二十七の泡沫

青島もうじき

二十七の泡沫

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。薄く溶いたインスタントコーヒーのマグカップの取っ手を掴んだ先輩は、重たそうに睫毛を上げて、ブラウン管の粗い画面を眺めた。

「免許、更新しちゃったんだよね」

 先輩は気のない様子で、私の前でひらひらと免許証を振った。免許証は写りが悪くなることが多いらしいけれど、四角い枠の中で微笑みを湛えている先輩は、あまりにいつも通りの先輩だった。

「いつ取ったんでしたっけ。合宿免許でしたよね」

「うーん。学部二年生の夏だから二十の時かな。ルームメイトだったやつが効果測定で落ちて最悪だったんだよな。私だけ先に卒業しちゃって、その子だけホテルの一室に置いてけぼり」

 どうせ先輩と一緒に遊んでたんだから自業自得ですよ、という言葉は呑み込んで、その代わりに先輩の手から免許証を奪い取った。先輩は、抵抗しない。

「次、五年後なんですね」

「違反者講習にでも引っかからない限り使い切れないな」

 乾いた笑い声を聞きながらその表面に印字された文言を視線でなぞっていたら、先輩は私の手から免許証を取り返した。その長い腕には余計な肉は一切ついていない。筋肉の形になだらかな曲線を描く先輩の上腕が、すらりと私の前に伸びて、しなやかに視界の端へと消えた。

「後悔してますか?」

 聞いてみると、先輩は「うーん」と唸って、一つ大きく伸びをした。コーヒーが床にこぼれたが、私も先輩も、もう気にしない。

「いや、別に。どっちみち死ぬみたいだし」

 テレビを教授の机の上に置いたのは、先輩のアイデアだった。ゼミ室の中で一番見晴らしがいいし、なにより電源が近かった。やっぱりいい席貰ってんだなぁと、変に納得したのは、三日前の話だ。

 世界はどうやら七日後に滅びるらしい。正確には、今も段階的に滅んでいっているのだとか。一般人に深刻な影響が出始めるのはせいぜい残り三日ほどになってからだと、初期の段階で報道があったけれど、その情報が信用できるかなんて分かるわけもない。もしかすると、私たちは気付かないうちに取り返しがつかないほどになにかを失ってしまっているのかもしれない。

「あ、もう終わりか。この調子だと明日はもう放送ないかもね」

 モニターには砂嵐が映し出されていた。こんなことになってしまった以上、報道することなんてもう存在しないわけで、だから一部の仕事熱心な――それに生涯を捧げることを決めてしまったテレビ局員たちが、決して最後まで数えられることのないカウントダウンだけを刻み続けているのだ。

 ちょうど半年ほど前だっただろうか。奇妙な現象が各地の研究所を襲った。それは分野を問わなかった。計算物理学、聴覚音声学、投票行動論経済学、記述精神医学、宇宙生物学、その他ありとあらゆる研究所、研究室において、同時多発的にそれは発見された。

 LOL。はじめはそのオカルトじみた発見を、人々は揶揄する意味も込めてそんな略称で呼んでいた。その後人間だけでなく、世界の全てを終わりに導くこととなるこの現象を、あろうことか私たちは(笑)と呼んでいたのだ。

 法則の欠落Lack of Law。認識頻度の低い概念から順に「なかったこと」にされてしまう現象。

 はじめにLOLを発表したのは、今となってはもう確かめようもないのだけど、どこかの小さな天文台だったはずだ。生涯をかけて天体観測に臨んだというのに、ただの一つも小惑星を発見できなかった、そんな運の悪い天文家がいたのだという。

 しかし、その異変に気付いたのは天文台の所長であった。運の悪い天文家は非常に実直な性格であり、成功したときのことは考えず、いま目の前にあるその仕事にだけ取り組む人物だったらしいのだが、そのラックには小惑星の名付けにまつわる資料をプリントアウトしたものが挟まっていた。

 奇妙なものが好きな所長ははじめ、「恥じらう小惑星」としてそのエピソードを披露した。小惑星は名前をつけられたことで「発見された」と知り、その事実を自ら隠すことにしたのだ、などと奇説を披露した相手は、宇宙地球環境研究に携わる他の研究者たちだったのだという。所長は研究の腕はいまひとつであったが、酒の場を明るくする力があり、「恥じらう小惑星」はそのエピソードの一つに選ばれたのだ。

