儂が生まれたのは、まだ日本が戦争をしていた時代だった。三人兄弟の末っ子として生まれ、その頃には既に父は招集命令を受けて戦場へ行ってしまっていた。だから、儂は父親の顔を直接見たことはない。写真を見たことだけあるが、その写真も空襲で焼けてしまったから、もう儂が父親のことで覚えているのは、眼鏡をかけていたということくらいだ。

 儂が五歳か、六歳になる頃に、空襲が始まった。その頃の儂らには、日本は連戦連勝していると伝えられていて、兄たちが両手をあげて喜んでいたのを、よく分からないまま真似していた。だから、なんで勝っているはずなのに空襲をされるんだと、不思議に思っていた。子どもの頃は、兄や大人たちの言うことが全て正しいと信じていたから、生活が苦しいことも、戦争のせいだとは思わなかった。

 だから、あの爆撃機は工場を狙っているから、儂らは大丈夫だと言われた時も、根拠もないのに安心した。しかし、その期待は裏切られて、街にも爆弾が降り注いだわけだが、その時にも儂は、それらの爆弾は全て工場を外れた、過失のようなものだと思っていた。工場から離れた近所に爆弾が落ちた時には、あいつらはどれだけ撃つのが下手なんだと、相手の悪意を疑うことすらしなかった。

 だがそれが故意でも、そうでなくても、爆弾の威力は変わらない。近所に落ちた爆弾が家を吹き飛ばして、そこの一家全員を殺したこともある。子どもの頃は、生命力にあふれているからか、ものを知らないからか、自分が死ぬということがイメージできないものだったが、あの時は確かに死ぬかもしれないと本能が察知していたと思う。それほど、恐ろしい体験だった。

 街が炎に包まれて、世界中が燃え尽きるんじゃないかと錯覚するような夜を乗り越えると、防空壕の外は一面の焼け野原になっていた。それでも生き残った人々は懸命に生きている者を探し、死んでいる者を供養した。儂も子どもだったが、生存者の捜索を手伝わされ、瓦礫の山となったかつての街を歩いた。そこは、儂の記憶と全く一致しなくて、眠っている間に別の街へ連れて来られたんじゃないのか、もしかして儂は死んで、あの世を歩いているのではないかと不安になったりもした。

 そうして瓦礫の平野を歩いていた時、妙な感触のものを踏みつけた。変なものを踏んだと思って足元を見てみると、黒っぽい塊が転がっていた。なんだこれはと思って顔を近づけると、強烈な臭いが際立ってギャッと声をあげてしまった。それを聞いてやってきた大人たちが、仏が見つかったと叫んだ時に、ようやく儂はそれが死体なんだと気づいた。大人たちが集まってきて瓦礫の下から、人体のパーツを探している時に、儂はぶるぶる震えていた。踏んでしまってごめんなさい、わざとじゃないんですと、それはもう必死になって謝った。

 少年の頃の記憶は、こうした戦争の惨禍を受けた記憶しか覚えていない。母の食事の味や、近所の子どもたちと遊んだ記憶が、空襲の記憶によって灰にされてしまったように思う。それほど強烈な体験で、戦争のことは鮮明に覚えているせいで、それ以外のことを覚えられなくなってしまった。

 だが、あの頃の儂はまだ、戦争が怖いという感情はなかった。偏った教育のせいもあったのだろうが、子どもの頃は何かと何かをつなげて考えることは難しい。儂は空襲のことは怖いと思ったが、それが戦争とあまり結びついていなかったのだと思う。戦争のことを怖いと思うようになったのは、というよりあの時の空襲の恐怖と戦争の恐怖が固く結ばれるようになったのは、もっと後になって当時の情勢や、他国の戦争を知ってからだった。

 いつしか戦争の恐怖としてすり替わった空襲の恐怖だったが、もっと原始的な怖さを植え付けられた。それは火だ。街には焼夷弾と呼ばれる燃やすことを目的にした爆弾が降って、街は文字通りの火の海になった。爆弾で木っ端みじんになった人も見たが、それ以上に黒焦げになった人を見た時の方が怖かった。

