明日花
透明な〈
庭園を模したワールドの一角、アネモネが咲くはずの立方体内部には、「現在この〈花籠〉は使用されておりません」という素っ気ない文面が浮かんでいる。点々と植えられた広葉樹は色濃い枝葉を揺らし、頭上には爽やかな蒼穹が広がっている。一方で、見渡す限り一面に〈花籠〉が並ぶ様は、一種の異様さを帯びて、庭というよりは墓地のようでもある。墓石の代わりに花が咲き、それ自体が未来への手向けとなる。
十分ほど、ぼんやりとその光景を眺めていた。そしてゆっくりと、VRヘッドセットを外す。
仮想世界とうってかわって、一人で住むには広い現実の部屋からは、寒々しい鈍色の空が見える。
一華は、公認心理師で、色相分析学者で、私のパートナーだった。
彼女は〈
〈明日花〉──前向性心象予測システムは、リンクした個人の四週間後までの未来の心象を、花の三次元モデルで生成するサービスだ。その花の形状や花弁の色を分析することで、未来の特定の地点における人の心的状態を推測できるという。
ユーザーはさほど多くない。十年前のリリース直後はそれなりに話題にもなったが、今では半ば忘れ去られた存在だった。曖昧にしか未来を予測できないことや分析の人材不足から、望まれたパフォーマンスを発揮できなかったためだ。知名度は低く、仮想描画法や三次元空間図式と言った語に触れる機会はほとんどない。“花占い”などと揶揄する声の方が、今は多いだろう。
両親はミーハーだったのもあって、十四歳を迎えた私にこれを与えた。名前が
私は一華に自分の〈明日花〉の管理を任せていた。どうせ見ないのだからと契約解除を考えていたところへ、それよりは解釈のできる人間が持っていた方が有効に活用できると一華が提案したからだった。
同棲を始めて間もない頃、久しぶりの外食の後にバーで飲んでいた時の会話を覚えている。互いに〈明日花〉を所有していることがわかり、私が花の名を明かすと、彼女はほんのりと色づいた頬を緩ませて、「ドイツに、こんな逸話があるんだって」と切り出した。
「昔々、神は万物に色を与えた。しかし、雪だけが透明なまま取り残された。雪は色鮮やかな花々に色をわけてくれるよう頼んだが、どの花もそれを拒んだ。そんな中、スノードロップだけが自分の色をわけ与えた。ゆえに、雪は白く、また、スノードロップは雪の中でも咲き続け、春を告げる花となった。……スノードロップは、開かれた未来を感じさせる花だよ。私はとても好きだな」
言い終えると、こちらをじっと見つめ、
「雪芽は、私に色をくれる?」
私は酔った頭でしばし考え、わずかに残った赤いカクテルを呷ってから、「前向きに検討する」と結論を保留した。彼女は「じゃあ、期待しておこうかな」と静かに笑った。
些細なやり取りばかりが思い出される。この頭は、どの光景が重要なのかも未だ整理がつかないようで、あちこちに漂う彼女の残滓を見るたびに、私はしばらく動きを止めた。一華の不在、アネモネの不在。私がそれらを見つめるのは、きっと、そこに何かを見出したいからだ。
まるで白昼夢を見るように、空のまま放置された鉢植えにも、彼女の姿を幻視する。
一華は季節ごとの植物をいくつか育てていた。彼女は丁寧に世話をしていたけれど、今年の夏の終わり頃に、そのうちの一つを枯らしたことがあった。処分する前日、私は膝を抱えて鉢植えの前に座り込んだ。遠くでツクツクボウシが鳴き、鮮やかな残照が窓辺を染めて、扇風機が生ぬるい風かき回していた。
「〈明日花〉も枯れたりするの」
ふと思い立って尋ねると、一華は手に取ったマグをテーブルに置きなおして、テレビから目を離し「場合によってはね」と言った。
「ただ、人が死んじゃったら花自体が消えるかな」視線は私を通り越して、花の亡骸に注がれている。「時々いるんだ。自分の未来がないことを知っちゃう人が。私も何度か担当したことがあるけど、そういう場合はたいてい、終末期医療的な心理支援に回されるね」
