短編小説集 

KJHOUSE

第1話 春色のカーディガン


 バタンッ


少し勢いよくドアが閉まり、タクシーが走り始めた。

時間は0時を過ぎたばかりで、地下鉄の終電に間に合わないかと言えば、そうでもない。

しかし、泥酔した彼女を電車に放り込んで一人で帰らせるのも忍びない。それでタクシーに乗せたわけだが、何も考えずに自分の一人暮らしのマンションの方向をタクシーの運転手に伝えた。


 飲み会の空気は社会人になってもなかなか慣れずにいた。

その場にいる時は皆に合わせてそれなりに楽しむが、二次会まで付き合うと、ドッと疲れてしまう。珍しく最後まで残っていたのは、あの日のように、隣に彼女が居たからだ。


 二歳年下の会社の後輩「藍沢夏子」は、今年の春に新入社員として入社して来たばかりだ。新入社員の歓迎会で再開し、なんとなく気まずいまま隣の席に居た。久々の再開なのに、懐かしいとかいう話題は無く、普通に毎日顔を合わせる友人かのような会話をした。気まずいのは俺だけなのか。そんな思いが表情に出ないように、平静を装った。


 新入社員の入社から数カ月。7月も下旬となり、毎年のようにニュースで恒例となった「異常気象」とやらのおかげで、うだるような暑さの日。営業所に戻り当日の業務日報を片付け、18時をだいぶ過ぎたところで退社のカードを切る。

後輩たちも日報を終え、同期の連中もPCの電源を落としたところで、ムードメーカーの竹原が、「よしっ!飲みに行こうぜっ!」と声をあげた。

会社の業績は上々で、社員の給与も悪くない。社員同士で飲みにいく際は三年以上の社歴の社員で割り勘をする風習があり、入社1、2年目の社員は基本お金を出さず、ただで飲み食いが出来るという事もあり、強制ではないが参加率は高かった。

 おごりという事もあり、頻繁ではないが、月に1~2回そんな感じで自然と社員

15名ほどで飲みに出かけるのだ。


そして、彼女はまた自然と俺の隣にちょこんと座り、あの頃と変わらない様子で話しかけてくる。


 「先輩またちびちび飲んでるんですか?カ・シ・ス」


いたずらっぽく、冗談めかして、茶化すように彼女は笑う。

ショートヘアに、切れ長の目じりと長いまつ毛。顔立ちは美形と呼んで差し支えないが、笑うと見える八重歯が、彼女を美人ではなく可愛いという印象に仕立てていた。

新入社員の入社直後、彼女はとても話題となり、別のフロアの男性社員まで見学に来るほどだった。しかし、男性社員の誘いも軽やかに躱して、浮いた噂の一つも無いまま、気づけば数カ月、群がっていた男性社員は沈静化していた。普通にしていればモテるだろうし、仕事も覚えがよく、入社4か月目とは思えないくらい要領も良かった。飲み会ともなれば、色んな席で「こっちおいでよ」と呼ばれるわけだが、どういう訳か、気づけば隣に座っているのだ。