 次に異変に気付いたのは、そんな酒飲み相手の一人である小惑星帯探査の研究者であった。きちんと整理していたはずの資料ファイルに抜けが見つかったのだ。ナンバリングは正しかったものの、明らかに一ページ分飛ばしてしまっている。それを半分冗談で件の所長に「恥じらう資料ファイル」として報告したことで、一気に研究者の間で都市伝説として話題となった。

 ただ、その時点では「きちんと整頓をしないと、せっかくの研究成果が恥じらってしまうぞ」というような、一種の教訓めいた冗談の一つとして語られ、いつしか法則の欠落LOLと呼ばれるようになった。これが、今から半年ほど前のこと。

 データサイエンスがLOLの毒牙にかけられることなくまともに機能していたのは、人類にとって僥倖だったのか、不幸だったのか。一人の不真面目な数学科の学部生が、卒業研究のテーマにLOLを選んだのが、大きな転換点となった。LOLなんてものはものもとより存在しないのだからという教授の雑談を真に受け、適当にやったところで存在しないという結果が動くことはないと踏んだのだろう。しかし、面白がった担当教員が、然るべき手段でそれを分析してしまった。

 LOLを実際に体験したという研究者の学術分野や論文引用数などを基に、学部生は卒論を書いた。信じられないことに、どう考えてもLOLは知名度と強い相関を持っていると示されてしまったのだ。LOLは、存在する。それが結論だった。ある意味、この青年が世界の滅亡に一役買ったと言っても過言ではないだろう。

 学部生の卒業論文なのだからどこかしらに瑕疵があるのであろうと、世界の統計学者はやっきになった。しかし、調べれば調べるほどLOLが実際に進行しているということが疑いようのない事実として浮かび上がってくるのだった。

 また、統計学はその過程で全ての概念が滅ぶ時間を弾き出した。それが、ちょうど今から七日後に迫っている日付だった。今も多くの概念が消えていっているのであろう。もしかすると、こんなことを考えているそばから、ついさっき考えたものが消えているのかもしれない。

 マスコミの耳に入るのは、それから間もなくのことであった。テレビ局は競い合うようにして他局よりもそのカウントを減らし、不安を煽り、視聴率の獲得に邁進していたが、世界の滅亡が寸前に迫ってきたことにより、その努力も無為なものであると編集責任者が悟り始めたためか、どこにチャンネルを合わせたところで初めに統計学者が挙げた滅亡までの日付を読み上げるだけの代り映えのしない番組となっていた。未だにキャスターはスーツをびしっと着こなしているけれど、それもきっと惰性によるものなのだろう。

 LOLは、あまり認識されていない概念から順番に消し去っていく。だから、天文台の所長が酒場で誰かに語って聞かせなければ、怠惰な数学科の学部生が研究対象に選ばなければ、もしかすると取り返しのつかなくなる前に自身を消し去っていたのかもしれないと気付くのは、すでに全てが手遅れになってからのことであった。

 LOLなんかよりもよっぽど認知度の低い私たちは、LOLが自身を消去するよりも先に、LOLによって消されることになる。きっと、世界が滅びるよりも少しだけ先に。

「免許の条件等。眼鏡等」

 免許証に書いてあった文字列を舌の上で転がすようにしてそらんじると、先輩は元から細い眼をさらに細めて「うげぇ」と顔をしかめた。

 目が悪いせいか度の合っていない眼鏡をかけ続けているせいか猫背気味な先輩は、シャツの向こうに背骨のこぶを浮き上がらせる。その凹凸が私は結構好きなのだけど、それを伝えるのはなんだか気持ちが悪いような気がして、ずっと黙ったままになっている。

 もちろん、先輩なんかよりも先輩の背中に宿るなだらかな山脈の方が知名度は低い。言い換えれば、LOLに殺されやすい。私だけが――ともすれば先輩自身ですら認識していないかもしれないこの概念は、きっと私たちよりも先に死ぬ。

「この部屋も、きっと殺風景にんだろうね」

「あ、先輩もそう思いますか。多分他にももっと何かあったんでしょうね」

 ゼミ室には私と先輩が研究対象としている進化ゲーム理論に根差した個体群変動にまつわる書籍や資料がうずたかく積まれている。しかし、教授の机の隣には不自然な空間が生まれていて、そこから差し込む光が分厚いブラウン管テレビの丸い液晶を照らしていた。

