第2話 春色のカーディガン リバーシ
揺れるタクシーの中で、「次はどうしようかな」と作戦を考える。
すやすやと寝息をたてて眠る私を、相変わらずどうにかしてやろうという気配すらも見せずに、普通にしているこの人。私の寝たフリなんかに、気づく事は無いのだろう。
就職活動中、内定をもらった会社は4社だった。さほど苦労もせず一社目の内定を取れたので、しばらく条件の良い会社を探して就活を続けていた。
ある日、面接を終えて面接先の会社を後にすると、いきなり土砂降りの雨に見舞われた。
「こんなタイミングか・・・」
己の不運を嘆きながら、すぐそばにあったカフェに入って雨宿りをしようと思い、移動していた。
すると、先ほど面接をしていた会社から、二人の男女が出てきた。
私はその姿を見て咄嗟に隠れた。
面接先の会社の人と会うなんて、ちょっと気まずい。
入ろうとしていたカフェに、その男女も向かって来る。
「まじかぁ・・・」
私はどうしようか迷ったが、その男女に見られる前にそそくさと先にカフェに入った。
席について暖かいカフェオレを飲みながら、意外と降り続いている雨を眺めた。
「すぐに止むと思ったのにな」
天気予報では雨なんて言ってなかったし、傘を持っていなかったので、しばらく雨宿りすることになるな、と覚悟した。
植木を挟んで向こうの席に、さっきの男女が座っていて、その話声が聞こえてくる。
「ねえ、聞いてるの?熊谷クン」
「え?ああ、すんません。なんでしたっけ?ちょっと雨凄いなって見てたらぼーっとしちゃって」
「ほんと、熊谷クンて、いっつも上の空よね。人の話なんて全然聞いてないんだから」
何気ないその短い会話だったが、私はすぐに気づいた。
名前にも、声にも覚えがあった。
「先輩・・・この会社だったんだ」
卒業生の追い出しコンパの時も、隣の席にいたのに、就職先とか、彼の話題はほとんど聞くことが出来なかった。卒業後も、結局一度も連絡は無かった。
すっかり忘れたつもりでいたのに・・・
すっかり、忘れるつもりでいたのに。
内定をもらった会社の中で、その会社を選択したのは別に先輩がいるからとか、そういうわけでは無い。給料とか福利厚生とか、会社の理念とか、そういうのはどこもそんなに大差はない。というか、ホームページや求人情報に載っている内容の通りなんてことは結局無いのだから、参考にしても仕方ないのだ。
ただ、面接の時に「何か質問はありますか?」と聞かれて、私はいつも同じ質問をしていた。
「社員同士の雰囲気というか、社内の交流とかは多いですか?」と
この質問をすると、企業側は「社内交流と称して新人社員を飲みに連れているような風潮は無いか?」と聞かれているのだと勘違いする面接官が多い。
「いえ、弊社では社内レクリエーションの企画などは年に数回ありますが、上司が部下を飲みに連れまわしたりとか、そういうのはありませんよ」
と、回答をくれたりする。
聞きたかったのは逆だった。社員同士が仲が良く、自然と、強制的な雰囲気が無くても帰りに飲みにいったり、遊びにいけるような雰囲気か?と聞きたかったのだ。
社員同士の仲が良いという事は、会社全体の雰囲気が良いとも言える。それは仕事をするうえで重要だし、業績が悪ければそういう雰囲気にはならない。だからその質問をしていたのだ。
ただ、面接官の答えが、その会社だけは違ったのだ。
「当社では、社員同士がけっこう仲良くて、部署ごとではあるけれど、仕事後に自然と飲みに行ったりするグループが多いですよ。特に営業部は事務の子たちも割と営業さんが仕事終わるまでまってて、一緒に行ったりしているし。それに、社歴3年以上の先輩社員が奢るべし!みたいな風習があるから、新入社員の子も2年目の子も、割と喜んで参加してるわ。」
