17歳の夜

藤光

17歳の夜

「がんばりましょう」

 これは、学域ギムナジオンの通知表に書かれている先生からのメッセージだ。算数をがんばりましょう。運動をがんばりましょう。お友達と仲良くしましょう。まるでぼくががんばっていないかのようだ。言っておくけど、がんばっていないのはぼくに限ったことじゃない。同級生のミコトもヒカリも、特にがんばっているわけではない。

 ぼくたちは一緒になってあそんでいる。あそんでいてもミコトたちは、算数も運動もよくできるから、「よくできています」という通知表をもらっているだけだと思う。学域ギムナジオンと先生のことは嫌いじゃないけど、学期末に通知表をもらうときだけは、世の中が理不尽に思えて悲しくなる。


 中学課程へ上がり、高校課程に進学しても、通知表の評価が三段階のメッセージから、五段階の数字に変わっても、本質はなにも変わっていない。ぼくの通知表には「3」が多く、ミコトとヒカリの通知表には「5」が多いのだ。学期末に通知表を渡されるたびに、先生から「もっとがんばろう」と直に声をかけてももらうようになったくらいだ。小学生のころと違って、ぼくだってがんばっていないわけじゃないのに。


「夏休みはどうすんの、カオル。地上へ出て花火でも見る?」

「その日は補習」

「マジで? ヒカリは行くんだって。おれはカオルと一緒に行きたいよお」


 ミコトはそういって残念がった。仕方がないじゃないかと思う。ぼくはミコトたちとは違う。同じように勉強しても、スポーツに取り組んでも、彼らより低い結果しかついてこない。


 ――じぶんを信じて、がんばるんだ。


 先生に言われるまでもなく、その頃にはぼく自身がいちばんよくわかっていた。人は、ひとりひとり天から与えられた能力がちがう。能力の小さな人は、大きな能力をもった人の何倍も努力しないと、同じようなことをできやしない。


「なあ、行こうよ、カオル」


 でも、努力しないと付き合えない友だちってなんなのだろう。難しい疑問に答えを見つけられないまま、ぼくはミコトとヒカリと一緒になって花火を見に出かけた。友だちって、楽しいことを一緒になって楽しむことのできる人のことだと思ったからだ。


 先生が待っているのはわかっていたけど、補習には出席しなかった。あのとき補習を受けていれば、ぼくの未来は別のものになったかもしれない――その日のことをぼくは長い間考え続けることになる。


 その日、生まれてはじめて地上の丘から見た花火は美しかった。漆黒の夜空に描かれる炎の軌跡。闇の中に一瞬照らしだされる空の大陸。それらはさまざまに彩られ展開される天空の芸術だった。ぼくたちは、花火の爆発が繰り出す大気の振動に、身体も心も振るわせて見入った。


 ――やがて、ぼくたちもこの夜空に。


 そう思うと、胸が熱くなって涙が溢れてきた。照れくさくなって頬を掻くふりで涙を拭い、ふたりを見るとミコトもヒカリも、吸い込まれていきそうな顔つきで夜空を見上げていた。花火の明かりに浮かび上がる横顔にはくっきりと涙の跡が光って、ぼくはショックを受けた。勉強や運動だけでなく花火に感動する感性さえも、ふたりには敵わないんだと分かった。


 地上の花火を見たその日を境に、ぼくは高校へ行けなくなり自室に引きこもるようになった。ぼくを連れ出そうとやってくるミコトと、好きなようにさせておけとそれを制するヒカリとのやりとりがドアの前で何度も繰り返されるのを明りを点けない部屋のベッドで聞いた。


「出てこいよ、カオル。一緒に行こうぜ」

「よせ、ミコト。ほうっておけ」

「なんでだよ。友だちだろ!」


 行けるものならぼくそうしたかった。ミコトとはのように育ってきた。小さくて、おっちょこちょい、泣き虫のミコトは、いつも一緒でぼくの弟分だった。


「弟だって? 妹分かもしれないぜ」


 思い出の中のミコトは、いつもいたずらっぽく笑っている。


 まだ幼生であるぼくたちに明確な男女の区別はない。人並外れて背が高く、力も強いヒカリはおそらく男性だろうが、平均的な背格好のぼくやミコトは、羽化のときが訪れて地下の学域ギムナジオンから地表に上り、変身メタモルフォーゼを完成させるまで、男女の性別は不明確なままだ。ぼくたちは、男ではないし女でもない。男かもしれないし、女かもしれない不安定な性を生きている種族だ。