 カシスソーダとカシスオレンジを交互に、ちびちび飲むのが好きな俺を、社会人になり、ビールに慣れた彼女が笑う。昔はビール数杯で簡単に酔い潰れていたくせに・・・


 「先輩それちょこっとくださいよ」

そう言うと、彼女は返事を聞かずに俺のグラスを奪い取り、飲み始める。

 「んー、甘いっ♪」

そして、満足そうに笑いながらグラスを返してくる


 間接キス


そんな事を気にする年齢ではないのかもしれない。別によくある事だ。

他の女性社員だって、他の同僚だってしてくるし、大したことじゃない。


別の女性が相手であれば・・・


「先輩まぁた遠い目してる~。昔っからそうですよね」


ぼーっとしていると、彼女が不満げに声をあげた。

遠い目をしていると言われる事が多いのだが、ただ何も考えずにぼーっとしているだけだ。遠い目とは、どんな目なんだろうか・・・

高校生の頃も、大学生の頃も、社会人になってからも、付き合う女性のほとんどに

そう言われた。


 「何考えてるかわかんない」「いつも上の空」「遠い目をして私を見てない」「ほんとに私の事好き?」


お決まりのセリフだ。

そのセリフが数回出ると、そのあと決まって振られる。振られたのはこっちなのに、泣かれたり、悪態をつかれたり、時には頬を打たれたりもした。


女心のわからない男


そんな言葉が突き刺さる。確かに女性の心理はよくわからないが、じゃあ逆に彼女たちは、俺の何を理解してそう言ったのだろう。


「なんで引き止めないの」「なんで追いかけて来てくれないの」「なんで電話してくれないの」

続く言葉は決まっている。一体どうしろというのか。


いつもそうだ。どうするのが正解だったのか・・・


なんてことをぼーっと考えていたら、藍沢夏子の「まぁた遠い目してる」だった。


「昔っからって、大学の時もそうだったか?」

大学の頃の話題を切り出すのには少し勇気が必要だったが、いつまでも避けてても仕方ないし、それとなく話題を振ってみた。


「ずっとそうですよ。大学の新歓コンパの時もそうだったし。卒業の追い出しコンパの時も、いつもいつも。」

最初は笑っていた彼女が、言葉の最後の方でふいに顔を逸らした。


「大学の新歓コンパなんて、記憶あるのか?酔い潰れてたくせに」

自分から核心を突く言葉を出してしまい、ハッとなったが、彼女が顔を逸らしてくれていたおかげで、その表情は見られずに済んだ。


「後半は覚えてませんけど、先輩は最初からずっとそうでしたよ。ずっと上の空。心ここにあらず。周りの空気に合わせて、ここに居るだけ。一番みんなが盛り上がってる瞬間でも、居心地悪そうにノリだけ合わせて、お開きになりそうな雰囲気になるとホッしたような顔をして。二次会に行こ~って皆が言い出すと、無表情で皆の後ろについていく。結局大学で一緒だった二年間、飲み会の時はずっとそうでしたよ」


藍沢夏子にそう言われて、ドキッとした。

まさかそこまで詳細に見抜かれていたとは・・・。いや、他の皆ももしかして見抜いているのか?平静を装ってるつもりが、全部顔に出てるのか?

いや、そんなはずはない。そんなに表情に出るタイプで、簡単に見抜かれる男なら、

付き合った全ての女性から「何考えてるかわからない」などとは言われないだろう。


 「そうか」


なんと答えたらいいか分からず、短く返事をしただけだった。

彼女は何か言いたそうにしていたが、彼女もまた、俺と同じく大学の頃の事を思い出して、気まずくなっていたのだろうか。それ以上言葉を続けることなく、ビールを口に運んでいるだけだった。


 大学の新歓コンパの日、藍沢夏子はサークルの新一年生の中でも随分と目立っており、3年、4年生は随分色めきだっていた。

【社会研究会】という名のよくわからないサークルで、やる事は飲み会やレクリエーションだけで、普段は部室で喋っているだけ。そんな楽な集まりだった。

友人に誘われて顔を出したら、いつの間にか入部扱いになっていて、ちょうど同期の仲の良い数名が全員揃っていたから、そのまま居ついた。団体行動が苦手な俺が、3年生になっても部に居るなんて、自分でも想像していなかった。可愛い新入生で盛り上がる同級生や4年生の先輩達と同じように、心の中では好みのタイプどストライクの藍沢夏子を見て、実はテンションが上がっていたわけだが、キャラじゃないからと思ってそんな雰囲気を出さないように、おとなしくしていたのだった。

 部長が公平に決めようと言ってくじ引きを提案し、空気の読めない俺が藍沢の隣の席を引き当てたのだ。同級生や4年生の先輩からは恨めしそうな目で見られて、気まずいし居づらいし、当時付き合っていた一歳年下の彼女からは、心配そうな視線をずっと送られていて、針のむしろという気分で、カシスの味すらもよくわからず、確かに上の空であったように思う。

