ラブラドールラブ〈3話完結〉
PONずっこ
ラブラドールラブ 1
結婚式の招待状を書きながら、ああ、もうすぐ結婚式を挙げるんだな、と改めて実感が湧いてくる。
宛名を一枚一枚手書きで書いていく。中学校からずっと仲の良い地元の友人。高校時代の親友。大学のサークル仲間。
ふと、ある人の名前で筆が止まった。懐かしい名前。その名前を見た途端、微かな痛みと、深く優しい愛情に満ちた温かさを覚える。
今でもときどき思い出す。あの人の声、笑顔、髪の色、そしてあの瞳を。
招待状にその名を書くか、ほんの一瞬躊躇う。結局私はその名を書いた。書いた名を指でなぞる。懐かしくて、なんだか少し泣きそうになった。
今年で私は二十八歳になる。あの人に出逢ったのは高校二年生の初夏。あれからもう十一年が経つ。
二十八歳になるまでの人生において、私は恋人多き人生だった。けれど、恋少なき人生だった。
これまで付き合った人数は両手の指では数え切れない。だが、私が本気で恋をした人はたったの二人。一人は半年前に籍を入れて同居し始めた私の夫。
そしてもう一人は、私の本当の意味での初恋の人。聡明で優しい瞳をした、とても温かい人だ。
放課後の教室。私はいつものように友人二人と空き教室で誰の物とも知れない席に座り、だらだらと下らない話に花を咲かせていた。
「あーあ、彼氏出来ないかなあ」
話題が途切れ、ふと訪れた沈黙を埋めるように言葉を吐き出す。暇な時に暇だー、と呟くのと同じ。お金がない時に、お金が降って来ないかなー、なんて空を見上げるのと同じような、大した意味のない呟きだった。
「え~? 何言ってんの~。あんた彼氏いるでしょう?」
隣に座っていた上杉が唇を尖らせて言うなり、私の二の腕を肘で突いた。上杉は人懐っこくて甘え上手な小型犬という感じで、目もくりっと零れ落ちそうなほど大きいのでチワワによく似ている。
「もう別れましたー」
「ええ! もう? 嘘でしょ~。一か月も経ってないじゃーん」
「んー。だって、思ったより好きじゃなかったんだもん」
「織田ー、それこの前の彼氏の時と同じ台詞なんだけど」
向かい側でファッション雑誌を眺めていた武田がページをめくりながら呆れたように言う。武田は頭がよくていつもツン、と澄ましている様子がボーダーコリーみたいなしっかりとした子だ。
「好きになれそうな気はしたんだけどなあ」
「それも前に聞いた」
いつだってそうだ。告白された時は、相手を好きになれる気がする。実際、好きなんじゃないかと思い込んでいる。でも、きっかけがあれば、すぐに違うと気が付く。はっと夢から目覚めるように。きっかけは大体がキスだ。物語のお姫様が王子様のキスで目を覚ますように。私も彼氏のキスで目を覚ます。ああ、この人は私の王子様ではない。まるで夢から覚めるように、そう気が付いてしまうのだ。
「織田はさ、彼氏が欲しいの~? 恋がしたいの~?」
上杉の言葉に、はっとする。確かに、どっちなんだろう。しばらく考え込んで、悩みながらも答えてみる。
「恋はしたいけど、出来ないからとりあえず彼氏が欲しい、みたいな?」
「ああ、そんな感じするわ」と冷めた声の武田。
「織田は好きだから付き合いたいんじゃないもんね~。付き合ったら好きになるかもしれないから付き合ってるんだもんね~」と知ったような顔で頷く上杉。
「好きじゃないのに、告白されたからって付き合っちゃうのが、私にはよく分かんないわ」
武田は雑誌を閉じて、私を見た。軽い女だと軽蔑されているような気がして、なんだかたじたじとしてしまう。高校に入学してから一年と一か月。その間に付き合った人数は十三人。単純計算で一か月に一人と付き合い、そして別れたことになる。実際には、交際期間は人によって、一週間から三か月まで長短はある。だが、彼氏を取っ替え引っ替えしている軽い女だと、武田に冷たい視線を向けられても仕方のない経歴だとは、自分でも思う。
