全てを失ったはずなのに......

鋼の翼

第1話

「優斗君、好きです。付き合ってください!」


 そう言われた日のことを、俺はまだ覚えている。そして、


「他に好きな人ができたから別れて」


 その二か月後にそう冷たい目で言われたのも覚えている。納得はできなかった。その好きな人というのが俺とは比べる必要もないほどのイケメンで成績もいい。そんな人材だったからこそ余計に腹が立った。


 彼女――夕莉と俺がつり合ってないのは薄々自覚はしていた。けれど、夕莉の楽しそうな顔を見て、これでいいんだと安心していた。でも、違った。

 あいつは、俺を道具としか見てなかった。


「まあまあ、あの高峰夕莉がサトなんかと付き合ってくれたことが奇跡だったんだよ、そう落ち込むなって」


 振られた後に友達が言っていた言葉が胸を刺した。『付き合ってくれたこと』、彼は確かにそう言っていた。


 俺が夕莉に告白されたのは誰一人としていなくなった放課後の体育館裏。俺が夕莉との関係をあまり話そうとしなかった結果か、俺の周りでは俺が告白をしたことになっていた。


 その時に気づいた。俺といるときに笑顔でふるまってたのは夕莉が誰にでも優しく接せられる心優しい女の子だとアピールするためだったんだと。要するに俺は、夕莉にとって本命を釣るための餌でしかなかった。


「そう気づいたときには、俺の立場はもうなかった。わかってるのか? 夕莉」

「聞いてて涙がでるほど残念な男ね、優斗は。そんな妄想に過ぎない嘘話を誰が信じるのさ?」


 夜の繁華街。21歳になった俺は部長に飲みにつれられた先で元カノの夕莉と彼女と付き合っているだろう男性と出会っていた。夕莉は高校生のときよりもいっそう美人になっており、改めて俺が彼女とつり合わなかったことを肯定してくる。


「んで、ここで私をそんな話までして呼び止めることに何の意味があるの? 私今忙しいんだけど」


 若干つり上がり気味の目じりをさらにつり上げ、脅すような低い声で睨んでくる夕莉。その夕莉の様子に隣の男がギョッとしたような表情で夕莉を見た。彼との生活のなかでは、誰かに嫌悪感を示す夕莉など見せたことはなかったのだろう。


 やり返すチャンスだと思った。たった一年にも満たない時間ではあったが彼女にかけた時間もお金も、愛情も、全て無駄になった上に俺のその後の周囲からの評価は夕莉の金蔓、だ。そして俺はそれ以降、人としての扱いを受けられることはなかった。


「正直言って、お前に言いたいことは山ほどある。でも、それは言ったところでおっ前に届くはずもないだろうから言わない。でもその隣の彼氏さんには話しておきたいことがたくさんある。俺との会話で何か訂正したいことがあったときのために聞いておいた方がいいと思っただけだから、別にいなくていい」


 夕莉はあっそう、とつまらなさそうに言い、


「じゃあ先に行ってるねパーパ?」


 その男性の腕に体を擦り付け、走り去っていった。俺は思わず男性を凝視した。年齢は俺とそう変わらない。しかし、今の夕莉の反応からわかるのは......。


「あんた、彼氏じゃないのか?」

「彼氏だと......思ってたんですけどね......」


 アハハ、と男は乾いた笑みを浮かべた。『金蔓』。その言葉が脳裏をもう一度掠めた。俺は思わず彼の手を取って強く握りしめた。


「悔しく、ないですか?」

「悔しいというよりも、悲しいよ。こんな僕でも、彼女みたいな美人さんと付き合えていることを嬉しく思っていたからね」

「一緒に仕返ししませんか?」


 彼は――数瞬躊躇った後、静かに頷いた。


「でも、どうやって彼女を?」

「興信所を使いましょう。彼女の性格を考えればそこらの有象無象と付き合いながらある特定の人物への狙いを定めているはずです。

 その特定の人物はわかりませんが今交際中の相手は特段イケメンではないにも関わらず彼女のスキンシップが多い相手が可能性として高いです。そして、彼女はもう21歳。もし仮に今の相手と数年付き合っているのであればどちらかから婚約の話が出ているかもしれません」


