12.
二つの誤算が、羅切をその時、その場に立たせていた。
一つは代官所の無能っぷりだ。羅切は常々、人の上に立ちたがる人間ほど身の程知らずである事を不思議に思っていた。そしてそこに甘えが加わると幼児にも劣る判断しか出来ないのだと知り、呆れ果てた。
そもそも羅切は、代官所と関りを持とうなどと無謀な考えは最初から持っていなかった。それどころか、懐に木枯らしが吹いていなければ、穢物が出没する町になぞ足を踏み入れたくなかった。
人は、窮地に立たされた時に光明を見出せばそれに縋る。それしかない、と勝手に思い詰める。
余裕があって警戒を怠らない相手よりも、付け込むのが楽なのは明白だ。
希望に満ちた甘い言葉と自信にあふれた態度で接してやれば、容易く信じ込む。
羅切の半生はこの背景を醸成するために腐心してきたと言っても過言ではない。他人の不幸を己の幸福に変換する術で、羅切は穢物が支配する外の世界を生き抜いてきた。
だが今回ばかりは、他人の不幸が己の仇となった。
羅切としては、丁名主あたりに取り入って丁内の信頼を勝ち取り、そこから接待という名の甘い汁を吸い上げつつ目星をつけ、程よいところで目ぼしい金品を懐にずらかる算段だった。
が、藁にもすがりたいところに現れた英雄の名を、丁内どころか町そのものが諸手を挙げて歓迎した。
初めこそその手触りに舌なめずりした羅切だが、すぐに自分が甘い蜜壷に落ち込んで沈みつつある蜜蜂なのだと察した。察した時には土壷だった。
窮地に現れた鬼斬りを、町は手放そうとしなかった。まさかそこに代官所まで加わるとは、流石の羅切も考え及ばない。
代官所に呼び出された羅切の扱いは、下にも置かぬ慇懃なものだった。普段は浪人風情などと蔑む高級役人たちが媚びへつらう姿は悪くない見世物だったが、それも翌日には更なる嫌悪に上塗りされた。
切り札を得たと錯覚した代官所は、それまで下手に出ていた穢物――この時にはその首魁が鬼型であると聞かされていた羅切だが、あまり信じてはいなかった――に対して掌を返した。まるで子供の喧嘩に親でも連れ出したような威勢の変わりように、羅切は反吐が出る思いを隠して付き合った。
その切り札が見せかけだけの白紙だとも知らないこの町の末路は、羅切本人には明白だ。
それでも応じる羽目になったのは、代官所ほどの権力から断りきるだけの強い理由が羅刹にはなかったからだ。
断るにも世間体を考えなければ、羅切のように他者を騙して生きている輩は後に響く。変な噂が流れては、やりづらくなる。適当にあしらって引き際を見極めるしか選択肢はなかった。
無論、穢物に持ち掛けられた取引に真面目に相対するような連中だけに、笹舟を戦船と思い込ませるのは容易かった。
そんな連中には町の金品なぞ宝の持ち腐れ、搾れるだけ搾り取り失われるはずのそれを有効に活用してやるのがせめてもの情けと、羅切は耽々と雲隠れの機会を窺った。
その機を逸したのは、もう一つの誤算のせい。二つ目の誤算は、女だ。
と言っても惚れた腫れたの艶聞には程遠い、羅切には身に覚えがあり過ぎる仇討の一人でしかない。が、腹立たしいことにその一人に引っ掻き回され、逃げ遅れた。
一目見れば記憶に残りそうな美貌の娘ではあったが、羅切は一瞥で彼女のことを思い出す事が出来なかった。その身上を語られて、三年ほど前に騙くらかした武家の娘だとようように思い出せた。
あの時、その娘は離れ屋に引き籠って顔を合わせる機会が無かったものだから、羅切が覚えていないのも仕方のないことだ。
もし、彼女の言葉を欠片でもこの町の人間が信じるようであれば、羅切は迂闊に動けなくなる。下手な真似をすればそれは彼女の言葉を――この羅切は嘘吐きの詐欺師だと裏付けることになってしまう。そうなれば、稼ぎがないどころかこの国に二度と入れなくなる。
羅切の欺瞞に気付いて彼を探す国はいくつかあるが、それもほとぼりが冷めるまでの話、ずっと入れなくなるようでは困るのだ。人が旅できる地域は限られているのだから。
羅切は彼の生活の為、彼女の疑いの目を躱しつつ、町人に貢がせ、代官所を欺かなければならなかった。それも与えられた時間は二旬ほど。
出来ると思っていた。少なくとも、丁名主屋敷で相見えたあの時はそう直観した。だが、思ったよりも彼女が――いや、彼女の傍にいたあの大男か、と羅切は思い直す。
愚鈍そうに見えていつも嫌な所に現れるあの男が、羅切の罠に落ちようとする彼女をもう一歩のところで救い出す。
あの大男が彼女を影警護しているのかと疑った時もあったが、それも結局は彼女の幸運、羅切の不運でしかなかったと証明された。最後には、藤花寧は羅切の立てた代役の羅切を追って町を出たからだ。
そういう意味では彼女には感謝して欲しいくらいだと羅切は思っている。なにせ、この町はこれから穢物に蹂躙された地獄と化すのだ。秘密裏に始末する時間が無かったからとはいえ、その地獄から遠ざけてやったのだから。