「だって、好きか好きじゃないかなんて付き合ってみないと分かんないじゃん。好きになれそうかもって、一応、私も考えて付き合っているわけで。最終的に好きになれないものは仕方ないじゃない」
「でもその結果、誰も好きになれなかったわけでしょ? いい加減学べよ」
武田の厳しい言葉に、ぐうの音も出ない。
「じゃあさ!」上杉が笑顔で両手を打つ。「織田から告白してみればいいんじゃない?」
「ええ?」
上杉の突拍子もない提案に、私は目を丸くする。武田も呆れた顔で上杉を見た。
「織田からって、誰に告白するのよ。織田、好きな人いるわけ?」
「ええ? いないよ!」
「誰でもいいんだよ~。たとえば、今から一番はじめに目が合った男子とかね~」
「はあ? 意味分かんない」と武田は呆れたように不機嫌な声を出す。
「織田って、今までずっと告白されて付き合ってきたんでしょ? それで駄目だったんなら、今度は自分から告白して付き合ってみればいいじゃん」
上杉のとんでもない発想には驚かされる。そういう問題ではないだろう、と言いたげな武田が言葉を飲み込んで溜め息に変えた。それを気配で感じながらも、私は悪くないかもしれないと、上杉の提案を前向きに検討し始める。
「うーん、最初に目が合ったのが、変なおっさんじゃなかったら考えてみる」
その帰り、ロッカーで靴を履きかえていると、後ろから声を掛けられた。
「これ落ちてたけど、きみの?」
振り返ると、手のひらにのった自転車の鍵とウサギのキャラクターのキーホルダーが目に入る。これは、私の自転車の鍵だ。
「あ、そうです。すいません」
視線を上げて、拾い主を見る。白い道着姿。帯は黒色。柔道部の人だろうか。背が高い。頭を後ろに逸らして、顔を見上げてみる。温かみのある茶色い髪は柔らかそうなくせ毛だ。目はどちらかというと少し垂れ目で、人のよさそうな顔立ちをしている。
「じゃあ」
私が自転車の鍵を受け取ると、彼は爽やかな微笑みを残して背を向け、体育館の方へ去って行った。
「あ」
ロッカーの前に置いてきぼりを食らった私は、今更ながら思い出す。上杉の提案だ。最初に目が合った男子に自分から告白してみる。
さっきの男子は誰だろうか。見覚えがあるような、無いような。同じ学年にいたような気がしないでもない。ついでに、隣のクラスで何度か体育の時間に見かけたような気もしないでもない。
さて、どうしようか。少しの間考えて、私は体育館の入り口脇に鞄を置き、その横に座り込んだ。考えたって仕方がない。悩むより行動。これが私のモットーだ。鞄の中から読みかけの漫画を取り出し、読み耽る。
読み終わった漫画を鞄の中にしまうのと、さっきの男子生徒が体育館から出てくるのは、ほとんど同じタイミングだった。
「あ」と声を上げると、背の高い男子生徒は私を振り返って、驚いた声を上げた。
「何してるの?」
こんなところで、こんな時間まで、と腕時計を見る。つられるように私も腕時計を見た。時刻は六時。日も暮れかかっている。立ち上がってスカートの砂埃を手で払い、待ってたの、と何気なく答える。
「何を?」
「あなたを」
そう言って、男子生徒を指差す。僕を? 彼は本当に不思議そうに目を丸くした。私は真顔で頷く。
「さっきはどうも。よかったら、途中まで一緒に帰らない?」
鞄を肩にかけて、にっこりと微笑む。男子生徒は戸惑いながらも、爽やかに微笑んで、いいよ、と言った。
彼は坂下と名乗った。話を聞くと、やっぱり同じ学年で、隣のクラスで、体育の授業が同じだった。この時間まで彼は部活動をしていたらしい。道着を着ていたので柔道部かと訊ねたら、違った。空手道部だよ、と彼は笑う。
「空手道部なんてあったんだ」
柔道部と剣道部があることは知っていたが、空手道部があることは知らなかった。そう言うと、坂下くんは春風みたいに笑った。