 せっかく話題の新入生の隣に座り、気さくな彼女も馴染もうとして一生懸命に話しかけてくれていたのに、よくよく考えれば、冷たい態度の先輩だと思われただろうか。


 自分のお酒の適量を把握してなかった新入生の藍沢夏子は(というか、未成年なわけだが)ビール数杯で酔っぱらい、柳のようにしな垂れて、何度も隣に座る俺にもたれ掛かって来ていた。最初は身体を起こして後ろの壁にもたれるように彼女の姿勢を正していたのだが、何度目かになって諦めて、そのままもたれさせていた。

それを見た一歳年下の彼女は怒って、二次会の途中で帰ってしまった。


 俺はというと、しなだれた藍沢夏子が居たため、途中抜けするタイミングを逸して、結局飲み会の最後まで残ってしまった。

「3年4年の上級生は、それぞれ隣にいる一年生を家まで送り届ける事」

部長の号令で一斉に解散となった。

藍沢夏子の隣に居た俺は、同級生や先輩から恨まれるんじゃないかと心配したが、結局飲み会が終わる頃には皆が打ち解けて、それぞれ自分の隣に居た新入生を家まで送り届けるためにさっさと解散したので、最後にポツンと、俺と藍沢夏子だけがその場に居た。

声を掛けても返事も無い。今日知り合ったばかりの新入生の住所など知るわけがない。仕方なく彼女をおぶさり、自分のアパートまで歩いた。


 家に着くと、彼女の上着だけを脱がせてベッドへ寝かせた。

水を飲ませようとしたが、泥酔している彼女は、口に水を含ませると、よだれのように口から水を垂れ流した。結局諦めてそのまま寝かせた。


シャワーを浴びて、部屋に戻ると急に眠気が襲ってきた。

(案外飲んだしな、、、)

そのままソファに倒れ込んで、考え事をする間もなく寝入ってしまっていた。


翌日は土曜日で、バイトも無いしやる事も無い。携帯のアラームもセットしていなかったので、起きたら11時を回っていた。携帯を見ると、昨晩先に怒って帰ってしまった一歳年下の彼女から、何度も何度もメールと着信が入っていた。


着信履歴を見ると、昨晩からずっと、何度も連絡をしてきていたようだった。


可愛いと評判の新入生の隣に座っていた彼氏。自分が怒って途中で帰ってしまったのに、追いかけても来ない。電話もしてこない。むしろ電話に出ない。

朝・・・というか翌日の昼まで連絡つかない。

普通は怒るだろう。怒ってしかるべきだ。それは仕方ない。

藍沢夏子はまだ眠っていたので、ベランダに出て彼女に折り返しの電話掛けた。


 トゥルル・・ピッ

2コールもしないうちに音がした


 「・・・・もしもし」

消え入りそうな、不安そうな、泣き出しそうな、彼女の小さな声が聞こえた。

「もしもし。ごめん遅くなって。最後まで残ってて、けっこう飲んでたから帰宅してすぐ寝ちゃってたよ。夜も電話くれてたのに気づかなくてごめん」


嘘はついていない。藍沢夏子がベッドで寝ている事は言ってないが、説明に嘘は無い。ていうか何もしていない。指一本触れてはいないのだ。


「なんで、、、」


消え入りそうな彼女の声が、電話越しに何と言おうとしたのかは容易に理解できた。

途中で先に帰ってしまった彼女を、全速力で追いかけるべきだったし、藍沢夏子を送り届けるのは誰かに頼んで、彼女のアパートまで行くべきだった。

その気力が無くても、すぐに電話するべきだった。誤解をとくべきだった。


右手の中指と親指で、自分のこめかみをグッと抑え、手のひらで目を覆うようにして、ベランダの手すりに肘をつき、携帯電話を左耳に当てて、彼女の言葉の続きを待った。

罵倒されるかもしれない。泣かれるかもしれない。すぐに私のとこへ来て!と叫ぶかもしれない。付き合い初めて3カ月。彼女の泣くところも怒るところも見た事は無かった。こんな時、彼女はどんなリアクションをするのだろう。