 そこまで言うと、彼の目は大きく見開かれ、こちらが何をする気なのか、大まかな意図を理解した態度をとっていた。


「そして、見栄っ張りな彼女は婚約をしたことを周囲に言いふらすでしょう。証拠として何らかの形あるものを送り合っているかもしれません。

 婚約、結婚下における浮気は慰謝料請求の対象です」


 ニィっと笑うと、彼も笑い返してくる。しかし、彼は一瞬で眉根をよせた。


「でもそれは、彼女に婚約相手、結婚相手がいることが前提だと思うが......」

「そうですね。そこで、あなたの出番です」


 俺は胸ポケットから小型の録音マイクを取り出す。本来、今日の飲み会で腐った会社の内部構造を詳しく聞き出そうと思って持ってきていたものだが、それが失敗に終わった今、使いどころはここしかなかった。


「夕莉との今日の会話を全部録音してください。婚約者の存在は聞き出せればでいいです」


 小型録音マイクを彼の前に差し出す。それを受取ろうと伸ばした彼の腕は、震えていた。それもそうか、と一人納得する。

 これからしようとしているのは最低二人の人生を破壊すること。赤の他人とは言え、やはり彼の中では躊躇いがあるのだろう。そう考えていた矢先、彼は録音マイクを受け取った。


「私は一月に三回は彼女と会っていました。おそらく今回も次いつ会うかのお話はあると思います。ですので、可能な限り、彼女の情報を聞き出してきましょう」

「......私が言うのは何ですが、本当にいいんですか? 下手したらあなたが破滅に追い込まれますよ?」


 何も心配するな。彼の目はそう語っていた。興奮で夜の繁華街の喧騒がかき消される。


「自分が破滅する覚悟がなくて、どうして多くの人生を変えてしまうことができますか」

「......そう、ですよね。ハハハハ」


 その後、彼――重森弥一とは連絡先を交換し、その場で別れた。



 重森と次に会ったのはその日から二日後の夜のことだった。

 重森は獲物を狙う肉食獣のようにギラギラとした目を俺に向け、ニタリと笑う。


「優斗、あいつは婚約してるぞ」


 彼の放った一言に、心臓が大きく跳ねた。ついで重森は数枚の写真を渡してくる。軽く確認すれば、どこにでもありそうなレンガの家の写真が写されていた。


「これは?」

「夕莉の婚約者の家だ」


 俺は驚愕した。浮気相手にこうも簡単に婚約者がいることを話したこともそうだが、何よりもあの夕莉に情報を吐かせたことにだ。


「そいつは既に夕莉の浮気を疑って興信所を雇ってたよ」


 さっきまで元気に笑っていた重森から急に明るさが消えていく。わかってはいたんだ。目を宙に彷徨わせ、虚ろ気に重森はそう呟く。


「あんたも、浮気相手の一人だ......と?」

「そう。罰金が発生するのはいいんだ。それくらいのことをしたわけだし、それ以上のことをしようとしてたんだから。でもさ、足を洗った直後にこんなこと言われたら、キツイわ」


 一昨日も見た乾いた笑み。俺は何も言えなかった。


「悪いな、仕返しさせてやれなくて」


 男の悲しい笑い声が暗い路地裏にうるさいくらい反響した。



 その後の夕莉たちを含めた浮気相手のことは風の噂でさえ聞くことはなかった。唯一連絡先を知っていた重森も、電話を解約したのか、連絡はつかず。夕莉の婚約者の家に押しかけても、中はもぬけの殻なのか一切反応は返ってこない。


 知らず知らずのうちに俺の周囲から大勢の人がいなくなっていた。夕莉という女は、それだけ他者を魅了する人間であったと痛感するのと同時、どれだけ迷惑な存在なのかも理解した。


