魔王妃のうさぎさん。

桂木翠

魔王妃のうさぎさん。





 見上げる夜空の月が赤い―――。



 ぬらりと不快に艶めく漆黒の縦長い胴部に、血を連想させる色彩の無数の脚。

 扁平な頭部には二本の太い触覚と四対の単眼を持ち、捕食用に特化した顎肢と毒腺は他の蟲には生への絶望を感じさせる事だろう。

 百足だった。それも巨体を持つ百足だ。敵は見当たらない。それ程に大きく強い。

 大百足は各々の方向に蠢く無数の脚を器用に使い、大地に紋様や文字を描いていた。

 所謂、魔法陣だ。

 大百足は禍々しい顎肢をカチカチと鳴らす。


『(くそっ! 何なんだよ、どういう事だよ! 失敗の代償に蟲の界へ飛ばされるってさ! 魔王の俺がだぞ?! それも此の姿でっ)』


 大百足は嘆いた。盛大に嘆いた。

 それも其の筈で、大百足は別の界の魔王であった。人間を恐怖に陥れ続ける魔族の頂点。そして本来は人型。漆黒の髪と二本の角を持ち、赤い瞳の美貌の魔王陛下、であるはずなのだ。

 なのに―――。


『(やるんじゃなかった! 勇者の、あんなヤツらの為に屑魔石を伝説の古竜に擬態させるなんて! 実際の古竜と同じ素材を採れるようにする必要が俺の何処にあったんだよ! 気づけよ、俺! 何で魔王の俺が勇者一行の手柄を作ってやらないとイケないんだよ!)』


 憤りしか感じなかった。

 背後からずっと視線を感じながら、大百足は無数の脚を動かしてガシガシと魔法陣を大地に描き続ける。

 脚が数本くらい捥げても一向に構わない。

 本来の人型に戻ったとしても体が欠損する程では無いからだ。せいぜい髪が短くなるくらいだろう。


『(こんな蟲しか生息しない魔素皆無の下等な界で三ヶ月! 俺はよく頑張った! 失った魔力は最低限戻ったし、今日は満月! 条件は揃った! 俺は帰る! 絶対に帰る!)』


 ガシガシガシガシと大百足は魔法陣を描く。勇者一行への不満と憤りに力強く大地を削った。

 その時だ。大百足の視界に一つの存在が入る。大百足は無数の脚の動きを止めた。思うままに動かし続ければ其の存在を傷つけてしまうからだ。

 その存在はとても小さな蟲だった。黒い頭、赤く丸い同部に黒い斑点を持つ蟲。天道虫だ。

 天道虫は大百足の描いていた魔法陣の中に入り、手伝うつもりなのか、細すぎる頼りない脚で円の続きを描きだした。

 背後からずっと感じていた視線の主だ。


『(止めとけよ。お前の脚じゃ、例え柔らかい土であっても傷がつく)』


 天道虫は止めなかった。

 頼りない小さく細い脚で何度も同じ箇所を擦っている。

 大百足は顎肢をカシカシと鳴らした。人型であれば溜息である。

 近くにある弱い存在に最大限の気を払いながら、大百足は魔法陣を描く作業を再開した。


『(この三ヶ月、この界の多くの蟲を見てきたが、お前はアレらとは違うな。俺と同じで飛ばされたか)』

『(…………)』

『(会話は無理か。お前はお前の界に戻してやりたいが、如何せん、今の俺は不本意ながら魔力が足りない。一旦、俺の界に連れていってから元の界に戻す形だな。……本来の魔力が戻っていないから、界渡りにはお前を金環で縛らないとならないけど)』


