13.
「明かりだ……!」
崖下に温かな光を見つけた時、寧は思わず口に上せていた。ここに辿り着くまでの苦労がそうさせたものだ。
十体もの猿の穢物に包囲された寧だったが、先手を取って切り込んだのが功を奏し、五体もの穢物を仕留めることには成功した。が、そこからが悪かった。穢物側も難敵と捉えたのか、鬼型の命を無視して攻撃に転じてきたのだ。一度に五体もの穢物に襲われては寧ではひとたまりもない。
半分に減ったことで包囲の隙は大きくなっていたため、そこから辛うじて逃げ出したはいいものの、逃げ込んだ先は神社を囲む疎林の中、猿の穢物の独擅場だ。行きつ戻りつ思うように進ませてもらえないながらもどうにか疎林を抜けると、そこは見たこともない原野だった。
その原野を右往左往している内にようやく桃橘榊を見つけ、そこに逃げ込んだはいいものの、もはやそこがどこなのか寧には見当もつかなかった。
天を焦がす町の火災が辛うじて向かうべき方角を示してくれたが小屋ほどもの大きさの岩石から砂粒のような砂礫まで、多種多様な石くれが散らばる暗夜の原野は歩きづらいことこの上ない。
気が急いていたせいか草鞋の緒は切れるし、灌木に裾を取られて鉤裂きは作るし、暗いし心細いしでたった半刻(三十分)程度が二刻にも三刻にも感じられる嫌な時間を経験した。
何より恐ろしいのは、こうしている間にもコウシンが寧を探しに来るかもしれないのだ。こんなところであの異形の面を拝んだ日には、生きた心地もしない。
そうしてようやく見つけた小屋らしき明かりだ。安堵に気が緩むのも致し方ないだろう。
しかしようやく見つけた明かりに遮二無二駆け寄るわけにはいかなかった。寧と明かりまでの距離はおよそ十五間(約二十七メートル)。それも垂直方向に、だ。落ちればただでは済まない懸崖だ。
「おぉーいっ、誰かおらぬかぁっ!」
小屋に向かって叫んでみるも帰ってくるのは無しの飛礫だけ。三度も試してから、大声を出せば鬼型に気取られると気付いて止めた。
寧は闇に目を凝らして小屋の周囲と崖の様子を確かめる。
そこはかつて石切場であったのであろう、大きく小さく四角に切り出した跡が抉る垂直の壁だ。闇に慣れた目は辛うじて飛び降りていけそうな高さの足場をいくつか見出したが、この高さを降りるのに果たしてどれほどの時間が掛かるか……だが、ここを回り込めば急いでも一刻(一時間)、道に迷えばそれ以上掛かってしまう。
あそこに小屋があるということは、町に向かう道、少なくとも疎林の中を歩くよりは道と呼べる道が設えてあるはずだ。小屋で裸足の怪我を軽く手当てしたら草鞋を借りて町に鬼型の目論見を伝えに行くか……それとも人を走らせた方が早いか。いや、自分で行った方が正確に伝えられる。とにかくこの町を放棄しなければ、あの化け物は本当にすべての人間を殺してしまう。
時間がない。それだけは間違いのない事実として、寧は崖を降りる決心を固めた。
長大な槍の邪魔もあり、なかなか思うように降りられずもどかしさが焦りを呼び、身体に傷が増えていく。腕の良い職人たちが切り出した断崖は手掛かりに乏しく、落ちれば命を失いかねない恐怖と戦いながらの暗中模索は、闇の中で穢物と戦ってきた寧の心を更に削り取っていく。
ふと、どうして自分がこんな目に遭っているのかと弱気が鎌首を擡げるが、そんなものは今に始まったものではないと誤魔化し、血の滲む掌を動かす。
足元を確認するために首を動かした時、視界に赤く空を焦がす町が目に入った。あそこにはまだ数万に及ぶ町民たちがいるはずなのだ。その中には良くしてくれた金助親方夫婦もいる。早く町まで辿り着いて、危険を知らせなければいけない。あの二人から受けた穏やかな親切の記憶が、寧に僅かな活力を与えてくれた。
最後の六尺(約一・八メートル)分は槍を先に落として飛び降りた。踏み固められた地面にぶつかるように着地して、よろよろと立ち上がる。
幸いに五体満足で崖下まで下りられたが、およそ四半刻もかかったか……遠目では町の様子に代わり映えはないが、急ぐ要があることに変わりはないだろう。
まだ間に合う。そう願いつつ、寧は槍を拾い上げつつ小屋に向かった。
崖上から闇を透かして眺めた通り、そこはかつての石切り場で今は貯石場として利用されている広場のようだった。石切神楽の最初の方に出荷されたのであろう、目ぼしい石材は運び出された後で、がらんどうとした岩場の隅に、その小屋はぽつねんと建っていた。
「頼もう、頼もう!」
崖上から声を掛けた時は何の反応もなかったが、今は違った。四間(約七・二メートル)四方ほどの比較的大きな小屋の奥から、億劫そうに動く人の気配が近付いてきた。心張棒の閉てられた板戸の横、煙り出しを臆病窓の代わりにして、白い無精髭の貧相な顔がニュッと寧を見下ろした。
「すまない、少し場所を貸してくれ、足の手当てをしたい」
男は信じられないものを見るようにマジマジと寧を値踏みしていたが、奥の間から別の男に濁声を掛けられて我に返ったように首を引っ込めた。その間、相手は寧に何の声も掛けてこなかった。
話は通じたのか、そもそもどういう対応をされているのか、寧が不安でもう一度声を上げようとしたところで、心張棒が外されるガタゴトという音がして、建付けの悪い戸が横に押しのけられた。
まず、寧の目に入ったのは先程と違う髭面の男の顔だ。さっきの男はその男の横に立っていた。小屋の中は板間と土間が半々で、ここがほとんど作業のための場所である事を思わせた。
髭面は人相のほとんどを隠す髭に顔を覆われており、据わった眼差しが寧の頭一つ分上から見下ろしていた。口周りの髭が湿っているのを見なくとも、酒臭さでその二人がしこたま吞んでいたのだろうと理解が付いた。こんな状況でなければ、あまり関わり合いになりたくない手合いに嫌な予感が走る。
そして寧の予感を具体化するように、髭面は濁声で横の男にのたまわった。
「ちと汚ねえが真事でいい女じゃねえか三の字、今夜はついてるぜ」
「俺もな、酔って幽霊でも見たのかと思ったが、足を手当てしたいなんて幽霊もいねえしな」
「違えねえ」
どう聞いても寧の言うことをまともに聞いてくれそうな会話ではない。
「おぬしら、今、町がどうなっているのか知らぬのか」
「ああ? 火事みてえだが、それがどうした。ここまでひろがりゃしねえよ」
「火事だけではない、穢物が攻めてきているんだぞ」
「なおさら知ったこっちゃないぜ、ここにいた方が安心だろ」
「町の家族が心配にならんのか!」
声を荒らげ色めき立つ寧に、二人の男は顔を見合わせ、それから喉の奥からクツクツと暗い笑いを漏らした。
「ざまあみろってもんだ。祭りだってのに俺を町から」追い出してこんなところに押し込めやがったバチだ」
「まったくだぜ」
「どうせ自業自得だろうっ……!」
寧の決めつけを無視して、最初の貧相な顔の男が近寄ってくる。
「ほれ、そんな物騒なもんは捨ててよ、まずはこっち来い」
男が迫る。酒と垢の異臭で悪心を催した寧がわずかに戸から離れると、
「傷の手当てしてやんからよ」
そう言って今度は髭面がにやけた顔で迫ってくる。
寧の注意がそちらに向いた瞬間、貧相な方が素早く戸から出て退路を断つ形で槍を掴んだ。
「下郎、汚い手を離せ!」
酒で麻痺しているのか女だと甘く見ているのか、二人の男に武士然とした寧の姿を恐れる様子はない。その強気が、普段であればこの程度容易く捻じ伏せる寧の出端を挫いていた。更に髭面が寧を取り押さえるのに加わったことで、いよいよ抵抗する時宜を逸し、好きにはされじとするのに一杯一杯になってしまう。
「やめ、ろっ……!」
最早二人も親切面はかなぐり捨て、鉤裂きだらけの着物を脱がそうと力任せに迫っていた。腐っても石工の町に育った男達なのだろう、武士として鍛えた筋力がなければあっという間にひん剥かれていたであろう大力だ。
「ちっ、意外としぶといな」
言うなり、髭面が寧の顔面を狙って拳を振った。寧は辛うじてそれを避ける。
「はしっこいぜ、おい三の字、もっとちゃんと押さえつけとけ」
髭面が不満げに命令するが、返事はない。
それで寧も気付く。槍を握る貧相な男の腕に力がない。
偶然、寧と髭面が同時に外に身を置く三の字の顔を見上げて、声を詰まらせた。
「なっ……」
「んだぁ?」
「こんばんワァ、おいらのお嫁さんを迎えに来ましたヨォ」
必死だった寧の面持ちが凍り付いた。もう二度と見たくないと思っていた血塗れの面が、貧相な顔の男と入れ替わりにそこにある。