「優斗?」


 不意に、名前を呼ばれた。インターホンを押す手を放し、後ろを振り返る。そこには髪がぼさぼさ、化粧ははげ、よれよれの服を着た女性が立っていた。

 最近見た姿とは違う。けれども、彼女だということは分かった。


「夕莉、どうしてここに?」

「借金取りに追われてるのよ! 見て察して!」


 体が固まった。彼女の人生は、俺がここで手を出さなければ終わったと同然だ。彼女の助けろ、という懇願の視線に俺が何か思うことはない。


「そっか、借金取りに追われてんのか」


 夕莉に何か思うところはない。今夕莉がこんな状況になっているのは因果応報だ。だから――


「助けて、優斗......」


 だから――

 俺は夕莉の手を取り、近くで停車していたタクシーに乗り込み、びっくりした様子の運転手に財布を投げつける。


「その中に三万入ってる。可能な限り遠く、人の少ない場所に行ってくれ」


 運転手は戸惑いながらタクシーを発進させる。俺も戸惑いながら夕莉の元婚約者の家を眺める。

 自分でも何をしているのかわからなかった。ただわかっているのは自分のこの行為は大勢からバッシングを受けるということだけ。


「あんた、何してるの?」


 夕莉でさえ俺の行動に困惑しているようだった。わからない。そう答えようとしたとき、ふいに携帯が振動する。見れば、重森からの連絡だった。

『お前、バカだよ』その書き出しで始まる文面を見て胸が苦しくなった。


『お前は高校の時のことで夕莉のことを許せないかもしれないが、それにはわけがあったんだ。夕莉と付き合い始めた頃から、お前の周りではお前を対象とした差別やいじめをしようと画策する自称イケメンたちがいたそうだ。

 夕莉はお前が大好きだからよ、お前がボロボロになる姿なんて見たくなかったんだとよ。だから自分から距離を置いた。それが結果的にお前の心を傷つけたのかもしれない。なんたって、不器用だからな、あいつ。

 そうやって、強引に周囲を巻き込んで別れて、不器用ながらあいつは頑張ってお前を守ろうとしてたんだ』


 俺は思わず貧相な身なりの夕莉を見た。ただただ戸惑うだけの彼女から、つい先日再会した時のような嫌悪感は感じない。再び携帯が振動する。


「優斗は、なんて言ってた?」

「里山優斗っていう人と接点があったりしない?」

「もし優斗と会えたら教えて」


 音声が、流れていた。それらは全て夕莉の声。手が震え、視界が霞み始めた。

『夕莉が俺らと会っていたのは里山優斗、お前の情報を集めるためだったんだよ。そして、これは個人の考えだけど、お前を振り向かせるためにお金が必要だと思ってたんじゃないか? 今までのお前を守るために仕方ないとはいえたくさん傷つけた、その謝罪を金銭を渡して許してもらおうと思ってたんじゃないかな。多分――』


 続く文面は、濡れた画面と霞む視界で見ることはできなかった。ただわかるのは、俺の方が夕莉の何倍も、何十倍もクソ野郎だということ。


「―――――――――」


 まだ文章は送られてくる。けれど何も、見えない。ポスッと顔が布に包まれた。暖かく、女性の匂いがする布。耳元で聞こえる大丈夫というその言葉に俺はタクシーの中だということを忘れて泣き叫んだ。


 ひとしきり泣き、涙の跡を拭う。気恥ずかしさと背徳感から、夕莉の顔は見れなかった。

 少し痛む目を擦りながら携帯を開く。まだ、重森はメッセージを飛ばしてきていた。


『お前、実際に夕莉と再会した瞬間から高校の恨みなんてなかったんじゃないか? 本当はもう一度出会える機会が欲しかったんじゃないか? 嫌ってるって勝手に思い込ませてるだけで、本心は会いたくてしょうがなかったんじゃないか?

 否定してもいいけど、今のお前の行動がそれの証明だぞ』


 一瞬、息が詰まったように感じた。それは違う、そう送ろうと思っても、文字が打てない。


『初恋だもんな、忘れたくても忘れられなかったんだろ?』


 奥歯を噛みしめる。これを送っている重森はどういう心境なのか、それを想像しただけで胸が張り裂けそうになる。

『おっと、言い訳なんかしようったって無駄だぞ? お前が夕莉と別れて以降誰に告白されても相手にされなかったっていうのは既に知ってるしお前が営業部を熱望してたのも夕莉が関係してんだろ。

 嫌よ嫌よも好きのうち、とは言うが、お前は夕莉にもう一度告白してほしかったんだろ。同じ童貞として初恋の女ともう一度結ばれることを考えてしまうのはわかるぞ』


 驚くべきことに重森には何もかも、見透かされていた。だが、腑に落ちないことが少しある。俺は疑問点を素早く入力し、送信する。

 重森は夕莉をどう思っているのか、あの夜のホテルやそれまでに夕莉と会った時に抱いたんじゃないのか、何故俺が営業部だと知っているのか。

 それらをまとめたメッセージは送った瞬間既読がつく。数秒後、携帯が大きく振動した。見れば重森から電話がかかってきていた。迷いなく電話を繋ぎ、耳にあてる。


「バカ野郎かてめえ!」


 開口一番、重森の怒声が耳をつんざく。その声はスピーカーをオンにしていなくとも、車内に響いたらしい。赤信号で止まっているタクシードライバーと夕莉の視線が俺の手にあるスマホに集中していた。


「お前はある人を探してるんですが知りませんか? って異性のことを聞いてくるやつを抱けるのか!?俺は......いや、俺たちはそんなことをする外道じゃない!