 焼死は、もっとも辛い死に方だと思った。煙を吸っての酸欠死なら、あの煉獄の中では幸運な死に方だったろう。焼夷弾は、人間を焼くことを目的に作られていて、何百度もある炎が、直に襲い掛かってくる。皮膚が一瞬にして炭化するほどの高温を浴びても、すぐには死ねない。肉を焼かれながら死んでいく人間の叫び声は、声で火をかき消そうとしていると思うほどだ。爆発音に負けないくらいの大声を張り上げながら、喉が潰れるまで叫び続ける。それだけ苦しかったのだろう。

 そうやって、体の中に火がついたような熱に呻きながら、細胞すべてが渇きを訴え、全身の激痛に悶えながら、しかし潰れた喉で助けを呼ぶこともできずに死んでいった人々を、山というほど見た。


 だが儂は幸運にも、生き残ることができた。それは、本当に運だけが生死を分かつ世界だったと思う。だがそれだけに、なんで儂が生き残ったのか、それを考えない日はなかった。生き残ったことに責任すら感じていた。だから儂は、十八歳を迎えた時に街の消防団に入った。

 消防団は、消防署とは違って、地元住民が自発的に参加する、いわば自警団のようなものだ。消防組織として自治体にも認められているが、給料は出ない。だから、常に屯所に詰めているわけにもいかないので、本業との掛け持ちでやるのが普通だった。そこが、消防士との大きな違いだ。儂も自動車部品の町工場に勤めながら、休みの日は訓練をして、通報があれば仕事場から駆け付けた。消防士試験も受けたが、儂は頭が悪かったから合格できなかったのだ。

 そうして、若い頃の精力をかつてできなかった消防活動に注ぐことで、わずかながらの罪滅ぼしになればと思っていた。今にして思えば、死んだ人のためになんて、偉そうな理由でやっていたと思う。生きるか死ぬかは儂にも分からなかったのに、生き残った儂の方が死んだ人たちより上だと、勝手に決めつけて自分のことを英雄視していたうぬぼれていたのだと、今なら分かる。だがあの頃の儂は、まだ若くて、自分の気持ちに気づけるほど賢くは、そして老いてはいなかった。

 そんな生活を二年ほど続けた頃に、儂は妻と出会った。妻との出会いは、格好の悪いもので、儂の口から誰かに語ったことは一度もないはずだが、妻はことあるごとに実に楽しそうにあの時のことを話す。

 それは儂が、屯所近くのファミレスで昼食を終えた時の話だ。腹も拵えたし、会計を済ませて帰るかというタイミングで、財布をないことに気づいた。体中をまさぐってもどこにもない。落としたか、忘れたか。焦ったが、大の大人がそんなことを隠すわけにもいかなかったし、携帯なんぞあるわけもなかったから、誰かに頼むこともできない。だから正直に、財布を忘れてしまったことを話した。

 さてここから、どうやって儂が食い逃げをせずにちゃんと払いに戻りますよ、ということを伝えようか考えている時に、それを聞いた店員が、じゃあ私が代わりに払いますよなんて言い出した。儂はポカンと口を開けて、呆けた顔をしてしまった。店員の顔を記憶の中で検索してみても、誰にも一致しない。そんなことをされる義理があったかなと、検索の範囲を広げて店員の顔をまじまじと見ていたら、近所の消防団にいる方でしょと言ってきた。そんな正義感に溢れた人なら、食い逃げなんかしたりしませんよねって。儂は当然そのつもりだったのだが、しかしそれで他の人に、それも見ず知らずという言い方が正しいのかはよく分からないが、とにかく関係のない女性に払わせるわけにはいかないと、否定をしたり、いや食い逃げはしませんとまた否定をしたりと、焦ってしまった。店員はそれをクスクス笑いながら、いや、儂が焦って声を大きくしたばかりに店中に聞こえていたのかもしれないが、そこらから忍び笑いが聞こえてくることにも、あの時の儂は気づかずにしどろもどろの説明をしていた。結局店員が、返してくれますよね、なんて言うもんだから、儂は当然返します、すぐ返します、今日中に返しますなんて早口でまくし立ててようやく払ってもらうことに同意したわけだ。あの時のことを思い出すと、今でも恥ずかしくって仕方がない。