違う。顔が入れ替わっているのではない。三の字の貧相な顔が胴から消え、その向こうにいたコウシンの顔が見えているのだ。
それを明かすかのように、首のなくなった三の字の身体が均衡を失ってドウと倒れた。髭面は酔眼で倒れる相方の身体を眺めていたが、一拍置いてようやくそれがどういうことなのか理解できたらしい。
「あわ、あわわわ……」
情けない声を上げてその場に尻を着いた。
「貴様……羅切はどうした」
動転する髭面の姿のおかげで寧は辛うじて平静を保っていたが、外への出入りはコウシンに塞がれ、中へ行くには尻餅着いた髭面を飛び越えなければいけない。進退ままならない中で、寧にできるのはコウシンの鬼の面を睨みつけるだけ。
その背後、恐怖で腰を抜かした髭面の股ぐらから生暖かい臭気が立ち昇った。どうやら小便を漏らしたようだ。しかしコウシンに睨まれた寧にその程度で滅入っている暇は無い。
「あれならここだヨ」
気楽に言ってコウシンが闇の中から米俵程度の大きさの何かを投げつけてきた。
何かを避けた寧の脇を飛び抜け、髭面が抱えるように受け止めたそれを認めた時、流石の寧も胃から酸っぱいものが込み上げて口を押えた。
「た、す、け……」
「ぎゃああぁぁぁっ!」
人のものとは思えない助命の声は、聞くに堪えない髭面の悲鳴で掻き消された。
コウシンが投げて寄越したものは、羅切の成れの果てだった。
四肢は見る影もなく、ほとんど胴体と首だけの姿だ。手足であった部位は完全に黒腫と化して黒茶色のブヨブヨした肉塊と変じ、身体からぶら下がっていた。
穢で黒斑ができる時、その大きさに伴って激痛を伴う。苦痛に歪んだ面相は、先程までのふてぶてしさも消し飛び、醜悪に歪んで別人のようだった。これほどに穢れてもなお命を保つというのは、一体どれだけの苦痛を味わっているのか、想像もしたくない光景だ。
その苦痛も長くはないであろう。寧が視線を釘付けにされたわずかな間にも羅切の黒斑はのろのろと進行している。命まで蝕むのも時間の問題だ。
「ほラ、死んじゃう前に殺さなキャ」
髭面の悲鳴がぎゃあぎゃあとずっと響いているというのに、コウシンの楽しそうな声はやけにはっきりと聞こえた。
「殺……す?」
事態の衝撃に頭がついていかない寧が繰り返す。肉塊と変じつつある羅切を見ても、寧の心は怒りも憎しみも闘争心も生み出さなかった。あるのはただただ真っ白な恐怖。コウシンという化け物への、麻痺するような恐怖心だけだ。
だから、コウシンの言葉の意図するところがわからなかった。この肉塊を殺してなんになるのかわからなかった。
「仇なんでショ?」
「かたき……」
髭面に放り出された羅切――であった肉塊からは、呪詛のように助けてくれと嘆願が繰り返されている。もう、どう見ても助からないのに、助けてくれと呟き続ける。浅ましく醜い様子に、再び、酸っぱいものが寧の喉を焼く。思わず口元を手で押さえた寧が視線を外した。
「ほら、早く止めを刺してさ、心置きなくオイラのおヨメさ――おまえうるさいナ」
言葉尻は喉を潰さんと叫び続ける髭面へ向けられたものだ。
寧の脇をすり抜けて伸ばしたコウシンの指が、髭面の眼窩と大きく開いた口腔に刺さって軽い動きでその首を横に捩じった。ゴリッと鈍い音が響いて髭面が動かなくなった。悲鳴も止んだ。まるで花を手折るような気軽さで、男の猪首が折られた。
「ひっ……」
寧の喉で悲鳴が詰まる。スルスルと身体へと戻っていく腕を横目に、寧は小屋の中へと駆け出した。身体がひとりでに動いていた。
だんだん小さくなる羅切だったものの嘆願を置いてきぼりにして、寧はどこかにありそうな勝手口を求めて狭い小屋の奥へ走る。
「こらこらどこ行くのサ」
コウシンが長い身体を折り曲げて室内に入ってきた。
「く、くるなぁっ!」
悲鳴じみた寧の声が狭い室内を満たすが、何かの妨げになるはずもなく、コウシンは悠々と寧へと近づく。
その小屋は元々納屋か何かだったものを改装して宿直のために利用するようになったものか、寧が期待したような勝手口はどこにもない。最初の出入り口以外はグルリと板壁に囲まれていた。独楽鼠のようにあちらこちらと駆け回って逃げ場を探す寧を、コウシンは不敵に眺めていた。
やがてどこにも抜け道は無いと悟った寧は、壁を背にコウシンへと槍を構えた。
その顔は戦いの気迫に満ちた武士のものではなく、涙を浮かべて打ち震える娘以外の何物でもなかった。震えが伝わりカタカタと鳴る槍が一層の憐れを誘う。
それは初めて出くわした桁外れの恐怖。本物の恐怖。寧の眼前でそれは嗤っていた。
死は誰にも等しく訪れる。そして武家に生まれ御家のために武勲を求めて戦場を駆けると決めた時、寧は死に寄り添った。それは畏れるものでなく、最後に潔く受け入れるものだと多くの死線の中で学んできた。結果のためなら死は恐ろしくない筈だった。
穢物狩りに身を窶した時、穢の恐ろしさを実感した。外の世界では黒斑に侵されて死ぬ者を見送るのは茶飯事だった。見慣れた筈だった。
寧が物心ついた時から培ってきた覚悟と経験を、一瞬で吹き飛ばす恐怖がここにある。
もはや何がおそろしいのかわからない程におそろしかった。妙に長い腕も、塗りの剥がれた鬼の面も、にやつく口元も、古ぼけた胴丸も、針のような剛毛も、声も、呼吸も、コウシンを形造るなにもかもが寧の存在を鑢で削り取るように擦り減らしていく。
「死にたくない、あんな死に方したくないっ!」
コウシンは寧の反応が心底愉快で堪らないといった風に醜悪な笑みを深め、破れかぶれに振り回される槍の千段巻きを握った。
寧は思わず仰け反って離れようとするが、自ら背負った板壁が邪魔をして壁に張り付いただけだった。
コウシンは何も喋らない。黙って千段巻きを握り締める。
グシャリと、麻糸を何重にも巻き締めて漆で固めた千段巻きがあっさりと圧し折れた。穂先は文字通り穂のように落ちて寧の足元に転がり、寧の手元には先端のささくれだつ棒が残った。
「ひぃっ」
寧の喉から絞り出すような悲鳴が漏れた。まるでその棒が穢れているかのように、慌てて遠くに投げ捨てる。
「君は殺さないって言ってるでショ。持って帰ってゆっくり楽しむんだかラ」
それが真実どういう意味なのか、寧には計りかねたがおぞましい想像しか出てこない。走馬灯のように駆け巡る最悪の未来に、とうとう寧の心が折れた。
「あああぁぁぁっ!」
絶叫し、足元に転がってきた穂先を拾い上げる。半ばで折れた千段巻きを返して刃を己の喉に向けると、何の迷いもなくその刃を突き――出せなかった。
「そうそウ、一人目のおヨメさんにはそうやって死なれちゃったんだよネ」
「ひっ」
喉を突こうとした刃は、コウシンによって止められた。思わぬ接近に寧が穂先から手を離すと、コウシンは玉鋼の刃を人差し指と親指だけで二つに曲げてしまった。まるで飴細工のように。
おぞましい死が視線を外せない至近で笑っている。衝動が、もう一度寧に安直な死を選ばせた。舌を噛み切ろうと顎に力を込めた瞬間、それを予期していたかのようにコウシンの細く骨ばった指があろうことか口腔に侵入してきた。舌を噛み切ろうとした力そのままにコウシンの指を噛む。肉を千切り骨を噛みしめた。寧が気付いて力を抜いた故に指を噛み切るまでは至らなかったが、その恐怖は最高潮に達した。
「ぅあああぁぁぁぁっ! ひにひゃくないっひにひゃくないっひにひゃく――」
穢物を越える穢の塊、その血の味が口の中に広がっていく。まるで視界まで赤く染め上げるような気色の悪い味に完全な恐慌へと陥った。この指を今すぐ振りほどきたいが触りたくはない、壁に張り付いたままいやいやをするように首を振り続けた。
「まア、ちょっと落ち着こうヨ」
その様子を楽しむような声音でコウシンが諭すも、当然効果はない。コウシンが闇雲に振り回す寧の頭を押さえつけた。真っ直ぐにコウシンの面を見せつけられ、大きく見開かれた青い双眸からとめどなく涙が零れていく。
その瞳の奥、思考と本能がごちゃごちゃに混じった寧の頭の中で、幼い頃から叩き込まれてきた教えの一つが蘇る。武家の嗜みの一つに、守り刀がある。それは命を守るものではなく尊厳を守るもの。穢に侵され、黒斑に呑まれて人の形を失う前に、自裁して人として死ぬための小刀。あくまで心構えと旅に出てからは守り刀そのものの携帯を怠っていた寧だが、代わりに今、その腰にはキリに燃やされて槍身だけになった家伝の刃があった。
それに気付いた瞬間、寧は不自由な腰からそれを抜き出し鳩尾から心臓目掛けて躊躇いなく突き出した。
