僕
まず感じるのは、光だ。思考が一端リセットされるように、頭の中に「白い」という感覚だけが芽生える。そして次に、あぁ今日も目覚めてしまったのだなと実感する。僕の中で生まれていた人生は急速に遠く、小さくなって消えていってしまう。
目を開くと、見慣れた病院の天井が広がっていた。わずかに視線を動かすと、吊られた点滴が一定のリズムを刻みながらポタポタと落ち、太陽の向きを知らないひまわりが、陰気に思える無表情で鏡に映り込んでいる。そして耳は、無機質な機械音が、心臓の鼓動と共鳴するように室内に木霊するのを捉える。これが、僕の世界の全てだった。
鳥かごと形容することもままならない、奴隷船の中のような空気だ。無論ベッドはふかふかだし、シーツも着ている服も清潔だ。体は定期的に洗われ、開いた窓から新鮮な空気が流れてくる。だがそれでも、僕にとってはこの消毒液交じりの空気が、何年間も掛けて堆積された僕の漏れ出した自我が漂うような、自分以外の誰かが部屋に詰め掛けているような圧迫感を感じるのだ。
僕は生まれてから一度も、この病室の外を見たことはない。それは自分の目で、という意味で、写真や、映像や、絵などを見せてもらったことはある。その情報をもとに、僕は夢の世界を描いているはずなのだ。自分の意志で歩いて、喋って、自由気ままな世界、というわけにはいかなかったけれど、それでも僕が現実では到底体験できないような様々な感動や苦悩と言った、人生を見ることができる世界だ。だがそれはあくまで夢の世界であって、起きる前のほんの数時間しか体験できず、起きてしまえばもはやそこは現実であって現実でない空間でしかないのだ。
僕の苦痛の一日が始まることを、もう眠れないと悲鳴を上げるような目の冴えが告げていた。思考は雲一つない晴天のようにはっきりしており、体はいきなり走りだすことさえ可能なほどのエネルギーに満ち溢れている。だが、それでも僕はこのベッドの上で身動き一つできず、ただ緩慢に時間が流れるのだけを待っていた。これが、僕の人生の全てだった。
僕は、生まれた時からこの病院にいる。病名は長くて覚えることができなかったが、非常に稀有な病気らしく、自分の意志で体を動かすことができない脳の病気だと、若い研修医や医学生などに説明しているのを聞いたことがある。内臓機能は正常に働いていて、栄養を吸収して体内に循環することができる。だが呼吸器系だけは、機械の力を借りなくては安定せず、それゆえにこの病院から出すことができないのだと、担当医は説明していた。歩くことはもちろん、喋ることもできず、首の向きをわずかに変えれるばかりで、表情も動かず瞬きだけを繰り返している。その時はなんだか実験動物のように扱われているようにも思うが、それでも僕にとっては自分の役割を認知できる貴重な機会で、つい嬉しくなってしまうものだった。
十二年前、僕は家族の寵愛を一身に受けながら生まれ落ちた。その時の喜びようを、母はよく口にするが、それ以外に僕が生まれてきてから振りまいた喜びがないからだろうと僕は思ってしまう。いざ生まれてみれば、僕は機械の力無しでは生きられないような出来損ないで、企業主として成功していた父が惜しみなく金を注がなければ僕はそのまま三途の川を渡っていただろう。
僕が生まれた頃の記憶は、多くの人がそうであるように朧気で、ほとんど覚えていない。赤ん坊のころは、何が大事で何が大事じゃないか分からないから、全部を覚えようとしてかえって何も覚えることができないのではないかと思う。だから、強烈な、脳ではなくて心に残るような大きな出来事しか、成長してから思い出すことができないのではないかと思う。だから、僕が赤ん坊のころに覚えているのは、母の悲しそうな顔で、それでも僕のことを何があっても愛そうというような覚悟を決めた顔であった。それは病院の一室で今と同じように横になっていた時の記憶で、覗き込む祖父が辛そうな顔をしていたことも覚えている。
だが物心がつき、成長してからもしっかりと思い出せる記憶が刻まれ始めた頃の、もっとも古い記憶の中ではすでに、母は今のようにやつれて、疲れた顔をしていたように思う。それは、時間が経って鉄が風化するように、母の中で立っていた決心の柱が腐食して初めていて、僕のことを愛しているのか憎んでいるのか分からないことに苛立っている、そんな風に思えた。その顔の中には、僕がかつて見た強い母性は鼻筋や目のくぼみの影に隠れてしまって、どこか複雑な感情が表情に浮かんでいたように思う。なぜ自分の子がこんな目に合うのか、というやり場のない怒り、なぜあなたのような子が生まれてきたのかという憎しみ、僕に対する哀れみや悲しみ。それらがまるで隕石のような視線になって、僕の体に降り注いだ。僕が見えていることを知っている母は、努めて表情には出さないようにしているようだったが、その瞳の中には、皆既日食のような黒々とした瞳の中に、感情が星となって散りばめられている。