「おれは男になるから。お前は女になれよ」

「羽化して何になるかは、自分じゃ選べないよ」

「心配するな、おれがカオルを空へ連れて行ってやるよ」

「……ひとの話聞けよ」


 そういってくれることはとてもうれしいし、ぼくだってミコトと一緒にいたい気持ちは同じだ。一緒に学域ギムナジオンから空の大陸へ飛び立ちたい。しかし、それもこれもぼくが無事に羽化できたらの話だ。すべての幼生が同じように成体へと変身メタモルフォーゼするわけではない。その日までに十分能力を発達させられなかった幼生は、変身メタモルフォーゼすることなく成長を終える。だからこそ、学域ギムナジオンの先生は「がんばれ」とぼくたちを励ますのだ。


 ――ここにひとり、残されるかもしれない。


 こんなこと、ぼくは恐ろしくて口にすることはできなかった。認めたくなかったし、そんなことを言ってしまうことでミコトを不安にさせたくなかった。でも、ミコトやヒカリたちとは会うわけにはいかない。先生とは顔を合わせられない。ぼくはもうがんばれなかった、このまま地下の化石となって消えてしまいたかった。

 

「大人になったらさ、空の大陸で暮らすんだぜ」

地下こことはちがって、太陽の光に照らされてずっと明るいんだろ」

「光に照らされるって怖くない? 燃えちゃわないかな」

「大人だもん平気さ」

「ミコトは怖がりだな」

「そうだ、いつか三人で地表の花火を見に行こう――」


 夏の夜空は、昼間のように明るくないし、身体が燃えだす心配はない。なにより花火は例えようもなく美しいらしいとヒカリは話していた。あの無邪気だった子どもの頃に戻りたい。




 この世に生を受けて17年目の夏、満月の夜にそれはやってきた。17年周期で地球を巡る空の大陸ラピュタ学域ギムナジオンの距離がもっとも小さくなる《蝕》の夜。突然、ぼくは身体が熱くなり、気分が高揚して、跳ね回ったり、叫びだしたくなる衝動に襲われた。遺伝子に深く刻印された指令の封印が解かれたのだ。


 ――時は満ちた。地上に出でよ、変身せよ。


 身体の内側から沸き起こる抗いがたい力に導かれるようにぼく部屋を出、地上へ上る道を辿りはじめた。ぼくだけではない。同じ学域ギムナジオンで学ぶ何十、何百という同級生と一緒だった。《蝕》の夜、すべて生徒たちが地上を目指して歩きはじめたのだった。そのなかにはもちろん、ミコトとヒカリの姿もあった。


「待ってたよ」

「ミコト……」


 あの日から何度もなんどもぼくの部屋へやってきてドアのノックしてくれたミコト。――出てこいよ、一緒に行こうぜ。とうとうぼくは一度もドアを開けることなくこの日の再会となってしまったのだけれど、ミコトは笑顔で迎えてくれた。


「行くぞ、地上へ」


 ヒカリを先頭にぼくたちは地上を目指した。


 地上は――ぼくたちが花火を見た丘は、熱狂と混沌、苦悶と歓喜が交錯する舞台となっていた。学域ギムナジオンから地上に這いだした無数の幼生たちが、思い思いの言葉を口ずさみながら、あるものは踊り、あるものは泣き、あるものは祈りながら、自身に訪れる変身メタモルフォーゼの瞬間を待っていた。


 17年ぶりに学域ギムナジオンと最接近した空の大陸ラピュータは、空を見上げるぼくたちの視界の大半を覆っている。よく見ると、満月の光に照らされて、ときおり大陸から地上へ向かって走る光跡が現れる。産卵のために、大陸から地上へ舞い降りる女性たちだった。


 ぼくたちの卵は大地に生みつけられなければ成長しない。胎内に卵を宿したぼくたちの女性は、17年に一度、空の大陸ラピュータから地上に降りてきて、地下に産卵する。ぼくたちはそこで孵化し、成体となるまで成長する。そこがすなわち学域ギムナジオンだ。