本当は営業部に配属されて、ばりばり活躍して、歩合で稼いでキャリアウーマンに!なんて憧れがあったのだが、両親からは反対され、営業事務志望で面接を受けていた。似たりよったりの内定条件の中で、その会社を選んだのは、面接官の一言だった。そうに決まっている。
新入社員として入社式を終え、自分たちの働くフロアーへ案内され、同期の新卒4名で2名ずつ、向かい合わせのデスクに座った。
WEBコンテンツの導入を提案するBtoB営業の部署で、営業部とはいえ残業はそこまで多くないらしい。昼間は営業社員は大体外出していて、戻ってくるのは夕方なのだそうだ。
「18時に終業したら、今日は新入社員の歓迎会があるので、休憩室で待っててくださいね」
そう言われていたので、終業後に休憩室に行くと、別の部署に配属された同期数名も既に休憩室で待機していた。
ガラス越しにフロアーの方を眺めていると、続々と営業社員が外回りから戻ってくる。その顔をひとりひとり観察する。
ほとんどの人が、休憩室に新入社員が待機しているのに気づいて、こちらを見て来る。そして、しばらくしてフロアーの方から歓声が聞こえるのだ。
「おおおーーーーーー!!!!」
新しく入社して来た新卒社員の女の子がかわいいぞ!
とか、そんな話題だろう。
そのまま眺めていると、見覚えのある顔が現れた。
疲れた顔をして入ってくる社員が多いなか、かれは相変わらずの無表情だった。
休憩室にいる新入社員たちにも気づくことなく、そのまま真っ直ぐ営業部のフロアーへ向かっていく。
なんとなくそうだろうな、と思っていたので、あまりに予想通りの彼の行動に私は一人でフッと笑ってしまった。
営業部とエンジニア部と事務、総務のメンバーで、50人ほど。どうやら馴染みの店らしきところの2階席を貸し切りにして、それぞれ案内された席へ座る。
掘りごたつ式の席で、空間も広いので、飲み会が始まると社員同士がけっこう席を立って移動する場面も見られた。
新入社員が順番に挨拶をしていく中、私は彼を見ていた。
どうやら私に気づいたようで、目が合ったのだが、彼は無表情のまま見つめ返してくる。
(驚いたりしないのかな・・・)
無表情で、何を考えているのかよく分からないのは昔からだ。
「新入社員の藍沢夏子です。営業事務に配属されました。営業部の皆さんのサポート、精一杯頑張りますので宜しくお願いします!」
いつものようにハキハキと、満面の笑みで自己紹介をする。
人当たりの良さとか、社交性とかには自信があった。
中学校、高校の6年間で50人以上の男子生徒から告白された。
他校の生徒に帰り道に告白されたり、高校の3年生の時には、卒業していった先輩から紹介された大学生なんかにも凄くモテた。けど、別に女子から嫌われたりもしていなかった。
「親が厳しいから」
そういって交際は全て断って、6年間彼氏無しで過ごした。
おかげで、それなりにモテても、「彼氏ナシ同盟」の友達グループで女子の妄想恋バナに浸かってしまったが、仲間外れにされたり、いじめられる事も無かった。
新入社員の挨拶が終わると、席を移動しながら皆自由に飲んでいた。
偉そうに踏ん反り返る上司はおらず、おじさん達は隅っこの方へ固まって、なにやら盛り上がっている。特に上司に気を使ったりしないといけない雰囲気も無さそうだ。
(けっこう自由なんだな)
社会人になってからの会社の飲み会というものに対するイメージと随分違っていて、拍子抜けした。