 教えてやろうか? 夕莉はお前の情報とお金をくれるなら抱いて構わないって言ってたんだ。けどよ、俺達はそこまで特定の個人に執着するやつを抱けるほど人として腐っちゃいねえ」


「じゃあ、重森や、他の人達は......」

「ああ、ただ夕莉に金と情報を渡してただけだな」


 何を言っているのか理解できなかった。そんなの、

「そんなの、お前らに何の利益もないだろ、なんでそんなこと......」

「愛する人の幸せを手伝うのは、ダメなのか?」


 二個目の質問の答えが返ってきていた。けれでも、それを聞いたからこそ、余計に納得がいかない。


「じゃあ、なおさらなんでだよ! お前らが夕莉を幸せにすればいいじゃねえか! なんでわざわざ損をするようなことするんだよ!」

「それは分かれよ。ずっと思い続けてる相手と結ばれることって嬉しいことだろ。仮に俺が夕莉と付き合って結婚することになったとして俺は幸せかもしれない。でも、夕莉は幸せなのか? わかるだろ。夕莉とお前が結ばれることが、夕莉の幸せで、お前の幸せで、俺たちの幸せなんだよ」


 つい最近出会ったばかりのやつに惚れた女取られて、悔しくないのかよ。なんでお前らはそんなに人の恋路を応援できるんだよ。


「お前今、高校の時の自分と俺らのこと比べただろ?」


 目がカッと開くのを感じた。何故そんなことがわかるのか。重森の人間観察術が凄いのか、それとも......


「昔から全く変わってないなぁ、サト」


 それまで少し硬かった口調がいきなり柔らかくなり、聞きなじみのフレーズが携帯から流れてきた。『サト』。それは、重森という人物をはっきりと知るに足る単語だった。


「文哉、なのか......?」


 正解、とでも言うかのように電話の奥で笑い声が聞こえた。よくよくその笑い声に耳を澄ませると聞き覚えのある特徴的な笑い声が聞こえてくる。甲高い、少し耳にキーンとくる笑い声、それは


「拓斗もいるのか?」

「そう。ほかにも淡島、久下、宮本、ざっと五人はあの時の同級生がいるぞ」


 俺を、仲間外れにしたやつか。

 不意に、一人で過ごしていた高校生活の光景が目に浮かんだ。話しかけても下に見られる感覚、陰口のオンパレード、とにかく人としての尊厳を踏みにじられたあの記憶。


「運転手のネームプレート見てみろよ」


 タクシーに乗ってからずっと下げたままだった顔を上げ、助手席に張られた運転手の名前と写真を見る。


「わか、ばやし......ひでお。ヒデ、なのか?」

「お、やっと気づいた? というかあんなところにタクシーあったら何か怪しいなとか思って最低限車のナンバーと運転手の顔ぐらいしっかり確認するもんじゃね?

 どんだけ焦ってたんだよ、優斗」


 ガハハと豪快に笑い、ヒデは財布を投げ返してきた。それを受け取った瞬間、タクシーが加速する。タコメーターが一斉に回りだし、時速80kmでタクシーは国道を走りはじめた。


「おい、ヒデ。速度違反だろこれ!」

「あ? そんなことは承知の上だ」


 速度を一切落とす気のないヒデは制限速度を大幅にオーバーしたスピードで走り続ける。次第に道路わきに警察署が見え始める。流石に減速するだろうとヒデを見ると、彼は一瞬急ブレーキを強く踏んだ。

 シートベルトをしていなかった体が前のめりに倒れこみ、助手席に頭からぶつかる。その光景を見てか夕莉は吹き出すように笑った。久しく見ることのなかった、心の底からの笑い。それにつられ、俺の頬も少し緩む。


