向日葵のある朝

抜殻

 目覚まし時計の鳴き声が、思考を遮った。叩きつけるように切ると、静謐が部屋を満たす。肌に触れる空気は冷たく、布団の中と外で世界が違うと感じる。まだ目覚め切っていない脳が、再び眠れ、という命令を発するが、それに負けることなく布団を剥がすと、温めてきた空気が霧散して、流れ込んできた冷気が体温を奪う。それは星の悪意としか思えないような鋭さで襲いかかってきて、俺の体はブルブルと震える。そんな寒さから身を守るように、上着を羽織って部屋を出た。

 階段を下っていくと、コーヒーやトーストの匂いが漂ってくる。この冬の寒さの中では、その匂いにすら温もりが宿っているような気がして、俺はホッとする。リビングに辿り着くと、父は新聞を読んでおり、母は俺が降りてきたのを見てココアを淹れている。

 挨拶を交わしながら、父の向かいの席に座る。父は、俺が目覚ましで起きてきたことに感心し、俺が子どもの頃は毎朝たたき起こされてたなぁ、とか、朝に強いといいサラリーマンになれるぞ、などとこれも挨拶に含まれるのではないかと思うほど、毎朝同じことを言っている。早起きは三文の徳と言われたが、三文の徳がなんのことか俺には分からなかった。父に訊ね返すと、困った顔をしながら考えた末に、どういう意味なんだろうな、と諦めたように言った。

「絶対習った気がするんだけどなぁ。大人になると、色んなこと忘れちゃうんだぞ」

 母は、そんな光景をクスクスと笑いながら、俺の分の朝食を持ってくる。マーガリンを塗ったトーストに目玉焼き、カリッとしたベーコンとサラダ。我が家の基本的な朝のメニューで、たまにトーストにジャムが乗っていたり、フレンチトーストになっていたり、ベーコンがハムになっていたりするが、目玉焼きだけは何があっても無くなることはない。それは母が卵が大好きで、冷蔵庫の中にはたくさんの卵が孵化を待っているからだ。母が着ているエプロンはかわいらしいひよこ柄で、今も父の弁当に詰める卵焼きを嬉しそうに焼いている。冷蔵庫で冷やして、フライパンで温めていたら、ひよことは絶対に会えないから、卵柄のエプロンが売っていなかったから仕方なく着ているんだと、俺は思っている。そうじゃなかったら、ちょっと怖い。

 俺自身は、別に卵のことは好きでもなんでもない。目玉焼きに関しては少し嫌いなくらいだ。母の焼く目玉焼きは、底が少し焦げていて苦みがある。黄身も、口の中にべっとりと残る感触が好きではない。白身の部分は、おいしいと思うのだが。

 朝食を食べて、顔を洗って歯を磨く。すでに父が終えていたあとだったので、始めから温水が出てくることに安堵する。しかしそれが済むと、この時期には決心が必要な着替えをしなくてはいけない。名残惜しそうにパジャマを脱ぎ、寒さに後押しされるように急いで着替えた。

 こうして準備は万端。ランドセルの中身は昨晩のうちに準備してあるので、朝に慌てる必要がない。ランドセルを背負ってさあ向かうか、というタイミングで、図ったかのようにインターホンがなる。

「雪乃ちゃん来てるわよ」

 分かってるよ、と思いながら階段を降りていくと、玄関には赤いランドセルを背負った雪乃が待っていた。雪乃は近所に住んでいる同級生で、通学路が同じだった。物静かで、大人びた印象の少女だ。おかっぱの黒々とした髪と、名前の通りの白い肌が対になっていて、子どもながらにかわいいというよりもきれいと思う顔立ちをしているが、ふっくらとした顔にはまだまだ年相応の幼さが残っている。

「おはよう、寝坊助さん」

 俺の小学校は、集団登校が義務付けられていて、たいていは近所の子たちが集合場所で集まってから登校する。その人数は地域によって偏りがあるのだが、俺と雪乃は上級生が卒業した今年からは、二人きりで登校している。そのためか、雪乃が家まで迎えに来ることが多い。集合場所よりも家に近いから、だそうだ。

 学校までの道のりは二十分ほどで、その間俺と雪乃はほとんど言葉を交わさない。お互い口数は少ない方だが、喋るのを面倒に感じているわけでも、異性を意識して緊張しているわけでもない。それは星と星が距離を取り合うことで通じ合っているような、星座の繋がりのような関係だと俺は感じていた。ロマンスよりは仲間意識に近く、言葉はいらず、心で分かり合える関係だと。それは、俺がイメージする大人の姿そのもので、そんな風に思える相手は、雪乃しかいなかった。

