ラブラドールラブ 3






 翌週の月曜日、私は密かに坂下くんのお土産を期待しながら学校に向かった。週末は梅雨の時期には珍しく、よく晴れた。旅の行先は聞いていなかったが、きっといい旅になったことだろう。坂下家の楽しい思い出が一つ増えたことに、私は他人ながら喜ばしい気持ちになった。今日の帰り道、坂下くんはきっと、その旅の土産話を楽しそうにしてくれるだろう。それを心から楽しみにしていた。


 だが、その日坂下くんは学校を休んでいて、会うことはできなかった。


 何かあったのだろうか。私の胸に嫌な不安が過ったが、私は彼の家を訪ねなかった。私と坂下くんは付き合っているとはいえ、一日学校を休んだだけで家に押しかけるほどの仲ではない気がした。それに、明日にはきっと登校してくるだろうと、軽く考えてもいた。


 坂下くんが学校に来ない理由を知ったのは、翌日の朝だった。坂下くんと同じクラスの武田から深刻そうな顔で、坂下くんが学校を休んでいる理由を聞かされた。


 日曜日の午後、坂下くんのご両親が交通事故で亡くなったらしい。


 事故に遭ったのはご両親だけで、坂下くんと妹さんは無事だったそうだ。


 昨日はお通夜で、今日はお葬式をしているのだと、武田は言ったが、すぐに理解できなかった。


 坂下くんからは何の連絡もない。ご両親を亡くして、まだ小学生の妹さんと二人きり。私のことを気にしていられる余裕なんてあるわけないだろう。


 連絡を取りたいのなら、私から坂下くんのところへ行くべきだ。そう思った。だが、どうしても駅前から坂下くんの家の方角へ向かうことができなかった。


 怖かった。


 私の家はまだ両親も、祖父母も健在で、身近な人の死を知らない。両親を亡くした坂下くんが今どんな気持ちなのか、察してあげられる自信がなかった。坂下くんに会いに行ったところで、どんな言葉をかけていいのかも分からなかった。


 一度も会ったことのない坂下くんのご両親に手を合わせに行く資格が私にあるのか、それすらも分からない。私と坂下くんの関係の薄さが心細かった。一か月の間、一緒に下校していただけの、知り合って間もない二人。本当に付き合っていると、恋人同士だと堂々と言えるだけの関係が何もない気がして、恋人面で坂下くんの家に押しかけることが躊躇われた。


 言い訳をいくつも重ねて、私は駅前を東に曲がった。


 今はまだ、私が行っても迷惑になるだけだ。落ち着いた頃に、改めて訪ねればいい。


 そう思うと同時に、私はきっといつまで経っても坂下くんの家には行けないだろう、と思った。そう思った通り、私は一週間が経っても坂下くんの家には行かなかった。


 そうしてぐずぐずし続けていた私のもとに、一通の手紙が届いた。


 ポストに入っていた白い封筒。丁寧な字で私の名前と住所が書かれていた。裏返して差出人の名前を見た瞬間、私はどきっとした。その名前を見て、どこか後ろめたいような気持ちになった。差出人は坂下くんだった。


 手紙を見つけた私は、学校に行くふりをしてそのまま通学路途中の公園に入り、ベンチに座ってこっそりその手紙を読んだ。


 手紙には、ご両親が亡くなったということ、連絡するのが遅れてしまったことへの謝罪と、別れの言葉が綴られていた。


 坂下くんは学校を辞めて、お祖父さんが経営しているペットショップで働くことになったらしい。家も引っ越して、妹さんと二人でお祖父さんのところでお世話になると書かれていた。


 それから、坂下くんと一緒に下校した最後の日、私が坂下くんに訊いたことに対する返事も書かれていた。「なんで、好きなの?」と、そう訊いた時の答えだ。


 その答えを読んで、初めて気が付いた。


 私と坂下くんがはじめて出逢ったのは、高校二年生の初夏の放課後ではなく、高校一年生の初夏の朝だった。





 高校一年生の初夏、十年間飼っていたラブラドール・レトリバーのチョコが死んだ。金曜日の夕方、家に帰ると、チョコが倒れたまま動かなくなっていた。その夜はチョコを抱きしめたまま一晩中泣き明かした。