「あーお二方、左手の警察署前を見てやれ」


 咳払いしながらヒデが左手側を指さした。後部座席の窓がゆっくり開き、署の前に立つ巨漢が目に入る。巨漢は帽子を脱ぎ、大きく手を振る仕草をしていた。


「......ヒデ、もしかしてだけど」

「ああ、あいつは大木だよ。あいつのおじさんが警察の中で結構いいところについてるらしくてさ、この日だけ見逃してくれることになってんだ」


 俺は、なんでこんなにも高校の同級生が俺の周りにいるのか疑問に思っていた。地元に残った同級生たちがいるのは知っている。だから町中で時々すれ違ったり、なんていうのはあったりするとはいえ、こんなにも一日で出会うのは異常だった。


「なあヒデ。ヒデは俺らをどこに連れてくつもりなんだ?」

「そうだね。優斗の望み通り、人気のないところには連れていくよ。ただ......」


 ただ? 言葉にしようと思ったものは、急激にふらついた意識によって声として外に出なかった。隣を見れば夕莉が死んだように寝ている。『催眠ガス』その単語が脳裏をよぎるが、確証を得ようと動く前に俺の意識は途切れた。



「早くしろー。目ー覚める前に完成させるんだろー」

「うるせえな、こちとら本職についてから3年目だぞ。まだまだ初心者みたいなもんなんだから遅くても許してくれよ」


 目が覚めたのは、周囲の喧嘩しているようでどこか楽しそうな声が聞こえた時だった。ぐわぐわと歪む視界の中、隣で昏睡する夕莉の姿を視認する。運転席にヒデはおらず、窓から見える光景からどこかの森の奥のような印象を受ける。


「ほら、覚めるまでに完成させなきゃサプライズにならないだろ!」

「わかってるよ。でも焦って早く作って安全面は保証できませんの方が困るだろ。おら、夕莉の偽婚約者、手伝え!」


「うへえ、その呼び方、事実とはいえ傷つくんだが......」

「たっくん、下出してどうしたの? 下顎殴られたい?」

「いえ! そんなことないっす!」


 また楽しく話し合う声が聞こえた。俺はドアを開け、緑に囲まれた大地に足をつける。そうして見上げた視界の先に巨大な木造の家が建ち、その周囲で15人ほどの若い男女が談笑していた。

 その中にはヒデもいる。文哉も、拓斗も。夕莉に振られた時のクラスメイトがその場に立っていた。


「あ、秀雄ー! 里山起きちゃったみたい」


 それを聞いた瞬間、ヒデがものすごい勢いで駆け寄ってくる。勢いでタクシーの中を確認し、俺の両肩に手を置くヒデ。


「ヒデ、これは、どういうことだ? なんでみんながここにいるんだ?」

「んーそれはぁ、夕莉ちゃんが起きてからのお楽しみ」


 そう言って走り去ろうとするヒデの背中に声がかかる。夕莉も目が覚めたのだろう。重い瞼を擦りながら独り言をぶつぶつと唱えて伸びをしている。


「おおっと、夕莉ちゃんもお目覚めか......仕方ない」


 そう言ってヒデが振り返る。その先にある木造建築の家から10人近い作業服を着た男女が出てくる。彼らの姿も、見覚えのある者ばかりだった。


「......ゆぅと、こぇぁ?」


 寝起きの弱い夕莉は目の前の光景をぼんやりと眺めている。俺は少し警戒しながら彼らの行動を待った。俺は彼らにも裏切られた。それは今なお俺の心に警戒心というものを生み続けていた。


 彼らは徐々に俺らの周りを円状に囲み始めた。全員、昔の蔑むような雰囲気はない。むしろ神妙な顔つきで俺らに何か伝えようとしているようだった。


「誰から言う?」

「誰でもいいんじゃね?」

「じゃああんたが言いなさいよ」

「えぇ......」


 小声でひそひそと話す声が俺の鼓膜を小刻みに打つ。何をしたいのか、問おうとした瞬間、目の前に立つヒデが頭を下げた。それに追随するように俺と夕莉の周囲を囲っていた全員が頭を下げる。


「「「「「「(里山)(サト)(優斗)ごめん」」」」」」


 あまりの出来事に頭が混乱した。高校の時、俺のことを仲間外れやいないものとして扱っていた彼らが、今目の前で俺に謝っている。

 今更謝るくらいならなんであんなことしたんだと言いたくなった。


「言い訳に聞こえるかもだけどさ、夕莉のことを狙ってた男が凄い金額を学校に寄付してる親の子供でさ、そのせいか凄い傲慢な性格だったの。

 夕莉と優斗が別れてすぐに夕莉に手を出してさ、僕のマドンナに手を出したゴミに制裁を加えてやるって言ったの。私たちは噂でそいつのことは知ってたから逆らうなんて考えはなかった。優斗一人を犠牲にすれば三年間の高校生活は安泰だって思って......」

