K-7:: 宇宙おにぎり奇譚
しばらく歩き続けて暗い迷宮のような通路を抜けると、視界が開けた。人の住むところに戻れたようだった。見上げると、折り重なるようにして水平に伸びているビルたちの間に小さな空が見えた。峡谷を吹き抜ける風がここにも入り込んできて、頬に触れる。地元の人たちの話し声が聞こえる。
現実の手触りを思い出す。
またそのまま少し歩き、ゴチャゴチャした
気晴らしにこの
ここでは人間は売っていないようだった。
いくつかの露店を冷やかしたあと、ふと気になった一軒の店のドアを開けて中に入った。
ここが何の店なのかはよく分からなかった。他に客はいない。狭い店内には、遺伝子操作を重ねて作られた奇妙な小動物や、ガラクタと見分けのつかないドロイドの成れの果てが無造作に並んでいる。小動物たちが発したのか、汗と排泄物が入り交じったような臭いがかすかに漂っている。時折、その一匹がギャアと哀しげな鳴き声をあげる。
その猥雑な空間の奥に恰幅の良いオヤジが仏頂面で座っていた。いかにも、この店にあるものは全て把握している、といった顔つきをしている。店主なのだろう。
しばらく店内を物色してみたが、プロの貿易商として手に入れておきたいような品は見つからなかった。小動物たちは奇怪な風貌をしており、毛並みは悪く不健康そうだった。まあ、こんなスラムの外れの名も知れぬ個人商店なのだから、仕方ない。
しかし、そうしているうちにふと、ガラクタの片隅に埋もれている植物らしきものに目がとまった。小さな草のようなものがプランターにぎっしりと植えられていた。
どういうわけか、俺はその植物のことが気になり出した。自分でも妙なことだと思った。これまでの人生で植物――あの地面から生えてくる気持ち悪いやつだ――のことを気にしたことなんて一度もなかったのに。
その植物は、気の毒な小動物達とは違い、健康そうに見えた。美しい緑色でしっかりと上方へと伸びている。
俺が植物の前でしばらく立ち止まっていると、にわかに店のオヤジが立ち上がり、こちらにドシドシと歩いて来た。そして、これは稲って言うんだぜ、と自慢げな顔で教えてくれた。稲の苗で、これから育つんだ。そして米ってのは、稲からできるんだ、と。
しかし、改めて店内を見回して一呼吸おくと、それが果たして本物の植物なのか、怪しく思えてきた。奇怪な品ばかりが並ぶ店内で、その緑の植物はあまりにも異質に思えたからだ。
するとオヤジは、俺の訝しげな表情に気がついたのか、にわかに猛然と、その植物を弁護し始めた。断言するがこれは本物の稲だ、この辺りじゃ貴重なものだぜ、と言う。ただしお安くないぜと付け加えるのを忘れなかった。
オヤジはさらに稲の蘊蓄まで語り始めた。曰く、原産地は地球のどこだとか、これはジパン(よく聞き取れなかったが、まあそんな感じだ)という国で食べられていた種類だ、とか。どうでもいい話だ――俺はそう思って聞き流しながらも、ふと、前から少しだけ疑問に思っていたことを思い出した。
「なあ、米ってのは、この植物の種なのか? それとも実ってやつか?」
オヤジは一瞬ポカンとしてから、なぜか少し不機嫌そうに答えた。
「そんなこと、どっちでもいいだろ」
なんだよ、使えねぇな。
しかしそうしているうちに、俺はとうとうオヤジの口車に乗せられて――というよりも、ちょっと面倒くさくなって――その稲を買うことにしてしまった。しかも価格交渉もロクにしなかった。
結局、ほぼオヤジの言い値で――つまりそれほど安くない値段で、稲の苗を買うはめになった。
何故そんなことをしているのか、自分でもよく分からなかった。店の空気とオヤジの暑苦しい勢いに飲まれたからとしか言いようがない。貿易商失格だ。
俺が両手いっぱいにプランターを抱えて店を出るとき、オヤジは満面の笑みだった。よくそんな笑顔ができるもんだ。そして、他に欲しいものはねえか、是非また来てくれよな、と言った。
その稲を両手に抱えたまま小型機に戻り、座席の後ろにある小さな収納区画に稲を押し込んだ。早くも買ったことを後悔し始めた。
日が暮れかけていた。俺は水平ビル街を後にして、火星の宇宙港まで飛んだ。念のため
宇宙港まで戻って、ようやく安堵の息をついた。
深夜になっていた。
あのレストランとこの宇宙港にはほとんど時差がないから、ちゃんと一日を終えた気分になる。長い一日だった。
自分の宇宙船に戻り、小型機から稲を引っぱり出してきて、人工重力区画の片隅に置いた。稲ってやつにはきっと重力が必要だろうと思ったのだ。それを見ながらしばらくぼうっと立っていた。
何でこんなものを買っちまったんだ。
気を取り直して、とりあえずその稲が本物かどうか、ドロイドに遺伝子を鑑定させてみた。職業柄、俺のドロイドは鑑定ならお手のものだ。