藤花寧をあしらった羅切は、地獄から脱出するため、残された三日間を下工作に追われた。可能な限りの稼ぎ――こちらは頂戴物のまっとうな品々だ――を桃橘榊の見つかりにくい場所へと移し、あとは丁名主の屋敷から持てるだけの金品を持ってずらかればいいところまで準備した。稼ぎは町が穢物に蹂躙され尽くして後、ほとぼりが冷めてから回収すればいい算段だ。
羅切は暗夜を見上げた。透き通った夜空に月影はなく、競い合うように冬の星々が瞬く。切るような風に頬を嬲られ、本格的な冬の到来を感じ、羅切は大きく息を吐いた。紫煙の混じった嘆息が天へと散っていく。
ゆっくりと吸っていた煙管を片手で器用に一回転させると、燃え尽きた煙草灰が勢いで足元へ落ち、初冬の寒気であっという間に冷やされた。
「如何した、羅切どの」
羅切の嘆息を見咎めた声があった。
「明晩はいよいよ新月だな、と思いましてね」
羅切は振り返ることもなく、天を見上げたまま声の主に答えた。煙管を、煙草入れに戻すことなく弄んでいる。
「はい、ですが最早怯えて過ごす新月は訪れません。今夜、我らは勝利するのですから」
「如何にも、我らに羅切どのが加われば鬼型とて討ち滅ぼせましょう」
口の端に浮かぶ嘲弄の笑みが消えるのを待ってから、羅切は視線を背後の二人に移した。
背後に佇むのは二人の武家、どちらも野袴射篭手姿に長短を差し、肩には長弓を担ぎ、腰の箙には二本の矢を携えている。隙の無い戦装束だ。
如何にも勤番侍といった面差しの実直そうな青年たちも、言葉とは裏腹に緊張で強張った面持ちを常夜灯の明かりに浮かべている。
羅切の格好も似たようなものだ。違いといえば射篭手くらいか。背にはおなじみの野太刀を背負い、野袴に手甲脚絆、防寒に重ねた紺の合羽の下は小紋の袷だ。簡易な戦装束と見えなくもないが、どちらかと言えば旅装束のようでもある。
三人は山の中腹にある初岩神社の丁度真ん中あたりにいた。参道に沿って置かれた灯篭には常夜灯が燃え、辺りを歩くのに不便しない程度に照らし出している。見通しの利く境内に人の気配はない。今宵の為、常駐の神官も町へと下ろして人払いをしてあった。
穢物の首魁はこの初岩神社の境内を談合の場に指定した。そして首魁である鬼型が直接にこの場で代官所の決定を聞き届けると、いつの間にか届けられた通知に認めてあった。木片に恐らく動物の血で書かれた通知は、みみずがのたくったような平仮名ばかりではあったが辛うじて人の読めるものだったという。喋るだけでなく文字も扱うのだ、その鬼型は。
代官所の誰も、鬼型という存在を見たことはなかった。いや、代官所どころか国中探しても、鬼型を見たことのある庶民はいないだろう。鬼型はその身から常に穢を放ち、殺しても死なず、おぞましい姿は見るだけで目玉が腐るとも伝えられる化け物だ。
そうでなくとも穢物が数百年という時を閲し変貌するとされる鬼型に、それと見て取れる距離まで近付いて生き残れる庶民などいるはずがない。武家ですら、百人掛かりで一人くらい逃げ切れるかどうかだろう。
鬼型に相対する事が出来るのは、この世で穢士だけなのだ。
だというのに……穢士でもない羅切が、代官所の総意を伝える全権使として遣わされた。しかもそれは表向きであり、実態は鬼型の暗殺が目的だ。
まともに相手などしていられない。鬼型も、代官所も、だ。
代官所の監視が弱くなる今こそ、羅切が姿を晦ませる最後の好機だった。
鬼型暗殺のため如何様にも使え、と預けられた精鋭の青年武士二人だが、彼らがその為だけについてきたなどと暢気に構えるほど能天気な羅切ではない。
彼らは羅切が使命を果たすかどうかを見届けるお目付け役でもあった。鬼型と目見える前にここから立ち去りたい羅切にとっては目の上の瘤でしかない。
だがわざわざ御目付け役を付けるということは、代官所の目が届かないということを物語っている。今、この時、この場は、そういう時。田日良町と羅切の分水嶺なのだ。
「して、羅切どの、我らは如何致しましょうか」
「羅切どのの下知に従う所存」
二人とも、穢士でもなしに鬼型を討ち斃さんとするもののふだ。油断のない面魂には羅切への信頼だけでなく、不敵な心構えも垣間見える。
弄んでいた煙管をさりげなく握りしめる。
「そうですね、まずは社の奥を見てもらえますか」
そういう相手に、考える暇を与えてはならない。僅かな違和でも見逃さずに穿鑿してくるからだ。藤花の次男坊がそうであったように。
青年武士二人の視線が、羅切の指す指先の向こうにいった。その焦点が定まるか定まらないかの内に、羅切は自分の右後背にいた青年の脇差を振り返ることなく抜き取ると、自分の身体の前を回して刃を隠しつつ、左後背にいたもう一人の胸へと突き立てた。
過たず心の臓を突き通された青年武士が、断末魔を上げる暇もなく前のめりにドウと倒れた。
「何を――」
脇差を奪われた青年が呆然と口走る。しかしよく修練を積んだ右手は残った長剣へと自然に伸びている。
柄を握ればもののふの血が驚愕も疑義も吹き飛ばして、羅切への敵愾心を燃やすだろう。だが羅切はそんな暇を与えない。
吸い口を握り締めた左手を一閃させると羅宇から先が吹っ飛んで細身の刃が常夜灯の光に煌いた。
それも一瞬。振り返る羅切の動きそのままに青年武士の首へ吸い込まれた刃が、急所を切り裂いた。