 この大人のイメージは、両親の影響だろうと思った。父は陽気で、子どもっぽい一面を残しているが、母は対照的に物静かで、思慮的だ。何かと喜んだり、焦ったりするのは父の役目で、母はそれを聖母のように微笑みながら見ている。母からすれば、息子が二人いるように見えるのだろうか。だから俺の中には、騒がしいのが子どもで、静かなのが大人という、偏見に満ちた線引きがあるのだった。

 

「君はさ、夢って見る?」

 ある日の雪が降る朝、雪乃は突然こんなことを聞いてきた。それは、親が今晩なにが食べたい?と聞いてくるような自然さだった。

「夢って、夜に見るあの?」

「ううん。先生に言われて、ノートに書く方」

「それは、聞き方が悪いだろう。夢を見るか、じゃなくて、夢はあるかって聞く方が、あってると思うけど」

 俺はそんなつまらない指摘をしてから、そういえば今日は、将来の夢について語る授業があるんだったなと、思い出した。

「そうだね」

 雪乃は気にした様子もなく、微笑みを崩さない。その母性的な微笑みは、まるで俺は何を語るかを試しているみたいだ。

 クラスメイトの中には、宇宙飛行士になる、だとか、プロのスポーツ選手になる、などと言った夢を通り越した願望に思えることを、なぜか自信たっぷりに大きな声で語る者もいる。たいていの場合それらは、なぜか”なる”と断定的で、そのたびに俺は、じゃあお前らはそのための努力をしているのかと疑問に思ってしまう。

 そして担任が彼らを持ち上げるようなことを言うと、仕事だから、とか、彼らが夢を叶えるか叶えないかはどっちでもいいから適当に返事をしているんだと、ひねくれて考えてしまう。

 そんな俺はと言えば、将来の夢など持っていなかったのだが。自分が何になりたいか、何になっているかなど、今の俺には分からない。ほんの十年間しか生きていない小さな世界の中で、自分の将来を決めてしまうのは怖かった。夢が、あくまでも将来何になりたいかというあいまいとした目標であったとしても、俺にはそれが口に出した途端に未来の決定事項になってしまって、その強迫観念に苛まれながら生きていかなければならないのだと感じていた。そして何よりも、夢を叶えられなかった時、それまでの人生や、努力というものが水をかけられた焚火のように意味のないものになってしまうのが、怖かった。

「分からない」

 これが、俺の正直な答えだった。考えるのが面倒になったわけでも、ごまかしたかったわけでもない。真剣に考えた結果の本心だった。ありきたりなことや、でっち上げを言って、ごまかすこともできた。でも、雪乃にはそんなことをする必要はないと思ったし、したくもなかった。

 雪乃は変わらず、知っていたと言いたげな微笑を浮かべたままだ。

「雪乃には、あるの?」

「あるよ」

 間を置かぬ即答に、少し戸惑う。意外だったが、俺はふーん、と興味なさげに相槌を打つ。

「でも、君が教えてくれないなら、私も教えない」

「なんだよ、それ」

 ガキじゃあるまいし、という言葉は飲み込んだ。

「別に嘘をついてるわけじゃない。本当に分からないんだ」

「分からないことが分かる。ソクラテスみたいだね」

 それは、最近授業で習った偉人の名前だった。今日の雪乃は、ちょっと子どもっぽいと、俺は思った。それは雪が降っていることに喜ぶ雪女、いや、もっと幼い雪娘、と呼ぶのが適切なのかは分からないが、とにかく雪の中の雪乃は、いつもよりも幼く、楽し気に見えた。

「じゃあ、今日の授業はどうするの?」

「適当にごまかすさ」

「じゃあ私もそうしよっと」

「なんでだよ。別にごまかす必要ないだろ」

「だって、君は嘘をつくのに、私だけ正直に言ったら、なんだか卑怯じゃない?正直者が馬鹿を見るってやつ」

 あのなぁ、と文句でも言ってやりたい気持ちになったが、雪乃はそれを遮るように語りだした。

「君の人生は、まだ夜なんじゃないかな。人の一生は道を歩くことだって、前読んだ本に書いてあった。その本では、人は生まれた時には足元も見えないような暗闇にいて、知識とか経験とか、色んなものが小さな星になって、空がどっちにあるのか教えてくれる。星たちが集まって月になると、うすぼんやりと足元が見えてきてようやく歩きだせる。そして最後に日が昇ると、自分の進む道の先に何があるのかが見えてきて、分かれ道の存在にも気づくことができるんだって表現してた。