身体に鈍い衝撃が走り、冷たい鉄の刃が灼熱の痛みを生み出す。痛みは瞬く間に全身を駆け巡る。
寧は安堵した。これで解放されると。痛みも死までのわずかな間だ。穢に侵され肉塊へと変じる痛みに比べれば、どうということはない。そうこうしている間にも意識は遠のき、すべて、なにも、なくなる――筈が、痛みは寧の意識に覚醒を強制するだけだった。
「にゃ……んへ……」
痛い。とにかく痛い。心臓を貫けば人は死ぬはずなのに、痛みばかりで死に近付く気配はない。いっそ意識を失えればこの恐怖からも解放されるのにと恨めしく思うが、幼い頃から培ってきた闘争への心構えが命を存えようと寧に叫び続けるのだ。痛みから逃げろ、危険から離れろ、と。皮肉にもそれが寧の意識を繋ぎ止めていた。
口に鬼型の指を押し込まれ、頭を押さえつけられ、身動きも取れない状態で眼球だけを動かして自分の身体を見下ろす。茎が視界に入り、白金の槍身が確かに身体に突き立っているのを確認できた。だが、位置がおかしい。丹田に突き立てたのなら茎は身体の中心にあるはずなのに、それは胸よりも上、肩のあたりにあった。そんなところに、間違っても刺さるはずがない。
「あのサァ」
自分の意志と状況が食い違って混乱する寧に、コウシンが困ったような声を掛ける。視線だけでそちらを見ると、鬼面が右に左に首を捻りながら続けた。
「そんなに死にたいならサァ、殺すヨ? あの男みたいにゆっくり冒してサ」
寧の瞳が見開かれ、揺れる。その様子にコウシンはほくそ笑む。
「じゃア、もう勝手に死なないようにネ。次はないかラ」
不自由な頭を寧が縦に振ると、コウシンがゆっくりと寧の頭を離し、口腔から指を抜いた。
首は自由になった寧だが、身体を動かそうとして肩の痛みが強くなり、動かせなかった。コウシンが離れたことで少し余裕を持てた寧が気付いたのは、槍身が肩のあたりを貫いて板壁に己が身を縫い付けている状況だった。
「うぅ……痛い……黒斑はいや……」
脱力したように呻く寧。極度の緊張が引くと、痛みと恐怖が寧の心も身体も一気に疲弊させた。
そんな寧に見せつけるように、コウシンは寧に噛み砕かれて肉の爆ぜた指先を振った。するとまるで手妻のように肉が盛り上がって元の姿に復する。時間を逆行したかのような現象に、寧は言葉も出ない。
「驚いタ? おいらたち仙達はネ、仙気の力ですぐに傷を治せるんだヨ」
「せんだつ……? せん、き……?」
「きみたちが鬼型とか穢って呼んでるものサ。胸を刺したはずの剣が肩に刺さってるノ、不思議だろウ? それもおいらがやったのサ」
「……」
得意気に語るコウシンに、寧は俯いたまま沈黙していた。
「おかしいと思わなイ?」
寧の返事はない。コウシンは気にせず話を進めた。
「どう考えてもおいらたち仙達の方が存在として優良なのにサ、人ばかりが蔓延って国を興してル。おかしいよネ」
寧は黙ったままだ。
「おかしいって言えヨ」
「ひっ……」
俯いた顎を掴み上げられ、寧は無理矢理に顔を上げさせられた。痛みと緊張でその顔は青褪め、脂汗に塗れている。不満げな眼差しに射貫かれた寧は、震えて声を出す余裕もない。コウシンはつまらなさそうに手を離した。
「おいらたちはあんな出来損ないとは違ウ。きみたちが穢物って呼んでるあいつらネ。あれは仙気に耐えられなくて魂が歪んでしまったんだヨ。だから仙気を垂れ流し続ケ、それを補うために人を殺し続けル」
今度は寧は俯いていなかった。また掴み上げられたらと思うと、怖ろしくてできなかった。涙が溢れ続ける青い瞳で必死にコウシンの鬼面を見ていた。
「先達は違ウ。仙気を完全に環(まわ)せるル。自由に操れル。だから、冒したくないものに力を使うことはなイ。これで少しは安心したろウ?」
触れられただけで穢されることはない。だが、コウシンの気まぐれで羅切のように殺される可能性は消えていない。
せめて、コウシンの気が逸れればその隙に自害することも叶うだろうが……寧は果たしてそうしたいのか、わからなくなっていた。
あんな死に方はしたくない。その為に死にたい。御家の為にもここで死ぬべきだ。だが、旅立つ時に置いてきたはずの迷いが、乳母が死の間際に託した望みが、寧を支えていた。僅かな希望が、寧を狂気の縁で留まらせていた。
ふと、見上げた視界に新しい影が見えた。極度の疲労が見せた幻にしては、少し品がない格好だった。
「キリ……」
寧が呟く。コウシンの背後に、寧は尻絡げの着流し姿のキリを見ていた。
キリの幻が小太刀を振りかざしてコウシンの首を狙う。
幻だとしても、助けに来てくれたことが嬉しかった。寧の顔に薄らと笑みが浮かぶ。
その変化に、コウシンが弾かれたように両腕を上げた。
幻のはずの刃が、本物の刃風を伴ってコウシンの背後から襲い掛かる。
ほんのわずかにコウシンが腕を上げる方が早かった。
肉厚の刃はコウシンの右腕を前腕のところで切り飛ばしたが、そこで勢いを殺されて首の骨を両断するまでには至らなかった。しかしその拍子にコウシンの鬼面が外れ、猿そのものの顔容が露わになる。
刃は失敗を悟るとそれ以上粘ることなく引いた。
それが幸いし、襲撃者はコウシンの反撃を躱した。あそこで切り落とそうと力を加えていれば、刃が通る前にコウシンの腕に貫かれていただろう。
「ごぼっ、ぶふっ……」
切り裂かれたコウシンの喉から空気が漏れる。だがそれも瞬く間に治癒してしまう。ゆっくりと振り返り、襲撃者と対峙する。
「グゥゥ……なんダ、おまエ」
コウシンの声に、初めて愉悦と享楽以外の感情――怒りが浮かんだ。
「その娘を迎えに来た」
行灯の明かりに浮かび上がったのは、幻ではないキリの姿だった。
「キリ……?」
「すまない、待たせた」
この化け物を前にしても、この隻眼の巨漢は全く怖じていなかった。その声が、その姿が、その眼差しが、消えかかっていた寧の心に活力を与える。死に抑圧されていた生への渇望が、寧の中で爆発した。
「キリぃ!」
自分の有り様も忘れてキリに駆け寄ろうとして、肩の激痛に悶える。
「大人しくしていろ」
コウシンから視線を外すことなく、いつも通り淡々としたキリの声が注意する。寧が何か答える隙も無く、コウシンが動いた。
その時、初めて寧はコウシンの本来の動きを見た。
狭い室内を利用して、コウシンは闇の濃い方へと跳躍したかと思えば壁を蹴って天井へと移り、キリの頭上から真っ直ぐに飛び掛った。それもほとんど音もなく、だ。人知を超えた膂力と猿の肉体があればこそ生まれる怪物の動きだった。
そして同時に、キリの本領も今まで隠されていたのだと見せつけられた。
常人では決して見切れぬであろうその動きを、キリは僅かに半身をずらすだけで回避し、その流れを殺すことなく着地したコウシンへと刃を繰り出した。一撃で仕留められると確信していたコウシンに避ける余裕はなく、防御に差し出した右腕が今度は肘まで切り飛ばされる。
「なんなんだおまエ! よくもおいらの腕ヲ!」
コウシンの怒号に、キリは答えない。懐に手を入れた次の瞬間、コウシンの顔面に向けて何かが飛ぶ。怒りに猛っていたコウシンはそれを避け切れず、顔に何かの粉末をもろに浴びていた。
「があぁぁっ!」
コウシンが残った左手でその粉末を吹き飛ばす。
「こんな灰でおいらをどうこうできると思ったカ!」
コウシンにぶつけたのは桃橘榊を燃やした灰だ。穢物であればこれをぶつけられるだけで嫌悪して去っていくこともあるが、鬼型に通用するような代物ではない。現にコウシンは馬鹿にされたと思い込み、その怒りに油を注いだ。
効果は気にせず、キリはまるで逃げるように踵を返して小屋の入口へと走った。走りながらもう一つ、灰玉を投げつける。
流石のコウシンも二度と同じ手を喰らうことはなかった。ひょいと首を曲げて避けるが、怒りは増長した。食いしばった口は耳まで吊り上がり、黒い双眸に恐ろし気な光が宿る。
「待テッ」
キリはそのまま室外へと飛び出していった。怒りでキリしか見えていないコウシンも後を追う。
その直後からの出来事を、寧は正確に覚えていない。遠くから火薬か何かが弾ける音が聞こえたかと思うとそれは稲妻のような重く激しい音と地鳴りに呑まれ、その最中にキリとコウシンが消えた小屋の入り口が砂煙に呑まれて見えなくなった。
まるで天変地異のような有様に、壁に縫い付けられたままの寧は痛みを堪えて身を竦める。砂煙は寧がいる奥まで風圧に乗って漂いきて、寧は目を開けていることすらままならなくなった。
少しして静かになってから寧が目を開けると、目の前には砂埃塗れのキリが立っていた。いつの間にか尻端折りは下ろしている。