「……もし、自分がそうなったら、どうする?」思わず口にすると、視線が合った。
どうもしないよ、と彼女はこぼし、
「花の色は誤魔化せない。誰もがいつかは、色を失うんだから」
そう言って、力なく微笑んだ。
あの夏の短い休暇が、彼女とまともに触れ合った最後の時になった。今自分の手のひらを眺めてみても、彼女の温度は思い出せない。私たちの“これから”なんてものを思い描く暇もなく、気がついた頃には、存在自体が消滅している。遺品整理の最中に見つけた〈明日花〉のIDとパスコードも、存在の空白によって淡々とその事実を補強した。
最近は医療も福祉も人材不足で、どこでも引っ張りだこだと聞いていた。一華はほとんど毎日働き詰めで、家に帰ってきてからも考え事をしていることが多かった。誰に対しても真摯に向き合うその在り方は、能力の高さの証左でもあったのだろうが、今はそれが、どうしようもない不器用さだったと思えてならない。
勤め先で一華が倒れたと聞いて、駆けつけた病院で彼女の死を知って、葬儀の時には、生きていた頃より色艶の良い彼女の顔を見た。涙も出なかった。私に流れる血は、これほどまでに冷たかったのだろうか。私は一華を愛していたのだろうか? そんなくだらない疑念を一人きりのベッドで幾度も転がし、その度に眠りは浅くなった。鏡に映る自分の顔、その目元に刻まれた隈がより濃くなっていくのがはっきりとわかる。
一華と過ごした日々は、巡る季節の彩りそのものだった。
甘やかな春、情熱の夏、倦怠の秋、そして、喪失の冬。
最早、触れることも、触れてもらうことも叶わない。陶酔の内に甘い言葉を囁き合った日々は遠く霞み、すれ違い続けた灰色の頁にすら戻ることはできない。
アネモネの不在を目にして以降、私は毎日のようにヘッドセットを被った。いつかの夏の午後のように膝を抱えて座り込むと、空の〈花籠〉を見つめ続けた。生産性も何もかもを放り出し、何かそこに特別な意味があるのではないかと、期待しているふりをしながら。
段ボールの数が増えるにつれて、私の生活からは一華の気配が消えていく。痕跡も、証明も、無形の記憶に成り果てる。寒気を感じて身を震わせてから、それが冬の冷気のせいなのか、空虚が故なのかわからないことに気づく。そしてまた、一華の言葉を思い出している。
「自分の色もわからない、これから先、花が生き生きと鮮やかに咲く日を思い描くこともままならない。そういう人たちが色を取り戻す助けができたら、って、そう思うんだよ」
彼女は人の未来を希望あるものにしようと必死だった。それはきっと、ままならない現実への抵抗で、彼女なりの反逆で、彼女にとっては、力を注ぐに値する宝だったのだと思う。
けれど、私にとっては、そんなことどうでもよかったのだ。
「それで死んじゃったら、元も子もないじゃん……」
身近な人のことを考えるので精一杯な私には、一華だけが重要だった。だからこそ、私たちは互いの相容れなさを理解して、距離をとって──二度と戻ることもなくなってしまった。
馬鹿げた後悔と、醜い罪悪感だけが胸を満たしている。
彼女がいない今、自分のこれからのことさえも、重要だとは思えなかった。
惚けたように日々をやり過ごす。何も考えないための睡眠と数日おきの遺品整理で、一週間、また一週間と時は去っていく。在宅勤務で仕事を再開しても、冷たい空虚は依然としてそこに居座り続けた。埋められるものは何もなかった。一切が底なしの虚に消えていき、私の手元には何も残らない。
一華の所持品のほとんどがなくなると、部屋は異様に広く茫漠とした姿を現した。あるべきものがあるべき場所に収まっていない違和が絶え間ない漣となり、私は居間にいる間ひどくそわそわして、何度も席を立っては、意味もなくテーブルの周囲を歩き回った。魔術的な儀式にすらなり得ない。そこで繰り広げられるのは、疲れた女が一人、思考を放棄して途方に暮れるだけの光景だった。