 土曜日も日曜日も、チョコを火葬場に連れて行った後も、私はずっと泣き続けた。


 月曜日の朝が来て、泣きはらした寝不足の、ぱんぱんに膨れた顔のまま、私は家を出た。だが、少し歩くだけでチョコのことを思い出して、また涙が溢れて止まらなくなった。


 涙で前が見えなくなるころには、私は声を上げてわんわん泣いていた。制服を着て、スクールバッグを肩にかけて、通学路を歩きながら泣いていた。


「どうしたの? 大丈夫?」


 突然隣から柔らかい声がして、私は泣きながら振り返った。背の高い男の人が立っていた。私は泣きながら「大丈夫じゃない」とずるずるの声で言って首を振る。全然大丈夫じゃない。チョコがいなくなった。チョコが死んでしまった。私はチョコの最期を見届けることも出来なかった。一人で寂しく逝かせてしまった。ごめん、ごめんね、チョコ。


 私は泣きながらチョコに謝った。そして、チョコのことをたくさん、たくさん愛していたのに、と嘆いた。何故、私を置いて勝手に死んでしまったのかと、チョコを責めた。


 散々泣き喚いて、目が開かなくなるくらい腫れあがって、ようやく涙の大波が引いていった。


 ひっくひっくと、しゃくりあげながら呼吸を整えていた私の目の前に、冷たいスポーツドリンクの缶が差し出された。


「どうぞ」


 その声に顔を上げると、さっき声をかけてくれた背の高い男の人がいた。あれ、この人まだいたのか。もう何時間も泣き喚いていた気がするけど、実はほんの数分だったのかな。そう思って腕時計を見る。時計の短針が三時を指していることに、驚いて私は声を上げた。


「ええ? もう三時⁉」


 学校に行きそびれた。というか、ここは何処だ。辺りを見回す。登校途中にある公園の中のベンチだ。


「目、冷やした方が良いよ」


 私が冷たい缶を受け取ると、背の高い男の人は隣に座った。


 もしかして、この人は朝からずっと傍で私の泣き言を聞いていてくれたのだろうか。


 見知らぬ人の前でなりふり構わず号泣して喚いていた自分が、恥ずかしくなり、冷たい缶を瞼に押し当てて顔を隠す。


「す、すいません」


「チョコはきっと幸せだったと思うよ」


「え?」


「君に愛されて、大切にしてもらえて、きっと幸せだったよ」


 彼は噛み締めるようにゆっくりと、優しい声でそう言って立ち上がった。送って行こうか、と彼は言ったが、私は恥ずかしさのあまり、大丈夫です、と言うなり走ってその場を立ち去った。






 あの人が、坂下くんだった。


 坂下くんは学校も部活もサボって、あの日を私のためだけに使った。ずっと泣きじゃくる私の傍にいてくれた。チョコの話を聞いてくれた。涙の洪水で窒息しそうだった私の心を救ってくれた。


 私は坂下くんがあの時の彼だったことに気付くどころか、彼の存在自体をほとんど忘れかけていた。恥ずかしい過去として勝手に忘れ去ろうとしていた。


 それなのに、坂下くんは覚えていて、ずっと私のことを気にかけてくれていたのだ。


 ――学校で、笑顔の織田さんを見かけた時、ほっとしたんだ。よかった、もう泣いてない。そうやって、見かける度に織田さんが元気になっているかを確かめていたら、いつの間にか好きになってた。


 そう書かれた坂下くんの丁寧な文字がまだらに滲む。涙が溢れて止まらなかった。初めてはっきりと告げられた好きという言葉。嬉しいのか、苦しいのか、分からなくて息が詰まる。


 ――織田さんにも、もう会えない。勝手でごめん。短い間だったけど、本当にありがとう。


 手紙を締めくくった最後の言葉に嗚咽が漏れる。歯を食いしばって声を殺す。何故泣いているのか、自分でもよく分からない。


 坂下くんとの別れが悲しいのか。はじめてフラれたことが悲しいのか。坂下くんが学校を辞めてしまうことが悲しいのか。彼の夢への道が潰えたことが悲しいのか。一度も会ったことのない坂下くんのご両親が亡くなったことが悲しいのか。愛望ちゃんと会った時の、旅行を楽しみにする二人の笑顔を思い出して悲しくなったのか。あるいはその全てだ。


 一方的にこんな手紙だけで終わらされて堪るか、と私は涙を拭って公園を出た。そして、坂下くんがいるだろうペットショップへ向かう。


 学校もサボって、ペットショップへと走る。走っている間中、これまで坂下くんと話してきた他愛のない会話や、坂下くんの笑顔、声、髪、瞳が次々と思い出されて、また涙を拭う。どうして、と止まらない涙に戸惑いながらも、私は足を緩めずに走った。