「……無事か」
その少し外れた物言いは、紛れもなくキリのそれだった。
「無事に、見えるか……」
痛みに喘ぎながらなんとか返す。キリの姿を見ただけで減らず口が返せるようになった自分に、寧は少し驚いた。
砂煙は小屋の入口の方でまだ揺蕩っており、そちらでなにが起きたのか全容はわからない。キリは傍らの床に小太刀を突き立てると、寧の身体を片手で支えて槍身を抜き出す作業に入った。左面に手拭いを巻いたキリの隻眼が近付き、寧の弱った拍動を強くする。
「少し耐えろ」
「鬼型は、どうなった」
「わからん。だがしばらくは動けんだろう。運が良ければ死んでいる」
どうしてそうなったのかの説明はないが、ほとんど晴れた砂煙の向こうが岩石で埋まっているのを見て、なんとなく寧は察した。どうやってか岩崩れを起こして、コウシンを生き埋めにしたのだろう。尻端折りもその下準備に従事していたためか。
しかしあの岩に潰されても生きている可能性があるとは、鬼型が穢士にすら怖れられるのも納得だった。
「っつ……もっと優しくしてくれ……」
「左手で押さえていろ」
キリは寧の不平には答えず、傷口から血が流れ出るのを防げと指示を飛ばす。板壁から解放された寧を支えながら床に座らせると、キリは懐から貝殻の薬入れを取り出して本格的な手当に移った。
板壁にまで刺さっていた家伝の槍身を抜き出した後、有無を言わさず寧の着ていた物を上半身だけ剥いで、その下に巻き締められていた晒を顕わにする。寧も文句は垂れず、キリのするがままになっていた。これは治療なのだし、そもそも今の寧はキリに触れられるのが嫌ではなかった。
「細身の刃が幸いしたな。これで何とかなりそうだ」
寧が扱うからとなるべく軽い槍を選んだのはキリだった。軽さを求めた刃は薄く細く造られていたため、寧の刺し傷もそれほどひどいものではなかった。太い血の道を傷付けた様子もない。
だが傷が小さくとも貫通したのに変わりはない。肩を包むように巻かれていた晒も、その時に一部が切り裂かれて解け掛けていた。キリがその晒を手早く剥ぎ取る。流石に乳房が露わになった時は寧も顔を赤くして目を閉じたが、キリの手元は遅滞無く正確に作業を進める。それが寧に安心をもたらす。
晒が外され傷口が露わになると、生々しく血を噴いた。キリは千切れた晒で拳大の球を作り、それを寧の脇の下に挟む。
「脇を閉めてしっかり押さえておけ、止血だ」
「ああ……」
寧も止血程度の知識は持っている。脇の下を通る血の道を圧迫すれば流血が抑えられる。だがこれは主に腕の止血の為だったはずだ。肩口の傷に効果があるのだろうかとぼんやり考えていると、キリが傷口に何かを塗った。
「血止めと化膿止めの薬膏だ。乾くと傷口を塞いでくれる」
樹液からつくられた膏を表と裏の傷口へ塞ぐように塗り付けると、その上から右腕ごと残った晒できつく巻き締め、剥いだ着物を戻して手当てを終えた。
「あくまで応急処置だ。町に戻ったらすぐ医者に縫って貰え」
「ああ……」
板壁から解放された寧は疲労と緊張の抜けた脱力からなかなか立ち上がる気になれなかった。
その間、キリは石置き場側の板壁を力任せに蹴り破って新たな出入口を拵えていた。
床面まで板壁を取り除いてもまだ寧が立ち上がれないでいるのを見ると、そっと支えて立たせてやった。そしていつの間に拾い上げたのか、折れた槍の柄をを寧に手渡す。
「杖代わりに使え」
「おまえは、来ないのか……?」
寧のどんよりと重い双眸が、縋るようにキリを見上げる。
「俺はあいつの生死を確認する。早く行け。もしあれが生きていたら足手纏いだ」
「あ、あんな状況で、生きているはずはないだろう……一人じゃ不安だ、一緒に来てくれ」
杖を捨て、寧がキリの袖を掴む。
そこに、桃橘榊の外を旅する穢物狩りの姿はなかった。武家の気概も武術家の自信も失い、身を守る術を失った小娘が、昏い眼差しでキリを見上げている。
「いずれにしろあれを屠殺した証がいる。何事もなければすぐ追いつく。先に行け」
「……やだ、わたしも残って見届ける」
足手纏いだ」
「ひとりはいやだ!」
「我が儘を言うな……」
縋りつく寧を振り払うことも出来ずに困っていたキリだったが、不意にその所作に鋭さが戻った。身を捩りつつ寧を押し退ける。急に突き飛ばされた寧の耳朶を、金属のぶつかる音が叩いた。
「まさか、もう戻ったのか……」
キリが呻く。その視線の先、崩落した入り口には、寧がもう二度と見たくないと思っていた姿があった。
「おまえラ、絶対に殺してやル。生きながら仙気に冒して、そこから少しずつ喰ってやル」
怒りに震えるコウシンの怨嗟に、寧の小さな身体が震えだす。
「寧、すぐに逃げろ」
キリが小太刀を投げ捨てて言った。板床に転がった小太刀は、半ばから曲がって使い物にならなくなっていた。
どうやら、コウシンの投げた石くれをそれで防いだ際に曲がったものらしい。そんなものを咄嗟に防いだキリもだが、投石だけで普通より頑丈に鍛ぜられた穢士の小太刀を曲げてしまうコウシンの怪力も尋常ではない。
「いや……もう一人はいやっ!」
「いいから逃げろっ! 町から離れて、遠くへ逃げるんだ!」
これほど切迫したキリの声を、寧は初めて聞いた。
「逃げて、生きてくれ」
言い残し、キリが跳んだ。動き出したコウシンに応じた形だ。だがキリの手には武器もない。素手で鬼型とやり合おうというのだ。身命を賭して寧を逃がそうとしているのは明白だった。
「わたしは……もう、一人では……」
涙を流して呟く寧を余所に、キリとコウシンがぶつかった。
鬼型と人。膂力では敵うべくもない。加えて、客子と言えども穢に冒されすぎれば痛みで動きが鈍る。武器もないのに過度の接触は致命的という逆境。勝ち目など、万に一つもない。
コウシンの左腕がキリを掴みに掛かる。キリはそれを右腕で巻き落とすと、掬い上げるようにしてコウシンの脇腹へ左の拳を突き刺した。人体であれば急所の一つだ。コウシンも多少は痛みを感じたのか、怒りに切れ上がった目がわずかに歪む。だが、怯むことなく空を切った左腕を振り回し、キリの側頭を狙う。
コウシンの腕は長い。打撃の後に間合いを外したキリ目掛けて、巻き取るような拳が襲い掛かる。それを屈んで避けると、逆に自ら間合いを詰めて鳩尾、顎、眉間と三点に目にも止まらぬ連撃を打ち込む。思わずのけぞったコウシンが闇雲に長い腕を叩きつけるが、その時すでにキリはコウシンの右側に回り込んでいた。そこから更にコウシンの脇腹に拳を突き込む。
キリが一方的に打ち据えているがしかし、コウシンの方も痛手を負ったようには見えない。
「早く行けっ」
元の位置に戻ったキリが、背後に庇うようにした寧へ命令する。
寧はいまだにその場に立ち竦んでいた。
「わたしはもう……一人ではどこにも行けない……怖いんだ……もう、一人は嫌なんだ……」
寧の泣き言にコウシンが耳を貸すはずもなく、言葉の途中でキリへ襲い掛かってきた。寧を巻き込まぬよう、キリも前に飛び出す。
「それでも!」
コウシンの腕を潜り抜けたキリが叫ぶ。
「俺はおまえが死ぬところを見たくないんだ!」
「二人とモ、殺してやるヨ!」
大振りな左の拳を屈んで避けた筈のキリがよろめいた。
キリの隻眼が驚愕と激痛に瞠られる。
「いやぁぁぁあっ!」
寧が絶叫した。キリの左腕が肩からあるべき場所を離れ、血と重い音を振り撒いて床板を転がっていた。
キリの肩からも湧水のように止め処なく血が流れる。寧が頽れるように板間にへたり込んだ。
「何故……右腕が……」
呻くキリの左目には、自分の左腕を切り落としたコウシンの右腕が映っていた。
ついさっき、首の代わりに切り落とされたはずの右腕が、黒い光を帯びてそこにあった。
「ひヒッ、さっきのお返しだヨ」
「穢の、腕、だと……」
鬼型とて、斬り飛ばされた肉体を再生する事は出来ない。だから、首を飛ばせば確実に鬼型を葬り去る事が出来るのだ。鬼型も生き物としての構造あってこそ生きていられるのだから。
だからキリはコウシンの右半身に注意を向けていなかった。寧が逃げる時間くらいは稼げるだろうと踏んだのもその利があればこそだ。
だが今、コウシンがキリの腕を切り飛ばしたのは紛れもなく失われたはずの右腕だった。穢によって形作られた、黒い燐光を帯びた歪な腕だ。
それは肉体の再生ではなく、穢による再現だった。キリの知識を越えた、鬼型の能力だ。
