ラブラドールラブ 2
坂下くんと付き合うことになってから、私たちは毎日一緒に下校した。それ以外にまったく進展はなかった。坂下くんは恥ずかしがり屋なのか、奥手なのか、とにかく積極性に欠ける。休日のデートに誘ってくることもない。キスどころか手も未だに繋いだことが無い始末だ。
それでも、というか、だからこそなのかもしれないが、不思議と坂下くんと別れようという考えは浮かんでこなかった。
何をするでもなく、ただ他愛のない話をしながら帰るだけの毎日。そんな調子で一か月。ほとんど歩きながら話しているだけだが、それでも少しずつ坂下くんのことが分かってきた。
坂下くんは動物が好きだ。家でも、捨てられていた犬や猫を拾ってきて育てているらしい。やっぱり、坂下くんはよく拾う人だ。
「織田さんは、動物は好き?」と、坂下くんがある時私に訊いた。
「好きだけど、もう飼わないって決めてるの」
「どうして?」
「飼っていた犬が死んじゃった時に、そう決めたの」
チョコが死んだ時、私は三日三晩を泣き明かした。チョコをペット火葬場に連れて行く間も、チョコを毛布にくるんで抱きかかえ、ずっと泣いていた。仔犬の頃からの記憶が溢れ出て止まらなかった。
はじめて家に来た時の不安そうにお母さんを呼んで鳴いていた声も。最初は何度やってもうまくトイレを覚えてくれなかったことも。散歩中に引っ張られて転んだことも。繰り返し練習していく内に、少しずつ言うことを聞いてくれるようになったことも。ボールが唾液でべとべとになっても、投げろ投げろと催促してきたことも。嫌なことがあって落ち込んでいた私のそばにずっと寄り添ってくれていたことも。優しく涙を舐め取ってくれたことも。膝に乗せた大きな前足も。つやつやの黒い鼻も。ゆさゆさ揺れる大きな尻尾も。優しい眼差しも。
どんなに楽しかった思い出も、嬉しかった思い出も、温かく、優しいはずの思い出も、全部悲しさに変わってしまった。チョコはもういない。もう会えない。そのことがただ悲しくて仕方なかった。
だから、私は決めた。もう二度と犬は飼わない。
「そっか」
坂下くんは心の底から納得したような声で言った。でも、その顔は少し寂しげでもあった。
「坂下くんは? 坂下くんは飼っていた動物が死んじゃったことってないの?」
「あるよ」
「だったら、なんで」
どうして、ずっと一緒に暮らしてきた大切な家族ともいえる動物が死んで、それでも平気でまた新しい動物を飼ってしまえるのか。私にはそれがどうも理解できなかった。
返事を待つ私に坂下くんはそっと微笑む。それから動物たちのことを思い出すように遠くへ視線を移した。
「死んじゃったら悲しいし、後悔もする。もっと可愛がってあげられたんじゃないかとか。もっと好きなものを食べさせてあげればよかったとか。もっといろんなことをさせてあげればよかったとか。もっと一緒に居てあげられれば良かったとか」
坂下くんの後悔の仕方は、なんだかとても優しいものに思えた。
私の後悔は、もっと暗くて後ろ向きなものだった。チョコのことを考えた後悔ではなかった。チョコよりも、私自身のための後悔だった。自分が悲しい思いをしたくないから、チョコに出会わなければよかったと思っていた。そんな風に、チョコから逃げていた自分自身に、はじめて気付かされた。
「だから、今度こそはって、思ってしまうのかな。今度こそはもっと幸せに暮らせるようにって」
温かい風が心の中を吹き抜けるようだった。私の中の黒々とした、つまらない意地や自分を守ることしか考えていないエゴや汚い感情なんかの全部が、くるっと丸め込まれて、猫の毛玉みたいに外へ吐き出された。
「捨てられてしまった子たちが、少しでも楽しく暮らせるようにって。つい、また拾ってしまうんだろうね」
捨てられた犬や猫は、きっと家族を失くした悲しい気持ちを抱えている。坂下くんはその傷を優しく包んで、傍にいてくれる。坂下くんの傍にいると感じる居心地の良さはそのせいなのかもしれない。
坂下くんは、私にはないものをたくさん持っている人だった。
将来の夢もそうだ。坂下くんはとても立派な夢を持っていた。
「将来は、獣医になりたいな。少しでも動物たちや動物と暮らす人たちの助けになりたい」
それを聞いた時、私の頭の中に未来の坂下くんが浮かんできた。動物を看る時の真剣で優しい眼差し。飼い主さんたちに頼られている様子がありありと浮かんだ。なんて、坂下くんらしい夢だろう。坂下くんはその夢のまま獣医になるに違いない。