しかし、彼女からの続きの言葉は無かった。電話越しに、小さくすすり泣くような声が聞こえ始めたかと思ったら、電話はそこでプツリと切れた。


すぐに電話を折り返して、謝ろうか。

それより急いで彼女のアパートへ行こうか。


考えがまとまらず、水でも飲もうかと部屋へ戻ると、藍沢夏子が目を覚ましていた。


「・・・・・・・・・先輩?・・・・・私・・・・」


藍沢夏子は自分が服を脱いでいない事を確認し、部屋をぐるりと見渡して、自分の部屋ではないことを認識し、昨晩の事を必死で思い出そうとしているようだった。


「ああ、酔いつぶれた新入生を隣に座ってた3、4年生が送り届ける事になったんだけど。藍沢の家どこか知らないし、全然起きないから、、、連れて来て寝かせた。」


「もちろん、何もしてない。指一本触れてないし。見ても無い。ダイジョブ」

慌てて補足説明。落ち着こうと慌てて水を飲み、そういえばと思い藍沢夏子にもコップに水を注いで手渡そうとした。


「何も言わずにコップを受け取り、水を一気に飲み干した藍沢夏子が、コップを俺に返しながら、ようやく口を開いた

「すみませんでした、先輩。私酔いつぶれて、ベッドまで占領しちゃったみたいで」

そそくさとベッドから降りて、床に座ろうとする彼女を制して、ソファへと座らせた。そして行き場のなくなった自分が今度はベッドに座る。ふと、彼女の残り香を感じた気がした。


「彼女さん、、、怒って途中で帰っちゃいましたよね。。。大丈夫でした?」

藍沢夏子がバツの悪そうな顔で言った。

昨日会ったばかりだし、彼女の話などした覚えはなかったが、まさか昨晩の雰囲気を見ただけで、気づいたのだろうか。彼女と付き合っていることは、まだサークルの誰にも話して無かった。


「言ったっけ?」

そう言葉を返すと、彼女は申し訳なさそうな顔をして

「私、そういうのすぐ気づくんです」

とだけ言った。


可愛い新入生の隣に座っている彼氏を心配そうに見ている二年生の先輩。

途中仲良く話していて、時折距離が近すぎて、周りから「ヒュー」と冷やかされている姿を見て、ついには怒って先に帰ってしまった彼女の姿を見て、気づいていたのなら。わかっていたのなら、なぜ藍沢夏子は、距離を置いたり、少しよそよそしい態度にするとかを、しなかったのだろうか。

彼女が怒って帰ってしまった後も、それで落ち着かない雰囲気の俺にも、気づいていたはずだ。それをわかっていて、酔い潰れてもたれ掛かって来たのか?

いや、お酒を飲んだのも初めてで、本当に酔い潰れてしまっていたわけだから、そこは確信犯では無いだろう。しかし、彼女の事には気づいていたのだ。それならなんで・・・・


藍沢夏子という人物をなんとなくつかみ切れず、いつものように考え込んでしまっていた。

「先輩?どうしたんですか?」

いつもの癖でぼーっと考え事をしていた。

こんな時、付き合って居た彼女たちには、「遠い目をしている」「上の空」などと言われてしまうのだ。

「いや、別になんでもない。まあ、とりあえず彼女怒らせちゃったし、後で家に行って謝ってくるよ」

なぜ怒ったのか。その原因の多少は藍沢夏子にもある。しかしそれは不可抗力だ。

藍沢夏子にはさっさと帰ってもらって、とりあえず彼女に会いに行こう。それが正解だ。


「シャワー、借りてもいいですか?汗で凄いベトベトだし」


 その言葉は予想外だった。

仕方なく酔いつぶれたから連れて帰ったわけだが、昨晩が初対面だ。昨晩何もしていないとはいえこの状況。襲われるかもしれない。そそくさと帰るのが普通の反応だろう。怒らせてしまった彼女に謝りに行くと言っているのだから、さっさと帰れと言われてるようなものだ。