パッと赤黒い霧を暗夜に咲かせ、二人目の青年武士も人形のようにその場へと頽れる。
「な、ぜ……」
最初に倒れた青年が、脇差に刺し貫かれた身体を横にしつつ羅切を睨め上げた。
「うらぎ――」
言い切る前に、ごぼりと音がして言葉が切れる。
が、羅切はそもそも聞く耳を持っていなかった。
ろくに身動きの取れない瀕死の青年に歩み寄ると、腰からその長刀を抜き取り、憎悪を煮えたぎらせる眼下に何の躊躇いもなく突き立てた。
「嫌な目で見ないで欲しいものです。誰だって自分の命が最も大切でしょう」
言葉と共に脳漿と血に濡れた刀を投げ捨てる。金属と石のぶつかる乾いた音が、凍り付いた夜気を割いた。
その時、正面にある鳥居の足の陰にゆらりと動く影があった。常夜灯の火が揺らいだ程度のわずかな動きだったが、鮮やかにも二人の武人を殺した羅切の感覚は鋭敏に働き、それが意志ある動き――何者かの影だと断じて無言理にそちらへと歩を進めた。
待ち合わせの場所に指定してきただけに穢物の可能性もある。ただの穢物であれば一体や二体は切り捨てればよいだけの話だが、もし鬼型であればどうなるか……立ち竦んで待っていればむしろ危ういと考えた羅切は、先手を取るべく敢えて近付いた。
すると柱の陰の濃い闇の中から影が出てきた。羅切は十分な間合いを取って足を止め、柱の陰から常夜灯の明かりの中に姿を見せただけの相手、どうやらただの人間らしい姿に目を凝らす。
「……藤花どの、か」
流石の羅切も驚愕を隠せなかった。影の主、東中道を五那国(いづなのくに)へと旅立ったはずの藤花寧がそこに立っていた。
幽霊でも見るような寒々しい戦慄と、出し抜かれたと気付いて生まれた恥辱が同時に羅切の体内を駆け巡る。それらは人殺しで生まれた煮えた泥のような興奮と混ざり合い、羅切の面持ちを怒るような嗤うような奇妙な形に歪めて凄惨な影を落とした。
行動を起こすのであれば今夜であろうとは予測していた。
だが、それでもなお感情を揺さぶる光景を目の当たりにして、寧は思わず殺していた息を飲み込んでしまった。その拍子に気配が漏れる。殺気立った羅切がその違和を看過するはずもない。真っ直ぐに寧が潜む柱脚へと向かってきた。
思わぬ流れに戸惑うが、それも一瞬、寧とて偶然ここに居合わせたわけではない。
羅切の謀計を逆手に取り、自分が町から消えたと油断を誘った。その油断を利しての素性探索も三日目、寧は羅切と代官所の秘密裏の繋がりに危ういものを覚えつつ、尾行してこの場に居合わせてしまった。
何が起こっても動揺すまいと覚悟を決めていたはずなのに、羅切の本性を暴くと意気込んでいたはずなのに、いざそれをまざまざと見せつけられた時、怒りとも恐怖とも取れない感情の揺らぎが表に出てしまった。
神霊に祈って隠れ続けるようなみっともない真似はすまいと、己の未熟さに歯噛みしつつも寧は自らその姿を常夜灯の明かりに晒した。
心の震えが掌に伝わったものか、小刻みに震える指を拳にして震えを誤魔化す。それでも誤魔化しきれない恐怖が、寧の眼前にいた。
何の躊躇いもなく、僅かとは言え仲間意識を共有した相手を殺害した男。心構えにおいても技においても寧では勝ち目のないこの男と、これから殺し合う……武者震いと思いたい震えが、寧の膝を揺する。
命が惜しいわけではないが、痛みを想像するとやはり身が竦む。せめて楽に死にたいと思いつつ、兄の仇を強く望む心が一矢でも報いたいと闘争心を掻き立てる。抗えばそれだけ痛みは増えるというのに。
いや……と、寧は己に反駁する。死にたいのであればどこかで自裁すれば済む話だった。あの女狐に乗っ取られたとはいえ、藤花の家格と家督は相続されたのだ。寧の本懐は、彼女が仇討行脚に出た時点で達成されていた。
だが、安直な死を良しとせず、多くの他人に迷惑をかけてこの男を追い詰めた。自裁などせず、乳母と一緒にひっそりとどこかで暮らす手もあった。お互い一度も口に出したことはなかったが、心のどこかでそんな安穏とした生き方に気付いていた。乳母もそうだったのだろう、と、不意に寧は思い至る。それでも彼女は泣き言も不平も漏らさず、寧を庇って命を落とすその時まで尽くしてくれた。
彼女に恥じない生き方をしたい。それは自裁では駄目だ。
兄を殺し、己の運命を弄んだあの男を、羅切と名乗った穢物狩りをこの手で誅殺しなければ、彼女の献身に報いられない。
死ぬのであればせめてそれから、そんな風に考えて生き延びたここ一年は、最初の二年間ほど辛くはなかった。意味のない仇討旅に意味が生まれたのだ、生きる張り合いが寧の世界に光を差し、影を濃くした。
しかしその意気も実際に羅切の本性を目の当たりにするまでだった。
自分よりも槍の扱いに長けた兄を一騎打ちで破った男だ、強かろうとわかっているつもりだったが、実際に槍先を向けてみて寧は思い知らされた。仇討どころか、相討ちすら難しいと。
やはり自分の生に意味など無かったと落ち込んでいたところを救ってくれたのは、あの卦体な木偶の棒だ。認めたくはないと思いつつ、寧はその男に何度も助けられた。それでいてなにも要求してこない男に、ついつい甘え心まで出してしまった。寧は彼に、長兄とどこか似たような空気を感じていた。
