二十九日金曜日
亜済公
二十九日金曜日
あの花は、ひょっとしたら未来にあったのかも知れないよ。普通ではありえない成長速度が、きっとそれを裏付けている。現在に根を張り、未来に花を咲かせる植物。今とこれからの架け橋は、君の胃と、僕の眼球に生まれたんだ。
リリューヒカ、一緒に、あの深い森に分け入った日は、今年よりもいくらか涼しい夏だった。君が倒れる、ちょうど二日前のこと。きっかけは、今となってはよく覚えていないけれど。いつものように、君の気まぐれだったんじゃないかな。木漏れ日がどろりと頬を撫で、湿り気のある空気に肌がべたつく。ざわめく木々に囲まれて、背の低い、痩せた草が揺れていた。「もっと奥へ行ってみない?」君は、ブロンドの綺麗な髪を揺らしながら、僕に先立ってずんずん奥へと行ってしまう。……あの日着ていた、空色のワンピース、凄く綺麗だったんだ。お葬式のとき、村長のピュリリツさんが、君と一緒に焼いてしまった。
森の奥で、僕たちはあの花を発見したね。それは偶然なのかも知れないし、あるいは必然なのかも分からない。未来は観測できるけれど、因果の有無は観測できない。ともかく確からしいのは、君がそのとき、茎にできた瘤に触れ、そいつが破裂したということだけだ。パチン。パチン。無数の種子がはじけ飛んで、一つは僕の右の目に、もう一つは君の口に。カタバミだとか、ホウセンカとか、種を飛ばす植物というのは、どうも凶暴で気に入らない。第一、ちっとも、植物らしくないじゃないか。
君がベッドで寝ているとき、僕は何度か訪ねたんだ。胃の中で発芽した植物が、その華奢な身体を蝕んでいるのを、ボウッと一日中見物していた。リリューヒカ、君はだんだん痩せていったね。身体が青白くなっていって、骨と皮ばかりになっていた。瞼だけが、ぎょろりと膨らみを残している。そのうち鼻とか耳だとか、あちこちから細い根が溢れ出した。髪はすっかり痛んでいたけど、匂いは以前と変わらない。
お医者様は、何も出来ないと嘆いていた。街一番の、ギュウルビビルムゥという人だ。結核で亡くなった奥さんに、君がうり二つなんだと呟いてたよ。でも僕は、何もしないで良いと思った。漠然と、君が死んでしまうのは、ごくごく当たり前のことのように感じたんだ。
大丈夫ですからね、ヘテネキキュユウェ。母さんは、毎日のように、僕にいう。「リリューヒカは、種を飲んでしまったわ。でも、あなたは違うじゃない。きっと大丈夫。栄養を取って、夜更かしをしなければ、神様があなたを守ってくれる」。家には、小さな祭壇があった。父さんは、毎日のようにそこで祈った。妹は、摘んできた花で冠を作り、僕の頭に乗せてくれた。死にたくないな、と僕は思った。
ギュウルビビルムゥさんのいうことには、この植物は、どうやら僕たちの身体から、すっかり栄養を吸ってしまうものらしい。僕は目玉だったからまだ良いけれど、君は種を飲み込んでしまった。それがまずかったんだ、と悔しそうにいっていたよ。目には栄養が少ないんで、植物は育ちにくいんだ。ギュウルビビルムゥさんは、君は運が良い、と何度も、何度も、繰り返す。「この子よりは、長生きできる」。不思議だったな。どのみち死んでしまうのに変わりはないんだ。ただ、僕の死ぬまでが、君より少しだけ長いくらいで。
リリューヒカ、君のお葬式がすっかり終わってからだった。近所の数家族だけが集まって、森の近くに君の骨を埋葬したあと。僕の右眼から小さな芽が、ひょいと顔を覗かせた。そいつはぐんぐん成長したよ。次の日の朝には、眼球に、びっしりと細い根が絡まっている。そのうちに、右眼の視界がどんどん白くぼやけていって、ついに何も見えなくなった。眼窩には、くしゃくしゃになった、目の残骸だけが残っているんだ。栄養を吸われて、空っぽになった僕の眼球。可愛い、可愛い、僕の右眼。黒ずんで、湿った瘡蓋みたいだった。ぽたぽたと、白っぽい汁が絶えずそこから流れ出す。つい、と滴が糸を引いて、床にたくさんの染みを作った。
母さんは、一日中泣いていた。父さんは何も言いはしなかったけれど、その日から口をきかなくなった。妹は、気持ち悪い、といったきり、僕の部屋に入らなくなった。きっと死ぬんだ、と、僕は思った。あとは、概ね君といっしょさ。
最初に動かなくなったのは足だったね。芽が大きく育っていって、たくましくなっていくと同時に、僕の身体はどんどん痩せ細っていく。自分一人では立てないから、一日中ベッドで寝たきりになってしまった。僕は手元に、鏡を置くことに決めたんだ。植物の育ち具合が見やすいからね。すいすいと、天井に向かって伸びていく。青々とした綺麗な葉を、一つ、二つとつけていく。僕の左耳は聞こえなくなって、右手にも痺れが出始めた。息を吸うごと、肺は切りつけられるみたいに痛いんだ。涙が出るよ。リリューヒカ、君が死ぬときは、どうだった?
