ほくれん!

東福如楓

ほくれん!

(ない。……やっぱり、ない……)

 フッと気が遠くなって、陸士長・高橋たかはし克也かつやは二段ベッドの暗がりに腰を落とした。

(どうしよう、最悪だ……)

 営内班は笑い声で満ちている。いまは『水曜どうでしょう』の時間なのだ。

部屋長ろうなぬしに相談してみようか……)

 高橋はやかましい営内班を振り返った。平田ひらた三等陸曹は窓際のシングルベッドで座禅を組みながら、ベッドのバネで跳びはねている。

 部屋長のことはよく知らない。北海道の地元隊員で、真駒内まこまないの十八普連から『転属あばしりおくり』になったらしい。

 容疑は、『北方仕様』。なんでも営内者の陸曹とソリが合わず、夜襲と称して白ペンキをぶちまけたそうである。

 『修行』中に話しかければ、何をするかしれたものではない。だが、ここでためらっていてはラチがあかない。

 高橋は腹をくくって部屋長のベッドの前に立った。相談をするのなら、消灯前の今しかない。

「部屋長。平田三曹……」

 空中浮揚が止まった。平田三曹は三白眼で高橋を見すえ、不愉快そうな声をくちびるから漏らした。

「君は信教の自由を知らないのですか? ポアという言葉は知っていますか?」

 膝が震えた。言えばたぶんポアまでは行かずとも徹底的に自己批判させられるだろうが、ここでやめても結果は同じだろう。

「あの、自分……官品の彫刻刀を一式、紛失いたしました。明日は補給点検なので、どどどどうしようかと……」

「もう一度訊きます。君は、ポアという言葉を知っていますか?」

 今度は昭和残侠伝ばりのドスのきいた声で、平田三曹はふたたび尋ねた。

 やはり、ヤブヘビだった。高橋の脳裏に後悔がよぎった。

「高橋君。おめでとうございます」

「え?」

「君より先任の上祐じょうゆう士長が、前から君をポアしたがっていました。でもその心配はなくなりましたね。明日はきっと、補給陸曹が君を高いステージにあげてくれます」

「そ、そんな……」


「地上一階いっかーい、点呼用意よーいッ!!」


「! 点呼! 総員、一列横隊で正座ッ!」

 ここ、網走駐屯地では、居室の鍵は外からしか開け閉めできない。

 そして、北海道にあるにも拘わらず、北部方面総監部ではなく防衛大臣直轄。

 駐屯する『ほくれん』こと『北方民族文化保護連隊』の主な課業かぎょうは、ひたすらニポポ人形を彫り続けることである。

 コツコツと半長靴の靴音を響かせて、警務官MPがやってきた。旧軍で言えば、憲兵である。

一○三ひとまるさん室、番号!」

「一! 二! 三! 四! 五!」

「はい、おやすみ」

「「「「「おやすみなさい」」」」」

 剣道よろしく、班員全員が三つ指をついて頭を下げる。

「一○三室、五名!」

 警務官は三角定規で測ったように右むけ右をすると、隣の一○四室へと向かっていった。


 高橋は補給点検のことを思うと、怖くて眠れなかった。

 網走駐屯地には、泣く子も黙る技術研究本部の防疫給水部もある。

 服務違反で石鹸になった隊員がいるという噂が、まことしやかに飛び交っていた。

 そのときだった。居室の鍵が、音を立てて開いた。


 担当の警務官せんせいが、明かりをつけた。

「一○三室、非常呼集。陸装研関係の任務である。上祐士長、健康状態?」

「異常ありません」

「よし、一列縦隊で営庭に」

 放射状に設計された明治時代からの隊舎を、一列縦隊で歩いていく。

 しんがりで歩調の号令をかけているのは、部屋長の平田三曹。

 そして先頭を歩いているのは、高橋よりだいぶ上背のある上祐士長だった。


 上祐士長は、よく分からないところが多い。

 早大の修士マスターという噂もあるし、ニポポ彫りからは免除されている。

 実のところ営内班の誰も、彼の普段の課業を知っているわけではなかった。

 『秘』以上の事柄であろうことは誰もが想像できたから、何も訊かないのである。


 営庭に到着すると、担当警務官が上祐士長に黄色い機械を渡した。

 半球から竹トンボが生えたような、妙な形をしている。

 なぜか甲武装の警務官補が小銃を持って控えているのが、高橋の目に映った。

「これは陸装研が開発した、次世代回転翼機の試作品である。秘匿名称については、大人の事情で言えない。これより、開発に携わった上祐士長が展示する。全員注目するように。上祐士長、実施せよ。空を自由に飛んでみろ!」

