白く、眩く、輝く
伊島糸雨
白く、眩く、輝く
広大な庭園に整然と咲く花々は、刻一刻とその姿形を変えながら、独自の色を放ち続ける。
強化ガラスの外側から、各〈
背後から画面を覗き込むと、被験者の一人が庭園にログインしている。私は了解した旨を伝えてから、庭園内部へと足を踏み入れた。
点々と植えられた広葉樹は色濃い枝葉を揺らし、頭上には爽やかな蒼穹が広がっている、ように見える。樹木の幹は人工素材で、葉はホログラム、空は天井に映した映像だ。見渡す限り一面に透明な立方体をした〈花籠〉が並ぶ様は、一種の異様さを帯びて、庭というよりは墓地のようでもある。
奥へ奥へと進んでいくと、ひときわ巨大に設計された木の下にぽつりと佇む人影が見えてくる。こちらに気づき手を振ってくるのに、映画で見る逢瀬かと苦笑する。
前に立つと、彼女──名東一華は嬉しそうに微笑んだ。今日は血色も良く、表情には活気がある。調子がいい日なのだろう。
「今日はどうしたい?」
尋ねると、彼女は間髪入れずに「雪芽さんの花が見たい」と言った。
「私の? 何でまた」
「好きだから。ダメかな」
ダメということはないし、自分が好きで選んだ花を好いてもらえるのは嬉しいが、少しこそばゆい。こんな仕事をしていて何を今更、という話だが、自分の未来の状態を見られるのは、いささか恥ずかしいものだ。
花──前向性心象予測システム〈
分析には、色相分析学の知見や三次元空間図式を用いた解釈が求められ、〈
花園を貫く細い道を辿って、私の〈明日花〉が割り当てられた区画へと向かった。立ち止まって見下ろした先、〈花籠〉の中には、小さな白い花がその頭を垂らしている。スノードロップだ。
「綺麗な色。元気そうでよかった」
詳細は観測室に戻らないとわからないが、パッと見ただけでもある程度は健康状態がわかる。花が元気なら、人間もたいていはそれに対応している。
一華は花の前にしゃがみこむと、花を見つめたまま「ドイツに、こんな逸話があるんだって」と切り出した。
「昔々、神は万物に色を与えた。しかし、雪だけが透明なまま取り残された。雪は色鮮やかな花々に色をわけてくれるよう頼んだが、どの花もそれを拒んだ。そんな中、スノードロップだけが自分の色をわけ与えた。ゆえに、雪は白く、また、スノードロップは雪の中でも咲き続け、春を告げる花となった。
スノードロップは、開かれた未来を感じさせる花だよ。だから、私は好きだな」
言い終えると、振り返ってこちらをじっと見つめ、
「雪芽さんは、私に色をくれる?」
視線が絡む。私は一呼吸置いてから「前向きに検討するよ」と言った。
「期待しておくね」
彼女は静かに笑った。
別の日、倉山が「今日は来ますよ」と言うので待っていたら、本当に一華がやってきて驚く。どういうわけかと視線で問うても、彼女は澄ました顔でコーヒーの入ったマグを傾けていた。
「今日はお母さんが赤いアネモネを持ってきてくれたんだ。私が好きだから、って。外に出れない代わりにね」
木の根元に腰を下ろし、話に耳を傾ける。庭園は、はっきり言って特別面白い場所でもない。もっと愉快な空間にも仮想の身体を置けるのだろうが、彼女はここにこだわっていた。
「雪芽さんは、地球に憧れる?」
脈絡を欠いた言葉に戸惑いながら、「まぁ、それはね」と答える。
港も整備が進み、今では以前より容易に宇宙を渡ることができるようになった。とはいえ、就職して貯金が増え始めて以降はひたすらに研究が忙しく、旅行するほどのまとまった時間は取れていない。仮に休みがあったとしても、趣味を見つけて精を出す以前に、疲労から気絶したように眠ってしまう。生活は、灰色もいいところだった。
「私も、外の世界に憧れるから。似た者同士かな」
彼女はそう言って、小さく息を吐いた。
自分の足では行けない景色は、鮮烈に映るものだ。目を眇めてなお、心を焼き尽くすほどに。
彼女と初めて会った日のことを覚えている。臨床試験の協力者として契約を結んだ人々は、VR機器を貸与され、ホロアバターを用いて庭園に出入りすることを特別に許可されている。彼女は誰よりも先にここにやってくると、様々な種類の〈明日花〉を見て、「まるで本物みたい」と目を輝かせた。
「本物もこんな色をしているんだね」
思わずそう口にすると、彼女は振り向いて困惑の表情を浮かべた。当然の反応だ。私は言葉に迷ってから、
「月面生まれ月面育ちなんだ。だから、地球の花は見たことがない」