左腕を失ったことは腕が使えなくなったというだけの不利ではない。痛みは身体を委縮させるし、失ってすぐは身体の均衡もまともに取れなくなる。キリはもう、まともに鬼型と戦う術を失った。
事実、それまでは辛うじて回避していたコウシンの拳にあっさりと捉えられ、顔面を掴まれる。残った右腕で穢の腕を掴むが、それ以上の抵抗も出来ずに宙へと吊り上げられた。
「おもしろいだろウ、仙気ってサ。他にもこんなこともできるんだヨ」
自分の優位を確立したコウシンが、愉悦交じりに宣言する。途端、コウシンの背から本来は存在しないはずの第三、第四の腕が伸びてきた。
「ほラッ、ほラッ、ほラッ」
コウシンは見せつけるように腕一本一本で代わる代わるキリの身体を殴りつける。本気で殴れば如何に鍛えられたキリの身体でも一撃で粉砕できるはずの拳が、雨あられとキリの身体をいたぶる。宙に固定されたキリの身体は人形のように揺さぶられるがままだ。
コウシンは遊んでいた。無論、寧が逃げ出さないようにそちらへの注意は怠っていなかったが、寧に逃げ出す素振りはなかった。寧はキリが痛めつけられるのを、信じられないものを見るように呆然と眺めていた。
「さテ、どうやらおまえは卑琉子(ひるこ)のようだネ。人のくせに仙気に耐えられる素質を持ったやツ。生意気だよネ」
コウシンが右腕でキリの頭、左腕でキリの右足、第三の腕で右腕、第四の腕で左足を掴み、大の字に吊るし上げる。
「逃げ、ろ……」
殴られていた間も今も、キリはまともに悲鳴一つ上げず、ただじっとコウシンを睨みつけていた。締め上げられても、出てきた言葉は寧への命令だけだ。それがコウシンの気に障った。
「他人の心配してんじゃないヨ。どうせ逃がしゃしないけどサ。ア、そうだいいこと思いついタ」
「ぐっ、ううぅぅ……」
「キリっ!?」
キリの顔に初めて苦悶の表情が浮かんだ。コウシンに捕まれた四肢から黒斑が虫のようにザワザワとキリの皮膚の上を這っていく。穢物の血を浴びても平気な客子の抵抗すら容易に上回る穢が、その身に注ぎ込まれている。
「きいてルきいてル、あんだけ仙気を打ち込んでもピンピンしてるからきかないのかとも思ったけド、どうやら限度はあるみたいだネ。じゃア、どれくらい耐えられるのかおいらがみてあげるヨ」
「や、やめて……キリを殺さないで……」
か細い声で寧が嘆願する。コウシンはそんな寧を見下して、
「おまえもすぐに同じ目に遭えるから安心してヨ。ア、逃げたら今すぐそうするかラ」
「いやぁ……」
にんまりと嗤うコウシンに見張られた寧は、もはや立ち上がることすらできず、ただただ苦しむキリを見ている事しか出来なかった。
「オ、きたヨきたヨ、上手くいきそうダ」
うきうきと喋るコウシンの目の前で、キリの剥き出しの足に浮かんでいた黒斑が沈下していく。代わりに浅黒く変色した肌に黒いヒビが走った。寧の見たことのない変化だ。
もはやキリはまともな呻き声すら上げていなかった。開いたままの口からはとめどなく涎が落ち、喉の奥から震えのような音が漏れるだけだ。辛うじてコウシンの手から覗く左眼にも既に意思の光はなく、ただ見開かれたまま虚空を見つめていた。
瞬く間に黒いヒビは脚だけでなく腕からも回り、キリの全身に達しようとしていた。それが首のところまで昇ってきた時、右の顔を隠していた手拭いが落ちた。その下から、黒斑に冒された者特有の黒い肉塊が盛り上がり、ボコボコと気味の悪い形に膨れ上がってキリの頭ほどの大きさに育つ。
左のこめかみあたりから血のようだが真っ黒い液体が溢れ出し、キリの左頬を涙のように伝って落ちていく。
それ以上の変化が見られなくなると、コウシンは動かないキリを寧の竦む板壁に投げつけた。その音に寧が身を竦ませる。キリの身体は板を何枚か圧し折りつつも破り抜くことなくその場に留まった。
「さてさテ、死んじゃってたら期待外れもいいとこだけド……オ?」
穢に侵された人は死ぬ。それは自然の摂理だ。穢による浸食を受け、変質したキリが生命を維持できるはずはない。それが寧の持つ穢の知識だった。
だが、キリは動いた。
板壁の窪みに凭れかかっていた身体が、自身の力で窪みから抜け出し、立ち上がった。
「ひヒッ、上手くいった上手くいっタ」
嬉々として手を叩くコウシン。二対の腕から出鱈目に打ち鳴らされる耳障りな拍手も、寧には聞こえていなかった。
「キ……リ……?」
寧の呼びかけに、立ち上がったキリがゆっくりとそちらを向く。距離にして二間(約三・六メートル)ほどか。寧は薄明かりに浮かび上がったキリの姿に声を失った。
それはもはや、人と呼ぶには憚りの有る形だった。
ちぎれた裾から剥き出しの足は、くまなく黒いヒビに覆われている。それだけならまだしも、上半身は壊滅的だった。特に右半身の変化が醜悪で、首から頭部までブヨブヨとした黒い肉の塊となって蠢いている。まるでその下に詰まった何かが逃げ道を求めて暴れているかのようだ。
キリの面影を残すのは口元と左目だけ。あとは、化け物のそれだ。
「これがなんだかわかるかイ」
寧は何も答えなかった。答えられなかった。キリの変わり果てた姿を見つめて、ただただ涙を零していた。
コウシンが構わず続ける。
「人の卑仙(ひせん)だヨ。穢物、ってあんたらは呼ぶんだっケ? 卑琉子にたまに仙気に耐えて卑仙になるやつがいるって聞いてたけド、ほんとに居るんだネェ」
キリだったものが、一歩、また一歩と寧に近付いていく。
コウシンの話が本当であれば、この化け物は人である寧を殺すために動いている。穢物とはそういうものだ。無尽蔵の憎悪を抱く人の天敵、それが穢物だ。
「おいらネェ、思い付いたんだヨ。ただあんたらを殺すんじゃ面白くないっテ。だからサ、卑仙になったこいつにあんたを殺させたらきっと面白いだろうなってサ」
寧が後退る。キリが一歩進む。
コウシンは少し離れた場所からその様子をにやにやと眺めている。
やがて寧の背が板壁についてそれ以上の後退を阻まれた。その右手一間(約一・八メートル)ほどのところに、ついさっきキリが蹴破った口があった。それは外に通じる道だ。だが、コウシンが易々と逃がすはずもなく、寧も逃げようとは思っていなかった。
寧は心身ともに限界だった。感情も碌に出なくなり、自分が怖いのか悲しいのか悔しいのかなにを考えているのかさえ分からなかった。ただただ、涙ばかりがポロポロと零れていく。
「と……かさ……」
近付いてきたキリの開けっ放しの口から、涎と共に声らしきものが漏れているのに気付いたのは、その距離が一間を切った時だ。
「うか……さ……」
それは誰かの名前のようだった。
女の名前のような一節が、妙に寧の気を引いた。曇った青い瞳がわずかながら光を取り戻し、眼前に立ち尽くすキリを見上げる。
「とう……か……さ……」
「とう、か……?」
聞き返すように寧が呟くも、キリからまともな返事が返ってくるはずもない。歪んだ身体を引き摺り、この場で唯一の生者である寧を求めて蠢くだけだ。
「あーア、かたつぶりでももっとテキパキ動くでショ。やっぱり弱いヒトの卑仙は使えないネ。つまんないネ。うン、飽きタ」
一息に捲し立てて、コウシンが二人に向かって歩き出すのを、寧は他人事のように醒めた眼差しで見ていた。
コウシンは先にどちらを殺すのだろうか。キリ――だったものがこれ以上壊されるのを見るのは忍びない。自分もキリみたいに壊されるのだろうか。これで死ぬのかな。お嫁さんの話はどこに行ったのだろう。いずれにしろ、そんな目に遭うならやっぱり自裁した方が楽だろうな。桃花って誰のことだろう。死にたくないな。でももう助からない。おびえるのにすら疲れた。もうどうでもいい。かたきも討てたし、わたしのいのちは、ちゃんと、いみがあったよね、ちいにいさま……だいにいさま……。
「ンー、じゃア、とりあえず逃げられると面倒だから女の方から冒しときますカ」
菜を食べる順のような気軽さで、コウシンは寧を選んだ。真っ直ぐに寧へと進むコウシンが、身長ほどもある長い穢の腕を伸ばす。
コウシンの身体が跳躍した。信じられないほどの速度で、後方の闇の中へ。
吹き飛んだ先で崩落した巨石の一つに叩きつけられたか、革袋が破裂するような音を弾けさせた。
「ガ……なんダ……いたイ……おいらがいたいゾ……」
何が起こったのか、虚ろな寧にもコウシンにもわからなかった。
ただ、それまで鈍重な動きしか見せなかったキリが、いつの間にか左腕を胸の高さで水平に持ち上げていた。そこはちょうどコウシンが寧目掛けて通りかかった場所だ。
もはや人の意識など失ったであろう、キリだったものがやってのけたのか。それを真剣に考える者は、この場に居なかった。