「それで、俺を三年間仲間外れにしていた、と?」


 ふざけた話だと思う。


「ごめん。俺ら、ずっと優斗が傷ついてるの知ってて、助けてあげれなかった......」


 口々にごめん、と謝罪の声が連鎖する。それが形式だけのものではなく彼らからの心からの謝罪であることは容易に理解できた。

 助けを求めても助けてくれなかったことに対する不満はある。何も説明してくれなかったことに対する苛立ちもある。


「別にいいよ。あの時はあの時だし」

「そうか......本当に、ごめんな」


 一瞬にして場の空気が静かになった。けれどもそれは、重苦しいような静寂ではなく、どこか安堵の香りを含む静けさだった。


「あー、だから最後にみんなで謝ろうって言ったじゃん! どうすんのよこの空気! 文哉! あんたの案なんだから責任取りなさい!」

「え、俺!?」


 文哉が、なんて無茶ぶりを......と小声でつぶやいた。しかしその声は俺以外にも聞こえていたのかお前の案の方が無茶ぶりだったわ、と文哉がポカスカ殴られていく。


「いってーな。全く......。」


 後頭部をかきながら文哉が俺と夕莉の前に歩いてきた。重森として会っていた時とは違い、その瞳の奥にはどこか笑っている彼がいるような気がした。


「さてさてお二方。正直言うと今の謝罪はおまけみたいなもんなんだ。悪いと思っているのは本当だし、さっきまで言っていたことに誓って嘘はない。それでも、これから先のことに比べればおまけなんだ」


 俺は夕莉に目配せする。しかし、夕莉もこれから先何をするのか知らないようで、顔中に ? が描かれていた。もう一度文哉と視線を交わし、その奥の木造の小屋を見る。


「サト、結婚おめでとう!」


 一瞬文哉が後ろに手を回した次の瞬間、全方位からクラッカーの音が鳴り響いた。硝煙が立ち火薬のにおいが辺りを埋めつくす。

 それにむせながら何言ってんだ? と文哉を睨みつける。


「いや、夕莉はサトのことが好き。サトは夕莉のことが好き。じゃあ、結婚だよね?」

「いや、そんなわけないだろ......。大体、俺はこいつに振られたこと、そのあとのことでこいつのことは......」


 言っていて自分が悪いことをしているような気分になってきた。それもそうだ。みんなは今までのことはどうしようもなかったことを言っていた。謝っていた。

 なのに俺はまだ記憶に残る夕莉やみんなに対しての反感を持って過去から何も進化しないままみんなと向き合っている。


「頭では理解できてても、やっぱり心の奥底では納得しきれないよな」

「でも優斗、今日ボロボロの服着た夕莉の腕引いて俺のタクシー乗った挙句に三万あるからどっか遠くの場所行ってくれって言ったよな。あれ、なんで?」


 周囲からは、三万でどこか遠くに連れてってってこと? え、嫌いな人にそんなことする? などの声が飛び交う。俺は足元の芝生を見ながら胸に手を当てる。


「それは......」

「優斗君、私のために......?」


 一面緑の視界に突然夕莉の顔が映り、体が熱くなった。慌てて顔を上げ、夕莉と距離をとる。その様子を見て彼らは周囲でニヤニヤと笑っている。


「優斗、長年お前を思い続けてくれた彼女にお前が見せてやれる誠意ってのはなんだ?」


 その言葉に、俺は夕莉と向き合わせられる。手汗で手が滑る。背中も汗まみれだ。それでも、ここまでのことをされてしまうと、俺は受け取ることしかできない。


「あーなんだ、正直言うと俺はさっき話してくれた高校でのことが本当かどうかは信じかねてる。クラス全員グルでまた俺を省いてるだけなんじゃないかとも思ってる。夕莉も本当は俺なんか体裁をよくするための道具としか思ってないんじゃないかとかも考えたりしてる。でも――」


 微かに身震いする足を一歩一歩夕莉に向けて踏み出す。


「ここまでしてくれたやつらがそんなことをするとは思いたくないし、あの真意しか籠ってない謝罪も演技だとは思えない。だから俺はあいつらを信じる。そして、俺の気持ちをしっかりと伝える」