逡巡は、地球で生まれていないことへのコンプレックスからきたものだ。人類の故郷から遠く、灰色の月面都市で生を受け、あの青く眩い星を見上げて育ってきた私にとって、地球は憧れの対象だった。それに、月にあるのは環境改造を目的とした植物ばかりで、そこに美しさは見出せない。だから少し、一華を羨ましく思っていた。
「じゃあ、いつか私と見に行きましょうか。地球の、どこかに」
突飛な提案に目を丸くする私に、彼女は朗らかな笑みを向けた。当時の私は真っ先に実現可能性を考えたが、そんなことはまるで重要でないのだと今ならわかる。彼女にとっても私にとっても、そう言った未来に向けた小さな約束の数々こそが、生命を繋ぐ上で何よりも愛おしむべきものだったのだ。
手を伸ばした先が空虚なのではやっていられない。だからこそ、色を与え、意味を見出し、それを希望として胸に抱いていく。巡る季節を越えて後に、花開くものがあると信じている。
「いつか、花を見に行こう。一緒に」
記憶を復唱するように、曖昧な約束を声に出す。
こんなかりそめの庭でなく、確かな感触をくれる場所に行こう。
「ありがとう」
ノイズのように嗚咽が混じる。彼女の涙は、私には見えない
一華の〈明日花〉に異常が観測されたのは、それからしばらく経った時のことだった。約一週間後の時点から花弁が黒ずみ始め、それが日を追うごとに範囲を拡大していった。出力された解釈は「死への不安・恐怖」。病状の急速な悪化だとすぐにわかった。
ことが起きる前に準備を整え対処ができるのが〈明日花〉の利点だ。一華が入院している病院に連絡すると、すぐに対応するとのことだった。〈明日花〉から抽出可能な情報は、個人の心象に限定される。精神の健康状態がどうあれ、肉体が持ち直す余地は十分にあった。
〈明日花〉の臨床試験をするにあたっては、研究者を含む健常者以外に、心身に疾患を抱えている人にも協力をしてもらっていた。中には病状が進行して自由に歩くこともままならないケースもあって、一華はその典型だった。庭園が協力者に解放されていたのも、病床から出られない人が疑似的に自然と触れ合えるようにするためだ。
一華の〈明日花〉をずっと見ていた。祈るしかなかった。希望し、期待し、切に願った。
けれど、観測範囲を未来方向に拡大すると、アネモネは姿を消している。
彼女はやってこない。一月が経った頃、一華の死が知らされた。
いとも容易く、私は動けなくなった。
これまでに類似の経過を辿ったケースがなかったわけではない。ただ、私は一華と個人として深く関わり過ぎていた。
未来が存在しなくなった時点で花は消滅する。そこで、〈明日花〉を用いて死の予兆を探り、終末期医療的な心理ケアへと早期に繋げようというのも、私たちの研究テーマの一つだった。一華はそれに賛同し、「これから先のためになるなら」と言ってくれた一人だった。
色々な話をした。彼女の苦しさや喜びに、私がどれだけ寄り添えたかはわからない。けれど、少なくとも友人として、私は彼女との時間を楽しんでいた。喪失の痛みは簡単には癒えない。倉山からは数日前に、スノードロップが萎れていると報告を受けている。〈明日花〉は正確だ。花の色は、誤魔化せない。
アネモネの不在、〈花籠〉の空白を前にして、私は涙が枯れるまで泣き続けた。悲嘆に暮れる時、胸の内に空いた穴からは冷気がこぼれ出る。確かにあった現実も、交わした言葉も、無形の記憶となって時間の波に埋もれていく。
冬来りなば春遠からじ、とは言えなかった。“これから先”を見つめるには時間が必要だ。雪解けまでの、十分な時間が。
暖かな陽気を思わせる光の中、私の心を示す小さな花は、色褪せて、枯れかけている。けれど、春が来た時、花は本来の姿を取り戻し、希望の色を灯すだろう。
それがきっと、私が未来と向き合う時だ。
少しだけ長い休暇をとった。ずっと働き詰めだったからいい機会だ、と同僚たちは口々に言った。
港は人と物資の往来で賑わっている。その波間を縫って搭乗口へ向かっていると、携帯端末がメッセージの受信を知らせた。倉山からだった。
『一華さんのアネモネは、あなたと会う時必ず白くなった。彼女には、伝わっていたと思います』
私は頬を緩めて、『ありがとう』と送信した。間もなく搭乗時刻だ。私は端末の電源を切る。
ガラス張りのターミナルからは、地球の姿がよく見える。憧れの青い星。本物の花が咲く、一華の故郷。
果たせなかった約束を抱えて、私は今こそ、彼女に会いに行く。
そしてこの手で、白く眩く輝く花を、捧ごうと思う。
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