「卑仙ガッ、卑仙ガッ、卑仙ガァッ!」
寧の心は自分の中に閉じこもり、闇の中から聞こえるコウシンの怨嗟の雄叫びにも何の反応も示さなかった。続けて不快な猿叫が小屋の中を跳ねまわり山中に響き渡る。まるで何かを呼びつけるような叫びだ。
しかし寧もキリだったものも我関せずと微動だにしない。焦点の合わない瞳が、コウシンを殴り飛ばした姿のまま動きを止めたキリだったものに張り付いている。
「と……かさ……で」
キリだったものの呻きが少し変わり、寧がわずかに首を揺らした。
「しな……で……」
「しな、で……?」
キリだったものの掠れた呻きを、寧が繰り返す。
闇の向こうに何かが集まる気配があった。僅かな光の中を一瞬だけ通り抜けたのは猿の穢物だったか。
「仙気が足りなイ! なおせなイ! おまえらよこセ!」
その直後、猿の小さな悲鳴と、肉を千切り骨を砕く音だけが半壊した小屋の中に響いた。
寧の耳には気色の悪いそれらの音は入っていなかった。
「ない……で……」
「しなないで……」
それはキリだったものに残った願いの残滓なのだろうか。
「おまえはまだ、人なのか……?」
寧が尋ねるも、もちろん答えはない。それでも、キリの行動は寧の心に僅かな活力を与えた。ほんの、僅かな活力。寧はそれを胸に、決意を固めた。
「穢れて死ぬのは嫌だな……穢されるのがおまえにでも、それだけは嫌だ」
板壁に凭れさせていた背を億劫そうに剥がした寧が、自らキリだったものの方へと這っていく。何の拍子に飛ぼされたか、這いずる寧の指先に伝家の槍身の茎が触れた。ほとんど意識せずその茎を掴み、寧は立ち上がった。
「とうかさん、しなないで、か」
キリだったものの呻きを繋げると、そういうことらしい。
「とうかとは、誰なんだ」
答えはない。ただひたすら、同じ言葉が繰り返されるだけ。
キリだったものはもはや人でも穢物でもないらしい。穢物であれば迷うことなく寧に襲い掛かるはずだった。人であればコウシンに止めを刺していただろう。
ただ、後悔が肉を得たもの。それがキリの成れの果てなのだと、寧は思った。
「キリ、おまえは、そのとうかとやらに生きていて欲しかったのだな……わたしでは、ないのだな」
キリだったものの異形を見上げて、寧は僅かに微笑んだ。
「なんだか、いろいろどうでもよくなってしまった。おかしいな、わたしはどうしてここに立っているのだろうな……」
少し前まで伝家の宝槍だった槍身を見た。刀身は寧の血がこびりついて乾いている。曇った刃は薄明りすら反射しない。鈍く、白刃に影を揺らめかせるだけだ。
「疲れたな……」
闇の中から聞こえる咀嚼の音が絶えない。猿の穢物の断末魔が重なる度に、最期の時が近付く。
「キリ、とうかとやらではなくて悪いが、わたしの黄泉路に付き合え。三度目の正直、もういい加減、上手くいくだろう」
ぎこちないが、寧が笑った。ふと、もうずっと笑っていなかったような気分が寧の中に込み上げ、浮かんだ笑いを潜ませた。
「とう……かさ……」
「……今のおまえにこんなことを言うのは酷かもしれぬがな、いつまでもとうかとうかと他の女の名前を連呼されているとだんだん腹が立ってくるぞ」
言葉を行動で示すように、白刃が閃いてキリだったものの右目あたりの瘤を切り裂いた。
鬼型と違い、穢物の傷は治癒しない。キリだったものが穢物であるのを証明するように、傷口から黒い血が噴きだした。まるで膿を流すように、歪に膨れた右側頭部からとめどなく穢が流れる。
寧は、黒く穢れたキリだったものの血に塗れた刃を見下ろす。穢塗れのこの刃であれば、自裁の損ないもないだろう。躊躇って死に損なったときは穢れる苦しみを味わうかもしれないが、そうならない自信があった。いや、自信ではない。これはキリの血だ。キリは今まで寧の願いを裏切ったことはない。キリの血であれば確実に自分を殺してくれると信じられた。
「その切り開かれた右目を見開いてわたしを見ろ。わたしの、最期を見届けろ。わたしは藤花寧。仇討を果たし、己の天命を全うした者だ」
せめて己だけでもそう思わなければ、救われなかった。これまでの生に意味があったのだと、自分に言い聞かせながら寧は黒く染まった刃を己の首筋に添えた。これを引けば、すべて終わる。キリがくれた最後の活力で、終わらせる。それが寧の決着。
「先に逝くぞ」
瞑目した寧の目尻に、わずかな涙が光った。
ふと、何かが聞こえた気がした。
すると自分の周囲が黒一色に塗りつぶされていて何も見えないことに気付く。
俺は、どうしていたのだろうか。なにか、どうしようもないものと戦っていた気がするのに、どうしてこんなところにいるのだろうか。
そもそもここはどこなんだろうか。どうやってここに来たのだろうか。思い出せない。
俺は、どうして戦っていたんだ。どこで戦っていた。なんのために、戦っていたんだ。わからない。
俺は……何なんだ……。
身体を動かしても、何も見えない。俺は俺が何なのかもわからない。どんな形をしていたのか……そう、思い出した。
俺は鬼だ。左の額にしか角のない、鬼だった。
俺は、死んだのだ。穢に呑まれて、死んで、そして穢物になった。堕鬼――人の穢物に。
堕鬼になって、沢山、殺した。穢物も、鬼型も、穢士も、巫女も、全部、全部殺した。俺が、殺したんだ。
だけど、桃花さんは言ったんだ。
『桐は何も悪くない。誰も何も悪くない。悪いことなんて何もない。ただ、悲しいだけだから』
悲しみを忘れなければ、俺は罪を忘れない。忘れなければ、いつか贖う機会が訪れる。その為にこの命を使え……桃花さんはそう言ったのだと、そう思っていた。
だけど、違う。思い出した。桃花さんはこう言っていたのだ。
『悲しみは、優しさから生まれるの。だから、悲しみを受け入れてあげて。優しさをなかったことにしないで。悲しいと思って流す優しい涙は、心を洗ってくれる』
桃花さんは俺に恨み言を言っていたんじゃない。
『悲しみを忘れなければ、悲しみはあなたを救うから』
俺を救ってくれたあの時、桃花さんは全てを許してくれていた。俺を許していなかったのは、俺だけだった。
桃花さんは堕鬼となった俺から穢を移し取り、そして黒腫の塊になって死んだ。
どうしてそうなったのか、代わりに俺は鬼になった。
人の穢物たる堕鬼ではなく、伝承にある本物の鬼に。
その時の俺は何がなんだかわからなくて、混乱していて、恐くなって、逃げ出した。
そう、逃げ出したんだ。
仇討なんて口実だ。ここから、桃花さんだったものから、槙から、約束から、国から、仲間から、穢士から、役目から、現実から……逃げ出したくて遮二無二走っただけだったんだ。
槙との約束も、桃花さんの祈りも、俺は最初から諦めていたんだ。だから、すべてを忘れ去った俺は、俺を裁くその時を求めて片角の鬼を探してきた。
俺は鬼どころか、鬼型すら一人で倒せない弱い奴だから。きっと、そいつを見つければ、どうしようもなく殺されるだろうと思ったから。
そうしたら、片角の鬼は俺だった。
とんだ茶番だ。
死に場所なんて最初からなかった。ここで犬死にするために、五年も彷徨ってきた。
こんなの、自分じゃ嗤えない。誰か、嗤ってくれ。
どうして、誰もいないんだ……。
ここは、死者の世界なのだろうか
何も見えない。何も感じない。何も聞こえ――。
……何かが聞こえた。人の声のような音。今のは、誰の声だろう。
桃花さんだろうか。でも、桃花さんはもっと楽しそうに話す人だ。
この声は必死で、自分勝手で、切実で、か弱い。
聞いていると、どうしようもなく落ち着かなくなる。
俺を嗤うのでないなら、黙っていてくれ……。
もう、静かにしてくれ……。
もう少しで、消えそうなんだ……。
もう少しで、俺は俺を辞められるんだ……。
だから……だから、もう……泣くな。
もう、頑張るな。もう、俺に構うな……。
ここが何処だっていい。このまま、この黒の中で消えてしまえれば、それでいい。
俺が何者だっていい。どうせ消えてしまうのであれば、どうでもいい。
結局俺は、何一つ守り切れなくて……。
何を、守りたかったんだ……?
俺は、何を守りたくて、戦っていたんだ……?
もう、あんなふうに死んでいく人をみたくなくて……おれは、だれのためにたたかっていたんだっけ?
かなしみは、おれをすくってくれたんだろうか。このしは、すくいなんだろうか。
おもいだせない……キえていく……クロにヌりつぶされて……もうナニモ……ナニガ……ナンダ……。
ヒカリ?