「あっ・・・・と、そこドア出て左にあるよ。」

つい、シャワールームを案内してしまった。

藍沢夏子はスッと立ち上がり、シャワールームへ入った。


シャアァァァァァァァ・・・・


シャワーの音が小さな部屋に響く。シャワールームのドアは曇りガラスなので、彼女のシルエットがうっすらと見えてしまう。

「タオルここに置いとくから」

少し声を張って、中の藍沢夏子に聞こえるように言うと、タオルを置いて部屋へ戻った。わざとバタンと音を立ててドアを閉めた。シルエットが透けて見える事くらいバスルームのドアを見ればわかるだろうに。何故部屋のドアを閉めていかなかったのか。


数分後、彼女がタオルで体を拭きながら、声を掛けてきた

「先輩っ!」

「何?どうかした?」

このタイミングで呼ばれるとは思わず、ドア越しに返事を返す。

「何か・・・着るもの貸してください」


考えなかったわけでは無かったが、勝手に自分のTシャツなんかを着替えとして置いたら、嫌がるかもしれないと思ったのだが、裏目に出たようだ。

「ごめん、これ使って」

ドアを少しだけ開けて、スキマからシャツを渡した。


バスタオルを洗濯機に放り込み、フェイスタオルで髪を拭きながら、藍沢夏子がドアを開けて部屋へ戻ってきた。


俺のTシャツ×藍沢夏子×濡れた髪


明らかにノーブラで、Tシャツ一枚の姿で出てきたので、思わずびっくりして叫んでしまった。

「ッオイッ!」


俺のその慌てぶりを見て、彼女はキョトンとしていたが、意味合いをすぐに理解した。

彼女はゆっくりとベッドにいる俺の前まで来て、正面に立った。

視線を上げるとそのノーブラのバストが視界に飛び込んでくる。誘惑に負けたら終わりだ。視線を上げる事が出来ずに、彼女のへそあたりをジッと見つめていた。


すると突然藍沢夏子はその場へしゃがみこんだ。


ッツ・・・


今度はTシャツのスキマから、ノーブラのバストの谷間が見える体勢で、下から見上げてくる。

その姿を意識して、見ないようにしているのを分かっててやっているのだろう。


彼女は小悪魔っぽく笑みを浮かべた。

切れ長の大きい瞳に、長いまつ毛、色白できれいな額。薄い上唇はほんのりピンクで、高すぎない鼻はその造形美を彫刻的なものではなく、少女の名残りを思わせた。

そして、笑みを浮かべた彼女の口の端に、八重歯が覗いた。

彼女はゆっくり近づいて来て、そのまま鼻と鼻がくっつきそうな距離まで顔を近づけて来て、そこで静止した。


急な出来事に驚いて、息を止めて次のアクションを待った。

しかし、そのまま10秒か、もしかしたら20秒近く経ったかもしれない。

呼吸が続かない・・・だんだん息苦しくなり、全力で吐き出す息が藍沢夏子の顔面に吹き出されそうになった瞬間、ガチャっとドアが開いた。


彼女がドアを開けて入って来たのだ。

買い物袋をぶら下げて、いつもより少し可愛らしい服装で。珍しく少しミニのスカートを穿いて。前に一緒に買い物に行った時に買った春色のカーディガンを羽織って。


電話越しで彼女は泣いていた。俺が謝るために電話をしてくるのを待っていた。

もしくは、突然ピンポンと鳴らして、息を切らして走って、彼女のアパートまで来るのを、待っていたはずだった。


しかし、藍沢夏子がシャワーを浴びて、俺のTシャツを着て、いたずらな笑みを浮かべるまでの間に、彼女なりに色々考え、許し、仲直りのきっかけを与えようと、少し勇気を出して、普段は穿かないミニのスカートを穿いて、デートの時に買った新しいカーディガンを羽織って、わざわざ来たのだ。