僕だって、なぜ自分がこんな風に生まれてきてしまったのかと、恨みを募らせたこともある。それはかつて子を捨てた母に対してであり、僕を救ってくれない父であり、僕という不完全な命を作った神と呼ばれる超越存在に対してであった。僕は何のために生まれたんだろうか、いったい何の役割を割り振られているのだろうか。この人生という夢の中で、何を演じるべきなのか。例えば、僕が寝たきりでいることで、実は未曽有の大災害を食い止めているだとか、世界で理不尽に死んでいく人たちのことを救えているだとか、そういった理由があるのなら教えて欲しかった。人は平等だと言うけれど、それは全くの間違いだ。平等なのは時間であって、だがその過ぎていく時間から生み出す価値には人それぞれに格差が生まれるのだ。僕がこうしてただ生命活動を続けるだけの時間と、人として生きる時間には、決定的で埋められない、月に向かって地面を掘っていくくらいの差があるのだ。
僕は、自らで命を絶つことができるなら、今すぐにでも実行する。たった一言喋れるなら、世界中に聞こえるくらいの声で願いを伝えよう。だが、僕にはそれすらできないのだ。たった一つの願い事を叶えることもできない。人は表情にその思いを乗せることもできるが、僕には表情ですら伝える権利がない。ひたすら目で訴えているつもりだが、この十二年間一度もそれが伝わったことはない。難易度としては最高難度の伝言ゲームだ。
これは何かの罰なのだろうかと、考えたこともある。前世でとんでもない大罪を犯したことに相応しい罰なのかもしれない。だが、その罪を覚えてもいない僕に罰を与えてもそれが何か意味のあることなのだろうか。そして、なぜその罰に僕の家族まで巻き込まれなければいけないのだろうか。父は、僕が生きているために巨額のお金をかけている。僕は人と同額ほどの機械たちに囲まれて、なんとか生き永らえている。それは、何の価値もない僕に無理やり価値を生み出しているような感じがする。母は、僕のことを愛しきることも憎みきることもできず、僕を見捨てられない。それは、かつて母が生まれる前の子どもを捨てたことが原因で、僕のことを何があっても守ると心の奥底で決めているからだった。だから、僕の兄妹を作ることもしていない。生まれてしまったらきっと、僕のことをもう愛することはできないと思い込んでしまっているのだ。
僕は、もう両親に憎まれても仕方ないと思っている。僕のせいではないけれど、僕のせいで家族は確かに苦しんでいると思う。だから僕のことを殺したいほど憎んで、それで殺されてしまってもしょうがないと思っている。そして、もしそれで僕が殺されてしまっても、そのことで誰かを罪には問わないで欲しいとも、思っている。それでも、母は僕が死んだら悲しむのだろうか。
「こんにちは」
僕は、二回瞬きをしてそれを挨拶とした。
「今日も、元気そうでなによりだ」
若い男性は、ベッドの脇にある椅子に腰かけ、僕の顔をじっと見た。この病院にくっついている大学の医学生で、何度か見たことのある人物だった。彼もまた、僕のことを研修の際に見ており、その時に僕に興味を持ったのだそうだ。今は、彼の休みに面会客として訪れて、こうして会話をしている。
僕たちの会話のルールは、二回連続で瞬きをした時は頷き、というただそれだけの簡単なものだった。彼は不思議なことに、僕が考えていることを全て見通すかのように、多くの質問を投げかけてくれる。イエスかノーかでしか答えられないが、彼は初めて僕に会話というものを教えてくれた。
また彼は、決まって自分のことを話した。それもそのはず、僕から話すことはできないのだから、話を広げていくには彼が話すしかない。その日も、彼は唐突に話を始めた。
「僕は昔、目玉焼きが嫌いだったんだ」
そして思い出したように、目玉焼きって分かるかな、と尋ねてきたので、僕は二回瞬きをした。彼は、少し意外そうな顔をした。
「子どもの頃は、毎朝食事に出てきた。母が卵が好きで、その影響で冷蔵庫にたくさん卵が入っていたからかな。その頃は苦手だなぁ、くらいに思っていたんだけど、久しぶりに目玉焼きを食べた時に、ふと思い出したんだ。そして、あの時はきっと、目玉焼きが嫌いだったんだろうなって、今になって思った。
そもそも、卵が嫌いだったのかもしれない。狭い世界に閉じ込められた子どもを象徴しているようで、ひよこにすらなれず、このまま食べられるだけに生まれてきたんだと思うと、自分の未来を示されているようで怖くなった。卵を見るたびに、頭の片隅でそう思ってたと思うんだ。だけど、それをうまく言語化できなくて、もやもやとした黒っぽいガスみたいに漂っていて、それが子どもの頃にやってたゲームのモンスターに似ていて、分からないことが怖いという気持ちになってた。