「実施します!」

 竹トンボのような機械を頭につけた上祐士長は、根本のボタンを押した。

 とたん、上祐士長の首が妙な動きをした。

 チューペットのように頸椎がねじ切れ、高橋の顔に生温かい血がかかる。

「チッ。……分隊、着けけーん。上祐二等陸曹に対し、捧げー、つつ

 まったく覇気のない号令で、警務官が警務官補に命じた。

 兵隊が一人死んで、二階級特進。ここでは、それだけのことだった。

 ……明日は、我が身かもしれない。

 高橋は、背中の冷や汗がシャツを濡らすのを感じた。


 この駐屯地に、人権とか法の支配とか、そういったものはなかった。

 あるのは、『どこでもポア』の論理。

 ここでは警務官が法律であり、また憲法ですらあった。

 かく言う高橋も、原隊の総務で食需伝票しょくでんを書いていた時代、おにぎり四個を四十四個と誤記したことで転属になった。

 国費を無駄にした、という理由でである。

 おにぎり四十四、引くことの四。

 四十個だから、シャバで買えば四千三百二十円である。

 高橋の人生は、わずか四千三百二十円で狂ってしまったことになる。


 部屋に戻ると、誰もが重々しい顔をしている。

 ――五匹は、四匹になった。

 明日は我が身、という思いが全員を支配していた。

「総員注目。上祐二曹は、本日付けで我が班の名誉部屋長に補職とのこと。……いまは、ただ彼の冥福を祈りましょう」

 平田三曹は、警務官から渡された雑用紙に目を通しながら言った。

 紙を持つ手が、わずかに震えている。平田三曹は雑用紙を綺麗に折りたたむと、上祐士長のベッドに置いた。

「高橋士長、不要電灯消せ。残りの二名は就寝。じ後の出来事は、君らは何も見ていないし、聞いていません。了解か?」

「「……了」」

 高橋が居室の明かりを落とすと、平田三曹が高橋の肩に手をかけた。

「高橋君、ちょっと」

 高橋の体が、ビクリと震えた。

 ……まさか、上祐二曹の遺志を『代行』する気じゃあるまいか。

 高橋のシャツが、またもびっしょりと濡れた。

 平田三曹は鉄格子の入った窓に寄ると、近眼の目を細めて向かいの隊舎に顔を向けた。

 窓の外では、細雪ささめゆきが降り始めている。

「!」

 懐中電灯の明かりが、長く、短くリズムを刻む。

 高橋には読み取れなかったが、明らかにモールス信号だった。

「持つべきものは友人ですね。……もう、今夜やるしかなくなりました」

「え?」

「高橋君に明日、モスが付与されるそうです」

「モス……って、何のですか」

「普通マルタ。おそらく、近いうちに防疫給水部に異動になるでしょう。……高橋君、職種は?」

「武器の弾薬モスです。原隊は東部方面隊とうほうの弾薬支処でした」

「……お腹、出てますよね。健康診断の判定は?」

 平田三曹は、妊婦のように突き出た高橋の腹に目をやった。

「お恥ずかしながら、肥満でB判定です」

「それが原因ですね。この前作られた『正面石鹸Ⅰ型』の評価が低かったようです。このままだと君は、後方石鹸Ⅰ型のファーストロットになります」

 ……つまり、おのれの脂肪が死刑判決になったのだ。

 高橋は体力練成を怠っていたことを、これほど悔やんだことはなかった。

 平田三曹は床に膝をつくと、レンガを音もなく取り外し始めた。

「……部屋長、これは……」