その結果、たしかにそれは本物の植物であり、稲の一種のようだった。それにしても、あのオヤジは何だってあんなところで本物の植物なんか売っていたんだろう。
しかし本物だと分かったところで、俺はその稲をどうしていいか、あるいはどうしたいのか分からなかった。植物を育てる方法なんて知らない。だいいち、そんなことは性に合わない。
まあいい。時間はあるんだ。またゆっくり考えるさ。
ともかく、夜が明ける前に、火星を離れることにした。
こんな場所はこりごりだ。ピサロの縄張りで
ぐんぐん高度を上げていく宇宙船から、夜明け前の暗い大地を見下ろしていた。マリネリス峡谷の無数の灯はやがてひとつに溶け合い、光の帯になった。それは地平線まで続いていた。
結局俺は、すべてをドロイドに任せて稲を育てることにした。ドロイドたちは――〈ウェブ〉につながっている限りにおいて――何でも知っているから、きっと大丈夫だろう。
そうして、機械任せのささやかな農業が始まった。それは思いのほか上手くいった。ドロイドたちはよく働いてくれて、稲は順調に育っていった。俺はとくに何もせず、ただ時々思い出したように稲をぼうっと眺めるだけだった。
その間も俺は商売を続けたし、新しい左耳も手に入れた。
火星での揉め事は尾を引かなかった。レストランでの騒ぎは、ごく小さなニュースとして〈ウェブ〉の片隅に載っただけだった。マフィア同士の抗争で八人全員が死亡したことになっていた。俺が帝国から指名手配されたりすることもなかった。全員が死んだことにしておいた方が、一人逃げたと報告するよりも
ババについての情報は、相変わらず何も手に入らなかった。俺はとっくにあきらめていた。
そうそう、ピサロの領域では一つのニュースがちょっとした話題になっていた。セレスの魔女が死んだのだそうだ。ピサロの領域の有力者に娼婦(俺には全く縁のない超高級なやつだ)を斡旋していた女で、この界隈では誰でもその通り名くらいは知っている。たしか俺と大して年齢は変わらないはずなのに、ずいぶんと権勢をふるっていたようだ。彼女の死の詳細はよく分からなかった。もっぱらの噂では、魔女が帝国官僚を遊び半分で拷問して殺し、それが
まあ、いい。何にしろ、俺には関係のない話だ。
それからバベル病の話もあれから何度か聞いた。しかし俺はそのたびに、馬鹿げた噂話だと一蹴することにしていた。その単語すらもう二度と聞きたくなかった。ましてやバベル狩りなんて、クソくらえだ。
稲はそんな外界の出来事など何も知らずに、すくすくと育っていった。
そして、数か月後には、立派な稲穂が実った。
俺は、船の貴重な人工重力区画の一角を今や我が物顔で占有してしまった、その植物たちをまじまじと眺めた。収穫のときだ。
またドロイド任せで、ささやかな稲刈りを行った。ドロイドによると、さらに精米というやつをする必要があるらしい。ありあわせの器具で何とかそれらしいことをして、ついに真っ白な米粒を手に入れた。――そうか、これが米ってやつなんだ。
両手では掬いきれないほどたっぷりの米粒を手に入れた俺は、さてどうしたものかと、また少し呆然としていた。
しかし、この期に及んで悩むのは馬鹿馬鹿しい気がしてきた。考えるのはやめることにした。この稲を買ったときと同じで、大事なのは勢いだ。
俺はその米粒を、水とともに鍋に放り込んだ。この船には前の所有者が残していった原始的な調理器具が、いくつかあるんだ。こうやって煮れば、食べられる状態になるに違いない。
しかし、どのくらい煮ればいいのかはよく分からなかった。俺はドロイドに調べるように指示しかけたが、ふと思い立って、調べないことにした。自分の勘というものがあるなら、それに頼ってみるのも悪くない。どういうわけか、そんな気がした。もちろん、自然食の料理の経験なんて、一度もないんだけれど。
なんども蓋を開けては閉め、様子を確かめた。そのうちに、ちょうどいい頃合いだという気がして、火を止めた。初めて嗅ぐ種類の香りが船内に充満していた。率直に言って、いい香りだと思った。
炊けた米を少し冷ましてから、素手でわしづかみにして握った。白い塊ができた。白い米の塊だ。
それに少しだけ塩をふりかけた――この塩も船の前の所有者が残していったもので、手に取るのは初めてだ。とんでもなく古いが、まあ、食べられるだろう。
そして、俺は目をつぶって、その米の塊を口に入れた。
塩辛すぎるということは、なかった。勘に頼ったにしては、絶妙な塩加減だった。そして、ふんわりと炊けた米粒が、口の中で適度にほどけて広がった。
地球の金持ちどもが好んで植物なんかを食べる理由――それが、少しだけ分かった気がした。美味しくないと言えば、嘘になる。それに、ゆっくりと噛んでいるうちに少し味が変わってきて、これまで経験したことのない種類の甘みが感じられた。なんだ、これは? 米ってのはこんな食べ物なのか?