気さくな先輩社員がそれぞれの新入社員を孤立しないように盛り上げて、和やかなムードだ。無茶な一気飲みをする学生ノリも無く、酔っぱらって絡む人や、悪態をつく人、下ネタで騒ぐ人なども居ない。飲み会としては理想的かもしれない。
2時間ほどが過ぎ、上司への挨拶も個別に済ませ、一通り先輩たちとも会話をしたところで、改めて周囲を見渡した。
(あ、見つけた)
大学時代の先輩でもあり、人生で唯一私をもやもやさせた男。
私は彼に近づいて、ちょこんとその隣に座った。
いつものように、居心地悪そうに、居場所無さそうに、ちびちびとカシスを飲んでいる。
「お疲れ様です先輩」
私が声を掛けると、「ああ、お疲れ。」
まるで後輩の男性社員にでも返事をするかのような、気の無い返事だ。
会うのは二年ぶり。卒業生の追い出しコンパ以来だ。
連絡先も知っているし、通信アプリでいつでもメッセージや電話も可能だった。
なのに、一度も連絡は来なかった。
というか、卒業までの最後の一年、例の彼女と別れた後、別の人と付き合い始めて、サークルへ顔を出す事も少なくなり、あまり顔を見ることは無かった。
「今日、休憩室で待機してる時、帰社してくる皆さんを眺めてたんですけど、新入社員が休憩室に居るのに気づかなかった男性社員は先輩だけでしたよ」
あの雨の日に、カフェで同僚の女性社員からも言われていたが、相変わらず周囲に無関心なのだろう。久しぶりに会ったのにも関わらず、私は思わずちょっと嫌味を言ってしまった。
「あー、事務所戻ったらあいつらめちゃくちゃ騒いでたわ。今年の新卒レベル高けーーーー!って」
「皆喜んでたわ。店来て新卒の中にお前が居て、俺もびっくりしたよ」と続けた。
本当に驚いていたのだろうか。無表情過ぎて全然分からない。
ふと先輩の横顔を見ると、また遠くを見ていた。
いつものことだ。その横顔を眺めていて、ついカシスをちびちびと飲む口元に視線が向かった。
「私のファーストキス・・・」
大学一年生の、新入生歓迎コンパ。初めてのお酒で、私は適量も分からず。ビール数杯で酔っぱらった。チャラい3年4年生が大勢いたが、隣に座ったのは無表情で無口な、大人しい先輩だったので、安心してしまったのかもしれない。
周囲を見渡して、なんとなくその先輩をジッと見ている二年生の女の先輩が目についた。私が隣の先輩に話しかけている間も、ずっとこっちを見ている。
(もしかして彼女かな)
大学のサークルの飲み会で、自分の彼氏の隣に、可愛い新入生。きっと不安なんだろう。普段の私なら、そこで空気を読んで、その先輩女性に目線を送り「大丈夫ですよ(^^)」と合図するとか、その子を不安にさせないようにあまり隣の先輩と話さないようにするとか、していたはずだ。
しかし、私はその時酔っていたのだ。
いや、それだけでは無かったのかも。兎に角、自分でも意地悪だったなと後で思ったが、これ見よがしに私は先輩にくっついたり、近づいたりしながら、テンション高めで盛り上がった。
酔っぱらってぐったりした後、先輩にもたれかかると、壁の方へ私の頭をそっと移動させる。時間をおいてまた先輩の方に頭を寄せても、戻された。
客観的に見れば、私は可愛いはずだ。というか、美人タイプだろうか。
街へ出れば雑誌のカメラマンだとかいう人に名刺を渡され、写真を撮りたいと言われる事も何度もあったし、卒業アルバムを見ても、学年で1、2を争うくらいではあったと思う。実際大勢の男子に告白されたし、、、男の子と付き合ったことなんてないから分からないけど、こんな風に酔っぱらってもたれ掛かられれば、普通は嬉しいはずだ。
数回途中で体を起こし、また少しビールを飲もうとすると、先輩は「もう止めとけ」と制止する。そんなやりとりを見て、彼女(らしき人)は、途中で先に帰ってしまった。