 だからさ、君は人生はまだ夜なんだよ。月の光もなくて、未来も、そこへ至る道も見えなくて、立ち止まって夜空の星を眺めてるだけ。足元を探ってでも前に進むほどの理由が、君にはないから。でもね、時間は止まらない。いつか、絶対に夜は終わる。だから今は、未来が分からなくて立ち止まっても、迷っててもいいと私は思うな」

 雪乃はとても満足そうに、少し顔を赤らめていた。俺は雪乃の言っていることを、ほとんど分かっていなかったが、彼女が微笑むとそれは世界の真理を耳打ちされたような気持ちになって、小さく白い息を吐いた。

「それに私、嘘つくの好きなんだ。嘘つきは、三文の徳って言うじゃない?」

「それを言うなら、早起きだろ」

「そうだっけ?でも、嘘つきの方が得してそうじゃない?」

 そして雪乃は、笑ったとはっきり分かるように、いつもの微笑みを崩した。


 翌日、雪乃は死んだ。翌日、というのは正確ではないかもしれないが、俺がそのことを知ったのは翌日のホームルームで、その瞬間まで俺の中では雪乃は当然のように生きていて、それを疑う余地もなかった。だから俺の中で雪乃が死んだのは、翌日のホームルームの時なのは間違いないと思った。

 その日、雪乃は時間になっても迎えに来なかった。別に雪乃が迎えに来るということがルールとして決まっていたわけではなかったが、来ない日という方が珍しかった。母は訝しい顔をしながら、雪乃ちゃんの家まで行ってあげなさいと言い、俺もそのつもりだった。

 その時の俺は、当然ながら雪乃が死んでいることなど知りもしなかったので、雪乃も寝坊をするのだな、などと悠長に考えていた。だが雪乃の家に誰もおらず、車もなかったことは違和感を抱いたものの、思いついた結論は風邪だった。雪乃が風邪をひいて、もしかしたら今は病院に向かっているのかもしれない。子どもの発想の中には、人の生き死には選択肢として出入りはしないのだった。俺は、一人で学校へ向かった。

 そして担任の口から、雪乃の死を伝えられた。俺の中で、昨日という時間はいつも通りに過ぎ去っていったはずだったのに、振り返ってみればすぐ足元には雪乃が横たわっていたのだった。ついさっきまで、隣を歩いていたはずだったのに。

 雪乃は、昨日の帰り道に雪に足を取られた車に撥ねられて死んだ、らしい。運転手は動転しながらも自らで通報し、雪乃はすぐさま病院に運び込まれた。が、その時にはもはや手遅れで、ただ死んだことを確認しただけだった。撥ねられた時点で、首の骨が折れて即死していたらしい。

 担任は、俺たちになるべく刺激を与えないように、慎重に言葉を選んで雪乃の死を伝えた。だからだろうか、担任の話を聞いても、クラスメイトたちはそれがテレビで見る事故のような、どこか自分とは無関係な遠い世界のニュースのように感じていたのだと思う。驚きはあった。だが、それ以上の衝撃はなかった。泣く者も、悲しむ者もなく、ただ茫然と教壇から流れる速報を聞いていた。今日からずっと、雪乃は教室にはやってこないんだ、という誰かが転校した時のような空気しか、教室には流れなかった。

 しかし、時間が経つにつれて、この世界からぽっかりと、雪乃がいなくなってしまったのだと実感した。それは授業の時、雪乃の席が空いていることや、体育で雪乃の分の並び順が詰められた時や、給食で雪乃の分のデザートが残った時に、はっきりと感じることができた。そこには雪乃という生命体が持っていた質量が、はっきりと失われたことを太陽が昇るように明確に教えていた。彼女と親しかった子たちは、昼休みになって初めて泣いた。その虚無の脅迫に耐えられなくなったようだった。

