押しかけルームシェアインザ事故物件

尾八原ジュージ

延々と一人相撲

 例のアパートに引っ越した初日、さっそくクローゼットから這い出してきた半透明の女は確かにあの茉莉まつりだった。ひさしぶりに見た彼女の顔はあまりにも蒼白で、私は思わず「どうしてそんなにも蒼いの?」と問いかけた。

 私の問いに、茉莉は消え入りそうな声で「たきくん」と呟いた。伸び切った首が胸の前にがくんと垂れた。彼女はゆっくりと部屋を一周し、やがてまたクローゼットの中に消えた。

 それはあまりにも明確な答えで、私はめちゃくちゃに悲しくなってわんわん泣いた。大人になってからこんなに泣くのは初めてだった。

 やっぱり茉莉は死んだのだ。死んで幽霊になって、私とは全然まったく別の次元を漂っている、だから私を見てもあんな反応しかしなくなってしまったのだ。反抗期の子供みたいに突っかかってきた彼女はもういない。それはあまりにも明確で残酷な事実だった。


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 元々茉莉のことは大嫌いだった。何しろ第一印象が「泥棒?」、続いて「バカ?」だったくらいだから。

 初対面はなんともドラマチックだった。私が新しい彼氏の多岐たきくんと、彼のアパートになだれ込んでイチャイチャしていたら、クローゼットからぬーっと女が出てきた。その女が茉莉だったのだ。死ぬほどびっくりした。

 多岐くんが真っ青になって、私に違う違うそういうのじゃないからと弁解し始めたので、私はすぐ大体のことを悟った。つまり、多岐くんは浮気していたのだ。茉莉は合鍵を使って彼の部屋に入り込み、驚かせようと思ってクローゼットに隠れていた。そこに浮気相手の私がやってきて彼といちゃつき始めたので、下唇を噛み締めた幽霊みたいな顔でぬーっと出てきた、というわけだ。

 事情を察した私は、さほど怒ったわけではなかった。多岐くんは顔はよかったけどクズでいい加減で惚れっぽい男だし、ああ私が浮気相手だったんだなと納得した部分もあった。どうしたもんかなと考えていると、茉莉が突然ぎゃー! みたいな声を上げてこちらに飛びかかってきた。初手で首を締められそうになった。

 かくして私たちはアパートの一室でキャットファイトを演じ、多岐くんはオロオロし、あまりの騒ぎに近隣住民に警察を呼ばれてその場は収束した。が、何も終わっていなかった。その日から私と茉莉の壮絶な戦いが始まったのだ。

 ふたりともヤケクソになっていた。多岐くんを愛しているというよりは、この女に負けてなるものかという一念で、私たちは闘った。なかなか熱い闘いだった。

 茉莉は顔がめちゃくちゃかわいくて、おまけにおっぱいが大きかった。でもバカだった。そして絶望的に不器用で、料理がめちゃくちゃ下手だった。強敵ではあるがいずれ勝てそうな感じだった。

 割り切ったセフレとしての関係ならまだしも、茉莉は多岐くんの正式な恋人でありたがっていたし、願わくば結婚したいと思っているらしかった。だけどこういう度を越したバカ、簡単な家計簿もつけられないような女は、多岐くんみたいなダメ男との結婚には向かない。生活能力のないふたりが結ばれても、落ちるところまで落ちていく未来が目に見えている。

 反対に私は貧乳だけど顔は悪くないし、料理にも自信があるし、ちゃんと就職しているからお金も持っている。家計簿だってつけられる。ダメな類いの人間かもしれないけれど、少なくとも茉莉よりはマシなはずだ。フラフラしていて長いものに巻かれるタイプの多岐くんは、最終的にはどっしり落ち着いている方に流れてくるはず、と私は踏んだ。

 こいつは勝てる戦だと確信して挑み、そして確かに私は勝った。だのに、こんなことになるなんて思ってもみなかった。私はいつの間にか、多岐くんよりも茉莉に執着していたのだ。


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 翌朝、眠りから覚めた私はクローゼットを開けた。もちろんそこに女の姿はなかった。がっかりしてクローゼットの扉を閉めた。

 この部屋の家賃がやたらと安いのは、この部屋で茉莉が自殺したからだ。茉莉はこのアパートで一人暮らしをしていたが、ある日クローゼットの中で首を吊って死んだのだった。

 別に遺書なんか読んだわけじゃないけど(そもそもあったかどうかも知らないんだけど)、タイミングからして原因は失恋だろう。哀しみか怒りか当てつけか知らないけれど、とにかく多岐くんを私にとられたから彼女は自殺したのだ。つまり茉莉を死なせたのは私といっても過言ではない。

 その考えは不思議と私を喜ばせた。茉莉が幽霊になって悲しいのは本当なのに、彼女の死の原因が自分であると考えるのは心地よいのだ。むしろ、私以外のものが原因であってはならない。私が茉莉から何もかも奪った。そうでなくては私の心が満足しないのだった。それは単なる恋とかよりも、もっともっと厄介な感情のような気がした。