先輩はそれを気にしている様子ではあったが、私は一層先輩にもたれ掛かって、追いかけるのを阻止した。
「二次会行くぞーーー!」
部長が呼びかけると、皆ぞろぞろと歩いて、近くのカラオケボックスへと移動した。
人数は半数くらいに減っていたが、大部屋でも満杯だった。少し窮屈に詰めて座る形になったが、それはそれで都合がよかった。フラフラと、酔っているふりをしていると、先輩は転ばないように支えてくれた。そのまま隣の場所を陣取り、座った。
カラオケでは、先輩は歌わなかった。私も酔い潰れたフリをしていたから、歌わなかった。一時間半ほどでお開きとなり、店の外へ出ると、3年4年の先輩が、新入生を無事に送り届けるよう部長が号令を出して、すんなり解散となった。
先輩が「家はどこだ?」「帰れるか?」「タクシー拾うか?」と何度も声を掛けてきたが、立ったまま下を向いて、先輩の言葉を無視した。
ついに諦めた先輩が、「ふぅ」とため息をついて、私をおぶさり歩き出した。
男の人とと付き合った事も無く、キスの経験すらない。自分から人を好きになった事も無かったし、父親以外の男性におんぶされたのも初めてだった。
もしかして、このまま先輩の部屋に行ったら・・・もしかして・・・
彼氏ナシ同盟の女子グループで、妄想恋バナで盛り上がっていた頃【大学生になったら先輩のお部屋へ】なんてシチュであれこれ話し合ったな。
乗り心地の良いゆりかごのような背中でそのまま私は寝入っていた。
目覚めると、私はベッドに寝かされていた。
初めての男性の一人暮らしのお部屋へ!という期待のドキドキも、ゆりかごの背中で寝入ってしまい、明らかに何も起こらなかったとしか思えない、着たままの服。
ソファにはタオルケットが置いてある。私をベッドに寝かせて、先輩はソファで寝たのだろう。
部屋の中をくるりと見回して観察していると、ベランダで人の気配がした。
少しすると、先輩は携帯電話を片手にベランダから戻ってきた。
「・・・・・先輩?・・・・私・・・」
何も無かったのはわかっている。そして先輩は、私が居たからベランダに出て彼女にでも電話したのだろう。
しかし、その顔を見れば、大丈夫でないのは明白だった。
「酔いつぶれた新入生を隣に座ってた3、4年生が送り届ける事になったんだけど。藍沢の家どこか知らないし、全然起きないから、、、連れて来て寝かせた。」
「もちろん、何もしてない。指一本触れてないし。見ても無い。ダイジョブ」
そう言って先輩は事情を説明し、コップに注いだ水を渡してくれた。
なにやら考え事をしている先輩に「どうしたんですか?」と尋ねると
「とりあえず彼女怒らせちゃったし、後で家に行って謝ってくるよ」と言った。
まさか、何もなく朝を迎えて、そのうえ彼女のところへ行くからさっさと帰れとでも言うのか。このままでは初めての男性のお部屋へのお泊りは、「何も無かった」という話になる。
この昼行灯。。唐変木。。。朴念仁。。。。
中高とずっとモテて来た。その気になれば彼氏なんてすぐ出来ると思っていた。
中学でも高校でも、目立ち過ぎると孤立すると思い、彼氏ナシ同盟なんて言って、6年間彼氏ナシで過ごしたのだ。夏祭りも、プールも、海も遊園地も、少女コミックで見た憧れのシチュも、全部素通りしてきたのだ。そんな時間を過ごしている間に、いつの間にか男性に免疫の無い、彼氏いない歴=年齢の処女のまま、大学生になってしまった。
大学生になったら、すぐに彼氏を作るんだ。
やり残した水色時代を、全部塗り替えて、大学生活は青春と共に生きるんだ!