混乱が胸中を貪る中で、私はのろのろと肉体を蠢かせ、一華の痕跡を拭っていった。二度と届かないものは、見ることのない場所へ。箱の中の暗闇に押し込めて、蓋をしていく。それが良いのだと信じて、それしかないのだと言い聞かせた。もはやできることはない。残されたのは、私の退屈な余生ばかりだ。
〈明日花〉を見にワールドを訪れる人はほとんどいない。花園はいつも貸切で、これまで避けてきたことを今更埋め合わせようとでもいうように、私は空虚に取り憑かれている。心の底から愚かしく、馬鹿馬鹿しいとは思っている。その行動にうんざりして腹を立てているのは誰よりも私自身で、けれどそこから先に動き出せないのも、紛れもない事実だった。
釘付けにされて、動こうとすればするほど、肉は裂かれて血が吹き出る。
応急処置の仕方さえ、私には見当もつかない。
一華のヘッドセットやパソコンを使用していたのと、すぐに判断のつかないものが集中していた関係で、デスク周りに手をつけるのは最後になった。ラックに飾られた二人の写真や小さなサボテン、分厚い専門書や文房具などの小物を少しずつ仕分けていく。不意に懐かしさや切なさが心臓を締め付けるたびに、私は目を瞑って手にしたものを意識の外に追いやった。そうでなければいつまでも終わらない気がした。終わったことは終わらせなければならない。そういうものだと、私はこれまでの喪失から学んでいる。
デスクに付随したラックの下部には、私は同棲する前に一時期やりとりしていた手紙の束が丁寧に並べて収められていた。思考が凍りつき、呼吸が少し浅くなる。落ち着くようにと深呼吸を挟んでから、奥から一つずつ取り出していく。
当時、私たちが手紙のやりとりをしていたのは、SNSやVR空間における会話のおまけのようなものだった。お互いに普段はあまり言わないことを告白したり、自分の独りよがりな思いを書くためのツールとして使っていた。私の実家には彼女から送られてきたものを残してあるが、彼女がそれをわざわざここに持ち込んでいたとは知らなかった。
同じ名前、同じ住所が延々と続いていく。一華は、これを見返すことがあったのだろうか。かつての私が書いた言葉は、彼女を励まし、慰めることができただろうか。どんな助けにもなれなかった不甲斐ない私の代わりに、幸福だった日々の欠片は、わずかでも救いとなってくれただろうか。
過去は今を、あるいはこれから先を照らす光となり得るだろうか。
一華なら答えを示せたかなと思う。それとも、「難しい問題だね」と困ったように眉を下げるだろうか。
今となっては、確かめる術もない。すべては妄想で、益体のない戯言に過ぎない。
鬱々と、そんなことを考えていた。いつの間にか、私は最後の一通を手に取っている。
息を吐いて、場所を移そうと封筒を翻したところで、私はふと、それが未開封であることに気づく。不思議に思ってよく見てみると、宛名が私のものになっていた。差出人は、言うまでもない。
隅に記された日付は、彼女の死の三週間前を示していた。封はまだ切られていない。
「……一華?」
存在しないはずのものを見て、考えもしなかった残り香に、私は今触れている。
震え出した手のままに、ゆっくりと封を開けていく。
迷いはなかった。
雪芽へ
一昨日の夜、私は〈明日花〉を見て、自分が死ぬことを確信した。アネモネはある時点を境に消えてしまっていたし、その直前には、花弁も葉も黒ずんで腐りかけていて、私はそれを、死への恐怖だと解釈した。あなたとの“これから”が知りたくて〈明日花〉を見たのに、皮肉だよね。