 要するに私は茉莉を愛しているのだ。と思う。朝の光は残酷に空っぽのクローゼットの中を照らし出す。私はここに自分の服を入れるのにしのびなかった。

 この中にちっちゃなテーブルを置いて、クッションを置いて、茉莉の部屋にしよう。それがいい。今日はかわいい小物を買いにいこう、お昼ごはんはオムレツにしよう、と決めた。


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 オムレツは思い出のメニューだ。多岐くんとのではなく、茉莉との。彼女はおそろしくぶきっちょだったので、ぐちゃぐちゃのオムレツしか作れなかった。

 ある朝茉莉は、甲斐甲斐しい女を演じようと朝食を作り始めたものの、癇癪を起こしてフライパンを投げだしそうになっていた。キイキイ言う彼女をその辺に座らせてフライパンを奪うと、私はぐちゃぐちゃのオムレツをスクランブルエッグの体にした。多岐くんちのベランダで育てていたプチトマトと、コンビニで買ってきた冷凍ブロッコリーを添えて盛りつけた。我ながらなかなかきれいにできた。

「ほれ、どうよ」

 お皿を見た彼女は、「かっこいい、ホテルみたい」とぼそっと言った。

「お前、素直かよ!」

 私は笑った。

「うるさい貧乳! 貧乳貧乳貧乳!」

 茉莉は怒って、乏しいボキャブラリーで私を罵った。

 そこでようやく多岐くんが起きてきたので、私は三人分の食パンをトーストし、インスタントコーヒーを作った。何で茉莉の分まで作ってんだ、と思いながら、彼女を無視して朝食をとる気にはなれなかった。

 スクランブルエッグはしょっぱかった。想定外に味が濃く、チャーハンにでもすればよかったと後悔したけど後の祭りだった。私たちはしょっぱいしょっぱいと言いながら、卵をトーストに載せて食べた。


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 引っ越しの片付けもそこそこに、私は街に繰り出した。茉莉の好きそうな雑貨屋で、一番小さな折りたたみテーブルとクッション、小さめのラグ、LEDライトなんかを買った。

 クッションの派手めなピンク色を見ながら、こういうのって店の中ではおしゃれに見えるけど、いざ持ち帰ったらそうでもなかったりするよね、などと考えた。それも含めて茉莉っぽい、彼女が買いそうなクッションだと思った。帰りがけにカフェに寄って、オムレツとホットサンドのセットを注文した。

 帰宅後、さっそくクローゼットの中に買ってきたものを配置してみた。ままごとのセットみたいになった。行き場を失った私の服は、段ボール箱に入ったまま部屋の隅に重ねてあったけど、どうでもよかった。

 コンセントはないから、電池式のライトを置いて中を照らすことにした。オレンジ色の灯りが照らすクローゼットの中は、不思議と生活感があった。

「どう? 茉莉」

 もちろん返事はなかった。

 私はクローゼットを閉じると、自分のベッドの上に転がった。引っ越しの荷ほどきが山程残っている。でも、全然やる気が起きなかった。茉莉のお礼なんていらない、ただ一言「貧乳!」とでも言ってくれたら、立ち上がる元気が出ただろうに。

 私は昨夜、「たきくん」と答えた茉莉の姿を思い出す。やっぱり茉莉は私のことなんか忘れてしまったに違いない。それもそうか。私なんて恋人でも友達でも何でもなかったのだから。

 あの子を死なせておいて今更報われようなんて、調子が良すぎたのだ。


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 数々のつかみ合いと罵りあいの果てに、とうとう私は茉莉を制圧した。というか、茉莉が突然身を引いたのだ。

「バカバカしくなっちゃった。あたし多岐くんともう会わないから、うまくやれよ。じゃあな貧乳」

 茉莉の背中がドアの向こうに消えた途端、私は言いようのない寂しさを覚えた。「待って!」と叫んで追いかけたくなったけれど、理性が「そんなのおかしいよ」と言うのでやリ損ねた。

 今はそうしておけばよかった、と思う。

 茉莉が去った途端に多岐くんはつまらない男になってしまった。相変わらず顔だけのクズで、そこが面白いと思っていたはずなのに、急に全然面白くなくなった。

 私たちはあっという間に別れた。それ以来多岐くんには会っていないが、それはどうでもいい。

 多岐くんと別れた私は茉莉を探し始めた。一番楽しかったのは、彼をめぐって茉莉とバチバチしていた頃だということに、ようやく気づいたのだ。

 いつも彼のアパートで鉢合わせていたから、私たちは互いの連絡先を知らなかった。ようやく彼女の友人だという女の子を探し当てたときには、茉莉はとっくに自殺していた。

 待ち合わせの喫茶店で、茉莉の友達を自称する女は、つまらなさそうな顔で彼女の死を語った。

「一生に一度の失恋したって言って、酒で眠剤飲んだりとか散々してたからね。首吊ったって言われてもそんなに驚かな……ねぇ、どうかした? 顔が真っ青だけど」

 私は立ち上がると、茉莉の友達だというその女に、グラスいっぱいのアイスコーヒーをぶちまけた。彼女の友達を名乗っておきながら、平気な顔で「首吊っても驚かない」なんて言うのが許せなかった。こんな女でさえ茉莉が死んだことを知っていたのに、私は知らなかったということもショックだった。