そう意気込んでいた。
でも、テニスサークルや、有名なサークルは、遠くから見てもちゃらちゃらしていて、近づくことすら憚られた。既に高校時代の友達の中で、処女なんて「彼氏ナシ同盟」の私たちだけ。未経験だなんてカッコ悪いと思って、意気込んでみても、ちゃらいサークルに近寄る勇気も出なくて、どうしようかと彷徨っているうちに「社会研究会」というよくわからないサークルに行きついた。
でも、意外と普通だし、ノリは良いけど無茶はさせない。その雰囲気を見て、ここで良かったとさえ思えた。
隣に座った先輩は、口数も少ないし、無表情でよくわからない感じの人だったが、
ちゃらい人や強引な人より、ずっとマシだと思った。
(この人でいいや)
そんな風に思ったのかもしれない。
酔いつぶれた私をおぶってくれた時の、ゆりかごのような背中で、私は自分のバージンをこの人にあげようと思ったのだ。
それなのに、この男は、指一本触れてないし、見ても無い。さらにはさっさと帰らせようとしている。
「シャワー、借りてもいいですか?汗で凄いベトベトだし」
このまま何も無しで帰るなんてありえない。
彼女さん、、、あのおとなしそうな、人の好さそうな彼女さんには悪いけど、私はこの人を頂くと決めたのだ。
シャワーを浴びながら、どんな風に誘惑しようかと、頭の中で猛烈にシミュレーションした。自分から誘うなんてとてもとても出来ない。でもちょっと大胆に、無防備にしていれば、健康な男子なら我慢できるはずも無いだろう。
だいじょうぶ。私はかわいい。だいじょうぶ・・・
凄く恥ずかしかったけれど、センパイに借りたTシャツを着たあと、ブラを外した。
胸はそこまで大きいわけじゃないけど、形には自信がある。
(もっとかわいいの穿いて来れば良かった・・・)
大好きな漫画のキャラクターのように、小悪魔的に、いたずらっぽくしてみよう。
意を決してドアを開け、部屋に戻った。
「ッオイッ!」
部屋に戻った私を見るなり、先輩が声をあげた。
ずっと無表情で、口数も少ない人だったので、こんなに動揺するとは思わなかった。
私はゆっくりと、ベッドに腰かけている先輩の前まで移動して、先輩を見下ろした。
先輩は、私のお腹のあたりに視線を固めて、こちらを見ようとしない。
(それなら・・・)
すっとしゃがみこんで、下から見上げるような姿勢を取る。
上目遣いで顔を覗き込むと、思いのほか顔が近かった。
先輩の顔を見つめると、ちょっと顔が赤くなっているのがわかった。
ちゃんと動揺してくれていたのだ。
なんとなく嬉しくなって、つい笑ってしまった。
笑うと八重歯が見えてしまう。そうすると凄く幼く見えるから、あまり好きじゃない。
私は、そのままキスをしてやろうと、さらに顔を近づけたけど、あと1センチというところで、踏み出せずに停止してしまった。
(どうしよう)
頭も身体も停止して、ぷるぷると震えそうになっていた
ガチャ
音がして、突然ドアが開いた。先輩の彼女が、立っていた。
飲み会の時はロングスカートだったが、今日は少し膝上のミニスカート姿だった。
すごくかわいい、春色の、桜を散りばめたようなカーディガンを羽織っていた。
美人というわけではないが、「可愛らしい」という表現がピッタリ来る、愛くるしい感じの人だった。
今の私と先輩の姿を見れば、お泊りして、朝起きてシャワー借りて、ノーブラにTシャツ姿で、今にもキスしそうな1センチの距離。どう考えてもお持ち帰りの浮気現場だ。
