おうち用本格アイスコーヒーセット

くれは

コーヒーの海に

 暑い夏のある日、彼女の部屋を訪れたら、砂漠だった。




 いや、砂漠かどうかわからない。足元には、砂と呼ぶには濃い色の土が広がっている。いや、土なのかもわからない。触ってみれば、乾いている。何かを砕いたような、ざらりとした感触。

 そして、なんだろうこのにおいは。嫌なにおいじゃないけど、思い出せそうで思い出せない。

 どこまでも広がる地面。雲ひとつない広い青空。いつもの部屋とは思えないけど、でも玄関から入った以上部屋なのだろうし、靴を脱がずに上り込むのは気が引けて、俺は靴を脱いで踏み出した。

 ざくり、と足が少しだけ沈む。

 彼女の姿を探して俺は進んだ。彼女は部屋で待っていたはずだ。この空間は謎だけれど、確かに彼女の部屋なのだから、きっと彼女もいるだろうと思った。

 ざくり、ざくり、と踏み出すたびに香ばしいにおいが立ち上ってくる。このにおいはなんだったか。知っているはずなのに、うまく思い出せない。

 広がる土以外は何もない場所を、彷徨う。植物も生えてなければ、生き物の気配もない。起伏のほとんどない、平らな土の上をただ歩いていた。

 やっぱりこの景色は、砂漠と呼んで良いんじゃないかと思う。




 代わり映えのしない景色が続く中、ようやく人影が見えた。きっと彼女だと思い、ざくざくと土を踏みしめる速度を上げる。足を取られて転げそうになりながら、近づいてゆくと、その人影が振り向いた。

 グレーのパーカー、膝が出る長さのスパッツ。ショートカットの髪。いつもの彼女だった。


「これ、どういう状況?」


 近付きながら大声で呼びかければ、彼女は土に足を取られて何度か地面に手を付きながらこちらに向かってきた。急ぎすぎたのか、あと数歩のところでばたんと地面に倒れ込んだ。

 しゃがみこんで、彼女が起き上がるのを手伝って、髪についた土をぱらぱらと払う。彼女は照れたように笑って、それから俺に飛び付いてきた。その勢いで、俺も土の上に尻をついた。


「多分なんだけど、美味しいアイスコーヒーの作り方なんだと思う、これが」

「アイスコーヒー?」


 言われて気付いた。そうだ、このにおい、この土の感触、これはコーヒー豆だ。細挽きの手触りだ。


「そう。おうち用本格アイスコーヒーセット。ドリッパーと、フィルターと、サーバーと、コーヒーケトルと、それからアイスコーヒー用スペシャルブレンドのコーヒー豆。美味しいアイスコーヒーの淹れ方解説ブック付き」


 彼女は指折り数えながらセットの内容を一つ一つ教えてくれた。ちょっと自慢げな表情がなんだか可愛くて、俺は少し笑ってしまう。


「それで?」

「そのセットがね、さっき届いて。で、せっかくだから二人で飲もうと思って、開けてみた。そしたら、こんな」

「こんな」


 美味しいアイスコーヒーどころか、このままだとコーヒーの砂漠で干からびそうだ。けれど彼女は、そんなことをちっとも心配していないみたいだった。楽しそうにふふっと笑って、おしゃべりを続ける。


「コーヒー豆はホットコーヒーよりも多め。氷の分、濃いめにするんだって。あ、ちゃんと付属のスプーンで計って入れるよ。で、もうすぐお湯が湧いて……あ、ほら」


 彼女が、空を指差す。今の今まで真っ青だった空を、灰色の雲が覆い始める。雲はなんだかきらきらと輝いて銀色に見えた。そしてそこから、柔らかな雨が、静かに降り注いでくる。


「お湯は熱湯直前くらいの温度。そして最初のお湯は少しだけ、でもコーヒー豆全体を蒸らすだけの量は必要」


 さわさわと降り注ぐ熱い雨は、地面のコーヒー豆を濡らして、染み込んだ。周囲に漂うコーヒーの香りが強くなる。

 遮るものがないので、俺と彼女も雨に濡れる。彼女は何が面白いのか「濡れちゃった」とくすくす笑っている。濡れた不快感はないし、地面はふわふわとしているし、ただ良い香りに包まれているだけだ。だから俺も、一緒になって笑っていた。




 水分を吸い込んだ地面が柔らかくなって、ふっくらと持ち上がる頃、雨がやんだ。


「この状態で、しばらく待つ」

「どのくらい?」


 俺が口を挟むと、彼女は首を傾けた。


「えっと……一分くらい、だったかな?」

「淹れ方解説ブックっていうのに書いてあった?」


 彼女は困った顔をして首を振った。ぱらぱらと、髪に絡んでいたコーヒー豆のカケラが落ちる。


「解説ブック、見てる途中だったんだよね」

「その割に、よく知ってるね」


 今度はぱっと自慢げな顔になって、俺を見上げてくる。


「買う前にサイトにあった動画を見たから。もともと、その動画を見て、欲しいなって思って、それで買ったんだよね。なんか、楽しそうって思っちゃって」


 彼女の表情がくるくると変わるのが面白くて、俺は笑った。彼女のこういうところが、可愛いなと思う。


「あ、次のお湯」


 彼女がまた空を指差すと、銀色の雲から、また雨がさわさわとゆっくり降ってきた。湿って柔らかくなっていた地面は、新しい雨を受け入れて、掻き回されて泡を吐き出し始めた。細かな泡はゆっくりと大きくなってゆく。