「何すんだよ、貧乳!」

「うるせえ! 私のこと貧乳って呼んでいいのは茉莉だけなんだよ!」

 クリーニング代だバカと啖呵を切って一万円札を投げつけ、喫茶店を出た私は、その足で不動産屋に向かった。茉莉の住んでいたところはすでに把握していた。


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 目を覚ますともう辺りは暗くなっていた。スマートフォンの時計は午後九時を指していた。

 私はのろのろと立ち上がると、近くのコンビニで夕食を買った。風呂に入り、適当な食事を整えて、遅い夕食をとった。

 深夜を待った。明日は仕事なのに、茉莉の顔を見ないと眠れそうになかった。明かりを落とし、膝を抱えて、クローゼットを眺めて、見逃さないように。

 日付が変わる頃、クローゼットが開いて茉莉が出てきた。私は彼女に駆け寄り、一緒に部屋を歩きながら話しかけた。

「茉莉、私のことわかる? クローゼットに色々入れたのどう? 気に入った?」

 茉莉はうつむいて、「たきくん」とまた呟いた。

「あんなやつどうでもいいじゃん!」

「……たきくん」

「私のことが憎くないのかよ! 茉莉!」

 茉莉は私を見もしなかった。首吊りで伸びた首をぐらぐらと揺らして、彼女はまたクローゼットに戻っていった。

「茉莉」

 私は閉じたクローゼットを三回ノックしてから開いた。やっぱり茉莉はいなかった。


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 この気持ちを何と言ったらいいのかわからない。

 私は多岐くんの彼女のひとりではあったけれど、茉莉の彼女になりたかったかと言われると、それは何だか違うと思う。じゃあ友達かと言われると何だかそれも違って、とにかく私は、彼女のなにか特別なものになりたかったのだ。

 あの頃、多岐くんを取り合っていた期間、私は確かに彼女にとって「なにか特別なもの」だったと思う。それがたとえ負の感情を沸き立たせる存在であったとしても、茉莉は私のことを考え、強烈に意識してくれた。

 あの頃に戻りたい。またくだらない男を取り合ってバチバチしようよ。どうでもいい喧嘩をしようよ。

 茉莉。


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 どうやったら茉莉が振り向いてくれるかわからなくて、私は色んなことをやった。

 二人分のケーキを買ってきてクローゼットの前で食べたり、「おっぱいしかないバカ女」と罵ってみたり、お酒を買ってきてクローゼットの前で飲んだり、しょっぱいオムレツを作って食べたりした。

 でも茉莉の幽霊は、相変わらず私を見ようともしないのだ。

 ある夜、私はクローゼットの中に入ると、ハンガーを引っ掛けるポールにベルトを回して輪っかを作り、その中に頭を入れてみた。

 ちょうど茉莉がやったみたいに。


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「おい何やってんだ、貧乳!」


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 漠然とした夢の中で、茉莉の声を聞いた。

 気がつくと、見たことのない顔が間近にあった。映画やドラマでしか見たことのない光景が目の前に広がっている。

 私は救急車の中で、ストレッチャーに載せられていた。助かってしまったのだ。死ねなかった。幽霊になりそこねてしまった。

 落ち込む私を、救急医は親戚のオジさんみたいな口調で叱り飛ばした。

「あんた、通報してくれるようなひとがいるんだからさぁ、簡単に死んじゃ駄目だよ」

「は? 誰ですかそれ」

「誰かなんて知らないけど、誰かが通報したから警察とか救急車とかが行ったんでしょうが」

 どうやら通報者は若い女だったらしい。知り合いがあたしの家で首吊ってる、みたいな内容だったと、話好きの看護師が教えてくれた。家の鍵は閉まったまま、でも通報者の姿はなかったらしい。だから看護師は内心私の一人芝居だと思っているみたいだけど、私はニヤニヤが止まらなかった。

「知り合い? 知り合いって言ったんですか?」

「らしいですよ? 又聞きだけど」

 知り合いかぁ、つれないなぁあいつ、と思いながらも、思わず鼻歌が出た。

 あれから二年が経った。私は賃貸契約を更新し、まだ同じアパートに住んでいる。

 茉莉は相変わらず毎晩クローゼットから出てくる。今では私の方をちらっと見て嫌な顔をするようになったので、私はその度にニヤニヤして、まぁ、それなりに幸せなんじゃないかな、なんて勝手に思っている。


 

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