先輩は、背を向けて立ち去った彼女を追いかけようとして、立ち上がろうとした。
私は咄嗟に両腕を掴んでそのまま勢いで押し倒し、口づけをした。
生まれて初めての、ファーストキスは自分からだった。
しかも、ベッドに自分から押し倒して。
ノーブラの胸を押し付けて、勢いに任せて精一杯誘惑をしたのだ
何もしてこない・・・
私はキスすら初めてで、このあとどうしたらいいかもわからない。
ここまでしたのに、彼は何もしてこない。
急に恥ずかしくなってきて、私は身体を起こすと、すぐに荷物を持って部屋を出た。
あの可愛らしい彼女さんを泣かせても、嫌な子だと思われても、それでもいいと覚悟をした。覚悟をして、意を決して、恥ずかしいのを我慢して、自分から誘惑したのだ。その結末は、まさかの無抵抗・無行動・無表情だった。
彼のリアクションの意味が分からず、混乱した。
自分ひとりで盛り上がって、勝手に色々覚悟したりして、恥ずかしくなった。
恥ずかしくて部屋を飛び出した。
帰り道、馬鹿みたいに流れる涙をぬぐう事もせず、そのまま歩いた。
しばらくして、彼女さんとは別れたようだった。
サークル内では二人が付き合って居た事に気づいた人はいなかった。
けど、彼女さんはしばらくしてサークルを辞めていた。
私は、それ以降飲み会の度に先輩の隣に座るようにした。
今度はもっと自然に仲良くなって、普通に部屋へ呼んで欲しい。
酔いつぶれて、ではなくて。
サークル内では、飲み会の時にいつも隣にいるから、二人は付き合っているのだと思われていた。
他の同級生や先輩達から口説かれたりすることも無くなったので、それはそれで都合が良かったが、実際には何も起こらなかった。
私は自分から男性にチャットメールを送ったりしたことが無かった。
グループチャットでは普通に話せるけれど、二人きりのチャットルームでやりとりすることは結局無かった。
自分からデートに誘う事も出来ず、個人的に連絡する勇気も無くて。
ただ飲み会の時に、隣に座る事しかできなかった。
私の事、どう思ってるのかな・・・
初対面で酔いつぶれて、介抱してくれて、シャワーも借りて、Tシャツも借りて、、、キスまでして。彼女と別れる原因になった女。
何も言ってくれないから、わからない。
嫌われてるのか、、そうじゃないのか、、、
飲み会で隣に座って話してても、普段学校で会っても、いつも態度は普通。
あの時のキスの事も、何も言わない。
向こうからデートに誘ってくるわけでもない。個人的に連絡も来ない。
ただいたずらに時間だけが過ぎた。
先輩が卒業してしまう、最後の年。夏の思い出を作ろうと、思い切ってサークルのイベントに参加するかを聞いてみた。
「いや、彼女出来たからさ。しばらくサークルの方は・・・」
そう言われたあとは、なんの会話をしたかよく覚えていない。
結局、会う機会も減り、卒業生の見送り会でも、なんとなく隣に座ったものの、ろくに話もせず、先輩はそのまま卒業していった。
卒業後は、一度も連絡は無かった。
結局大学生活の4年間を「彼氏ナシ同盟」と共に過ごし、夢のようなキャンパスライフを送る機会は無かった。先輩が卒業したあと、15人以上の人に交際を申し込まれたけど、私はなんとなく、誰とも付き合う事は無かった。
初恋・・・?