 そして俺は、学校が終わって、一人帰り道を歩いている時になってようやく、雪乃が死んだことを実感した。それは通学で使う道を歩いている時に、隣にいたはずの雪乃の質量がとても重く残っているからだった。俺の隣にもう一揃いの足跡が、並んで刻まれそうなほどに、実体を持たない幽鬼として彷徨っている気がした。今朝も一人でこの道を歩いたはずなのに、たった一度の太陽の巡りも待たずに世界が一変してしまった。

 俺は雪乃の死に触れるまで、死ぬというものがどういうことなのか分かっていなかった。人はいずれ死ぬ。だが、そのいずれがいつか分からないから怖いのだと、はっきり理解できた。太陽が爆発寸前に膨張していても、俺たちはそれに気づけないように、死は常にそばにいて、その風を吹かすのを待っているのだ。お前はいつ死ぬと、生まれた瞬間に教えてくれた方がマシに思える。残酷ではあっても、いきなり対面するよりは諦めを抱く時間が与えられるから。

 雪乃には、夢があった。彼女はそう言っていた。それは軽い気持ちではなくて、定規で書かれたような未来予想図であったはずだ。彼女はそこに至る道をわき目もふらず進んでいて、思わぬ落とし穴に落ち、死んでしまった。それでは、すべて無駄なのではないか。彼女が未来へと歩むために鍛えたしなやかな筋肉や、脳内に保管された道端に咲く草花の名前や、走馬燈のために舗装した道のすべては、もはや歩く者のいなくなった獣道になってしまって、その努力の価値を失ってしまったのではないか。未来に対してどれだけ積み重ねても、土台の今が崩れてしまっては、それはバベルの塔が天に届かなかったようにどうしようもないのではないか。

 急に、不安と心細さが襲い掛かってきたような気がした。今歩いている道を、雪乃も一人で歩いていたのだと思うと、車が通り過ぎるたびに体を震わせた。

 登下校には、安全のために事前に決められた道を使うように、と言われている。だが俺は、友達の家に寄り道をするために、たびたびその規則を破っていた。そうなると、雪乃はたった一人で帰ることになる。その時雪乃がどんな気持ちだったのか、俺は考えたことがなかった。今の俺のように、不意に訪れる死に怯えていたのだろうか。それとも、溢れ出る子どもの生命力ゆえに、そういった非生命的なイメージは抱かなかったのだろうか。

 俺は昨日も、こうやって雪乃を一人にしていたのだ。だが俺が一緒にいたところで、助けることができたのか、それともただ一緒に巻き込まれるだけだったのかは、今となっては分からない。ただ雪乃は、死ぬ瞬間は孤独だったということだけは、通り過ぎる寒い風が教えてくれた。

 俺はこれから毎日、たった一人でこの道を歩かなくてはいけないのだと、ようやく気づいたのだった。


 雪乃の通夜には、母に連れられて参列した。父は、仕事の都合があると来なかった。母と雪乃の接点は、雪乃が俺を迎えに来た時に顔を合わせるくらいで、家族で付き合いがあるわけでもなかったが、母は行かないわけにはいかないでしょと、俺の手を引いてやってきたのだった。

 雪乃の両親は、整然としていたが、真っ赤に充血した目を彷徨わせて、疲れ切った顔をしていた。そのぼうっとした姿を見て、感情にも体力があって、それが尽きてしまうと呆れているような顔になるのだなと俺は思った。赤い目が俺と母を捉えると、俯きがちだった顔をさらに下げた。俺と母のことを知っていたのかは分からないが、もはや他人の顔を識別する機能を失ってしまったように、事務的で機械的な会釈だった。

 棺の中の雪乃には、白い布が被せられていて、その顔は見れなかった。それが何を意味するのかは俺には分からなかったが、母は少しだけ顔を強張らせた。

 俺は焼香をしながら、雪乃の顔を思い出そうとして、必死に記憶を辿った。そして最も新しい記憶は、あの日の授業だった。雪乃は、お医者さんになりたいと、そんなことを言っていたような気がする。身体ではなく、心を治す医者になりたいと。

「そのために今は勉強を頑張って、将来は医者の大学に入りたいと思っています」

 と、はっきりとした口調で語った。その時にはすでに雪は止んでいたが、雪乃は朝に見た時の同様に生き生きとしていて、その顔は嘘をつくことを楽しんでいるようには見えなかった。