 夕莉の顔の目と鼻の先で立ち止まる。僅かに上気した頬、潤んだ瞳、少し汚れてはいるもののよく手入れの行き届いている短い黒髪。

 二か月間の思い出が胸の奥を高速で通過していく。


「俺は、夕莉が好きだ。ずっと嫌いだって思ってあの日から生きてきた。でも、今日夕莉のことを見てみんなと話してわかったんだ。俺があの時から嫌いになったのは夕莉じゃなくて夕莉を奪ったやつなんだって。

 人生を狂わせられたことに、俺は怒ってたんだ。高校生の時は何もわからなかったから夕莉が何もかも悪いように見えてたけど......。夕莉、俺、こんな考えが浅はかだけどさ、夕莉のこと一生愛し続けるし、守り続けるって誓う。だから、俺と......付き合ってくれないか?」


 膝を折り、頭を下げ、手を差し出す。

 初めての告白、大量の観衆を添えて。誰かがぽつりと呟いた。内心沸き立つ怒りを堪えつつ、俺は夕莉の返事を待った。

 しかし、一向に夕莉は動かない。返答する気配もない。聞こえるのは周囲からのすすり泣く声と頑張れ、と小声で応援する野太い声。

 ふと夕莉の足元を見ると、そこだけ雨に打たれたかのように草花が濡れていた。自然を濡らす水滴は今なお上から降り注ぐ。

 俺が付き合ってくれと言ってから何分経っただろうか。俺の差し出した手にふわりと柔らかい感触が乗せられた。確かな温もりと微かな脈拍が伝わってくる。


「......はい」


 涙を堪えたような返答は、俺があの日以降ずっと欲しがっていた言葉を凝縮したものだった。感慨で胸がいっぱいになった。

 顔を上げた先、涙が夕莉の頬を何度も伝い落ちていく。夕莉はそれを何度も拭っていたが、終いには膝から崩れ落ち、大声で泣いてしまった。

 泣き崩れた夕莉を見ても、周囲の女子は動かなかった。それどころか身振り手振りで俺に夕莉を抱きしめろと指図してくる。俺の恋愛経験は高校生の二か月のみ。当然その時にハグなんてしたことはない。


「夕莉、落ち着いて」


 でも、やるぞ、という決意などいらなくても体が勝手に動いていた。それに沸き立つ黄色い声。ハンカチを噛みしめている男子もいた。

 次第に夕莉の呼吸が落ち着いてきた。それに合わせて抱きしめていた腕を緩める。夕莉の顔が目と鼻の先で静止した。互いの息がかかる距離。微かに漂う夕莉の匂い。

 夕莉の両頬を挟み、薄桃色の唇に俺の唇を重ねた。


「「「「「あーーーーーーー!」」」」」


 周囲の喧騒は、もう聞こえなかった。




 その後俺は元クラスメイトの男子全員から特大のげんこつをくらい、ここにあるもの全部が俺と夕莉のためにつくられたものだと教えられた。


「木造の家も、あの農園みたいなのも?」

「おう。ただ、本当はさみんなで住めるようにしないかって話があったんだ」

「? そうすればよかったじゃないか」

「いや、そうすると夜、困るだろ?」


 からかうような目で笑い、文哉は俺の背中を叩いた。途端に膨らむ夜の妄想。それを俺自身へのビンタで振り払い、別にと素っ気なく言い放つ。


「ニヒヒ、図星だろ優斗」

「う、うるせえな」

「まあ、たまには顔出しに来るからよ、子供見せてくれんの楽しみに待ってるぜ。あ、その前に結婚式呼べよ!」


 頭をガシガシと撫で、文哉はみんなのもとへ戻っていく。帰るぞ。そう言っているのがわかった。彼らは名残惜しそうに会話を交わしながら、荷物をまとめ、車数台に詰め込んでいく。


「幸せにねー!」

「別の女に手ぇ出したら承知しねえぞ!」

「お前らに投資した分、幸せになりやがれ!」

「結婚式の招待、待ってるからね!」


 口々に別れの言葉を放ちながら去っていく車のハッチバックドアを見つめながら隣に立つ夕莉と手を握る。


「ごめんね、優君」


 文哉たちが見えなくなった時、夕莉が俯いた。握っている手には強く力が入っている。


「大丈夫だって。もう謝るなよ」


 俺は手を握ったまま夕莉を背負う。歩こうと上げた視界の先で、雲一つない空が赤々と燃えていた。

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全てを失ったはずなのに...... 鋼の翼 @kaseteru2015

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