時だろうか。コンビニの自動ドアのベルが鳴らなかった時だろうか。いつだったかは覚えていない。いつからか、繆は透明人間になっていた。

 鏡に顔が映っていなかった。自分の頬に触れても、胸に手を当てても、その様子はどこにも見えず、感触だけが肌に残る。身を切っても見えるのは鮮血だけだった。着ている服だけが、服屋に置かれるマネキンのように、人の形をして映るのだった。

 びゅうは始め、自分は死んだのかと思った。しかし、服を着て帽子をかぶり、マスクとサングラスをして、肌を見せないようにして外に出ると、通りすがる人々は、自分を怪訝そうに見つめてくる。スーパーの店員は無表情のまま接客をこなすのだった。

 びゅうはこの世にまだ存在していると自覚して、返って打ちしひしがれた。仕事など続けられる訳もなく、友人や家族にも連絡をとることができないまま、彼は全て悪い夢だと、いつか覚めると、部屋でうずくまってその時を待った。いつか鏡に己の姿が映ると信じて、目を固く瞑り、身を小さくして、長い時間を過ごした。

 彼は透明なままだった。

 日の光をカーテンの隙間に感じ、夜の暗闇を混沌と抱えて、幾度目か数えることもびゅうは諦めていた。

 部屋は荒れていた。キッチンには割れたグラスや皿の破片が散らばっている。洗面所の鏡など、とっくに壊していた。フローリングのいたるところに、渇いた血が点々と付着している。なんども自分を皮膚を切ったり、ガラスの破片を踏んだりして、身体は傷だらけのはずだった。痛みと裏腹に、どこにも赤くぱっくり開いた皮膚など見受けられなかった。

 怒りもし、泣きもした。命を絶とうとして、それが怖くて憂いたりもした。大笑いもした。叫んで、震え、嘔吐し、目眩がしてその場に倒れた。

 次に目が覚めると、恐ろしいほどの脱力感に、一時の間身体が動かなかった。そこで初めてびゅうは、しばらく何も食べていないことに気がついた。ゆっくり、時間をかけて身体を起こし、立ち上がって身支度を始めた。財布とレジ袋を持って、食事をするための金を引き下ろしに外へ出た。

 信じられないほど足取りは遅く、虚ろな表情だった。最も表情など窺えないが、きっと見えていたらそんな顔だと、びゅうは微笑を浮かべて妄想した。

 初夏の季節に、ひとりの男は、帽子とサングラスにマスク、長袖に足首まであるジーンズパンツ、手には手袋をして、街を歩いた。

 街の大きな銀行で用を済ませ、出口を振り向いたその時だった。

 女性の悲鳴とともに、大きな破裂音が耳を刺激した。音のした方へ目をやって、それが初めて聞く銃声であるのだと理解した。


「窓にシャッターを下ろせ!金を用意しろ!車も手配するんだ!」


 窓口の前で、男が女性を抱えて銃口を突きつけていた。目出し帽の上からさらにサングラスまで装着し、全身黒づくめの男だった。客や店員は金切り声を出して男から飛び退いて、少しでも遠くへ離れようと、あちこちへちりじりになった。もちろんびゅうも恐怖し、近くの壁に張り付いた。


「外へ出るな!黙って伏せろ、クソども!通報なんかしたらこれでぶち抜くからな!」


 銃口が今度は八方へ向けられる。銃が向けられる方で悲鳴があがり、波のように人々が床に伏せていく。


「金だ!カネ!全部寄越せ!」


 銀行強盗など本当に存在するんだ。びゅうはこれまでの日々とは全く違う、新しい恐怖感にみまわれて微かに高揚した。同時に自分だけなら、この場を脱出できると考えがついた。着ているものを全て脱げばいいのだ。

 部屋の外へ出て歩いたりしたせいか、びゅうは空腹の感覚を取り戻しつつあった。すでに一度意識を失うほどにまで体力を消耗していて、再び目眩が彼を襲い始めていた。まだ生きていようと言うのなら、体力を補給をしなければ、それこそ銃で打たれることと同じ始末である。

 びゅうはしゃがみこんで、靴、手袋、帽子、サングラスと、ゆっくり着ているものを外していった。強盗の男の視線を気にしつつ、繆はその透明な肌を露出していった。これまで部屋で揺蕩っていた絶望や不安、憂いとは、毛色の違った斬新な緊張感にみまわれた。これまでの廃退的な生活と変わって、なにか彩りを取り戻したような妙な高揚感を得ていた。

 びゅうは人の目を盗んでついに裸になった。足元には脱ぎ散らかされた衣類、自分が全裸になって突っ立っている様子に、誰も気がついていなかった。

 一歩、また一歩と出口に向かって歩き出し、強盗の男の視界に入ろうとした時、男は真っ直ぐびゅうに視線を向けた。目が合った気がして繆は凍りついた。男は表情は分からないものの、途端に身体を震わせて、繆に銃口を向けた。周囲は、突然壁に銃を向けだした男に呆気にとられた。


「なんで、お前、裸なんだ」


 男はびゅうを見ていた。繆は何を言われているのか分からなかった。あの男だけが、なぜ自分を見ているのか、理解できなかった。

 しかし、男は違った。


「お前……」


 男は言いかけて、おもむろに目出し帽をとった。拍子にかけていたサングラスも床に落ちた。そこには中年の男の顔が現れたのだが、周囲で再び悲鳴があがった。


「顔がない!」


 近くでそう聞こえた。

 男は抱えていた女性も突き放し、今度は着ている服を全て脱ぎ出した。


「み、みみみみ、見える、か?」


 男はそう聞いた。びゅうは突然に中年男性の裸体を見せられて、言葉を失った。


「あ、あぁ、見えるよ…?」


「おれもお前が見える…」


「見える」という言葉と同時に、目の上に黒いものがかぶさって見えた。驚いて触れると、それが自分の髪だと認識した。

 髪が見える。

 髪だけでない、髪に触れた手も腕も。視線を落とすと自分の腹が見えた。そこに自分の姿があったのだ。

 一方、強盗男も、自分の手や足を見たあと、腹やその下を触って泣きわめいていた。

 周囲の人々は、突然現れた全裸の男にさらに恐怖し、悲鳴が大きくなった。


「おれが見える」


 男がそう嗚咽した時、びゅうも理解した。繆にも自分の身体が見える。透明でなくなったのだと悟って、目頭に熱を帯び、自然と頬に涙が伝った。

 しばらくすると外からサイレンの音が近づいてきて、止んだかと思うと、男性の声がスピーカーを通して聞こえてきた。


「警察だ。露出強盗2人、人質を解放しなさい」

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透明のview 詠三日 海座 @Suirigu-u

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