そうなのかな。。。よくわからない。
自分から人を好きになった事も無かったし、先輩に対する感情が、どんなものなのかが自分でもよく分からなかった。
ひとりでもやもやしてただけの4年間だった。
社会人になって、就職した会社で再開したあとも、相変わらず何を考えているのか分からない人だった。
毎月社員同士で飲みに行く機会はあったので、以前のように隣に座り、観察していた。
入社から数カ月経過した7月下旬のある日、すっかり会社に馴染んだ私たちは、ムードメーカーの竹原さんの号令で、いつものように飲みに出かけた。
「先輩またちびちび飲んでるんですか?カ・シ・ス」
変わらないクセ。変わらない表情。いつものこの人。
私は変わった。ビールくらいでは酔わなくなっていた。あの頃より、大人になった。
「先輩それちょこっとくださいよ」
ビールに慣れた私の舌には、カシスオレンジはジュースのようだった
「んー、甘いっ」
私は大人になった。こんな関節キスくらいではドキドキしたりしないのだ。
先輩はまた、遠くを見つめている
久しぶりに、昔の話を思い出しながら色々な事を話した気がした。
あの時と同じように、酔いつぶれたフリをしている私を、先輩はタクシーに乗せた。
部屋に着くと、先輩は私をソファへ寝かせた。
(ベッドじゃないんだ・・)
なぜソファの方へ寝かされたのか分からなかった。
うっすらと細く目を開けると、先輩はベランダに足を投げ出して、空を見ていた。
缶のカシスをちびちびとやりながら、空を見ていた。
「ごめん・・・」
先輩が呟く声が聞こえた。
なんのためのごめんだろうか。誰に向けたごめんだろうか。
すぐには分からなかった。
しかし、「グスッ」と、僅かに鼻をすするような音が聞こえて、なんとなく察した。
酔いつぶれた私を部屋に連れてきてしまったために、先輩は彼女と別れる事になってしまった。
同じように、また酔いつぶれた私を部屋に連れて来た。
それで、あの日の事を思い出したんだろう。
少しして、ベランダの窓を閉める音が聞こえたので、目を閉じてジッとしていた。
結局今日も、何もないままなのだろう。
私は、彼に何も言っていない。好きだとも言っていないし、好きなのかもわからない。個人でメッセージのやりとりも全然しなかったし、彼にとって私は、良くない存在だったのかもしれなかった。
同じ会社に入社してきて、また数カ月、かつてのようなよくわからない関係のまま。お互い何も言わない。あのキスも、彼にとってはなんでもなかったのかもしれない。
迷惑だったのかもしれない・・・・
急に、自分が惨めに思えてきた。私は何をやっているんだろう・・・
先輩はベッドに入った。結局何もしないまま。
いや、寝ている私のほほをつまんで、何かしていたが、よくわからなかった。
「ごめん・・・」
もう一度聞こえた。ベッドの中にいる先輩は、泣いているのかもしれない。
私は可愛いからと、私はモテるからと思い込んで。ちょっと誘惑すれば、向こうから口説いてくるだろうと。そう思った。
自分から告白をしたことなんてなかったし、よく考えたら、恋愛のスキルなんてゼロなのだ。
バカな私は、大学の四年間を無意味に過ごした。
人の幸せを壊しておいて、自分は待っているだけで、向こうから寄ってくると。
私も上の空で、相手のことなんて見てなかったのだ。
自分から、寄り添おうと、歩み寄ろうとしないで。待っているだけの情けない自分が生み出したのが、今のこの距離だったのだ。
同じ部屋で過ごしているのに、この距離は4年前から少しも近づいてはいなかった。
気づいたら、私は起き上がり、先輩のベッドのそばに居た。
もう寝ているかもしれない。それでも・・・
私は先輩の頭を、包み込むように両腕で抱えて、抱きしめた。
手の甲が、僅かに冷たい感覚で濡れた。
「先輩、、、あの時の事。ごめんなさい」
あの時の、彼女にも謝りたかった。
春色のカーディガンを来て部屋へ入ってきた彼女。
私たちの姿を見て、絶望し、悲観し、その場で泣き崩れるでもなく、怒って怒鳴るわけでもなく、ただ立ち尽くしていた。
そして、ゆっくり背を向けて立ち去っていくその後ろ姿が、記憶に鮮明に残っていた。
私の「ごめんなさい」も、先輩の「ごめん」も、彼女には届かない。
取り返しのつかない悲しみを生んだことに、ようやく気付いたのだった。
短編小説集 KJHOUSE @KJHOUSE
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