 俺と彼女はその泡のクッションの上で、ふわふわと揺れていた。

 雨は降ったりやんだり、雨がやめば泡はゆっくりと小さくなっていって、泡が小さくなってくるとまた雨が降ってくる。


「こうやって、何回かに分けて、少しずつお湯を入れるんだって。ゆっくり、少しずつ。そうすると、コーヒーの美味しい部分がぎゅっと濃い味になるって」


 彼女は、期待に満ちた楽しそうな顔を俺に向けてくる。その姿がなんだかどうしようもなく可愛くて、その湧き上がってきた気持ちをどう表現すれば良いのかわからなくて、困った挙句に俺は彼女の体を引き寄せると、そっとキスをした。

 彼女はおしゃべりを止めて、それからびっくりしたような顔で何度か瞬きをする。もう一度と覗き込めば、彼女は俺の視線から逃れるように顔を伏せてしまった。


「まだ、アイスコーヒー、淹れてる途中だから」


 言い訳のようにそう言いながらも、彼女の指先は俺のシャツの胸元をぎゅっと握る。拒みきれていない仕草に、俺は気を良くして、今はそれ以上を我慢することにした。


「ごめん。それで、次は?」


 彼女はちょっとの間困った顔をして黙っていたけど、少しして気を取り直したのか俺の腕に自分の手を絡めて引っ張った。


「この下」


 彼女の反対の手が、地面の下を指差す。ドリップしているなら、コーヒー豆に染み込んだお湯はコーヒーになって下に落ちる。だから、目指すのも下。

 この地面の中に潜るのか、と思っていたら、彼女が俺の腕を引いたまま、泡と一緒に地面の中に潜っていった。視界がコーヒー豆に奪われる。ぷくぷくと小さな音が聞こえる。

 彼女は迷うこともなく、下に、もっと下に。彼女に引っ張られるままに、俺もきめ細やかなコーヒー豆の泡の中を潜ってゆく。




 やがて、視界が一気に明るくなった。さっきまでは砂漠のように暑かったのに、今度はやけにひんやりとしている。

 その冷たい空気の中、コーヒー色の滝が真っ直ぐ下に流れ落ちている。それと共に、俺と彼女の体も落ちていた。


「あのね、コーヒーサーバーにあらかじめ、氷を入れておくんだって。それで、熱いお湯で淹れたコーヒーを一気に冷やす」


 落ちているというのに、彼女はちっとも心配してないみたいだった。彼女が笑ってるから、俺も笑う。二人で手を繋いで、氷の山に落っこちる。

 流れ落ちるコーヒーの滝で氷の山はゆっくりと溶けて、その形を変えてゆく。からんと音がした。崩れ落ちる氷に巻き込まれて、俺と彼女はひんやりとしたコーヒー色の海に落っこちた。

 海に沈みながら、俺は彼女を抱き寄せる。彼女の体をぎゅっと抱き締める。彼女の首筋に顔を埋めて、彼女の背中を撫でる。

 からん、と音がして氷の山がまた崩れる。海は波立って、俺と彼女の体は翻弄される。彼女の手がすがるように俺の背中に回されて、そしてぎゅっとしがみついてくる。

 彼女と二人、コーヒーの海に揺れて深く深く沈みながら、こんなふうに溺れるのも楽しいな、なんて思っていた。




 気付いたら、いつも通りの彼女の部屋だった。コーヒーの良い香りが部屋いっぱいに漂っている。

 ローテーブルの前に座って、あぐらの上に彼女を乗せて、彼女を抱き締めていた。目の前、ローテーブルの上には、ドリッパーを乗っけたコーヒーサーバーが置かれている。ぽたぽたと、ドリッパーからコーヒーの雫が落ちて、コーヒーサーバーの中にコーヒー色の海を作っていた。海の中には、たっぷりの溶けかけの氷が浮かんでいる。

 少しだけ彼女の体を離して顔を覗き込むと、彼女は何度か瞬きをする。そのまま顔を近付けると、困ったように顔を伏せてしまった。


「せっかく淹れたんだから、アイスコーヒー飲んでよ」


 彼女のその言葉を、俺は飲み終えた後なら良いのだと受け取った。それであればと、彼女が用意してくれたコーヒーのために、俺は彼女の体を機嫌良く解放した。

 まあ、一時的に、ではあるけれど。




 彼女が頑張って淹れたアイスコーヒーは、もちろん美味しかった。何より、ちょっと自慢げにそれを差し出してくる彼女、楽しそうにそれを飲む彼女は可愛かった。

 飲み終えて、少し恥ずかしそうに目を伏せるのも。

 グラスに残った氷がかたんと音を立てて、俺と彼女はコーヒーの香りに沈んで、溺れる。

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