だけどその頃の僕は、今よりも大人ぶろうとしていたんだと思う。そういった、子どもっぽいんだけど、それが心の奥底から生まれてくる感情だったはずだけど、それを表に出したくなかった。
だけど今は、目玉焼きが好きでね。母が作るのと違って、底が焦げてないから。少し半熟気味に作ると、白身がぷるぷるでおいしんだ。その時、大人になるっていうのは、目玉焼きを好きになることなのかもしれないって思った。五秒後くらいには、大人の理性ってやつに一蹴されちゃったけどね」
彼はしみじみと、思い出した過去を懐かしむように話してから、僕を見た。
「君は、死にたいと思ってるでしょ」
僕は目を見開いたが、すぐに二回瞬きをした。
「だよね、顔にそう書いてある。だけど、あんまり今の自分の気持ちを過信しすぎない方がいいと思うんだ。確かに君は、これから長い時間を生きて、その間に治療法が見つかるかは分からない。君には、それが怖いんだ。未来は不確定で、だからこそ、自分がこの先自由になれるかどうかはほんの小さい確率でも存在している。それを諦めているつもりで、手放すことができないから、未来が怖いと思ってしまう。
だけど、大人になってからは、どうしてあの時あんなことをしたんだろうって、道を見失ってしまうんだ。強固な意志に固められた夢でも、蜃気楼の彼方に消えてしまう。大人になるとね、色んなことを忘れちゃうんだよ」
だから、未来のことを考えるのを辞めないで欲しいと言って、彼は席を立った。
「ごめんね。最近は忙しくて、なかなか時間を作れないんだ。今書いている論文が認められて、うまくいけば海外の大学に行けるかもしれない。そうなったら、君に会う時間はもう無くなってしまう」
そして彼はもう一度、丁寧に頭を下げながら謝った。
夜が訪れると、病院の中も外も一層静まり返り、病院は宇宙を旅する船となる。太陽を失ったひまわりは、自分の世界の向きを忘れてしまったように途方に暮れるだろう。だが僕にとっては、夜に浮かぶ月こそが、真実の太陽であり、僕の人生を照らしてくれる光だと信じている。それは、夜に訪れる世界に、僕を招待してくれる夢の乗車券だった。それはこの狭い世界に閉じ込められた反動なのか、それともその代償に体を動かすことができなくなったのか。
その夢の中では、僕は男であったり、女であったり。世界が輝いて見えることもあれば、世界が灰色に見えることもある。それは誰かの人生の軌跡であり、僕はその夢の中で誰かの人生を模倣している。それはいつかあった、誰かの現実ではあるが、僕の現実ではない。だが僕にとっては、この夢の中こそが現実で、本当の現実の方がたちの悪い退屈な夢なのだと思う。たとえ誰かの模倣なのだとしても、僕はその世界で喋ることも、歩くことも、およそ人間が感じられる喜びも悲しみも怒りも千差万別の人生を感じることができる。雪の白さも、酒の味も、炎の熱さも知ることができる。それは現実でただ人形として生きているだけの僕よりも、よっぽど生きていると感じることができる。
たとえるなら僕は、現実では花のように無害で、退屈な人間なのだ。この病院に根を張って離れることはできず、太陽の方向へ首を動かすことしかできないのだ。だけど僕が、こうして夢の世界に喜びを感じているということを、植物の気持ちが人に伝わらないように誰にも教えることはできなかった。
だが同時に、僕が決して現実で生きていくことができないのだとも、この夢は教えてくれていた。この夢を世界を知ってしまっている以上、僕を取り巻く現実にもこうした色のある世界が広がっているのだと分かってしまう。そうすれば、僕はたった夢の数分間の記憶でない、現実の数万時間という時間をもこの世界で過ごしたいと思てしまうのだった。知らなければ、こうして辛くなることもなかっただろうに。これは祝福なのだろうか、それとも罰なのだろうか。
だがそれでもやはり、夜が訪れ、また夢の世界を旅できると思うと、心は歓喜する。その喜びのあまり、眠気を吹き飛ばしてしまって、眠ろうにも眠れない時が僕にとっては最も辛い拷問の時間だった。眠りに落ちる、その落下を防ごうと自分自身が手を指し伸ばしているのだった。他人の人生の模倣でも、それが僕の生きがいだった。
虚しいことは分かっている。だから、そんな時は僕はこの病室の景色を脳に刻み込む。いつか、真っ白い天井と、それらに弾かれる光を放つ電灯と、窓際で咲くひまわりの花を、ただ眺め続けるだけの夢を見ることを願いながら、僕は眠りに落ちた。
向日葵のある朝 抜殻 @mappyHM
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