「死ぬところ、見たくない?」と誘ってきたのは先輩だった。世界が終わるから自棄を起こしているのかと思い込みうんざりした顔を作った私に、先輩は満足げな笑顔を見せた。

「ほら、私たちがずっと書いてきたプログラムもあと何日かの命なんだしさ。消える瞬間も見られるかもだろ」

 それでやっと、先輩の意図が伝わった。きっと、わざと紛らわしい言い方をして私を翻弄していたのだ。そういうのが好きな人だから。

 そうして私たちは、とっくに無人となったゼミ室で堂々とくつろぎながら、共有している研究フォルダの死を待っている。当然、消えたかどうかなんて、概念ごとなくなってしまうのだからわかりようがないし、そんなこと私も先輩も分かっているのだけど、それでも私たちは最後の数日間を研究の看取りに費やすことにした。それを下手な言い訳と呼ぶ人がいることだって、私たちは知っている。

「駄目だ、カフェインで誤魔化せるかと思ったけど無理っぽい。ちょっと寝るわ。ちゃんと画面見とけよ」

 そんな薄いコーヒー作るからですよ、という言葉を私は呑み込んで、すでに寝息を立てている先輩にブランケットをかけてやった。これは確か、先輩が実家から持ってきたものだったと思う。

 先輩は、免許を更新した。これで違反者講習なんかに引っかからない限り、五年間は国からのお墨付きを得て普通自動車を運転できることになる。先輩が、二十八歳になるはずだったその冬までは。

「ロックンローラーは二十七で死ぬんだ」というのは、先輩の口癖だった。そのたび私は「それ、俗説らしいですよ」と返すのだけど、先輩はいつも笑って誤魔化す。別に、ロックンロールはおろか楽器の一つも触ったことがないくせに。

 確かに、二十七歳にして夭逝したミュージシャンの名前の一覧を眺めているとその知名度やカリスマ性に騙されたくなる気持ちもわからないではない。少なくとも、その名前は私たちよりも先に消えることはきっとない。その意味で、二十七歳で亡くなったビッグネームたちは、二十を少し超えただけの私たちよりも決定的に長生きだったのだといえよう。

 パソコンのモニターには、私と先輩で進めていた研究の全データの入ったフォルダが表示されている。もしかすると、この中のいくらかはもうすでに消えているのかもしれないし、私たちはそれに気付けない。だけど、無機質なようでいてそれぞれ私や先輩が入力したとわかる文字やデータの流れが、まだ確かにそこには存在する。

 先輩は本当に、二十七歳に死ぬつもりだったのだろう。それが自死であるのか、なにか運命のようなものに殺されるのかはわからないけれど、先輩は確かに、自分の人生をそこまでと定めていたように見えた。

 だけど、私たちはあと数日で消える。

 先輩を規定していた二十七という数字だけを残して、その存在だけがそもそもなかったものになる。先輩なんかよりも、インスタントコーヒーの方がよっぽど長生きするし、もしかすると、テレビはLOLよりも有名かもしれない。その場合、LOLよりも知名度のある概念だけが残った世界になるのだけど、いまやLOLよりも有名な人物なんてこの世界に存在しないので、少なくとも人間は滅ぶのだろう。

 あまり認識されていないものから、順番に消えていく。私も先輩も、こんな性格だから友達は少なかった。人間の中でも、私たちは比較的早めに退場することになるのだろう。それはきっと、あのはた迷惑な天文学者よりも。

 ふと、私の後ろのソファで転がっているであろう先輩に意識を向けてみた。これで、認識は強化されただろうか。私よりも後に消えてくれるだろうか。それが誤差に過ぎないものだと分かっていても、私は何度も意識を送る。先輩。先輩。せんぱい。

 切れ長の瞳を思い起こす。そのしなやかな腕の線を頭に描く。低くお腹の底に響く声を鼓膜の奥に反芻し、その声で口癖をなめらかになぞる。私の考えていない先輩の一部が順番に泡となって虚空に溶けていくような気がして、私は振り返れば寝息を立てているはずの先輩のことを想う。先輩は、二十七まで生きて、二十七で死ぬべき人間だったのだと思うから。

 モニターに映る私自身の顔を見て、なんだか可笑しくなった。なんだか悲壮感の漂う顔をしている。私はきっと、先輩のことが好きだったのだろう。

 だけど、もうその気持ちはどこにも存在しない。きっと、私が認めることを拒んだから、誰にも知られることのないまま消えた。

 世界が終わるのは、世界が終わったと認識できる者が誰一人としていなくなったその瞬間だ。だから、先輩という世界が終わるのならば、それはきっと先輩が誰からも想われなくなった時なのだろう。