その彼女の優しさを、最悪の形で裏切る姿を見せてしまった。


今朝の電話の時点では、嘘は無かった。隠し事はあったが、嘘は無かった。

あのまま藍沢夏子を帰らせて、すぐに家を出て、走れば良かったのだ。

もしくはすぐに電話をすれば良かったのだ。


それなのに、言われるがままにシャワーを貸して、俺のTシャツを貸して、ノーブラの無防備な姿にグラつき、鼻と鼻がくっつきそうな程に顔を近づけてくる小悪魔を振り払う事が出来なかった。


 その結果だった


彼女は持っていた買い物袋をするりと落とし、何事かがあったようにしか見えない男女の姿を目にして、目を伏せ、何も言わずに背を向け、出ていった。

彼女を呼び止めようと、追いかけようと、駆け出して追いつき、抱きしめようとする俺の初動を、藍沢夏子はあっさりと封じた。


 なんでこのタイミングで・・・


立ち上がろうとした俺の両手をつかみ、藍沢夏子はその唇を押し当ててきた。


そのままベッドへ押し倒され、ノーブラのシャツで胸を押し付けられ、身動きの出来ない俺は、無抵抗のまま彼女の唇が過ぎ去るのを待った。


しばらくして、藍沢夏子は身体を起こし、そのまま荷物もまとめて無言で部屋を出ていった。


 混乱していた。


藍沢夏子の行動は、確信犯的な意図をもっていたように思えた。

彼女を怒らせるのが目的か。俺たちを別れさせるのが目的か。意味が分からなかった。


いや、飲み会の時、俺と彼女が付き合っている事を雰囲気だけで察したのなら、その後の一連の行動は、故意であるとしか言いようがない。


 なんのためだ?


俺も彼女も藍沢夏子とは初対面だ。恨まれるような覚えも無い。

なぜわざわざ、仲を裂くような行動をするのか。なぜわざわざ彼女を怒らせるような、悲しませるような行動をしたのか。


シャワーを借りたのも、Tシャツを借りたのも、彼女がここへ来ることを知っていて仕掛けていた罠のようにすら思えた。


彼女から俺を奪うため?

いや、そんな自惚れもおかしいが、それならまだ多少は納得がいく。

しかし、彼女が泣いて出ていくのを見て、そのあと藍沢夏子は、何も言わずに帰っていったのだ。


 この事はどれだけ弁解しても、誤解と、誤解ではない事が一緒くたになっていた。というか、最初に藍沢夏子が部屋に居る事を隠していた時点で、間違いだったのだ。否、間違いと言えばもっと前、飲み会で途中退席した彼女を追いかけなかったのが間違いだった。。。。

そんな事を何度も考えたが、後の祭りだ。結局彼女とはそのまま別れた。

しばらくして、彼女はサークルにも顔を出さなくなって、それっきりとなってしまった。


しかし、当の本人。藍沢夏子とも、そのまま卒業まで何も起こらなかった。

飲み会の時は気づけば隣に座っている。しかし彼女はそれ以降、再度酔いつぶれる事は無かった。卒業までに何度も飲み会はあったし、飲み会ではいつも隣に藍沢夏子が居たので、サークルの奴らは二人が付き合っていると思っていた。しかし実際は、休日に二人きりで会った事も無く、グループでのメールや連絡は普通にしていたが、二人きりのトークルームで会話が弾むなんて事は、一度も無かった。

四年生の夏頃に別の女性と付き合いだして、サークルの飲み会に顔を出す機会は減ってしまい、卒業コンパまでは、藍沢夏子の顔を見る事さえほとんど無かった。

「何、お前ら別れたの?」

同級生たちにも何度か言われたが、そもそも付き合って居なかったし、なんと返答をしたらよいのか分からなかった。


社会人になってしばらくしてその彼女とも別れてしまい。一人で休日を過ごす事にも慣れてきた頃、新入社員として同じ会社へ入社してきた藍沢夏子と再会した時は、なんとも複雑な心境だった。