その彼とも、結局は縁が切れた。
別離は最初からわかっていた。どうせ別れるのであれば、せめてお互いの息災でも願いながら無難に別れたかったが、喧嘩別れのような形になってしまったのは残念だった。
そう、寧の心残りと言えば、あの男――キリに真正面から礼を言えなかったことくらいか……。
「それも詮無い自己満足か……」
真っ直ぐにこちらへ歩み寄ってくる羅切に気圧されつつ、寧は己を励ますように呟く。
それで少し気を持ち直したか、寧の重い足が数段を登り切って石畳の道に入る。そこは灯篭の明かりが届いていて、寧の姿を常夜灯よりもはっきりと闇の中に浮き上がらせた。
黄金色の髪が鋭く常夜灯に照り、初冬の澄んだ星々を写したように輝く。寒さでかじかんだ頬は普段よりも赤く、青い瞳は緊張に震えていた。
キリに貰った真新しい黒槍を立てた身形は、継の当たった裁付袴、筒袖の帷子に毛羽立った袖なし、額には藤花家家紋である上り藤に剣花菱入りの鉢金を巻き締めている。腰裏には折れた家宝の槍の穂先を懐刀の代わりに帯び、懐には故国発状の仇討免状と己の身上を記した由縁状も忍ばせ、覚悟も定まった勇ましい仇討姿だ。
「やはり、貴様があの羅切だったのだな」
寧が凛と宣告し、羅切が足を止める。
石畳の参道で二人は対峙した。羅切は神殿側、寧は階段側だ。間合いはおよそ三間(約五・四メートル)か。二人ともまだ武器を構えていない。寧には言いたいことが、羅切には思惑があるからだ。
「さて、なんのことでしょう」
「しらばっくれるな!」
この期に及んで慇懃無礼な態度を崩さない羅切に、寧が吠えた。
「我が兄を卑怯未練な手で殺め、家伝の財貨を掠め取っていった罪と我らが恥辱、藤花の家名に掛けて貴様を討ち取らねば雪げはせん!」
寧は槍鞘を払い捨てると、黒塗りの柄を扱いて腰を定めた。
対した羅切は勇ましい寧の姿にこれっぽっちも緊張した様子なく、煩い子供を見るような迷惑そうな眼差しで嘆息した。
「それは難儀な話ですが、それがしは只今とても急いでおりましてなぁ」
とても急いでいるとは思えない長閑な声が冷たい闇の中に溶けていく。
「しかしまあ、この所業を見られたからには生かしておくわけにはいきません」
酷薄な言葉を呑気に吐き捨てる様は、異様な迫力を持って寧に迫った。槍を構える手に力がこもる。
「ところが殺す暇も惜しい。そこでどうでしょう、すべてを水に流してそれがしの女になりませんか」
「は?」
寧の眦に新たな怒りの色が刷かれた。なにをどうしたらそんな話になるのか、寧には侮蔑としか思えなかったからだ。
「簡単な話です。あなたがそれがしの女になれば殺さなくて済む、あなたのように見目麗しい女性であればそれがしとしても好ましい、決して粗略には扱いませんよ、ちゃんと手元で可愛がって――」
羅切の能弁もそこまでだった。
もはや聞いていられなくなった寧が、怒りに任せて飛び出したのだ。
怒りに駆られながらも寧は勝負の行方を考えていた。羅切は長大な野太刀に手をかけてすらいない。間合い三間は寧の跳躍で二歩、いくら羅切が格上でも、武器を握らせなければ勝機は十分にある。
そう計算して踏み込んだ。最初の一歩を踏みしめた時、何故かキリの声が遠くから聞こえた。記憶の彼方から、あのぼんやりとした声が響いてきたのだ。
『あれは野太刀じゃない』
寧は嫌な予感に襲われて、最速で伸ばそうと構えていた中段の槍を脇に引き寄せた。
次の瞬間、寧に合わせて踏み込んできた羅切が、どこから取り出したか小太刀を振り下ろしていた。
寧は咄嗟に穂先でその刃を払う。
一拍遅れて下段から迫る刃風を感じて、寧はほとんど無意識に槍を回して石突側でその辺りを払った。ガリッっと柄が刃に削られる音がして、寧は飛び込むように羅切とすれ違いつつ距離を取った。
「驚いたな、今のを凌いだか」
羅切の口調も、雰囲気も変わっていた。どこか人を食ったような慇懃無礼は形を潜め、素直に驚いた表情で寧を振り返る。
驚いているのは寧も同じだった。振り返った羅切の両手には、長大な一本の野太刀ではなく、それぞれ一本ずつの小太刀が握られていた。
キリの言う通りだった。あの話を聞いていなければ、野太刀だと思い込んでいた寧は一合も交えずに斬り殺されていただろう。
「喜べ、お前は兄よりマシだぞ」
その言葉が意味するところに、寧は血流が逆巻くような気色悪さを覚えた。それが怒りだと判断できるようになるまで、暗いはずの視界がチカチカと明滅し、奥歯がガチガチと歯鳴りし、羅切の不敵な姿を捉えていられないほどだった。
この男は寧に好い顔をしながらずっとその裏でせせら笑っていたのだ。そうとも知らずにわずかでも気を許した己にも怒りが湧く。
大きく深呼吸し、失神寸前まで膨れ上がった怒りをどうにか抑え込み、逆に冷静に――いや、それ以上に落ち着いた心は冷徹なまでに羅切の死を望んだ。
悪人とはいえ人は人と、心のどこかで躊躇っていたわずかな人情すら掻き消えた。この男は死なねばならないのだと、寧は理解した。
「やはりさっきの話に乗る気はないか」
「戯言もたいがいにしろ」