 大百足は夜空に目を向ける。

 異界の赤い月が欠ける前に全てを終わらせないとならない。


『(ま、先の事をグダグダ考えても仕方なし、さっさと完成させちゃうか)』


 大百足と天道虫は、蟲の界の大地に魔法陣を描き続けた。



** **



 ドンという衝撃と眩い光、歪む空間と共に、二つの存在が魔王城の玉座に現れた。

 大百足と天道虫、魔王が天道虫であった存在を連れて帰還したのだ。

 魔王は些か短くなった漆黒の髪を視界に入れて確認し、己が本来の姿に戻った事に安堵した。


「やっと戻れた。三ヶ月は長かった。まともな食事をして風呂に入って、早く自分の寝台でゆっくり寝たいは」


 そこまで口にして、魔王は腕の中の存在に意識を向ける。

 そして其の存在が天道虫であった時と同様、小さく感じるのに、魔王は嫌な汗が背筋を伝った。


「……いや、待てよ。ちょっと待ってくれ。こういった場合、適齢期の異性というのがお約束だろう?」


 腕の中の小さな存在のつぶらな瞳が魔王を捕らえた。


「お兄ちゃん、おめめ赤いね。うさぎさんみたい。角のある黒いうさぎさん」

「う、うさぎ?」

「うん、うさぎさん。優羅のね、幼稚園のうさぎさんに色がそっくり! 幼稚園のうさぎさんね、名前はチョコちゃんって言うんだよ!」

「……へぇ、そっかぁ」

「あ、でもね、チョコちゃんね、脱走しちゃったの」

「……大変だなぁ」


 玉座がある広間に複数の存在が現れた。魔王の帰還を感じ取り、配下の魔族が集まってきたのだ。

 それらは玉座の方を見て、ザワリと騒めきだした。理由は明白だ。

 カツリと杖を床で鳴らして、老体である重鎮の魔族が楽しそうに魔王に話しかける。


「フォフォフォ。人間でも驚きですのに、随分と可愛らしい方を魔王妃にされましたな。一度嵌めた金環は外せませぬぞ」

「…………」

「おじいちゃんはトカゲさん?」


 腕の中の天道虫であった幼女が、魔王から配下の魔族につぶらな瞳の先を移動させた。

 幼女の問いに老体の魔族が怖がらせない為か優し気な声音で答える。


「トカゲではないですぞ。儂は竜人ですじゃ」

「りゅうじんって、なぁに?」

「トカゲですじゃ」

「トカゲさん!」

「はいはい、そうですじゃ。仲良くして下され、魔王妃さま」


 幼女が背後を振り返り、他の魔族にもつぶらな瞳を向ける。

 瞳はキラキラと輝いていた。


「うさぎさんにトカゲさん、あっちに居るのは熊さんに、ワンちゃん!」

「……人狼かな」

「あ! あっちの人は頭が無いよ? 取れちゃったの? 痛い?」

「痛くは無いんじゃないかと思うなぁ」

「そうなの? ねえねえ、うさぎさん!」


 幼女が再び魔王の方へと振り向いた。その拍子に、左右二つに結わえられた髪が揺れ、そこに付けられた飾りに魔王の目が見開く。


「天道虫っ」


 幼女の小さい手が魔王の頭上に伸ばされた。


「うさぎさんの角、あったかいね」

「魔力が巡っているからな」

「ふーん。そうなんだぁ」

「意味、全く分かってないだろ?」


 うーん、と可愛らしく首を傾げる幼女が、角を握りながら、魔王の膝の上で立ち上がった。

 次いで幼女は、あむっと角を突然齧りだす。

 慌てたのは老体の魔族の竜人だった。


「これこれ、魔王妃様。魔王陛下の角を口にしても味はしませんぞ。汚いから齧らない方が良いと儂は思いますぞ」

「おい」


 あむあむしていた幼女が角から口を離した。べちゃあと付着した涎が糸を引いて落ちる。

 なんとも言えない空気が魔王城の広間を支配した。


「しょっぱい」

「入浴しなされ、魔王陛下」

「するつもりだよ!」


 フルリと魔王は理不尽に身を震わせる。

 立ち上がっていた幼女の脇に手を差し入れて、再び己の膝の上に座らせた。


「お前は何歳なんだよ」

「四歳だよ!」


 幼女は小さい手で四本の指を立てて、魔王に可愛らしい笑顔を見せる。

 一方の魔王の表情は居た堪れなさを隠せない。

 異世界に飛ばされている事を全く分かっていなそうな楽しそうな様子で、幼女は言葉を続けた。


「お名前はね、きさや、ゆうら! ゆり組だよ! 年中さんなの!」


 幼女は下を向き、纏う衣服に付いていた花の形のバッジを指さした。


「ほら、うさぎさん、ここ見て! 名札にね、ゆ・り・ぐ・み、って書いてあるでしょ? 優羅ね、平仮名、ちょっと読めるようになったんだよ! なつみ先生に、偉いねって、明日褒められたもん!」

「明日? ……その髪飾りは?」

「これ? これね、いいでしょ! みゆちゃんのママが作ってくれたんだよ! 天道虫の髪ゴム! 優羅のお気に入り!」

「……そうなんだ」

「優羅のママとみゆちゃんのママね、すっごい仲良しなんだよ! いつもランチしてる! 焼肉ランチが好きなんだって! 優羅とみゆちゃんが幼稚園に居る時は、ゆっくりお肉を焼いて食べられるって言ってた!」

「それを聞いて、良かったと言えば俺はいいのか?」

「うさぎさんにクイズね!」


 幼女が得意げな様子で胸を反らし、ハイ、と片腕を上げた。


「……急な話題の転換に俺は付いていけそうにないよ」

「問題! 優羅のパパの名前は何でしょう? いち、たかし。に、ひろし。さん、かずひろ。どーれだ!」

「…………いち、たかし、かな」

「ぶっぶぅ! 外れ! ひろしでしたぁ! うさぎさん、そんな事も知らないの? じゃあ次の問題ね! 優羅のママの名前は何でしょう? いち、みさえ。に、ゆきこ。さん、まさみ―――」


 魔王と金環を嵌めた幼女な魔王妃の微笑ましいのか痛々しいのか分からない光景を眺めながら、広間に集まっていた魔族らがボソボソと話し出した。


「魔王陛下、幼女がお好みだったんだなぁ」

「これさぁ、定期的に遊びに来る勇者一行が来たら、大騒ぎになるんじゃないか?」

「あー…童貞を拗らせているのが居るもんな」

「魔法使いだろ? 発狂するんじゃね? 面倒臭いなぁ」

「魔王城、破壊されそ」

「でも幼女だしなぁ」

「いや、幼女だからっていうか」

「えー…」



 魔王城は今日も平和で、不幸な事故で蟲の界に飛ばされて帰還した魔王は、可愛らしい幼な妻を手に入れたとさ。



 めでたし。めでたし。

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魔王妃のうさぎさん。 桂木翠 @sui_katuragi

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