獣医になるため、坂下くんは二年生で既に大学受験の勉強もしていた。文系の私にはちんぷんかんぷんで意味不明な記号が羅列されている問題集をスラスラと解いていた。坂下くんは頭が良い上に、とんでもない努力家だった。
毎朝五時に起きて、共働きの両親の代わりにお弁当と朝食を作り、六時に家を出てランニングしながら登校する。それから空手道部の朝練をして、授業を受け、放課後も空手道部で汗を流す。部活が休みの日は図書室でひたすら勉強する日々。忙しい彼は確かに私と遊んでいる暇などない。
夢に向かって努力している坂下くんは、私の一番尊敬できる人になっていた。それと同時に、夢があることが羨ましく、おこがましいことに嫉妬までしていた。私には坂下くんのように明確な夢や目標がなかった。
とりあえず、卒業してすぐに働くのも面倒なので、大学には行こう。そのくらいにしか考えていなかった。やりたいことやなりたいものも、大学に行けば見つかるだろう。そんな風に大雑把に考えていた。
坂下くんを見ていると、私は少し焦った。そして決意した。私もちゃんと将来の夢を見つけよう。見つかれば、坂下くんと同じものが見えるのではないか、そんな気がした。
獣医になった坂下くんと、自分の夢を見つけて頑張る自分の姿を想像すると、何故だか少し幸福な気持ちになった。
休日にも坂下くんと会えない理由は、アルバイトだ。坂下くんはお祖父さんが経営しているというペットショップでアルバイトをしていた。背が高く、力もある坂下くんは、商品の陳列や配送で大活躍のようだった。もちろん、ペットショップにやって来るお客さんやペットたちからの人気も絶大だった。
私も何度か遊びに行ったことがある。お客さんが代わる代わる坂下くんに声をかけ、やれあの商品は何処だとか、やれあの餌のおかげで犬の皮膚病が治っただとか、やれウサギの爪を切ってくれだとか。とにかく私が近付く隙もなかった。それだけ、坂下くんは飼い主さんたちに好かれて、頼られていた。
そのおかげで、ペットショップに遊びに行ったところで、休日を一緒に過ごしていることになんて、ちっともならないのだった。
梅雨入りし、近頃は雨ばかりでうんざりだ。
小雨が降る中、傘を差した私と坂下くんはいつものように一緒に下校していた。明日は土曜日で学校は休みだ。でも、私には特に大した用事もない。
「ねえ、明日ペットショップに遊びに行ってもいい?」
気軽にそう訊くと、坂下くんはいつものように微笑まず、「あ」と声を上げて、少し気まずそうな顔をした。
「ごめん、明日はバイト休みなんだ」
「え? そうなの?」
バイトが休みの時もあるのか、という驚きと共に、それなら、二人で何処かへ遊びに行けるんじゃ、なんて甘い考えが浮かぶ。
「じゃあ、明日どっか出かけようよ」
「ごめん、明日はちょっと」
坂下くんが傘を傾けて申し訳なさそうな顔をする。なんだ、別に私とデートするためにバイトを休んだわけではなかったのか、とがっかりする。そのすぐ後で、がっかりした自分にびっくりする。そんなに気落ちするほど、私は坂下くんとデートがしたかったのか? 私は坂下くんのことが好きなのか?
正直、まだよく分からない。坂下くんのことはすごいと思うし、尊敬もしている。一緒に居たい。好きなんじゃないか、と思う。でも、それが今までと同じように、まだ夢から覚めていないだけなのかもしれない、とも思う。
「ねえ、坂下くんは私のこと好き?」
そう訊ねると、坂下くんは「え」と言ったきり、固まってしまった。私が告白した時と同じような反応だ。それから、またあたふたと狼狽えて、しどろもどろになった。
そして、恥ずかしそうな照れ笑いを浮かべた。言葉はなかったが、私の質問に対する肯定とも取れる笑顔だった。
坂下くんは私のことが好きなのか。でも、一体何故。坂下くんのように真っ直ぐで、優しくて、何でも出来て、努力家で、夢もある、そんな人が何故私を好きになってくれたのだろう。
「なんで、好きなの?」
そう訊ねた時だ。答えが返って来るよりも先に、誰かが走ってくるような音が前方から聞こえてきた。
がちゃがちゃと何かが揺れる音、水たまりを跳ねながら走ってくる軽い足音。少し先の角を曲がって現れたのは小学生の女の子だった。傘も差さずに、赤いランドセルを背負って走ってくる。小学五年生か六年生くらいだろうか。