 「2280円になります」

タクシーが停車し、運転手が声を掛けてきた。

料金を支払い、藍沢夏子を肩に抱えてタクシーを降りる。

マンションのエレベーターに乗り、9階のボタンを押してドア閉まるのを待ち、壁にもたれ掛かる。

「ふう・・・」

エレベーターが9階に到着すると、ドアが開いた。

壁にもたれさせておいた藍沢夏子を、再度肩を貸す形で抱き起し、部屋の前まで歩いた。

部屋のドアを開けるためにカバンから鍵を取り出そうと、一度藍沢夏子を通路の手すりにもたれさせて、急いで鍵を開けた。


靴を脱ぎ、薄暗い部屋の明かりを手探りで点けて、ようやく彼女を部屋へ運んだ。

「あの時以来だな・・・」

藍沢夏子と初めて出会った、大学生の時の新歓コンパを思い出した。

藍沢夏子を部屋へ連れて帰り、翌日二人で部屋にいるところを彼女に目撃され、別れる事となった。そして、ふろ上がりの藍沢夏子にキスをされたのだ。


あの時と同じようにベッドに寝かせようとしたが、なんとなくフラッシュバックした記憶で、あの時と同じようにするのがなんとなく釈然としなくて、彼女をソファへ運んだ。上着だけ脱がして、小さなタオルだけ掛けておいた。


自分はシャワーを浴びて、歯を磨き、短パンのジャージ姿に着替えて、部屋へ戻った。

エアコンを丁度よく利かせた部屋で、窓を開けてベランダに足だけ出して、冷えてない缶のカシスソーダを飲むのが好きで、ちびちびと一人で飲みながら、空を見上げた。満月に近い、丸い形をした月が、明るく輝いている。

 飲み過ぎて、帰宅したらそのまま寝てしまう。なんてことはもう無かった。

ちびちびとしか飲まないのだから、酔っぱらう訳も無い。ひんやりと冷たいベランダの床に、スリッパを履かずに足を投げ出した。

あの時付き合っていた彼女が、結婚したらしいと、人づての噂で聞いた。

3カ月付き合ってて、ちゃんとデートへ出かけたのは2回だけだった。そのデートの時に、春色のカーディガンを僕が気にいって、彼女に来てほしいと言ってプレゼントしたのだ。

 春の桜を思わせる、ピンクと水色のカーディガン。ふんわりと、柔らかい表情で笑う彼女を、好きだった。好きだったはずだ。


それなのに、飲み会の時に先に帰っていった彼女を追いかけなかった。

すぐに終わったら電話をすれば良かった。朝起きたらすぐに会いに行けば良かった。

最悪の場面を目撃されても、カッコ悪くても、土下座でもして弁解すれば良かった。

どんなに泣かれても、罵られても、ちゃんと伝わるまで説明すれば良かった。

結局別れる事になったとしても、大好きだったと、一生懸命伝えれば良かった。


そうだろう


あれから何年も経った。今更それを思い出すのは、藍沢夏子に再開したからだろうか。それとも、彼女が結婚したという話を聞いたからだろうか。


もう一度空を見上げると、月はにじんで、ふやけたようによじれていた。

頬を伝わる水滴が、あご先からポトリと落下した。


カシスの缶を持つ手の親指に、その水滴が触れた。


なんのための涙なのか、分からなかった。

窓を閉め、部屋へ戻ると、藍沢夏子はすやすやと寝息を立てて寝ている。

寝顔だと、八重歯は見えず、その整った顔立ちは、美人と言って差し支えなかった。


寝ている彼女の頬を引っ張り、八重歯をあらわにする。

あの時のような小悪魔的な微笑みでもなく、故意に作った変だった。


ベッドに入り、藍沢夏子の居るソファに背を向けるようにして寝た。

薄れゆく意識の中で、もう一度彼女の事を思い返した。


「ごめん・・・・」


誰に向けてでもなく、小さな声で呟いた


春色のカーディガン着て、柔らかい笑顔で笑う彼女の姿を想像した。


確かに彼女の事が、好きだった。


























































































































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