ヒカリガ、ミエル。
ヒカリノ、サキノ、カノジョハ――。
キリの手が、求めるように伸びてきて、寧の首元の刃を握った。
寧の顔が、くしゃりと泣き顔に変った。
「……おまえは、そんな風になっても止めるのか」
聞いたところで、キリから返事はない。左目は虚空を彷徨い、開いたままの口からは意味すらなくなった呻きが漏れるだけ。右半身を不細工に膨れさせているのも変わらない。寧がつけた右眼の傷からは相変わらず黒くドロドロとしたものが流れ出しているが、最前ほどの勢いはなくなっていた。
それでもキリは寧の自決を止めた。そっと、寧の手から刃を取り上げようと押さえ続けている。寧はその求めのままに刃を渡した。
寧がわずかに表情を緩めたその時だった。
キリの胸板から黒い腕が生え、寧の眼前まで迫って止まった。キリが咄嗟に己の胸から生えた腕を掴み止めていた。そうでなければ、寧はそのままその細い指に顔面を貫かれて絶命していただろう。
「ほんト、使えないネ、この塵芥ハ」
キリのすぐ背後から、コウシンの声がした。
「もう……戻ったのか」
寧が呻くように言ったが、先程のように取り乱しはしなかった。慣れてしまったのかもしれないし、もう心が枯れているのかもしれない。
「仲良く串刺しにしてやろうとしたのにサ、この塵芥はまたおいらの邪魔をしタ。おかげでおまえはゆっくり仙気に冒されて死ぬことになったヨ」
穢のせいで半倍ほどに膨れ上がったキリの身体の向こうから、貫いた穢の腕はそのままにコウシンがニュッと顔を見せる。
その姿はより醜悪に変わっていた。
細かった体躯は取り込んだ穢物の穢のせいか歪に太く強靭になり、四肢も太くなり細くなりデコボコと伸びている。何より気色悪いのは、全身至る所に痘痕のような猿の苦悶の顔が浮き出していることだ。まるで喰われた穢物の恨みが浮き出しているかのようだった。
「もう逃がさないヨ」
キリを貫いたまま、コウシンが嗤う。余裕のない、怒りに満ちた笑みが、逆に寧を冷静にする。
「逃げも隠れもしないさ、疲れるだけだ」
「ふン、粋がるなヨ。もうこの出来損ないは助けてくれないヨ。たった今死んだからネ、心の臓を握りつぶされてサ」
穢物は穢を纏ったただの獣だ。黒斑に呑まれて肉塊にならなかったというだけで、人の穢物に過ぎないキリも傷を癒すことは出来ない。心の臓を潰されれば即死だ。
「ジャ、このまま仲良く冒してやるヨ」
コウシンが歪な笑みを深めてキリの身体ごと寧に触れようと動く。
「……なんで動かなイ」
コウシンが呻いた。
「なんで耐えられルッ、なんデ、なんデ、なんデ……なんデ、おまえは生きていル!」
コウシンが駄々をこねるようにキリの身体を揺さぶるが、死骸のはずの身体は揺れるどころかコウシンの腕をからめとって身動きを封じている。寧はそれを見て取れる程度に落ち着いている自分に驚いた。
刹那、寧が切り開いたキリの瘤から、黒い光が噴き出した。
それまでの黒く爛れた気味の悪い液体ではない。黒い、光の粒の奔流だ。光が流れ、舞い散り、キリと寧の周りに漂う濃さを増すごとに、膨れ上がったキリの右半身が、まるで空気の抜けるように萎んでいく。
半開きだった唇が、何かを噛みしめるように閉じる。
黒い穢の流れ出ていた左のこめかみあたりから、右眼と同じ光が前方に噴き出し、一尺ほどの湾曲した細い円錐を成す。
焦点のあやふやだった黒い瞳が妖しく輝き、意志の力を取り戻したように瞬く。
それは、寧が初めて見るキリの両眼が揃った姿だ。左の額からは角を生やし、右の額は角がない代わりに寧の切り開いた眼窩から炎のように黒い光を立ち昇らせる。
いつしかキリは元の強靭な肉体と屈強な意思を秘めた双眸を取り戻し、そこに顕在していた。
その姿はまるで、キリの話に聞いた鬼にも似ていて、だが、寧の心に迫るのは恐怖ではなく安堵だった。キリが帰ってきたという、理屈でない直観からくる安堵。
キリの変化が終わるかどうかといった刹那、その身体がそれまでの愚鈍な動きと打って変わった機敏な動きで転回し、したと寧とコウシンが気付いた時には、キリの右拳が疾っていた。
背から生える穢の腕二本で防がなければそれで終わっていたであろう凄まじい衝撃が、寧のところまで伝わる。衝撃を殺しきれなかったコウシンは板壁をぶち破って小屋の外に消えた。
身を翻した際に圧し折れた穢の右腕を胸に生やしたまま、キリは何かを確かめるように天井を見上げていた。コウシンを殴り飛ばした右腕と同時に、ゆっくりと顔を下ろす。
そうして踵を返すと、待ち構えていた寧と向き合った。
「死に損なったな」
「お互い様だ」
言い合って、微笑み交わす。
その間に穢の腕は霞のように消え、胸に開いていた穴も瞬く間に塞がる。
寧は改めてキリの姿を眺めた。
左の額から伸びる角。
右の眼から立ち上る穢の焔。
黒い髪は風になびくように燐光を放ちながら揺らめき、キリの姿を晦の闇の中でなお昏い闇として浮き上がらせている。
「見つけたぞ、お前が探していた片角の鬼」
寧が悪戯っぽく言い掛けると、キリは困ったように眉根を寄せる。
「後で話す。小屋から離れていろ」
「わかった」
寧にはもう、恐れはなかった。キリの帰還を信じられた。素直に頷く寧を後目に、キリはコウシンが飛んでいった板壁に向き直る。
矢庭、板壁を打ち砕きながら三本の穢の腕が伸びてくる。キリは右腕だけでそれを危なげなく捌くと、天井を突き破って急襲してきたコウシンを真上に蹴り上げた。落ちてきた道筋そのままの軌道でコウシンが打ち上がる。その後を追って、キリも跳んだ。まるで重さがないように、小屋の屋根へと身を躍らせる。
屋根に着地したキリが周囲を探るも、コウシンの姿はない。小屋の中に戻った様子もないとなれば、どこかに隠れてキリの動静を窺っているのだろう。
キリは、桃花が与えた力を取り戻した。己の罪を受け入れられず、右眼と共に封じた鬼の力を。
額から伸びる穢の角は、伝承の鬼の象徴。額に左右二つあり、全身に行き渡る穢の最後の噴出口、鬼孔から排出される穢の流れだ。しかし右の鬼孔は潰れたままだった。あの時、狼の鬼型に受けた傷が右の鬼孔を埋めてしまった。それがためにコウシンに流し込まれた穢をやり過ごせず、キリの体内で行き場を失った。それを寧が破ったのだ。
寧のつけた傷は鬼となったキリの右眼に変った。四つの瞳を持つ眼へと。かつて鬼型に断ち割られた眼球が更に寧の手で切り裂かれた時、穢の力で四つに割れたまま治癒した。その瞳の一つずつが、過去と今と未来と想いを見通す。角の代わりに右眼は常に黒い光を噴き出し、黒炎の燃え盛るが如くキリの横顔を縁取った。
これが伝承の力。本物の鬼の力。キリは己の内に渦巻く穢の力に静かな驚嘆を抱いていた。
山を崩し、谷を埋め、生きとし生けるものを根絶やしにする。今のキリはそれも可能だと、力の使い方を想像できる。それだけの力。多くの仲間の犠牲と、桃花の祈りと、キリの罪が生んだ力。
『悲しみを忘れなければ、悲しみはあなたを救うから』
あれから五年、ずっと胸に秘めてきた怒りは、本当は悲しみだったのかもしれない。悲しくて、この世を彷徨っていたのだとすれば、それを救ったのは――。
「桃花さん……難しいことは、後でちゃんと考えます……だから今は、あいつを救うために、あなたの祈りに縋ります」
闇が支配する虚空に希う。
その奥から、穢の腕が伸びてきた。どうやら穢の腕は自由に長さを変えられるらしい。
見切ったキリがそれを右腕で掴むと、穢の腕は消滅した。が、すぐに次が襲い来る。雨あられと降り続ける拳をキリは片腕だけで全て掴み、弾いた。一発でも通せば、この半壊した小屋の中にいる寧に危険が及ぶ。
寧が小屋の外に出たのを確認すると、攻撃の方向から割り出していたコウシンの居場所目掛けて跳躍する。キリの立っていた小屋の屋根が、降り注ぐ拳に打ち砕かれてあっという間に木片へと変わっていく。
キリが寧の脱出を待っていたように、コウシンもこの瞬間を待っていた。キリが崖上の自分を探しに跳躍する瞬間を、だ。
「キィィィイッ!」
猿叫を上げ、実体の有る左腕の爪で切りかかる。
この時にはキリも気付いていた。穢の腕は実体がない分、軽い。打撃には不向きなのだ。軽いとは言っても鬼同士の戦いにおいて、だが。
故に、コウシンが今のキリに致命傷を与えるには左腕で直接首を刎ねるしかない。それをわかっていて、キリは敢えて跳んでいた。
頭上、背後、足元、そして正面から襲い来るコウシンの攻撃の内、キリにとって致命的なのは正面の爪だけ。そしてこれをどうにかすれば、コウシンに決定打はなくなる。キリは迷わずコウシンの左腕を手刀で千切り飛ばした。
それを望んでいたかのように、コウシンがほくそ笑んだ。
四方から襲い来た穢の腕は、キリを攻撃するのでなく拘束した。流石のキリもこれを空中で振りほどくのは至難の業だ。振りほどこうと動かしても宙では踏ん張りがきかない分勢いが弱まるし、穢の腕は伸びることで千切れるのを防いでしまう。
「おいらの腕は四本、おまえの手足は三本、さてこの余った一本はどうしようカ」
今さっき斬り飛ばした左腕から、新たな穢の腕が生える。
打撃には向かなくとも、突きであればキリの肉体を貫けることは既に証明済みだ。鬼と化しても堕鬼であった時と強度自体は変わらない。