「脱出トンネルです。取りあえず、隊舎の外には行けるはずです。君のサイズに合わせていたら、ギリギリになってしまいました。これは、お返しします」

 言って、平田三曹は高橋に箱を放った。

 紛失していた、高橋の彫刻刀であった。

 とっさに刃先を確認すると、もうボロボロで使い物にならなくなっている。

 ……これで、退路は断たれてしまった。

 補給点検で刃先は厳しくチェックされるから、脱柵だっさく予備で七三一警務隊に引っ張られる。

「部屋長……自分の彫刻刀、何に使ったんですか」

「脱出口の仕上げです。ここ、固いですから。入口の角が二度ほど狂っていたので、使わせてもらいました」

 善人なのか、悪人なのか。それともそういう次元ではなく、頭のネジが半分以上飛んでいるのか。

 高橋は平田三曹という男が、ますます分からなくなった。

「高橋士長、気をつけ」

 静かな、だが意志のこもった声で平田三曹が命令した。

 高橋は不動の姿勢をとり、平田三曹をまっすぐ見すえる。

「部屋長として命じます。現在時をもって、防寒中衣ぼうかんなかいおよび外被がいひ着装の上、本駐屯地を脱柵せよ。復唱」

「了。現在時をもって、防寒中衣および外被着装の上、本駐屯地を『脱獄』します」

「脱獄ではありません、脱柵です」

「どう違うんですか」

「刑務所からの脱獄の方が、はるかに難易度が低いです。本命令をナメてはいけません。――指摘事項二点、目の輝き、姿勢。眼鏡を取り、足をふんばり、歯を食いしばるように」

 次の瞬間、高橋の顎に平田三曹のアッパーカットが綺麗に入る。

 高橋のまぶたに、星が映った。

 倒れこんだ腹の上に、二枚の万札が置かれる。

「餞別です。これで、札幌までは逃げられるでしょう。じ後は自己責任で、生きて内地の土を踏むように」

「……なんで、自分を逃がすんですか?」

「――眩しすぎるんですよ、太陽が。丘珠おかだま曹長を知っていますね?」

「はい。自分の原隊の人間で、生徒出身です」

少年工科学校しょうこうの繋がりで、君を逃がすように話が来ました。脱柵用具も、そのツテで入手しました。名前は明かせませんが、丘珠曹長の同期がここの補給にいます」

 高橋の目から、自然と涙が漏れた。

 自分は、見捨てられていたわけではなかったのだ。

「……部屋長も、一緒に脱柵しませんか」

「自分は道産子です。津軽海峡を渡る気はありません」

「じゃあ、この島を半年逃げ回りませんか? それが自分なりの、借りの返し方です」

「……懲戒免職コースですか。そこまで逃げれば、脱柵もチャラになりますね」

 平田三曹は十円玉を取り出すと、ピンと音を立ててコイントスした。

 手の甲を押さえながら、低い声で尋ねる。

ヘッド・オア・テイルおもてかうらか?」

 鶏口けいこうとなるも、牛後ぎゅうごとなるなかれ。

 高橋の答えは決まっていた。

「ヘッド」

 平田三曹が、ゆっくりと右手を離す。

 ――テイルであった。平成五年という文字が、銅に彫られていた。

「部屋長……」

 平田三曹は、高橋の手をぐいと掴む。

 そしてニヤリと歯を見せて笑うと、高橋の指を使ってコインを裏返しにした。

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ほくれん! 東福如楓 @MIYAGAWA_Waya

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