 きっと今この瞬間にも、もう誰からも顧みられることのなくなった人間が消えている。いや、いなかったことにされている。

 込み上げてくるものを感じて、私は思わず振り返った。

 先輩は、せっかく私が掛けてあげたブランケットをなかば放り出すようにして眠っていた。その背中は、こちらに向けられている。薄手のシャツは捲れ上がり、生白い肌が見えてしまっている。

 ゆっくりと上下する起伏のない滑らかな背中に、私は安堵した。

「ほら先輩。そんな寝方してると風邪ひきますよ」

 その身体を揺さぶると、思いのほか軽く、薄く思われて驚く。思わず引っ込めそうになった手を、先輩は骨ばった白い手で掴んだ。

「消えたのか?」

 先輩がなにを言っているのかわからなかったので、「先輩、寝ぼけすぎですよ。ほら、コーヒー淹れてあげますからちゃんと起きてください」と返事をした。眠たげな眼でパソコンのモニターを見つめる先輩が、ゆっくりと首を捻る。ぱきりと、骨の鳴る音がした。

 このゼミ室は本一つない部屋なので、開放感があって良い。日差しのよく差し込む部屋で飲むコーヒーは格別だろう。先輩が普段飲んでいるコーヒーの濃さがわからないので、とりあえず袋の横に書いてあった分量そのままのオーソドックスなものを作る。

「世界が終わるまであと七日なんですから、しっかりしてくださいよ」

 そう言ってマグカップを差し出すと、先輩はのっそりとした動作でそれを受け取った。心なしか、その薄い瞼に縁どられた瞳は、しっとりと潤んでいるように見えた。先輩のそんな表情は、見たことがない。鼻の奥がつんと痛んだ瞬間、一足早く、先輩の瞳から一筋の涙が伝った。

「先輩、大丈夫ですか?」

「そっちこそ、なんで泣くんだよ」

 私の両目からも、とめどなく涙があふれてくる。きっと涙というのは私や先輩がいなくなった後も変わらず世界に居座り続けるのだろう。なのに、私たちはきっと取り返しがつかないほどに、なにかが壊れてしまった。

 先輩が、その取り立てて特徴のない腕で、力強く私を引き寄せた。あふれ出てくるものを押さえつけるための抱擁ではなく、むしろ、世界に刻むために行われているのだとさえ思えるような、強い力だった。

「ロックンローラーは、二十七で死ぬはずなんだけどな」

 耳元で囁かれたその言葉が、白く殺風景なゼミ室の中にぽとりと落ちる。それを拾い集めるように、私はとめどなく涙を流した。

 つるつると、引っかかることのない背中。そこにはなにかがあったかもしれないのに、もはや思い出すこともなく、思い出す対象すら存在しない。どんな感情があったのかもわからないまま、その欠落に胸を穿たれる。

 先輩は生きるはずだったのに。先輩は死ぬはずだったのに。由来の分からないうわごとのような思考が私の中を巡り、私の中の先輩が欠けたことによって、先輩を繋ぎ止める認識が失われていくのが分かる。

 きっとそれは私も同じで、だんだんと解体されていくように、私を構成している諸々はもう二度と同じ形を取ることのないほどに砕け、かろうじて残っているその一部が、今こうして先輩を抱き留め、抱き留められているのだと思う。

「先輩、やっぱり人付き合い苦手だったんじゃないですか。もう消えそうですよ」

「そうかもなぁ。でも、見てる感じだとそれはお互い様なんじゃないか」

 もはや、私たちに残されている特徴はほとんどないのだと思う。それぞれの認識されてこなかった部分はどこかへと消え去り、それぞれを弁別することができなくなり、私たちは一つになり、やがてゼロに消えていくのだろう。

 その終わりに、私と先輩は、その呼び名によってお互いの存在を確かめ合っている。なぜなら、先輩は生きるはずで、死ぬはずだったから。私がもっと先輩のことを想っていれば。

 声になっていたのだろうか。不意に、先輩が笑った。

 どうして笑うのか不思議に思った私は、固い抱擁を持って先輩に問いかけた。どうして、笑うんですか。

「そう思えてるってことは、わかってくれてもいいと思うんだけど」

 認識されていないものから順番に消えていく。言い換えれば、認識されているものこそが最後に残る。

 はっとして、私は思わず抱擁を解いてしまった。

 そうか。私が先輩のことを想っていればと考えていたことは、まだこうして残っていて――

 思わず見つめようとした先にはなにもなく、私の視線は泳ぎ、やがて、それは透明ななにかへと作り変えられていった。

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