「地面に落ちる前にその首グチャグチャにしてやるヨ!」
絡み合った二人の身体が落下に移ったのはその時だ。それだけの時間があれば、コウシンは宣言通りキリの頭蓋を砕けるだろう。
だがその時には既に終わっていた。
「おヨ……?」
コウシンの間抜けな声が宙に浮いた。
鬼型を屠殺するのに最も簡単な方法は首を飛ばすことだ。それは治癒は出来ても再生が出来ないことに由来する。
言い換えれば、首でなくとも生物の肉体にどうしようもなく致命的な欠損を与えられれば良いのだ。例えば、唐竹割でも、両断でも。
「なン……ダ……」
落ちながら、コウシンは逆さまの視界に自分の下半身を見た。上半身から離れ、黒い液体と臓物の尾を引きながらあらぬ場所へ飛んでいく自分の下半身を。
コウシンは、キリの一撃で上半身と下半身に両断されていた。身動きのできないはずのキリが、それをやってのけた。コウシンの理解が及ばないのも無理はない。
致命傷を負ったコウシンは穢の腕も維持できず、自由を取り戻したキリは悠々と着地の姿勢に移った。
「どウ……しテ……」
その言葉と共に、コウシンは板間の残骸の上に落ちた。そのすぐそばに着地したキリの左肩から、再生したかのように黒く光る腕が生えているのを、コウシンは首だけを動かして見た。
「オ……おいらハ……二百年、だゾ……仙気を形にするのに二百年だゾ!」
「俺とて昨日今日鬼になったわけではない。五年前にはこの身体になっていたからな、おまえのやり様を見れば穢を練るくらい造作もない」
ゆっくりと歩み寄るキリに、もはや穢の腕も出せなくなり、ただただ転がるだけのコウシンが牙を剥く。
「ヒ、ヒト如きが仙気をかた――」
キリの穢の左腕が閃き、コウシンの体は語る口を失くした。闇よりも黒い血が、胴と首の間に水溜りを作って、コウシンの命を流し尽くした。
「便利だな、これは。疲れるが」
呟いて穢の左腕を消滅させ、右腕でコウシンの首を持ち上げる。驚愕に目を瞠る首は、鬼型を屠殺した証。田日良の危機が去った証となるのだ。
「終わったのか……」
「ああ」
身体を引きずるようにして、寧が戻ってきた。右手に提げたコウシンの首を目に留め、恐怖を思い出したかのように顔を顰める。だがそれも一瞬のことで、すぐに落ち着いた面持ちでキリを見た。
キリも、寧をまっすぐに見返して微笑む。
「よく、頑張ったな」
寧の顔が幼女のような泣き顔に変わるが、堪えた。
「貴様のおかげだ」
俯いて顔を隠すと、ことさらにぶっきらぼうな口調でそう返す。
「生きていてくれてよかった」
キリとは思えない優しい声音に、壊れまいと固く締めていた寧の心が一瞬で緩んだ。そこから溢れるように、堪えていた数多の感情――恐怖や、怒りや、虚しさや、嬉しさや、安堵といったすべてのものが、熱い涙となって零れ出す。
童女のように咽び泣く寧に、キリはそっと身を寄せるとその頭を抱き寄せてやった。
しばらくそうしている内に寧の心も落ち着いたのか、突き放すようにキリから離れ、顔を拭ってからいつもの調子で長身を見上げた。
「あちこち痛くてとても歩けん。負ぶっていけ」
「……わかったよ」
横柄なその態度に寧の気丈さを感じ、キリはむしろ感心した。こういう強さに、桃花との繋がりを感じたのかもしれない、と。
着ていた単衣の上半身を片腕で千切ると、器用にコウシンの首を巻いて包みとし、素肌になった背中を寧に向けて屈む。寧はなんの躊躇いもなく、その背中に倒れ込むようにして覆いかぶさる。
キリは重さを感じさせない動きで立ち上がると、半ば崩れた小屋の木片や瓦礫を危なげなく踏み越えて町への帰路へとついた。
歩き始めは二人とも自分の心と会話しているかのように黙ったままだった。
町まで続く砂利道の向こうに、火事の火炎は見当たらない。静かな星夜を取り戻した田日良町が、黒々とした影を浮かび上がらせているのみだ。どうやら、猿の穢物の侵攻も火災も落ち着いたようだった。
「傷は痛むか」
「薬のおかげかそれほどでもない」
晦の月の闇の中でも、キリの足元はしっかりとしたものだった。その背に揺られる寧は闇の中に浮かんでいるような錯覚を覚えるほどの暗さだというのに。だが、恐怖はない。背中から伝わるキリの温もりが、孤独も寒さも一切を撥ね退けてくれていた。
それはとても懐かしい感覚だ。かつて幼い頃、長兄の背に揺られて冬の早い日暮れを急いだ記憶が呼び覚まされ、寧の心をなんとも言えないあたたかなもので満たしていく。
「貴様にこうして負ぶわれるのは、二度目か……」
「そういえば、そうだな」
それで、会話とも言えない言葉のやり取りは途切れた。
寧にはそれで十分だったが、
「おまえは、恐ろしくないのか」
いくらか間をおいて、不意にキリがそう聞いた。
「恐ろしくないが? 貴様の足元は確かだ。不安はないぞ」
考えていたことそのままを返した寧だが、キリは鼻で笑って言い直した。
「足のことじゃない。俺自身だ。俺が、恐ろしいと感じないのか?」
言われて、寧はようやく気が付いた。
「そうか、貴様は鬼だったな」
あっけらかんとしたその声に、とうとうキリが噴き出した。寧としては初めてまともに聞いたキリの笑い声だ。驚いて言葉が出ない。
クツクツといつまでも笑い続けるキリに、寧は自分がおかしなことを言ったのではないかと無性に恥ずかしくなってきた。
「そんなもの、今更だ。あれほど恐ろしい目にあったのだ、もう鬼型だ鬼だと狼狽するような心魂は涸れ果てたわ」
「そうか、おまえにはそういうものか」
寧は慌てて言い訳を並べるが、キリの背中はなおも嬉しそうに揺れる。
ふと、鬼となったキリの姿を思い出す。すると我知らず、寧の口から想いが漏れだした。
「美しい、と思ったんだ。あの、黒い光を纏った貴様は……あの角も、眼も……だからだろうな、恐ろしいとは露ほども思わない。それに、貴様は貴様だ。頓珍漢で唐変木だが、いつもわたしを――」
そこで寧は自分が何を言わんとしているのか察して言葉を切り、
「とにかくっ、鬼だろうとなんであろうと、貴様は化け物じゃない。キリはキリだ!」
それまでの甘く浸るような声音を吹き飛ばすように強く捲し立てて、悶絶した。大声を上げて傷に障ったのだ。
「大人しくしておけ」
優しく諭され、寧は妙な気恥しさに押し黙る。暴れたせいで少し落ちた寧の身体を、キリが軽く揺すって背負い直した。
左腕を失ったキリは、右手に首を提げ、腕で寧を支えているような状態だ。片腕だけで危なげなくこれだけの仕事をこなしていた。
「その……腕は、大丈夫か」
「ああ、問題ない。傷は鬼になった時に塞がったし、痛みもない。片方ないのも段々慣れてきた」
気遣わしげな寧の声に、キリはまるでかすり傷だと言わんばかりに気にした風がない。
「すまない、わたしが早く逃げていれば……」
「さてな……あの時こうしていればと、いくら考えたところでそれは妄想にすぎん。もしかすれば逃げたおまえも俺も殺されていたかもしれん。少なくとも、おまえがいたから俺は戻ってこられた。そうして、こいつを屠殺できた。それでいいだろう」
「……強いな、貴様は」
「俺は、慣れていただけだ」
鬼型にも、傷つくことにも、仲間を失うことにも、キリは慣れていた。
むしろ、初めて鬼型と相対し、命を脅かされながらもこうして気力を残している寧の方がよほど強い、キリはそう思った。
「なあ、キリ」
「なんだ」
抑揚のない、落ち着いた声がキリを呼ぶ。
「貴様は、仇が討てたか」
「そうだな……まだ、なんとも言えんが……気持ちに区切りはつきそうだ」
「わたしは、仇が討てたぞ」
呼んだ時と同じように、静かに寧は宣した。宿願を果たしたとは思えない、あまりにも静かな声が、逆に万感の重さを感じさせる。
「羅切はやはり死んだか。おまえがやったのか」
「コウシンに殺された」
「そうか」
複雑な心境なのだろうと、察しは付いた。キリはそれ以上余計なことは言わず、寧の気持ちが自然と整うのを待とうと構えたが、
「それで、だな」
寧はすぐに次の話題に移ってきた。しかも先程とは打って変わって、少し声が上擦っている。どうやら、仇が討てた云々は前置きだったらしい。
「うん?」
「わたしは、国に帰ろうと思う」
「そうか」
「だから、その……もし、貴様が、他に当てもないのであれば、だな、その……わたしの護衛をしないか」
「ふむ……そうだな、それも悪くないな」
「そうだろう、そうだろう!」
キリの返答に手応えを感じたのか、寧の声が弾む。しかし、
「この首を清算して、穢物の脅威がなくなったことを確認したら、考えよう」
「そ、それから考えるのか……そうか……」
直後におあずけを食らって、今度はストンと消沈した。
そんな寧の一喜一憂を知ってか知らでか、キリの声は相変わらず落ち着いていて優しい。
「おまえもまずは傷を癒せ」
「そうだな……焦ってもまともに動けぬのではな」
「ああ……今なら、少し立ち止まってもいいだろう」
「……そうだな」
二人の行く手に、ぼんやりとした明かりが見えてきた。木戸に掛けられた常夜灯だ。もう、田日良町はすぐそこだった。
キリ鬼譚(きたん) @inuitatsumi515
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