思えば最初の戯言も寧を怒らせて判断を鈍くさせるための手練手管だったか。それも寧に覚悟を決めさせたという意味では逆効果だった。
「是非も無し、か」
「七河国は川広元町代官藤花家が長女藤花寧、宿願の仇討、ここに果たすべく推して参る!」
寧が踏み込んだ。羅切が応じる。
寧の槍は腰だめで水平に据えた普通の中段だ。踏み込みと同時に穂先を突き出し、更にそこから柄を扱いて穂先を伸ばす。相手からすれば二段も三段も槍身が伸びたように錯覚される。
だが槍の扱いとしては基本的な中段突きに過ぎない。百戦錬磨の強者にはこの程度読みの内だ。羅切は息を合わせて踏み込むと左手の小太刀で穂先を払い、右手の小太刀を片手突きに伸ばす。
両手に武器を持っているのだからその位の芸当は寧とて想像していた。払われた石突を勢いそのままに回してそれを払い退け、大きく飛び退って間合いを取る。
石突を眉間の高さまで持ち上げ、穂先を相手の足の甲に定める下段の構えで寧は羅切と睨み合った。
一合交わして寧は理解した。やはり、真っ当なやり方では勝てない、と。
そもそも勝ち目など無いのだ。まずあるのは確実な死。そして寧の頑張り次第で羅切の道連れがあるかないか、だ。
だが幸いなことにどちらに転んでも寧の本来の目的は全うされる。
他国との領土争いが激化する中、国としては戦力たる武家を減らしたくはない。武家諸法度に『武門の誉れを損ねしは恥を雪ぐまで御家の存続罷りならぬ事』と記述されていても、実際は仇討に出た時点で御取り潰しの保留、仇を見つけて仇討を挑めば、たとえ返り討ちに遭っても『武門の誉れ』に相応しい死ということで家督相続は許された。寧が懐に収めた仇討状と金助親方に預けた写しがあれば、この一事は必ず故国の御上に届けられるだろう。
寧はこの日、この瞬間、己に課せられた定めに勝ったのだ。御家の為という意味において、寧の死は無駄死にでなくなった。
しかしそれでは小兄の死はどうなる……。
御家の為。それは確かに大事だと、寧は思う。だが、悔しかった。御家の為に羅切を待ち受け、返り討ちにされた次兄の死は、藤花家において蔑まれるばかりの出来事で誰もまともに弔いの心を持たなかった。余計なことを、浅はかなことを、と傍系の誰もが本家を貶めた。
死ぬのは怖くない。だが、むざむざと殺されるのは悔しい。兄の死が無駄死にであることが悲しい。
寧のそんな胸中を慮って、定めを捨てて生きる道もあると乳母は諭してくれた。その乳母も、旅の中で横死した。
寧も道中で何度も悩んだ。一人になって、懊悩は増した。しかし寧にとっては大兄と小兄がいた思い出も、家族の記憶も御家の一部なのだ。捨てられなかった。これ以上、仇討に何かを奪われるのは悔しかった。
そして、辿り着いてしまった。死を迎えるこの瞬間に。
ここで一矢も報えず殺されては兄の死を、乳母の厚意を無下にすることになる。ここからは寧の私怨の戦いだった。
寧の技量で羅切に致命傷を負わせるには、文字通り肉を切らせて骨を断つしか方法は無いと、先程の一合で思い知らされた。次の一手、そこに全身全霊をかける。槍を握る寧の拳に力が入った。
一方の羅切も次合で雌雄を決するつもりだった。しかし羅切は寧とは対照的だ。自分よりも寧の技量が劣ることは、刃を交えてわかっていた。最初の不意打ちを防いだのもただの幸運だったのだろうと思った。であれば、羅切は寧の決死の攻めを防ぎきることに注力すればいい。
全力の攻撃は相応の隙を生む。何も相手の全力を真正面から受ける必要などない。うまく全力を引き出してそれをやり過ごせば、寧は大きな隙を晒す。それは自ら斬られに来るようなものだ。
普段であればそこに当て身でも加えて縛り上げ、ゆっくり楽しんでから岡場所にでも放り込むところだが、今の羅切にそんな余裕はなかった。
さっさと殺す。淡々と心に決めて、羅切は右手を正眼、左手を肩に担ぐように構えた。右手で相手の攻めに如何様にも応じ、左手で仕留める構えだ。
時間にすれば一瞬の間に、二人の覚悟と算段は決まった。
互いにそれを察したかの如く、勝負の機運が自ずと高まっていく。
羅切の突き出すように構えた片手正眼の切っ先がスイッと下がり、またフッと上がる。手招きのように上下する切っ先が、徐々にその間隔を狭くしていく。
先に動いたのは羅切だった。
翡翠の瞳が切っ先につられて動いたのを見るや、羅切は身を低くして踏み込んだ。正眼の帽子を寧の顔面へと真っ直ぐに伸ばす。
寧からしてみれば、切っ先は動いていないように見えた。視線がそこにあったのだからなおさらだ。羅切の身体が迫っていると感じた時には、間合いは死線を越えていた。
槍と刀が相対する時、槍の方が圧倒的に有利だ。理由は単純、槍の方が遠い間合いから攻撃できるからだ。
故に刀が槍を攻略するには、まず懐に潜り込まなければならない。槍は懐に入られると、棍棒と大差ない。しかも片方に鉄の刃という錘のついた均衡のとれない棍棒だ。致命傷を与えられない上に取り回しが悪く圧倒的に不利となる。
逆を言えば、槍は懐にさえ入らせなければ、一方的に攻撃できる。が、その有利はその瞬間、既に消えていた。