「空手道部には織田さんの彼氏もいないしね」
その笑顔があんまり爽やかなので、彼の言葉はまったく皮肉に聞こえなかった。多分、彼も嫌味でそんなことを言ったわけではないのだと思う。ただ、思ったままを素直に口にしただけのようだった。
そんなことよりも、坂下くんが私の名前や彼氏のことについて知っていることに私は驚いていた。私は坂下くんのことなんて、名前も今知ったところなのに。
私の浮いた交際事情は噂話にまでなっていたのかと、少し落ち込んで俯く。すると、それに気付いたのか、坂下くんが慌てた様子で「ごめん」と謝った。
「変なこと言った。ごめん。そうじゃなくて、えっと……織田さんは空手とか、そういうのあまり興味ないかな、って」
狼狽えながら、必死に言葉を選んで話す坂下くんの優しさに、思わず頬が緩む。私は首と手を横に振った。
「空手とか武道とか、やったことはないけど興味はあるよ。なんか、かっこいいよね、動きがきびきびしてて」
そう言いながら、なんとなくこんな感じ、と思う空手チョップのような動きをして見せる。そんな素人の中の素人な私の動作にも、坂下くんは優しく微笑んだ。
坂下くんは幼稚園の頃からずっと空手を習っているらしい。大会の成績を訊くと、大したことはないよ、と笑って誤魔化された。でも、さっき見た道着の帯は黒帯だったので、大したことないはずはないだろう。
「あ」
突然、声を上げた坂下くんが鞄を地面に放って走り出した。私は何事かと驚きながらも押していた自転車を支え、坂下くんの鞄の傍で立ち止まる。
道路の向こう側から、白くて小さな仔猫がみいみいと泣き声を上げ、頼りない足取りで車道に転がり出たところだった。母猫を探しているのだろうか、きょろきょろと重たそうな頭を傾けて立ち上がり、またよたよたと歩き出す。
そこへ自動車が迫っていた。危ない。そう思ったと同時に、仔猫のもとに走っていた坂下くんが片手で仔猫をすっとすくい上げ、歩道に駆け上がった。そのすぐ後に自動車が通り過ぎる。
「大丈夫ー?」
大きな声で道路の向こう側に声をかけると、坂下くんが片手を上げて返事をした。仔猫も無事のようだ。自動車が来ないタイミングを見計らって、坂下くんがまた車道を小走りに渡ってきた。背の高い坂下くんに抱かれた仔猫はより小さく見えた。手のひらに収まるほどの手乗り猫だ。
「可愛い。捨て猫かな」
そう言ってから、猫を抱く坂下くんを見上げて思う。自転車の鍵といい、仔猫といい、よく拾う人だなあ。
「でも、首にリボンがついてる。きっと迷子になったんだね」
そう言って、坂下くんが仔猫の首元を優しく撫でると、仔猫は気持ちよさそうに目を細めた。今にも眠ってしまうんじゃないかと思うようなうっとりした表情だ。仔猫の毛は真っ白で綿飴のようにふわふわだ。その白い毛に映える、水色のリボン。一体どこの子なんだろう。そう考えていた時、どこからか声が聞こえてきた。女の子の声で、誰かを呼んでいるようだった。
「クラウドー! どこー? クラウドー」
道路の向こう側の住宅街からきょろきょろあたりを見回す中学生くらいの女の子。半分泣きそうになりながら、植垣の傍や、建物の陰を覗いて回っている。私はぴんときた。彼女がこの仔猫の飼い主に違いない。おーい、と大きく手を振って叫んだ。仔猫はここだよ。
案の定、仔猫の飼い主は彼女だった。庭で遊ばせていて、ほんの五分ほど目を離した隙に仔猫がいなくなっていたらしい。坂下くんは仔猫を女の子の腕に返し、仔猫の額をそっと撫でた。
女の子と仔猫が去り、私たちはまた歩き出す。
坂下くんと話しながら、こっそり心の中で彼のことを値踏みした。爽やかな笑顔の似合う坂下くんの顔は十分イケメンの部類に入る。身長だってずば抜けて高い。百八十センチは軽く超えているだろう。細身に見えるが、空手をやっていることもあって体格もいい。柔らかい声音に、優しい性格。だが、はっきり言って全然私の好みのタイプではない。