 夏の夜空を飛翔する彼女たちの背には、月の光を反射して白く輝く一対の大きな翼が見える。天使エンジェラ。それが成長したぼくたち種族の呼び名だ。


 丘に集まったぼくたち幼生の様子が変わった。狂気に似た興奮が収まって、皆静かになり、動かなくなった。満月が西の空に傾き、変身メタモルフォーゼの最終段階、羽化のときがやってきたと告げていた。


 そのうちに羽化をはじめる幼生が現れはじめた。身体が硬直し、全身の色が黒ずんだかと思うと、突然背中の皮膚が割れて、中から成体としての身体が姿をあらわしはじめる。白く透き通った身体は幼生のときより一回り大きく、その背には一対の翼が備わっている。幼生の殻を破って生まれ変わった天使エンジェラは、やがてその濡れた目を開き、翼を羽ばたかせて空へ舞い上がってゆくのだ。空の大陸ラピュータを目指して。


 三人のうち、最初にそのときを迎えたのはヒカリだった。幼生の殻を脱ぎ捨てたヒカリは、堂々した体躯を誇る男性の天使エンジェラに羽化した。その次は、ミコトの番だった。しなやかで美しい翼を身につけたミコトは、女性の天使エンジェラとなった。


「おれが女になっちゃたよ」


 恥ずかしそうに照れて見せるミコトは、魅力的な女性だった。そのときはじめて、羽化できるなら男の天使エンジェラになりたいと強烈に思った。ぼくはミコトのことが好きなのだと自覚した。


 ぼくに羽化の兆候は、なかなか現れなかった。丘を埋め尽くしていた幼生たちのほとんどは羽化を終え、空の大陸ラピュータ目指して空に舞い上がっていた。


 ――変身メタモルフォーゼできないのか。


 学域ギムナジオンにおいて健全な発育を遂げることのできなかった幼生は、変身メタモルフォーゼすることなくその生涯を終える。ぼくは健全に発達しておらず、羽化できない幼生なのだろうか。周囲には、ぼくのほかにもまだ何人かの幼生が、なすこともなくただ空を見上げている。泣いているもの、笑っているもの、ひざまづいているもの。石でできた彫像のように動かない幼生たちは、すでに事切れていた。変身メタモルフォーゼできなかった幼生の末路だ。


「行こう、ミコト」


 ヒカリがうながした。ミコトが激しく首を振る。


「嫌だ。だめだ。カオルと一緒にいく」

「時間がない」

「なに言ってるんだ! カオルは友だちだぞ。置いてなんかいけるものか」

「もうすぐ夜が明ける。羽化して間もないおれたちの翼は、太陽の強い光に耐えられない!」

「でも――嫌だ」


 嫌だ。ぼくも嫌だ。ぼくも一緒にいたい。ずっとミコトと一緒に暮らしたい。このまま死んでしまうのは嫌だ。大切な、たいせつな人だから、ぼくも変身メタモルフォーゼして一緒に空へ上るんだ!


 それは、がんと頭が殴られたような衝撃とともにやってきた。全身が硬直して視界が狭まり、ミコトたちの声が遠くなった。羽化がはじまった。それは不思議な感覚だった、意識はあって目は覚めているのに、もうひとつ本当の目が開いていくような感覚。これまでの古い服を脱ぎ捨てて、新しい目や鼻や耳が備わった服を身体にまとっていくような感覚。古い意識の殻から巨大な手によってぐいと掴みだされたと感じた刹那、ぼくの羽化は終わっていた。


 全身に力がみなぎるのを感じた。さっきまで同じくらいの背丈だったミコトが、頭ひとつ分くらい小さく見える。新しいぼくは願い通り、男性の天使エンジェラとして生まれ変わっていた。羽化した! ぼくは発達できていない幼生などではなかった。空へ飛んでいける資格があった。


「カオル……男になったんだ」

「ミコト、一緒に行くよ」


 ミコトの手に駆けよってその手を取った。東の地平線が白みはじめている。夜明けが近い。


「だめだ」


 ヒカリが、張り詰めた表情でミコトとぼく手を振りほどいた。


「ヒカリ?」

「なにするんだ!」

「翼が……。カオルの翼では空に届かない!」


 翼――。ヒカリに言われるまで、その違和感に気づかなかった。背中に現れた天使エンジェラの翼。ぼくの翼は、左翼が背丈の2倍にせまるほど大きく、逆に右翼は腕の長さにも足りない。著しい非対称を形づくっていた。左右の翼がきれに揃ったミコトたちとの違いは明らかだった。ヒカリのいうとおり、この翼では飛べないかもしれない。