私はたぶん、生きているうちにはこのことを明かさない。色々悩みはするけれど、その上で、私は何も知らないふりをして、いつも通りの日々の中から、ふっといなくなるのがちょうどいいと思うから。
ごめんね、雪芽。もっと他にいい方法があるはずなのに、私はそれを選ばない。これは私のエゴ。死ぬためには生きたくないっていう、私の幼稚な意地なの。こんな仕事をしているのに、変な話だけどね。
ねぇ、雪芽。私の驕りと誇りを賭けて言うけれど、あなたはきっと、私を喪って悲しみに暮れて、涙も出ないで苦しんでいることでしょう。でもね、私はこう思うよ。あなたは泣いていいし、悲しんでいいし、私に対して怒ってもいいんだって。もし自分を許せないのなら、私の言葉を免罪符にしてもいい。だから、抱え込まないこと。心理援助を仕事にする人間としてでなく、あなたのパートナーとして、あなたを愛した一人として、私が許すよ。
ちなみにだけど、もし違ったらこの手紙は破り捨ててね。なんだったら、燃やしてもいい。
文通のルールに則って告白するとね、私は実のところ、雪芽の〈明日花〉が気に入ってたんだ。だから、よく見に行った。スノードロップ、可愛くて、綺麗だった。カラフルなアネモネも好きだけど、あなたのあの白い無垢が、雪解けを予感させるまっさらな白が、私は大好きだった。あなたが元気な時、あなたが嬉しい時、あなたが健やかな時。花は美しく咲き誇って、私はそれを見るのが本当に嬉しかったよ。
あの話、覚えてるかな。雪が色をもらう話。それから、曖昧な約束のことも。
私は雪ではなかったけれど、あなたは確かに色をくれたね。雪芽のことを想う時、私の花の色は期待と希望の白だった。たとえすれ違っても、それが喜びで、辛いこともある毎日の支えだった。
だからね、雪芽。今度は私が、あなたにこの色を返そうと思う。
雪芽。あなたは、私がいなくてもしっかりと生きていけるよ。身も心も凍りついても、必ず春は来る。その時々で何が起こるかなんてわからない。でも、季節が巡って花の色が移ろうことだけは、信じてもいい。
なんでそんなことを言えるんだ、ってあなたは思うかもしれない。でも、そこは、ほら。
花の色は誤魔化せない。
でしょ?
こんなやり方になっちゃって、ごめんね。
愛してるよ。
声にならない声で、私は呻いた。
それは紛れもなく、一華の言葉だった。
私が愛して、私を愛おしんでくれた、あの人の言葉に違いなかった。
筆跡に視線を這わせ、紙を撫ぜ、何度もなんども反芻する。そして私は、今になってようやく、自分の想いに気づかされる。
私が未来を見ることを、未来を映す〈明日花〉に向き合うことを避けていたのは、終わりを想像するのが怖かったからだ。一華と過ごした柔く緩く気楽な春の余熱が、彼女との間に生じる葛藤を不安なものにさせた。私はいつの間にか、一華との“これから”を想定するのを恐れるようになっていた。
私はただ、大切な人を失うのが恐かったのだ。
痛みは癒えず、冬来りなば春遠からじ、とはまだ言えない。傍らの空白を抱えたまま、これから先をどう歩めばいいのか、私はすっかり見失っている。
私は呆然としたままパソコンを起動し、ヘッドセットを手に取ると、一華に出会ってから初めて、自分の〈明日花〉を直視する。
暖かな陽気を思わせる光の中、私の心を示す小さな花は、色褪せて、枯れかけている。私の心象はひどく弱って、鮮やかさの欠片も存在しない。
けれど、いつか雪が解けた時、花は本来の姿を取り戻し、無垢な未来、眩い白を灯すだろう。
目元に滲んだ水滴が頬をくすぐり、吐息はやがて、嗚咽に変わる。
愛する人の名前を呼びながら、私はようやく涙を流す。
一華、一華、と。
悲しみが枯れ果てるまで、声を上げて泣き続けた。
白く、眩く、輝く 伊島糸雨 @shiu_itoh
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