 一つの記憶を拾い上げると、俺の道に散らばっていた雪乃の記憶はキラキラと光り始めて、次々と思い出されていく。それは抗うことのできない時計の逆進となって、雪乃の手の大きさや、足跡や、横顔を思い出させ、そしてそれらを思い出すたびに、シャボン玉が弾けて二度と元の形に戻らないように、彼女の記憶がこの手の中から零れ落ちて暗闇に消えてしまいそうに思えた。俺は涙をぐっとこらえながら、必死に雪乃の記憶を抱えていた。今泣いてしまったら、もう二度と雪乃の顔を思い出すことはできないと思った。

 外に出ると、雲も月もない空に星が散らばっていた。月が砕けてしまったのでは、と思うほどの満天の星だ。俺には、この月を失った空が、雪乃のいなくなった世界だと思った。彼女の記憶の楔は、教室や、玄関や、通学路に確かに打ち込まれていて、俺はそれを見つけるたびに雪乃のことを思い出すのだ。それは空に浮かぶ星が、かつてはこの空にも月があったことを証明しているように、自らが発光してそのたびに俺の心を軋ませた。

 いつか雪乃が、空に集まる星を集めて月を作れば、夜にでも進む道が見えてくると言っていた。ならば俺も、この世界に残っている彼女の残滓を拾い集めていけば、また彼女に会えるだろうか。それはきっと、俺の頭の中に残っている記憶が生み出した幻影が、都合のいい場面を思い浮かべるだけだと、分かっている。だがそれでも俺には、今は月が砕けてしまった空では、月から零れた光る石を頼りに、それを辿っていくしか道を進めない。俺は前に進んでいるのか、それとも道を遡っているのか、暗闇の中では分からなかった。それでも、進んでいると思いたい。今なら、俺は自分の進むべき道を見つけられた気がしたから。それに、道を戻っていたのだとしても、太陽が昇ればそれは明らかになって、また正しい道を探し直せばいいだけなのだ。


 雪乃が死んだ、冬が終わろうとしている。また来年の冬まで、自分の足跡の大きさを実感することもないだろう。道端には、一秒でも長くこの世界に留まろうとしているのか、溶けかかった雪が身を寄せあっている。

 たった一人で歩く通学路はいつもより広くて、風がうるさくて、いつもより、体温が低く感じられた。自分の足音を、追いかけっこをしている風がさらっていく。わずかに残った雪が解ければ、春がやって来る。

 大人になると色んなことを忘れてしまうと、父は言っていた。それならば、いずれ俺は雪乃のことも忘れてしまうのだろうか。そんな馬鹿な、と思いつつも、しかし彼女が死んだときどう思ったのか、何を感じたのか、その時の心の振動を思い出すことはできなかった。あれほど心がざわついて、揺れ動かされたはずだったのに、今ではその片鱗を思い出して胸がキュッと痛むだけで、ただ雪乃が死んだときは衝撃を受けた、という簡単な言葉で覚えているだけだと、俺は気づいた。

 あのときの衝撃は、そんな言葉で表せられるようなものではなかったはずで、それなのに、今ではどれだけ頑張ってもそのような一文でしか雪乃の死を思い出すことができない。百万の色彩を使って、脳細胞のすべてに感情が宿ったように思えたあの一瞬を、今ではモノクロの記憶としてしか思い出せない。俺にはそれがたまらなく悲しくて、大人になってさらにその記憶が薄められていくと思うと、未来がまた怖くなってくる。

 そのとき、せっかちな蝶々が視界を掠めた。まだ寒さも残っているというのに、その蝶は春を先取りしたようにひらひらと舞っていた。白地の羽根に、黒色の模様がついている、きれいな蝶だった。だが、瞬きをした途端に見失ってしまいそうなほど、不鮮明でもあった。その緩やかな飛び方は、雪乃の喋り方をほうふつとさせた。羽根の色合いといい、なんだか雪乃に似た部分の多い蝶だ。それとも、この蝶に雪乃の面影を重ねようとしているのだろうか。

 蝶は、しばらくの間俺の周りを衛星のように飛んでいた。俺も、当然ながら蝶も、喋ることはしなかったが、俺はなぜか安らぎを感じていた。だが、やがて蝶は上昇気流を捉えたのか高く舞い上がった。俺は蝶を見失わないように、空を隅々に至るまで睨み続けていたが、海に流したボトルレターを波の合間に見失うように、蝶は空に溶けて消えてしまった。俺は蝶を見失ったあとも、ただずっと、立ち止まって空を見上げ続けていた。

 

 

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