「カオルは飛べない。おれと一緒に行くんだ、ミコト」


 ミコトは首を振るとそっとヒカリの手を外して、じぶんからぼくの手をとった。強い意識を感じる手は温かかった。


は、カオルと行く。わかってくれヒカリ。はカオルと行きたいんだ」

「……」


 ヒカリは、しばらくぼくとミコトをかわるがわる見つめていたが、やがて心に決めたのだろう。大きく羽ばたいたかと思うと、まっすぐに空へと舞い上がった。その口元は固く結ばれていて言葉はなかった。


「いいのか、ミコト?」

「男になったんだろ。空の大陸ラピュータへ連れて行ってくれよ」


 ぼくたちは手を繋いだまま大地を蹴った。


 ぼくのいびつな翼で空を飛ぶことは難しかった。左右のバランスが異なるため、力を籠めて羽ばたいても同じ位置を旋回してしまいうまく上昇できない。手を繋いだミコトの助けを借りてようやく上へ向かっているという状態、女性で非力なミコトの翼ではそれが精いっぱいだった。じぶんのことをこのときほど呪わしい存在だと感じたことはなかった。


 ――ぼくはなんのために存在してるんだ。


 いびつな翼は、ぼくという存在の象徴だった。空では役に立たない。

 東の空はますます明るくなってきていて、地平線のすぐ下にまで太陽がやってきていることを示していた。時間がない。ぼくの翼は役に立たない。力が足りなかった。ぼくはミコトの荷物でしかない。ぼくは決断しなければならなかった。


「ミコトもういい、ひとりで行ってくれ」

「なに言ってるんだ、空の大陸ラピュータは目の前じゃないか。がんばるんだ」


 確かに空の大陸ラピュータは視界いっぱいにまで広がっていて、手を伸ばせば届きそうな距離に見える。でも、このままでは間に合わない。どこまでも広がる横たわった死体のような大地を見下ろして、ぼくは死ぬまでこの光景を忘れないでいようと誓った。東の地平線が朝日に輝きはじめていた。


「ミコトは、よくがんばったよ。もういい、ここまででいい」

「ばか! 一緒に行くって約束したじゃないか」

「ごめん。嘘ついてばかりで」


 そのとき、朝日のさいしょの一筋が空の大陸ラピュータ学域ギムナジオンのあいだの空に差し込んだ。鮮やかな朝焼けの光が、ぼくたちのガラス細工のような翼を切り裂き、羽根は先端から火を吹きはじめた。


「行け!」


 繋がれた手を離すと、ぼくはきりもみしながらまだ暗い大地へ落下していった。ぐるぐると回る視界の中で、ミコトが何度も叫んでいるのを見た。それから背中の翼が燃え上がり、ぼくの意識は炎に包まれた。





 あれから何年も経って、ぼくはいまも学域ギムナジオンにいる。もう幼生ではないので、生徒としてではなく先生として、彼らの成長を見守っている。


 あの日、空の大陸ラピュータから舞い降りた女性たちが大地に生みつけた卵から孵った子どもたちだ。子どもは皆かわいい。体の大きな子、頭のいい子、運動ができる子、子どもたちの特質はさまざまある。それぞれが素晴らしい未来を抱えた子どもたちだ。そこに優劣の区分はまったくない。


 いまになってわかったことなのだが、ひとたびこの世に生を受けて、成体に成長できない幼生はいない。学域ギムナジオンでの成績など、変身メタモルフォーゼになんら影響するものではない。時が満ちれば、誰もが天使エンジェラとなる資格を得るのだ。羽化できない子どもがいるとすれば、それはその子の意思の問題だ。子ども自身が大人になることを拒んでいることの現れだ。


 ぼくは大人になることを怖れていたのだ。


 だから、ぼくは先生として小さな子どもたちに語りかける。恐れることはなにもない。じぶんを信じろ。勇気を身につけるんだ。そして、がんばれ――と。

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17歳の夜 藤光 @gigan_280614

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