 それでもまだ焦っており、しかも何とか威厳を取り戻そうなどと躍起になっていた儂は、店を出るなり全速力で財布を探して回った。結局は家に置いてあったわけだが、方々を走り回った末に見つけたもんだからその時にはすでに汗だくになっていた。それでも今日中に返しますなどと啖呵を切ったのだからと、再び店に戻って店員に利子をつけて金を返した。肩で息をしながら、汗まみれになって金を返す儂を見て、店員は笑いながら利子は必要ないですよなんて目じりに涙を溜めながら言うんだ。だが儂も引き下がらずに、それならば何かお礼をさせてくださいと食い下がっていったわけだ。あの時は、下心や運命を感じたわけでもなく、とにかく恥を払拭しようとして恥を上塗りしていただけだったのだが。

 それが妻との出会いだ。この出会いをきっかけに、儂は妻と親しくなり、結局この後も妻が根負けして食事に誘ったのだが、ほどなくして交際を始めた。そのまま儂らは順調に愛を重ね、一年後に籍を入れるに至った。その間も消防団としての仕事を欠かしたこともなかったし、自分の人生は間違いなく上り坂にあると確信していた。

 それから間もなくして息子が生まれると、儂の人生は頂点に達したと思う。その小さな体を抱いてやれば、天気が晴れだろうが雨だろうが幸せになれた。

 息子の名前は修一にした。一番を修めるで、修一。儂には勉学に励む余裕はなかったから、せめて子どもには不自由ない学びを与えてやりたかった。それにこれからの時代は、体力だけでごまかせるような時代は終わって、頭がいい人間が勝ち上がっていく世界になると思っていた。そんな思いを込めた名前だった。

 

 それから修一は、思いに答えてか賢い子に育っていった、と思う。だが、その過程で、儂は人生という山の断崖絶壁に差し掛かった。そこは、一歩足を踏み外せば真っ逆さまに死ぬというような、危険な時だった。それは小さい頃の空襲を、雪崩のような回避不能なものと例えるなら、今回は別の、安全な道を選ぶこともできる道だった。だが、この断崖の途中には、助けを求める誰かがいて、儂にはそれを見捨てることはできなかった。

 それは、儂が三十二の時に起こった。その日は、儂は休日だったが、屯所に詰めながら、まだ二歳の修一と一緒に消防車を見せていた。他の団員たちも、修一をかわいがってくれていて、修一も真っ赤な消防車を嬉しそうに見ていた。実に平穏な時間だった。だが、緊急通報のサイレンが鳴り響いて、平穏は打ち破られた。儂らはすぐさま装備を着て、現場に向かうことになった。屯所に残る妻に修一を預け、儂は消防車に乗り込んだ。修一は、泣きそうな顔で儂を見送った。

 現場は住宅街の中の一棟で、もはや消火は不可能なほど火が回っていた。儂らが最初に到着していて、野次馬もどかさなければいけない。こうなると、儂らにできることは近隣に燃え広がらないようにすることくらいだ。だが、野次馬の列を下がらせようとかき分けて先頭に出た時、そこよりさらに前、燃え盛る家の前に一人の男性がうずくまっているのが見えた。

 家はごうごうと黒煙を上げながら燃えているが、彼は這いつくばってでも近づこうとしている。野次馬たちも止まれだとか、戻れだとか言っているが、熱に気圧されてか彼を引き留めようとしている者はいない。だが彼には声が聞こえていないのか、少しずつ近づけば体が熱さに慣れて耐えられるはずだというような牛歩で、じりじりと燃える家に近づこうとしていた。すぐさま儂らで彼を押さえると、ようやく消防団員が来ていることに気づいたのか儂にしがみついてきた。その眼は真っ赤に充血していたが、涙が乾いてしまうのか頬は濡れていなかった。だが彼はまさに涙ながらに、中に人がいるんですと叫んだ。儂らは、炎の近くにいたのに凍り付いた気持ちになった。反射的に家を見るが、火は完全に回ってしまっている。生きている可能性も、助けられる可能性も低いと思ったが、彼はそれでもまだ家の中に入ろうともがいている。とにかくこのままでは危ないと、彼を引きずって下がった。そして、突入しますと他の団員にも聞こえるように言った。

 思えば、無茶で、愚かな行為だった。応援を待つのが正解だと分かってはいた。だが、そうでもしないと彼を止めることはできなかっただろうし、それに儂らにも彼の気持ちは痛いほど分かったからだ。彼が言うには、残されているのは妻と娘だと言う。それが自分の家族と重なって、断ることはできなかった。他の団員たちも、同じ気持ちだったからこそ、反対を強くはできなかったのだろう。

 儂ともう一人の若い団員で、突入することになった。防火服越しにも伝わる熱が、生身で取り残されている彼の家族の安否をより不鮮明にさせた。きっと、彼らが生きて出られる可能性は、一本のタコ糸を命綱にしているほど細いだろう。それを切れずにたぐり寄せられるかは、儂らにかかっている。

 援護放水を受けながら、扉を開けて中に入る。一気に濃煙が出てきて、呼吸器が無ければろくに呼吸もできないだろうと思う。見通しも悪い。炎が間近に潜んでいる熱からか、それとも体が危険を感じてか、大量の汗を分泌しているのが分かる。防火服の下で溺れるかと思ったほどだ。呼吸器と炎の轟音で、お互いに言葉での意思疎通が難しいため、肩を叩き合いながらバディの位置を確認して、慎重に進んだ。それは、炎の海に潜るダイバーのようにも思えた。

 いつ崩れるかも分からない状態だったが、焦ってはダメだと言い聞かせながら歩を進めた。空気が水のように重く、喉の渇きも苦しくなってくる。だが幸運だったことに、突入してすぐに彼の家族を見つけることができた。彼らは、玄関から廊下を抜けたすぐ先のリビングに重なるように倒れていた。母親は煙を吸い込んだのか意識はなく、子はその下で対照的に泣きわめいていたが、どうやら怪我などはなさそうだった。それはたまたま下敷きにするように倒れ込んだようにも、子を守るために覆いかぶさったようにも見えた。だが、二人が生きていることに、儂らはまだ危険の渦中にいながらもホッとした。

 しかし、儂ともう一人で運び出そうとしたが、倒れた人間を運び出すというのは簡単ではなかった。高く背負いたくても、これ以上煙を吸わせるわけのは危険だった。それに二人がかりで運んでは、子どもに自分で歩かせることになるが、泣いてパニックになっている女の子にそれは難しそうだった。

 とりあえず若い団員に子どもを運ばせ、その間に儂が母親を運べるようにしておく。外に出た団員が、応援をもう一人呼んでくるということにした。本来なら、単独での救助は禁止されていたのだが、脱出口に近いことと、どちらにせよ応援を呼ばない限り誰か一人はここに置いて行かれることになる。いつ崩れるか分からない状態に、焦っていたという気持ちもあった。

 子どもは泣きながらも母親の元を離れようとしなかったが、半ば引きはがすように外へ連れ出していった。待っている間に、儂は呼吸や外傷を確認し、呼吸器をつけて煙を吸わせないようにした。

 だが、そのわずかな間に、事態は急変した。燃える家屋の悲鳴のような、大木が根本からへし折れるような異質な音が家中に響いた。家のどこかが崩れたんだ、と咄嗟に思った。リビングは無事だったが、様子を見に廊下へ出ると、最悪なことに脱出口への道が崩れた天井の梁によって塞がれていた。途端に、儂も閉じ込められた。

 異常を察知した団員が廊下の向こう側にいて、儂は斧で壊す仕草を取ってどうにか脱出を試みた。儂の持っている装備では何もできないから、リビングの中を探して、置いてあった椅子などで殴ってみたがびくともしない。とにかく儂は、母親を比較的安全な場所に運び、障害が壊されるのを待った。

 だが、障害は中々破壊されない。儂の中に、これは間に合わないかもしれないという諦めが浮かんだ時、家族の顔、ではなく空襲の記憶が蘇った。儂もあんな風に無残に死ぬのか、誰か分からないような焼死体になるのかと思うと、背筋が震えた。しかし、せめて彼の子どもを助けることができただけでも、心のよりどころはあると自分を慰めた。

 再び木々が折れる不吉な音が響いて、もはやこれまでかと覚悟した。だが、それは目の前で一定のリズムでテンポよく聞こえてきた。気づけば、もう一人が加わって斧を振るっている。その加わった人物はガタイがよくて、力強く斧を振るって、遂に障害を破壊して道が開かれた。そうして駆け寄ってきて、儂と一緒に母親を運びだしてくれたのだった。

 それは、近くの消防署からやってきた応援の消防士だった。気づけば、突入する前よりも消防車の数が増えていて、伸びるホースの数も増えていた。儂は、助け出してくれた消防士と団員に感謝した。

 その後家は倒壊したものの、火は消し止められ、近隣に被害が広がることもなかった。儂の突入は、やってきた消防士たちに諫められたものの、しかしそのおかげで母子を救助できたと感謝もされた。

 父親にも泣きながら感謝された。だが、後に聞いた話だと、どうやら火事の原因は父親の放火にあるらしかった。実はあの家族は借金があり、一家心中を父親が考えたらしい。だが、いざ火をつけて、我が家が燃えていく様を見た時に、自分は一体何をやっているんだと我に返ったのだそうだ。その時には火は自力で消せないほど大きくなっていて、彼は消防に通報したようだった。あの時の懇願も感謝も、本気のものだったとしても少し複雑な気持ちになった。

 修一は、この事件のことが幼い頃にもっとも印象に残っている儂の姿だと言っていた。それは、出動していく儂にもう二度と会えなくなるのではないかと思って、必死にその姿を目に焼き付けていたから、らしい。消防車が見えなくなってから、修一はこらえきれずに泣いてしまったのだと、大人になって晩酌をしている時に教えられた。だが、儂が帰ってきた時、とても安心して、誇らしい気持ちになったと。まだ小さくて、何が起こっているかは分からなかったが、とにかく儂のしたことはとても憧れることだったらしい。なんだか照れ臭い気持ちにもなったが、儂はあの時の炎が、修一に温かな灯火となって人生を照らしてくれているのかと、安心して涙ぐんだりもした。その時は、酒のせいで吐き気がしただけだとごまかした。


 儂が消防団を辞めたのは、五十を過ぎた頃だった。腰を壊してしまって、今までのようには動けなくなってしまったし、常備消防士たちがいる消防署の設備も、大きく進歩し始めていた。もはや、儂のような爆弾を抱えた親父が消防団員を無理に勤める必要も薄くなっていたのだった。後任の団員たちも育ち、儂は消防団を辞めた。

 修一は、大学を卒業後仲間たちと企業を立ち上げた。高校に進学したころには、世の中の流れに染まって夜な夜などこかへ出かけては生傷を作って帰ってくることもあった。だが、決して成績を落としたりしたこともなかったし、タバコの匂いを体に沁み込ませることもなかった。儂も妻も、修一が悪い方向に染まってしまっているのでは心配したことはあったが、修一は「心配しないで」とだけ残して訳を説明してはくれなかった。

 あの頃修一は、学校の友達のために体を張って喧嘩に明け暮れていたらしい。酒に酔って思わず口が滑った、というような感じだった。そして赤かった顔をさらに染めながら、小さい頃の親父に憧れた、俺も人を助けられるような人間になりたかったと言った。

 そんな修一が縁談の話を持ってきたのが、儂が六十になった頃で、修一はその時三十一歳だった。相手の女性は修一の五つ年下で、決して不美人というわけではなかったが、どこか影のある女性で、企業主として順調に成功を収めている修一には不釣り合いだと思った。そして彼女は、自身が昔水商売で生きていたことをはっきりと告白した。修一も、それを承知で彼女を選んだらしかった。妻は猛烈に反対したし、儂としても素直に頷ける話ではなかった。だが修一は頑として譲らなかった。確かに、真面目、というよりも覚悟があるような顔つきで、しっかりした女性であるとは思った。彼女は、親御さんがわずかでも反対するなら、私はこの話をなかったことにしてもらって構いませんと言った。その口調は、脅しのためや、いやいや修一と結婚しようとしているようには感じられなかった。親が子を守るためなら、命を捨てても構わないと言っているような、尻込みしそうな迫力があった。修一も、その言葉には驚いているようだった。