その様子を見ていた私の視線に気づいたのか、雨を怖れるように下を向いて走っていた女の子が、ぱっと顔を上げた。肩上で切りそろえられた茶色い髪は柔らかそうに細かく波打って広がっている。人形のような大きな瞳がこちらを見ていた。可愛らしく、優しそうなその容姿に、私は一瞬目を疑った。冗談じゃなく、彼女が天使かなにかではないかと思ってしまった。それほど、その女の子は可憐で愛らしかった。犬に例えるなら、真っ白なポメラニアンだろうか。
その天使は、私の隣にいた坂下くんの姿を見ると、大きな瞳を輝かせ、こちらに駆けてきた。
雨に濡れた天使は走る勢いそのままに、坂下くんに飛び込んだ。坂下くんは傘を少し後ろに引き、空いている片手で天使を受け止めた。
「まな!」と驚く坂下くんを見て、知り合いだったのか、と驚く私。
「兄さん!」と坂下くんを見上げる天使に、兄妹だったのか、とさらに驚く。
よく見れば二人は確かに似ている。柔らかそうな茶色い髪に、少しだけ垂れ下がった優しげな目元がそっくりだ。
「どうしたんだ、傘持ってなかったのか?」
「持ってたんだけど、ちょっと置いてきたの」
「どこに?」
「仔犬たちのところに」
「仔犬?」
言いながらも、坂下くんは鞄の中からタオルを取り出して、妹さんの濡れた髪を拭いてあげる。
「雨に濡れていたの。段ボール箱の中でね。連れて帰ろうかと思ったんだけど、三匹もいて、抱っこできなかったから。一度帰って兄さんに手伝ってもらおうと思っていたの。ここで会えてよかった」
妹さんは天使のように眩しく微笑んでそう話した。ああ、やっぱり兄妹だなあ、とこのわずかなやり取りで深く納得させられる。見た目だけじゃなく、性格もよく似ている。
「えっと、妹さん?」
ようやく私が口をはさむと、坂下兄妹は同時に私を振り向いた。シンクロしたその動きが、なんだかとても可愛らしい。
「あ、うん。妹の愛望」
「あ、すいません、お邪魔しちゃって。兄がいつもお世話になっています。妹のまなみです。よろしくお願いします」
愛望ちゃんは礼儀正しく挨拶をした。なんて、教育の行き届いた良い子なんだろう、と私の方がたじたじとしてしまう。
「わ、私の方こそ、お兄さんにはいつもお世話になってます。織田です。よろしく」
なんとか挨拶を返すと、愛望ちゃんは「はい!」と元気よく返事をして、また天使スマイルを見せてくれた。可愛い。
「仔犬のことは分かったけど。まったく、こんなにずぶ濡れになって」
坂下くんは愛望ちゃんの髪を大方乾かすと、自分が着ていたベストを脱いで、愛望ちゃんに着せた。愛望ちゃんの身体には大きすぎて、ベストがニットのワンピースみたいになった。
「明日から旅行なのに風邪を引いたらどうするんだ」
愛望ちゃんと目線を合わせるようにしゃがみ込み、優しく叱る坂下くん。ごめんなさい、と素直に謝る愛望ちゃん。それでも、ベストを着せてもらって嬉しいような照れくさいような、はにかんだ笑みを浮かべている。
「明日から旅行なの?」
「ああ、うん。そうなんだ。両親の結婚記念日のお祝いに、家族旅行へ」
思春期の男子高校生とは思えない自然さで、何の照れも恥じらいも抵抗感もなく言ってのける坂下くん。彼には反抗期というものなどなかったに違いない。あったとしても、嫌いなおかずをちょっと残すくらいの、小さな反抗期だったに違いない。
仲の良い家族なんだな、と羨ましくなる。私の家は、特別家族仲が悪いというわけではない。ごく普通の平和な一般家庭。ただ、高校生にもなって家族旅行を楽しむような仲でない事だけは確かだ。早くお風呂に入れだの、テレビばっかり見てないで勉強しろだの、早く寝ろだの、といちいち口うるさい親が鬱陶しくなる年頃で、親の居ない独り暮らしの生活に憧れる年頃だ。私自身がそんなところで、大学生になったら一人暮らしがしたいと密かに考えていた。
坂下家の家族仲を羨ましく思いながらも、実際、自分自身が家族とそうあろうとまでは思えない。そんな気持ちを悟られないように、私は「いいな~。お土産、期待してるから」と冗談交じりに言った。坂下くんは相変わらずの笑顔を浮かべていた。
そして、いつも通り家まで送ると言う坂下くんの申し出を断り、私は坂下兄妹が相合傘で、捨て犬のところに向かうのを見えなくなるまで見送った。
二人の姿が見えなくなって、私も歩き出す。雨は小降りになっていた。明日はきっと晴れるだろう。いいや、坂下家の家族旅行のために晴れるべきだ。私はそう思って、灰色の空を睨みつけた。
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