それは、おにぎりとは――ババのおにぎりとは、だいぶ違っていた。
ババのおにぎりは、こんなんじゃなかった。ゴワゴワネバネバしていて、そのうえ塩が辛すぎて、飲み下すのも苦労した。不味かったんだ。甘くなるまで噛むことなんて一度もなかった。俺にとって、おにぎりとはそういうものだった。
でも俺がここで握った白い塊は、いわばちょっと趣味がいい自然食の一種に過ぎなかった。――自然食だぜ。こんなものを好き好んで食べていると知れたら、帝国の貴族趣味に毒されたと密輸仲間に軽蔑されるだろう。ましてや、自分の船で稲を育ててるなんて知れたら。
何にせよ、ひとつ確実なのは、ここにある白い塊はおにぎりとは程遠いものだってことだった。
験担ぎになんて、なりやしない。
そんなことを考えながらも、気が付いたら炊いた米を全部たいらげてしまっていた。それから、手元にあった水を一口飲んだ。
まだ精米していない米が、いくらか残っていた。俺はそれをとりあえず取っておくことにした。細かいことは分からないが、ともかくこれを植えればまた稲が生えてくるのだろう。そうすれば、そのうちまた白い米の塊をつくることが出来る。
ドロイドに任せれば、きっと上手くいくはずだ。
そんなとき、船に一通のテキストメッセージが届いた。
リリアからだった。数か月前に俺がエウロパを発って以来だ。
《生きてるかな?》
メッセージは一行だけだった。文末には猫のような妙な絵文字がついている。
《ぎりぎりだな》
少しだけ考えてから、そう俺は返信した。
それからデッキのシートにもたれかかり、ビールのボトルを開けた。窓の外には、相も変わらない星々が広がっている。
その中に、やけに大きな瞬かない星がひとつある。それはオレンジ色に輝いている。
俺の船が今いる場所は、エウロパからは近くない。光の速度でも、往復四十分以上かかるはずだ。
しかし三十分後、また一行だけのメッセージが届いた。
《それは残念》
なんだよそりゃ。
そしてお前はいま、どこにいるんだ。
彼女からのメッセージはそれっきりだった。メッセージの出所の情報は暗号化されていて分からなかった。
こっちは
それに昔はいつも、リリアの通信は暗号化もロクにせず開けっ広げで、その居場所はこっちが心配になるくらい宇宙中に筒抜けだった。でもそれも、もう昔の話だ。遠い遠い昔の話だ。
ふと、この稲がまた育ったら、リリアにプレゼントするのはどうだろうと思った。
きっと迷惑がるに違いない。
でも彼女なら、猫のような好奇心で白い塊を美味しく食べてくれるかもしれない。それに、いつも殺風景だったリリアの部屋に、植物の一つでもあるのは悪くない。
ひとつ言い忘れていた。あのサファイアの瞳の少女が何だったのか、俺はとっくに考えるのをやめていた。結局、夢か幻覚だったという可能性が一番高いのだろう。そう思うことにした。少女の姿を見るのも、声を聴くのも、あのマリネリス峡谷が最後だった。頭の医者に行くのはやめておこうと思う。少なくとも当面は。俺がおかしくなったという噂が広まったら、商売にも影響が出るだろうからな。
幸か不幸か、世界の終わりが訪れる兆候は何もなかった。帝国で流行していたあの光る球体の都市伝説も、数か月すると人々に忘れ去られ、話題にのぼることもなくなったようだ。あるいは、ババが本当に世界を救ったのかもしれなかった。しかしそれを知る者はどこにもいなかった。ババがあの宇宙港に現れることも二度となかった。
帝国の貴族と官僚はいつものようにくだらない政争に明け暮れていたし、密輸商人はいつものように真っ暗な宇宙空間でモノとカネを交換し、そして酒を買った。俺はおにぎりのない宇宙で旅を続けないといけない。
そういえば、米が種なのか実なのかは、ついぞ分からないままだ。
パルプ・スペース・フィクション 月見素子 @tadanoinu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます