うすぼんやりと、瞼の裏が白く見える。気づくのが早いか瞼を開けるのが早いか、私は光を感じて目を覚ました。視界の先の、天井の淡い光をじっと見つめる。目の周りの筋肉が強張っているようなごわごわとした感覚があって、眠っていたのだと分かった。それから、周りを見渡すために体を起こす。

 光を浴びながら眠っていたからだろうか、視神経を通じて頭がズキズキと痛む。ホテルの一室だろうか、少なくとも私の部屋ではない。部屋には衣服が、私の服だ、散らばっていて、私は下着も着けずに丸裸で眠っていたことに気づいた。雌と雄の香りがほのかに漂っていて、誰がどう見ても行為の後だと分かる状況だった。そうか、私は仕事を終えた後に眠ってしまったのか。

 時計を確認すると、夜の十時を針は示している。どうやら、一時間ほど眠っていたらしい。ひどく喉が渇いていることに気づいて、私は冷蔵庫を開けて水を飲んだ。喉を冷たい感触が通り過ぎていくと、干ばつの大地に雨が降ったように、喉も渇きも癒えていった。そしてその水の中に、眠る前の記憶が溶けて隠されていたように、何があったのか思い出してきた。

 少し痩せ気味の、地味なサラリーマンだった。年齢は、三十代後半くらいだったろうか。出会い系サイトで連絡を取り合って、私は駅で彼を待っていた。定型文のようなメッセージを打つ人だな、と思っていたが、イメージそっくりの少し神経質そうな男性だった。仕事帰りにそのままやってきた、というようなワイシャツ姿で、寄り道せずホテルに向かった。

 顔立ちが悪いわけではなかったが、ひたすら無口で、無感情だった。私が話しかけても空返事をするか無視で、私は何のためにホテルに行くのだろうか疑問に思ったほどだ。緊張しているわけではなさそうで、ホテルの部屋選びは手慣れたものだった。

 仕事柄、本当に危険な相手は部屋に入る前までに察知しておかなくてはいけないから、そうした人を見る眼には自信、というか経験から来る勘のようなものがあった。それが合ってるかどうかはよく分からないが、この人は嘘つきだな、とか玄人ぶってるけど素人だな、となんとなく感じることができる。こいつは危ないと思った時は、適当な理由をつけて逃げたりする。

 彼の場合は、妻帯者だな、と思った。セックスレスなのか、もしくは妻には頼めないような特殊な性癖の持ち主なのか。その鉄仮面の下に、いったいどんな欲望が秘めてられているのか分からず、私は少し背筋が寒くなった。しかし、結局は逃げ出すこともせずに、腕を絡ませたままこの部屋までのこのこやってきたわけだ。

 部屋に入ると、間を置かずに淡々とした口調で「脱げ」と命令してきた。有無を言わさない威圧感があって、怒鳴り散らかすような脅しとは違って、あくまで静かな「命令」というものを受けたのは、生まれて初めてだな、と思った。

 私は、普段は情事に及ぶ前には絶対にシャワーを浴びせる。自分の体臭を嗅がせるのが趣味なのではないか、と思うようなキツイ臭いを漂わせた相手とまぐわうことほど気色の悪いことはない。しかし彼の目には、お前のような女に時間を費やすのは無駄だ、というような見下すような侮蔑の感情がこもっていて、逆らったらそれが爆発するようにように思えた。私が服を脱ぎ始めると、彼も自分で脱ぎ始めた。

 そして、前戯もなく挿入した。彼は、まるで商談と商談の合間を縫ってこの時間を作っているかのように、慌ただしいセックスをした。無能な上司や、面倒な取引先に頭を下げ続けたストレスをぶつけるように乱暴に腰を振るい、絶頂を迎えると、その余韻に浸ることもなく金を置いて部屋を出ていった。交尾と表現すると、より動物的なのでそちらの方が近いかもしれない。お互い、愛や想いを確かめ合うわけでもない、片方は情欲の発散のため、もう一方はお金のためと、ひたすら実利だけを求めた交尾だった。その後で私は、ベッドで横になっていたら眠ってしまったようだ。

 最初こそ、不気味な相手だと思ったが、結局はやはりただ若い女の肉体を求めていただけなんだと分かり、少し安心した。面倒な会話やご機嫌取りが無かっただけ、普段よりも楽な仕事だったと言えるかもしれない。私は散らかっていた服を拾い着て、彼が置いていった金を忘れないようにしっかりと財布にしまい、ホテルを後にした。


 六畳間のアパートの一室、乱雑に置かれた服や雑誌の山をどけて、冷蔵庫から酎ハイを一缶取り出す。よく冷えた酒を、ごくごくと景気よく飲んでいく。これをしないと、帰ってきたという感じがしない。アルコールが体内で吸収されて、血流が早くなっているのが分かる。

 私は酒に弱いが、得であると思っている。飲みを断る理由になるし、酒代も浮く。何より、すぐに酔えるというのが良いのだ。酒が好きなわけではなくて、酔っているのが好きなのかもしれない。

 酔った時の、波に揺られている小舟で寝そべっているような、前後が曖昧になる感覚が好きだ。その揺れに合わせながら、ゆっくりと眠りに落ちていく。ゆりかごに揺られていた時も、こんな感じだったのだろうなと、ぼんやりとした頭で考えながら、脳の奥まで潜っていく。記憶の海の中で、私は安らぎを探すのだった。

 だが、今日はどうにも眠気が訪れない。アルコールが回っているのは感じるが、思考は鮮明で酔っている感覚もない。ホテルで眠ってしまったからだろうか。頭がいやに冴えていて、眼球は小さな光にも敏感に反応している。別に明日の予定があるわけでも、仕事があるわけでもないのだが、仕事から帰ってきた後はさっさと眠ってしまいたかった。夜は、日が落ちるせいで心の影も濃くなるように、暗い気持ちになってしまうから、好きではない。きっとそれは、シンと張りつめた静かな空気のせいで、自分自身の心の声をごまかすことができなくなるからだろうなと、私は思った。きっと自殺する人も、決心するのは夜なんだろうな。

 私は仕方なく二缶目を開け、テレビをつけてみた。リモコンが見当たらず、仕方なく流れていた番組を見る。貧困に悩む若者に密着取材する、というドキュメンタリー番組のようで、画面の中にはネット喫茶を利用して生活しているという女性が映っていた。日雇いの仕事をしながら、ミュージシャンを目指しているのだという。私は、これは番組の趣旨とは少し違う取材対象なのでは、と思ったが、貧乏なことには変わりないようだ。週四日ほどをネット喫茶で寝泊まりし、それ以外は路上でライブをしながら夜を明かしているらしい。

「確かに大変な生活ですけど、夢を追うためなら頑張れます」

 画面の中の女性はそんなことを言っていた。両親の離婚が原因で大学を中退してしまったが、音楽だけは諦めたくないと。作り物に思える話だが、私には確かめるすべはない。ただ、多少趣旨とはずれていても取材対象に選ぶことには納得できた。

 私には、この女性のことが羨ましく思えた。生活としては、私の方が充実しているだろう。寝床に悩むことも、食に困ることもない。だが、私の生活には熱がない。ただ毎日生きるためだけに体を売っている。そうして稼いだ金の使い道もなく、何もない時間を作りたくないという思いだけで金で抱かれる。そんな生活を二年近く続けていた。

 いったい、私は何のためにこんなことをしているのだろうか。淫売や、親不孝者と罵られながら稼いだ金で、いったい何を買おうとしているのだろうか。夢が金で買えるなら、いくら払ってもいい。

 時間は平等である、ということが、私にはとてつもない残酷なことに思える。私が男に抱かれている時間と、彼女が寝る間も惜しんでギターを弾いている時間は、決定的な差がある。過ごした時間は同じでも、その価値が違う。私だけが、人生という船に錨を下ろしているように、前に進めていないのだと思ってしまう。

 小さい頃から、ただ目の前の問題だけを、のらりくらりと対処してきた。過去を鑑みることも、未来のために投資することもせず、ただ日々を惰性に過ごしてきた。そのせいで、私の記憶はどれも本当には過ごしていない、後付けの記憶のように希薄で、薄っぺらい。この二十一年という時間の重みを、他者と比べることができたなら、きっと私の人生はとても軽いのだと思ってしまう。

 私は急に気分が悪くなって、せり上がってきたものをぶちまけるためにトイレに駆け込んだ。便器に頭を下げるように顔を近づける姿は、自分のことながら滑稽に思えた。酒と胃液しか混ざっていない液体が口から流れ出て、口内に不快な酸っぱさが残る。口をすすぐが、気分は優れないままだ。そして睡眠という行為が、遠い異国の文化に思えるほど、頭は冴え渡っていて眠れそうにはなかった。


「妊娠してますね。六週目です」

 若い産科医は、実に喜ばしそうな顔をしながら言った。いかにも、生命の誕生を祝福するためにこの仕事を選んだ、というような福々しい顔をした男だった。

 心当たりはあったから、さしてショックは受けなかった。家賃の未払いに気づくように、生理が来ないことに気づいて、もしかしてと思い病院にやってきたのだった。きっと、客に金を積むから生でさせて欲しいと言われて、避妊せずにセックスをしたからだと思った。以前にも同じようなことを言われて、断ったら殴られたことがあったから、面倒ごとを避けるために頷いてしまったのだった。

 あの時は確か、ピルを飲めばいいかと思っていたが、肝心のピルが切れており買いに行かなくてはいけなかった。だが買うのを面倒に思ったのか、どうせ当たらないという投げやりな気持ちがあったのか、結局は飲まなかったようだ。

「そうですか」

 茫然と答えた。感動もなければ、ショックもない。ただ妊娠したんだな、という事実だけが冷静に脳で分析されていた。誰の子かもよく分からない命が、私の中にあるというだけのことだ。私の心は、その予感があった時から決まっていた。

「いくらかかりますか?」

 産科医は、つぶらな目を限界まで見開いた、ハトのような顔をしてこちらを見た。いけない、主語が足りなかった。

「望まない妊娠です。堕ろすのにいくらかかりますか」

 やはり、驚いた顔をしたまま固まっている。私は、彼を起動させるキーワードを探すように、自分がいかにして子どもを産めないかを説明した。仕事ができなくなる、貯金がない、パートナーはいない。彼が私のでまかせをどれくらい聞いていたかは分からないが、だんだんと見開かれた瞳が閉じていき、今度は呆れた顔をしながらため息をついた。

「君ねぇ……」

 産科医は、ため息に意味を持たせるように言った。どう言葉を繋げるか、罵るべきか、諭すべきか、迷っているという感じだった。だが、明らかに私のことを軽蔑しているのは分かった。口は言葉を選んでいるが、私を見る目には、ありありと感情が現れていた。それは、俗にいう人殺しを見るような目と表現するのが適当だろう。

 そうして軽蔑されるのは、私が早々に中絶を決めたからだろうか、それともその選択肢を選ぶ女性全員のことを快く思っていないのだろうか。もしかしたら、中絶の経験がないのかもしれない。

 だが私としては、どれだけ非難されても何も言い返す気はなかった。いや、その権利はないと思った。自分のことを清廉潔白な人間であるとは毛ほども思っていなかったし、中絶が後ろめたい行為であることも重々承知だ。だが、生まないという選択を変えるつもりも毛頭なかった。

 産科医は渋い顔をしながら、経済的に困窮していても、あなたのお腹の子はかけがいのないものなのですよ、と的外れなことを言っていた。彼は私を諭すことにしたようだが、それは言葉で鉄を溶かそうとするほど無駄な行為だった。私は生むか生まないかを迷っているわけではない。私にとって重要なのは、中絶を引き受けるか、否か、ということだけだ。そしてこの医者は、引き受けてくれそうには見えなかった。

 私は席を立った。ここでダメなら、他で頼むだけだ。だが、彼は慌てて私の腕を掴むと諦めたように言った。

「分かりました!」

 自分でも予想外に大きな声が出たのだろう、言った本人が体をびくりと震わせた。

「一週間よく考えてから、もう一度来てください。それでも答えが変わらないなら、しかたがない。引き受けましょう」

 産科医は、掴む手をぎゅうっと強く握ってから離した。そこに彼の念が込められたように、じんじんとした痛みが残った。別に一週間でも一か月でも、答えは変わらない。とはいえ、他の病院に行ってもふたつ返事で引き受けてくれるかは怪しいし、あまりそう何回も説明したいことでもない。どうせ一週間なら、問題もないだろう。私は、ではまた一週間後と言って、診察室を出ていった。


 一週間後、再び病院を訪れると、産科医は以前とは違った、覚悟の決まった顔つきで私のことを迎えた。きっと、彼自身も一週間後に何が起こるのかを理解していたんだなと分かった。この一週間は、私のため、というよりも彼のために用意されたものなのかもしれない。

 産科医の鬼気迫る形相に、私はこれから何か壮絶なことが起こるのではないかと、今更になって怖くなった。手術に失敗したら死ぬんだろうか、などと考えていたが、意外にも手術は一時間もかからずにあっさりと終わり、私は拍子抜けした気分になった。

 まだ七週目だったので、吸い上げるだけで負荷の少ない方法でしたからと言われ、私はこんなに簡単に人の命を芽を摘むことができてしまっていいのかと、心配になるほどだった。

 産科医は沈痛な面持ちだったが、処置は済んだので帰っても大丈夫です、とあくまで言葉は丁寧に接してくれた。だが彼の顔は青ざめていて、言葉には悲しみが滲み出ていた。中絶をしたからと言って、殺人になるわけではないだろう。これではどちらが手術を受けたのか分からないと思ったが、彼の落ち込んだ姿を見ているとなんだか申し訳ない気持ちになり、私は一言謝ってから帰ることにした。

 私は帰ってから、無性に酒が飲みたくなった。そういえば妊娠していると分かってからは、産むわけでもないのに酒を断っていたことを思い出した。それは純粋に飲もうと思いつかなかったから、完全に忘れていたからで、意識的に断っていたわけではないはずだ。

 だが、いざ缶を開けてみると、アルコールの臭いが、まるで死臭のように感じられた。私は思わず顔を背け、急いで酒を捨てた。酒を飲みたいはずなのに、アルコールの臭いが生涯受け付けられないほどの悪臭に感じられた。酒の種類を変えても、臭いは変わらず、結局持っていた酒を全て捨てた。そしてこの日以来、私は酒を飲めなくなった。

 酒が飲めなくなって、体を売ることもやめた。あの酩酊が無ければ、あんな仕事を続けられるはずがないと思った。何より一度妊娠してしまった時、もう二度と誰かと寝たいとは思わなくなっていた。

 しかし、それからは何もする気力が起きなかった。趣味もなければ、新しい仕事を見つけるわけでもない。幸いにして、使い道もなく稼いだおかげで貯金はそれなりにあったから、インフラを止められることも追い出されることもなかった。

 毎日起きて、最低限の食事をして、ただ部屋の天井を見つめ続け、眠くなれば眠る。そんな生活を繰り返した。いや、生活は活きる生と書くのだったか。それならば、私はただ生きていただけの、糞尿を垂れ流す獣と同じだと思った。

 ある時、ふと今日が何日かを確認した。それまで、今が何月何日なのかも興味がなかったのに、頭の奥底から確かめなくてはいけないと、脅迫されたようだった。そして、今日があの日、私が手術を受けた日から、ちょうど一年経っていることに気づいた。思い出すのに、一秒もかからなかった。一瞬にして、私はとてつもない虚無感に襲われた。頭では、そんな馬鹿な、私はショックなど受けていないと考えているはずなのに、心がどこにあるのか分かるほど傷んだ。私は吐き気を催して、吐いて、吐いて、胃が空っぽになっても吐き続けた。やがて胃液も枯れ、口からは黒っぽい血だけが垂れた。上辺の言い訳は全てぶちまけてしまって、私の頭には本音だけが残った。そして、自分の心がどれほど傷ついているのかようやく分かった。

 あの時堕ろしていなければ、あの子は今頃は私の腕に抱かれていたのだろうか。その時、私は幸せだったのだろうか。だが、その時間を奪ったのは、まぎれもない私自身だ。たとえ父親が誰なのかはっきりしなくとも、母親は私なのだ。それが愛の結晶ではなかったとしても、半分は私の血肉を分けた子だったはずなのだ。

 私は、今までの人生で後悔をしないように生きてきたと思う。それは、あの時こうしていれば、という選択肢を避けるように生きて、別の選択肢のことを一切考えないようにしていたのだと思う。だが、今の私は、どうしてもあの時の別の未来を想像してしまう。子を産んで、育てていた未来。それが幸せだったのかどうかは、今の私には絶対に分からないが、少なくとも、この一年間のような、いやこれまでの人生のような、何の熱も動きもない世界を生きてはいなかったのではないかと、私は思った。それは、私自身の手で宇宙が生まれるビックバンを停止させ、未だ無の世界を漂う選択をしてしまったのではないか。私は、気づいたらひたすら泣き続けていた。


 涙が、渇いた大地を潤し、時間がその傷を塞いでいった。空には、太陽が輝いていて、この宇宙は今も回り続けているのだと実感できる。空を青いと感じたのは、いつぶりだろうか。

 人生をやり直そうと、泣き止んだ時に決めた。泣き続けた時に生まれた膨大な熱量は、一度私の人生を溶かした。そして再び固まった意志は、私の人生をしっかりと支えてくれるはずだ。この二十一年間は、今この時の再スタートのための準備期間だったのだと、割り切った。

 もう一度この身に希望を宿そう。誰かと結婚して、その愛の結晶に魂を注ぎ込もう。それが幸せな生活かは、分からないし、決して贖罪でもない。手前勝手な話ではあるが、私はあの子のためではなく、自分のために、新たな宇宙を作り直そうと決めたのだった。

 

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