ただでさえ上手な相手に初手から主導権を握られた。いや、上手だからこその芸当か。いずれにしろ槍使いとしての寧は既に詰んだ。
しかし寧とてむざむざと懐に潜り込まれた訳ではない。むしろ懐に誘い込んだのだ。
槍使いとしては悪手でも、円心藤花流槍術にとっては布石となる。
寧は羅切の踏み込みに慌てて合わせた態で槍を突き出し、内懐に潜り込んだ羅切は勝ちを確信したほくそ笑みで突きを伸ばした。
その側頭部をやり過ごしたはずの穂先が襲う。
羅切はほとんど無意識で左肩に担ぐように構えていた小太刀を立てて防いだ。
その動きで突きの切っ先がぶれ、金の髪を数条切り通して寧の首筋を外していた。
羅切は手首の返しで突きから撫で斬りに切り替えようとしたが、その前に石突が肉薄した二人の間を割るように昇り上がって刃を弾き飛ばす。
一度距離を取ろうとした羅切だが、今度は逆に寧が踏み込み間合いを詰める。
同時に右から、そして時間差で左から、それぞれ太刀打と石突が息も吐かせず襲い掛かった。
固い真っ直ぐな柄での打撃のはずが、その速さと正確さによってまるで無数の鞭か何かで叩きつけられているかのような熾烈な連撃だ。
羅切からすれば不可解なことに槍の間合いの内に潜り込んだはずが、逆に接戦が得意なはずの小太刀が間合いの内側で防戦を強いられる羽目に陥っていた。
羅切の反撃を封じたところで、寧は自分でも信じられない状況に驚きと確信を得ていた。すなわち、羅切を殺せる、という確信を。
寧は女性であることを差し引いても筋肉量にそれほど優れているわけではない。同年代の女性と比べればずっと力持ちだが、武家の世界で見ると寧よりも大力の女性は大勢いた。
男性と比べればそれは顕著で、ただ身体が大きいだけの田舎臭い力自慢にすら力比べでは後れを取るくらいだ。
それは、兄との稽古で何度も指摘されてきた問題だ。その問題に、兄たちと寧は型破りな答えを出していた。その一つが、槍を槍として扱わない型の創始だ。
文字通り型破りなその試みは、元々、円心藤花流の中にあった変わり中段を基にして試行錯誤された。兄たちを失ってからは、ただ一人、この男打倒のためだけに寧独力で研鑽を重ねてきたその業が、今、悲願を成就させようとしている。
闘争心を圧するような感慨が込み上げてくるが、寧はそれを無理やり押さえ込んで羅切の動きへ集中を戻した。己でも自覚はあるのだ、ここぞという時に浮かれて詰めが甘くなる癖を。
傍から見れば、二人はお互いの息遣いまで聞こえる至近で目にも止まらぬ速さの攻防を続けていた。
少しでも距離を開けて小太刀をもっと自由に振るえる間合いを確保しようと退がる羅切。
羅切の計算違いに付け込んで一気に攻め抜こうと食い下がる寧。
じりじりと石畳の上を動く二つの影が常夜灯に揺らぎ、二つの遺骸の間を通り抜け、拝殿前まで迫った。
それまで辛うじて間に合っていた羅切の防御が、不意に遅れ始めた。退がる最中に石畳に足を取られたか、僅かに重心を外してしまったせいで一瞬の遅滞が生じたのだ。
寧はそれを見逃さなかった。
手が遅れがちになった左手の小太刀へ、丁寧にして苛烈な攻めを繰り返す。
羅切の顔が苦悶に歪むのを、寧は少し不思議に感じつつも満ち足りた心持ちで見ていた。
そして、その時が訪れた。
寧の攻めに対応しきれず、羅切が寧の攻めを右手で連続して受けた。その瞬間、羅切の右手側に大きな隙が生まれた。
無理矢理、反対側の防御に回した右手は寧の攻めに崩され、左手は捩じった身体の分、戻るのが遅れる。最大の攻め時がそこに生まれていた。
武者がそれを見逃すはずもない。
この瞬間のために溜めた渾身の力を込めて必殺の突きを見舞った。
灯の光に煌く穂先は、完全に羅切の脾臓を捉えていた。数瞬後には穂先が羅切の身体を貫き、悶え苦しみながら憎き仇はその生を終え、寧の使命も果たされる。
そうはならなかった。
完全に平衡を失っていたはずの羅切の身体が、不意に消えた。
いや、穂先に集中していた寧の意識から消えただけで、羅切自身はわずかに身を捩る程度しか動いていない。
だがそれすら難しい状況に、寧は羅切を追い込んだはずだった。
「多少は気が晴れたかい」
渾身の力を載せた一撃を外され、今度は寧自身が前のめりに均衡を崩していた。その耳元で余裕綽々な声が聞こえた瞬間、寧は意識を無理やり引き剥がされるような衝撃を覚えて後方へ転がっていた。
顎を打たれて吹っ飛んだと気付いたのは、石畳に仰向けに転がって一瞬失った意識を取り戻してからだった。重心が前に落ちていた最悪の瞬間に掌底を貰い、軽い脳震盪を起こしていた。
いうことを聞かない身体に無理をさせ、顎を引いて足元を見る。寧の意識化ではまるで羅切がそこに瞬間移動してきたかのように立って、下卑た笑みを浮かべて寧を見下ろしていた。
意識を失っていた時間はほんの一瞬のようだが、まだ身体が平衡を取り戻していなかった。水上の如くに地面が揺れている。
「そのまま気を失っていれば楽に死ねたろうに」
寧の胸元に小太刀の切っ先が置かれた。横たわる寧を突き殺すつもりなのだろう。