僕がこうして、日記を書くことができるのは、一体いつまでなんだろう。この頃、そんなことを考える。ねぇ、リリューヒカ、僕はもう、三日も食事をしていない。お母さんも、お父さんも、妹だって、少しも声を聞かせてくれない。誰も部屋に入らないんだ。君の家は、どうだった? ねぇ、リリューヒカ、聞かせてくれよ。君が死ぬときは、どうだった?
退屈しのぎにちょうど良いのは、窓の外を眺めることだ。誰も部屋に入らなくたって、外には世界が広がっている。足先の感覚はとうの昔になくなっているから、もう僕に残されているのは、こんな風にとりとめのないことを書き付けるか、ボウッとするかの、二つだけ。ビュクポポミヒさんの家の猫が、向かいの屋根で逢い引きをしているところを見た。一度だけ、窓に雀がやって来て、ノックをしてきたことがある。何よりも、平和だ。そしてまた、何よりも平凡だ。
でも。今から三日くらい前のことかな。僕は一匹の甲虫を見た。そいつはきっと、あちこちを元気に這いまわって、とうとう我が家の窓まで来たんだ。茶色い腹に、真っ黒い足。窓枠に一生懸命しがみついて、じわじわ、上へ登っていく。陽光が眩しく、そいつの姿を照らしていた。いくらかの光沢に、僕は少しだけ目を細めた。そして、そのとき、甲虫が、何かに喰われる幻を見たんだ! 黒い影が、突然覆い被さって、身体を八つ裂きにして飲み込んでしまう……。僕は、目を疑った。それで、改めて甲虫を見た。影は消えて、先程のまま、そいつはじわじわと登っていく。
けれど、次の瞬間に、幻は現実になってしまった。時計じみた顔をした、真っ赤な鳥がやって来て、甲虫をつまんでしまったんだ。くちばしからはみ出た足が、ひくひくと動いているのがよく見えた。僕はそれで、自分には未来が見えているんじゃないかと、思ったんだ。
君が死ぬときは、どうだった? もう何度目かの問いになるね。植物はぐんぐん成長して、普通ではありえない速度で育ち、未来にあるべき姿を備える。きっと、これは、今と先との、架け橋なんだ。だから、なのさ。僕の右目は、植物を通して、未来を見つめているんだろう。
昨日、ふと、妹が歩いているのを、見かけたよ。大声で呼びかけようとしたのだけれど、喉が少しも、動かなかった。歯を鳴らすのだって、一苦労さ。窓硝子が、あんなに分厚いと思ったことは、一度だってありはしない。妹は友達を連れていた。楽しそうに、笑っている。じっと様子を眺めるうちに、ふと、僕は幻を見た。妹が、馬車にひかれる光景だった。右腕が、あらぬ方向に曲がっている。太股に、真っ黒い痣が出来ている。背中に大きくへこみが出来て、頭から血を流している。けれど、特段、何も感じはしなかった。
妹がくれた花の冠。部屋の端っこに転がって、腐り始めている拙い冠。僕はそれを眺めるにつけ、不思議な気持ちに襲われる。ささやかな贈り物だったこの花と、僕の目に生まれたこの花と、一体どちらが美しいか? その考えは、僕を興奮させるんだ。
この目に未来が見えるのなら、君は死ぬ瞬間に、一体どんな光景を見た? 成長を続ける植物は、天井へと近づいていく。そうしていつか、大きな花を咲かせていた。僕の身体は水分を失い、殆ど干からびてしまっている。小さく縮んだミイラより、花は遙かに堂々としていた。真っ赤な。大きな。そしてまた、分厚い花弁。成長が進んでいくごとに、僕は色々なものの未来を見た。家が取り壊されるいつかの日。母さんが、死臭に部屋の戸を開けるいつかの日。妹が僕のお葬式で、友達と笑い合ういつかの日。遠い国の兵隊達が、この村に火をつけるいつかの日。遠い山が火を噴いて、空が赤くなるいつかの日。先へ、先へ、先へ、先へ……。
そこには、悲劇しか見えなかった。ならその先は? その先は? 最後にたどり着くのも、結局は悲劇なのだろうか?
花は、みずみずしく咲き誇る。僕はその根が、とうとう自分の脳に向かって、ぐねぐねと進み始めたのを確かに感じる。
リリューヒカ。もっと先が、知りたいんだ。もしかすると、花が僕の命を摘み取るとき、それを見せてくれるかも知れない。
そろそろ、腕が疲れてきた。今日はもう、このくらいにしておこう。リリューヒカ、また明日だ。目が覚めるかは分からないけど、何だか妙に眠いしね。
ねぇ、リリューヒカ、未来は何色をしているのかな?
二十九日金曜日 亜済公 @hiro1205
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