 見慣れたペットショップの店先に辿り着き、肩で息をしながら、ガラスの扉の前に立つ。扉にかかったプレートの文字はオープンで、店内に明かりもついている。何度か週末に訪れた店。扉を押し開ければ、カランカランと扉のベルが鳴って来客を知らせる。


 扉に手をかけて、私は店内に坂下くんの姿を見つけた。扉を開けようとする手を止め、ガラス越しに彼の姿を見つめる。


 週末のアルバイト同様、ペットショップのロゴが入ったエプロンをつけて、商品を陳列していく坂下くん。そこへ、台車を押して現れた少女。愛望ちゃんだ。愛望ちゃんが坂下くんを見上げて何かを言うと、坂下くんは笑顔で優しく愛望ちゃんの頭を撫でた。そっとしゃがみ込んで愛望ちゃんの瞳に浮かんだ涙を拭う。愛望ちゃんを見つめる優しい眼差しには温かな愛情が満ち溢れていた。


 そんな二人の姿を見ただけで、私は声もなくぽろぽろ涙を流していた。


 自分の将来の夢を捨ててまで、妹の未来を守ろうとする坂下くん。それに比べて、誰かを真剣に愛したこともない、愛されていることさえも大切に思えずに生きてきた私。


 こんな私なんかが坂下くんに言える言葉なんて、何一つ無いように思えた。


 手で口を押さえて漏れそうになる声を押し殺す。涙で坂下くんの姿が滲む。どうしようもなく胸が痛い。本当にどうしようもない。私はどうしようもない馬鹿だ。今更、こんなことに気付くなんて。


 こんなにも坂下くんのことが大好きだったなんて。


 一歩、二歩と後ずさるようにドアから離れ、私は背を向けて走り出した。


 こんなことなら、と私はまた後悔する。こんなことなら、待ってなんていないで、自分から積極的に手ぐらい繋ぐんだった。無理やりにでも一度ぐらいちゃんとデートしておくんだった。


 キスをしてしまえば、夢から覚めることだってできたかもしれないのに。こんなに好きなままじゃなかったかもしれないのに。


 こんなことなら、上杉の口車に乗せられて、坂下くんに告白なんてするんじゃなかった。好きになったりするんじゃなかった。こんなに悲しくて、苦しいのが人を好きになるということなら、私はもう二度と人を好きになったりしない。そう決めた。








 あれから時は経ち、私は大学で夫に出逢い、また恋をした。坂下くんとは少しも似ていないが、彼もシェパードやドーベルマンではなく、ラブラドール・レトリバーのような人だ。恋をすることに、戸惑いや躊躇いはあった。でも、坂下くんの言葉が私の背中をいつも押してくれた。


「今度こそはもっと幸せに暮らせるようにって」


 今度こそは――。そう思えた。私もそう思えるようになった。


 そして現在、私は新居で犬を飼っている。チョコレート色のラブラドール・レトリバーだ。名前はチョコ。やんちゃで、賢くて、人懐っこい。


 坂下くんに出した結婚式の招待状は、欠席の欄に丸を付けて戻ってきた。彼に会えないことを残念に思うよりも、返事が返ってきたことが嬉しかった。彼はきっと今もあのペットショップで働いているのだ。


 結婚式当日の朝、思いもよらないサプライズが起きた。坂下くんから花束とメッセージカードが届いたのだ。


 メッセージカードには「結婚おめでとう。どうか、お幸せに」と書かれてあった。たったそれだけの言葉でも、私には坂下くんからの温かな祝福の想いがしっかりと届いた。浮かんでくる柔らかい声、優しい笑顔、そしてあのラブラドール・レトリバーのような誠実で温かな瞳。目の奥がじんと熱くなる。


 坂下くんに伝えたいことがたくさんある気がするけれど、何一つ上手く言えない気がして、ただただ熱い涙がこぼれる。


 不意にメッセージの下に描かれているイラストを見つけて、ふっと笑みがこぼれた。放課後の帰り道に交わした言葉を昨日のことのように思い出してしまう。メッセージカードを指先で撫でる。白いスタンダードプードルとチョコレート色のラブラドール・レトリバーが寄り添っているイラスト。


「白いスタンダードプードルだったか」


 十一年越しに知った、私のイメージの犬。


 空を見上げる。雲一つないよく晴れた空だ。私はあの時晴天を願ったのと同じように空を睨みつけて祈った。


 ――どうか、坂下くんと愛望ちゃんの未来が幸せで満ち溢れていますように。






END


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました!


もし少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひ★評価やフォロー、応援をお願い致します!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラブラドールラブ〈3話完結〉 PONずっこ @P0nzukko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