何が起こったのか、極度の集中が解けた寧の思考は、広く直前の攻防を思い描いて理解していた。追い詰めているように見せかけて、羅切は寧に大きな隙を作るよう仕向けていたのだ。羅切の隙は、作られた見せかけの隙だった。
「勿体無いが、急いでいるんでね。兄貴たちによろしく言ってくれや」
地面の揺れは収まりつつある。身体もいうことを聞くようになってきた。意識を失いながら吹き飛ばされつつも槍だけは手放さなかった自分を褒めてやりたい。
だが、遅い。すべてが遅い。意識を取り戻すのも、身体が動くようになるのも、自分が追い込まれていたと気付くのも、反撃に槍を繰り出したとしても、遅い。
羅切は軽く刃を突き出すだけで寧の心の臓を貫き通せる。その衝撃に、痛みに、抗いながら手にした槍で羅切を貫けるか。自信はないが、他に出来ることもない。
少しだけ、羅切を圧倒している気になっていたあの瞬間だけ、少しだけ希望を持っていた。仇討ちを果たし、成果をもって祖国へ戻れば多少は状況がよくなるのではないかと、少しだけ、期待した。
だがやはり、死は免れない。次の瞬間にも、羅切はあっさりと刃を繰り出すだろう。それで終わりだ。
羅切が何を急いでいるのか、寧にはとんと見当もつかなかったが、罪もない助太刀二人を虫けらの如くに殺害した彼が、この状況で寧に情けをかける理由はない。
次の瞬間か、いや次か……永遠とも思える緊迫した死の恐怖の中で、狂乱したような思考に寧の意識は呑まれかけていた。
死の決別を投げかけてから、羅切にとってはわずかな時も経っていない。躊躇う理由もない。無造作に突き出した刃が、寧の鳩尾目掛けて――動かない。
「そうだヨ、勿体無いヨ」
どこか剽軽で間の抜けた声が、闇の中から唐突に湧いて出た。しかもそれは二人の至近、羅切の背後からだ。
羅切は反射的に動かなかった右手の小太刀を離し、向かって前方、背後の声から離れるように跳んだ。寧を軽々と飛び越え、二間(約三・六メートル)ほども間を取って振り返る。
「おもしろいヨ、おもしろいことしてるネ」
声の主を認めて、寧と羅切は絶句した。
そこにはおぞましい異形の姿があった。
一言でいえば猿、のような姿だ。似ているものが猿というだけで、猿とは呼べない醜悪な姿だが。
枯れ木のような痩身は、猫背を差し引いても目測で七尺(二・一メートル)を優に超えているだろう。
腕が異様に長く、逆に脚が極端に短い。腕は掌が地面に付きそうなほどで、脚はそんな腕の半分程度しかない。腕も脚も細い分、いやに大きな掌と足が目立つ。
頭部は小顔に不釣り合いなほど頭蓋が肥大化しており、虫の腹を思わせる平たく伸びた大きな頭頂部は、歪んだ知性を窺わせる。
全身を針のような銀色の剛毛に覆われているのはそこいらの猿の穢物と変わらないが、異なことにこの穢物はどこから調達したのか、人が身に着ける胴丸鎧を着込んでいた。己がただの穢物ではないと誇示するかのように。
要するに猿の穢物なのだろうが、通常の猿の穢物が猿の姿を留めているのに対し、こちらは猿の姿を捏ね繰り回して別の生き物に作り替えたような歪な姿だった。言葉を発したから、と人の姿を勝手に想像していただけに、二人が受けた衝撃は大きかった。
「手遅れか……」
羅切の呟きに、寧も我に返る。
二人が衝撃に呑まれてその異形を観察している間、異形の方も二人を観察していた様子で、突き出るように盛り上がった鼻から顎にかけてニタニタと嫌らしい笑みを浮かべていた。
「なん、だ、お前は……あの時――」
その姿の異様さに気を取られて埋もれていたが、異形は滑稽なことに面を付けていた。ひびだらけでところどころ欠損し、鼻から上しか隠せていない鬼の顔を模した面だ。
それを見た瞬間、寧の記憶に瞬くものがあった。
昔に見た夢が何かの拍子に泡の如く浮かび上がってくるあの感触に似ていたが、今、目の前にその面を見せつけられて、あれは現実だったのだと確信する。確信すると不思議なことに、曖昧だった前後の記憶もしっかりと結びついて蘇った。
地下水脈の造った鍾乳洞に落ちた時、朦朧とした意識の中で見たあの鬼だ。左の角が欠けた鬼の面。キリが言っていた鬼の容姿に似通っていると思いつつも、彼には告げなかったその姿。なにせ夢だと思い込んでいたのだ、わざわざ告げる必要もないと考えていた。が、その姿が現実となって目の前にある今、寧はそのことを後悔した。告げていれば、もしかしたら、と。
「うんうん、いい顔だヨ、おいらの好みだヨ」
異形は脅すような鬼面で寧の顔を矯めつ眇めつ見つつ、満足そうに呻いている。
寧はようやく恐怖を感じた。ゾッと駆け上がってくる怖気に従い、もつれる足をがむしゃらに動かして羅切がいる辺りまで異形から離れる。
「あれは、なんだ……」
なんとか上半身を起こした寧が、立ち尽くす羅切に問う。
「鬼型だ」
端的な答えに寧は羅切を見上げた。羅切は、先程までとは打って変わって余裕のない面持ちで異形を睨みつけている。
「鬼型じゃない。コウシンだヨ」
それが名前なのか、猿の穢物たちの頭目とされる鬼型――コウシンが異議を唱えた。