私はもっと、俺について来いタイプの、肉食系で俺様系の男が好みだったりする。犬で例えるなら、警察犬でよく見るシェパードやドーベルマンだ。凛々しくて堂々としていて、威嚇する姿が様になる。そんなタイプに惹かれてしまう。
坂下くんは同じ使役犬でも、介助犬や盲導犬でよく見るラブラドール・レトリバーだ。利口でおとなしい、優しくて人当たりの良い性格。
私が今まで付き合ったことが無いタイプの人だ。ただ、それだけに上杉の提案を試してみるだけの価値はあるとも思った。
「坂下くんはラブラドールみたいね」
何の脈絡もなくそう言うと、坂下くんは少し驚いたような顔をしてから、笑顔で「織田さんはプードルみたいだよ」と返した。
プードル。プードルか、と考える。はじめて犬に例えられた。私自身はよく人のことを犬に例えてみたりするが、自分自身は例えられたことが無かったな、と思う。
私はどんなプードルだろう。白い毛の大きなスタンダードプードルだろうか。茶色いくせっ毛のトイプードル。小さくて可愛いティーカッププードル。ねえ、どんなプードル? そう訊こうとした瞬間、坂下くんが立ち止まった。
ふと辺りを見回すと、目の前に駅があった。私はこの駅前の道を東に行くと自宅だ。坂下くんは身体を西に向けて、顔を私に向けていた。
「織田さんは、帰り道どっち?」
「東側。坂下くんは反対方向?」
「そうなんだけど」坂下くんはそう言ってから何の躊躇いもなく、爽やかな笑顔で自然に続けた。「もう暗いし、家まで送って行こうか?」
なんだか、柔らかくて温かい綿毛にでも包まれるような、安心できる居心地の良さを感じた。ああ、この人ともっと一緒に居たいな。そう思ってしまうだけのものを彼は持っていた。
「好き」
「え?」
「坂下くん、私と付き合って」
衝動的に私は告白していた。初めての告白の割には、無理なく自然と言葉が出てきていた。知り合って間もないと言うのに。好みのタイプでもないのに。それでも、一緒に居たい。そう素直に思っている私がいた。
坂下くんは、小さく口を開けて「え」と言ってから、しばらく固まった。どうしよう、いきなり告白なんてしたから引かれてしまったかもしれない。そう思っていると、突然坂下くんが「ええ!?」と声を大きくして慌て出した。
口元を手で覆ったり、視線をあちこち彷徨わせたり、首の後ろに手を回して、困った顔をしたり、坂下くんは目に見えて狼狽えていた。灯り始めた駅前の街灯が坂下くんの少し赤くなった顔を照らす。
その反応を見て、あれ、と思う。もしかして、坂下くんは私のことを。
「お、織田さんは、ドーベルマンみたいな人が好みなんだとばっかり思っていたから」
坂下くんはしどろもどろになりながら辛うじてそう言った。私の好みのタイプをずばり犬種も見事に当ててみせた彼は、きっと私がこの一年と一か月で付き合ってきた男子たちのことをある程度知っているのだろう。思わず苦笑いが零れた。
「そんなことないよ。ラブラドールも好き」
少し前まで、家で飼っていた犬はラブラドール・レトリバーだった。チョコレート色の毛並のオス犬で、名前はそのままチョコだった。少しやんちゃだけど、賢くて、人懐こくて優しい性格の、大事な家族だった。十年間を共に過ごしたチョコが死んで、私はもう二度と犬は飼うまいと心に決めた。
坂下くんは面食らったような顔でしばらく私を見てから、俯く。そして、顔を上げた彼は、僕でいいなら、と照れ臭そうに微笑んだ。そんな素直で純真で、私のことを好いてくれる坂下くんに、ノリと勢いだけで衝動的に告白してしまった私は、ほんの少しの罪悪感を覚えた。
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