 修一は、彼女は強い女性だけど、どこかで折れてしまいそうな弱さもある、それは支柱が足りずに架けられた橋みたいで、誰かが支えてやらなくてはいずれ落ちてしまうんだと言った。その眼は真剣で、その口は山を書き換えてでも認めさせると言ったような覚悟に満ちていた。二人ともに、お互いを認め合っている。だが儂らにも認めてもらわなければダメなように感じている。

 儂は、二人が認め合っているなら、儂らが口を出せる話ではないと思い、そう伝えた。妻は何か言いたげだったが、その時はぐっと言葉を飲み込んだ。女性は、本当にいいんですかと念を押した。

 その後、修一はその女性と結婚した。二人は順調に愛を重ね、そしてその愛の結晶を産むに至った。その頃には、最初の不安が嘘のように儂らはその女性のことを慕っておった。第一印象がどうであれ、時間が最初の衝撃を和らげてくれた。孫が産まれることになって、儂は有頂天だった。もはや悔いはない、と思っていた。

 だが、産まれてきた孫は、病院の外では生きられない体だったのだ。それは非常に稀有な脳の病気らしく、儂には難しくてよく分からなかったが、医者が言うには孫は意識自体はあるが、歩くことも、喋ることもできないのだそうだ。原因もよく分かっておらず、恐らく脳の病気であると。当然治療法もなく、孫は機械の力が無ければ呼吸もできない。しかし植物状態のように意識がないわけではなく、ただ動けないだけなんだと。起きている間にできることと言えば、わずかに首を動かすことと瞬きくらい。生きてはいるが、生きる喜びというものは与えられない。

 視覚と聴覚は機能しているらしく、儂らの顔を見ることも、声を聞くこともできる。だが、儂にはそれがより酷なことに思えた。見えるということは、より美しいものを探してしまうということで、聞こえるということは、世界の広さを感じることができる。孫の姿を見ることが辛くて、儂は会いに行けていない。しかし、何をするにしても、食事をする時も風呂に入る時も、孫はこうしたこともできないのだ、些細な幸せを感じることもできないのだ、と思ってしまう。そう思うと、ひどく悲しくなって、儂は孫になにかしてやれないのかと悩んでしまうが、結局は儂にできることは何もないのだ。

 神様が、どうか儂の声を聞いてくれるなら、儂のこの老い先短い、ほんのわずかな人生分だけでも、儂と孫の体を入れ替えてやりたい。この老いぼれの体であろうと貸してやりたい。そのわずかな時間だけでも自らの足で歩く喜びを、自分の思いを伝えられる嬉しさを教えてやりたい。だが、それはかなわぬ夢なのだと分かっている。

 儂にも、もう死が迫ってきている。今の儂も、孫と同じように横に臥せっているしかできない。それでも孫の苦しみを少しでも和らげてやりたいと思う反面、もう自分は死んでしまうからしょうがないのだと、どこか関係ないことだと割り切ってしまっている自分がいることも憎い。

 結局儂の人生は、振り返るとすぐそこに大きな後悔の岩山がそびえたっていて、そのせいでああ、いい人生だったとは言えなくなってしまった。それが、孫のせいだなどとは思いたくない。儂は本当に、孫に何もしてやれなかったのだろうか。こうして横になって何もすることが無いと、頭の中の靄が体に流れていって思考だけが鮮明になっていく。よどみなく流れる思考の風の中で、儂はやはり後悔ばかりをしてしまう。せめて一言だけでも、孫の声を聞いてやることができたなら、儂は残りの人生を賭けてその望みを叶えてやったのに。そんな後悔を抱えながら、儂はわずかずつ、眠りへと落ちていった。

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