寧に止めを差そうとした時、羅切の刀が動かなかったのもこの異形の仕業だった。長く節くれだった人差し指と親指で摘まんでいた羅切の小太刀を、異形が言いながら投げ捨てる。指二本で羅切の腕の動きを封じたのなら、それだけでもその怪力が窺い知れる。
「何故こんなものがここにいるっ」
寧はそれを無視するように羅切へ食って掛かるが、羅切もまた寧を無視した。
寧が狼狽えるように、羅切もそれどころではなかった。
鬼型など所詮は穢物、そんな考えはどこかに吹き飛んでいた。目の前にして、これが穢物とは全く別次元の生き物なのだと思い知らされる。いや、生き物かどうかも怪しい化け物。無用な敵愾心は捨て去るべきだと、羅切の経験が警鐘を鳴らした。
「コウシン殿、お早いお付きで……」
「ン、おまエ、なんだイ?」
「それがしは代官所より此度の折衝を任され申した羅切にございます」
「ん? あア、そうカ、そうだったネ、うン」
「早速ですが、代官所の意向を――」
「必要ないヨ」
「……は?」
それは寧が聞いてきた羅切の声の中で、最も小気味よく聞こえる間抜けの声だった。
「だっテ、みんな殺すもン」
「いや、でしたら何のための交渉か……!」
「交渉なんテ、最初の時点で決裂してるでショ。おまえたちはこうしておいらたちを殺す人間を集めタ」
「それは交渉の一手段として!」
「おいらたちの要求はひとツ。この町を明け渡セ。それだけの事ガ、どうしてこんな面倒なことになっているんだイ」
「そ、そんなもの、横暴すぎる!」
「知ったこっちゃなイ。町まるごと人間を殺すのも面倒臭いからどっか行けって言ってやったのに、行かないなら殺すしかないじゃないカ」
「それならば何故この交渉の場が――」
「油断させるためだヨ」
「ゆ……だん?」
「うン、交渉するって余地を見せれバ、お前たちは少なからず今この時までは大丈夫だと油断すル。それデ、おいらたちハ、町の人間を皆殺しにすル。」
「まさか……穢物が策を弄するだと……」
「っていうカ、もう始まってるんだけどネ」
「どういう意味――」
「おい、羅切……町を見ろ!」
寧の叫びに羅切が思わず振り返る。気を持ち直して立ち上がった寧が鳥居の向こう、階段のような田日良の町並みを指さしていた。
町が、燃えている。
見下ろす屋根の上、立ち昇る炎を背景に跳梁する影が遠目に見えた。燃え盛る炎をものともせずに屋根の上を飛び回れるのは、猿の穢物くらいだろう。信じ難い光景が、コウシンと名乗った鬼型の言を裏付けていた。
「あー……コウシンどの」
踊る焔の光に魅了されたかのごとく見入っていた羅切が、ぎこちない動きでコウシンの方を振り返る。
「なんだイ」
コウシンの露出した口元が、満足気に歪んでいた。
羅切の目尻が媚びるように下がる。
「そこな娘を好きにして構いませぬので、それがしはこの場からお暇したく存じ上げまする」
言いながら中腰で鳥居の方へと後退する。
「貴様っ!」
羅切の言葉の意味があまりにも間抜けで、すぐに呑み込めなかった寧が間を置いて色めき立つ。
「羅切などと名乗りながら町の人間を見殺しにするのか! いやその前にわたしを売るだとっ? どこまでも見下げ果てた奴め!」
「知ったことか、これが利口な生き方というものだ!」
洒脱振った姿をかなぐり捨て、羅切が寧に叫び返して踵を返す。
その眼前にいつの間に移動したのか、コウシンの姿があった。
「うおっ!」
「悪いけどサ、皆殺しだかラ。ア、でもそこの娘は持って帰ろうかナ」
参道の入り口を塞いだコウシンから羅切が飛び離れる。ちょうど寧の手前まで戻ったところで、羅切はちらりと背後の寧を一瞥し、
「そういう訳だ、あいつの手籠めにされたくなければ俺と手を組め」
「……呆れてものも言えん」
話が通じない相手とわかると、今さっき売ろうとした他人に助力を請う。その変わり身の早さに、寧がうんざりと呻くのも無理からぬことだろう。
この男と手を組むなぞ死んでも御免だが、寧には一つだけ確認しておくことがあった。
「コウシンといったか」
「コウシンだヨ」
「わたしを連れ帰ってどうするつもりだ」
「お嫁さんにするのサ」
馬鹿馬鹿しい返答に、寧は軽い頭痛を覚えた。
「御免被りたいな……わたしはこの男を殺せれば命はいらない。この男を殺させて、わたしを殺す気はないか」
こんな得体の知れない化け物に好き勝手されるのは、死んでも御免な事態だ。仇討に際して決死の覚悟を決めた寧にとって、命は今さら惜しむものではなかった。
「いやだヨ。君みたいに頑丈そうで美人な女子は滅多にいないんだかラ、勿体無いヨ」
「褒められてるんだろうが全く嬉しくないな」
「ところで君っテ、美人なんだよネ?」
「わたしに聞くな」
言い返しながら、寧は槍を中段に構えた。それを合意と見た羅切も、残った一本の小太刀を右手に構える。
死ぬのは怖くなくとも、こんな得体の知れない異形と懇ろになるくらいなら仇と手を組んでこの場を切り抜けてから仇討を仕切り直す。寧はそう考えて、羅切の意を飲んだ。
「ヒトの美人ってよくわかんないからサ」
「とにかく、あれを動けなくしてこの場を脱する」
「簡単に言ってくれる」
手を組もうと言い出した手前か、羅切が先に飛び出した。僅かな間を置いて、寧も続く。
羅切はやや右方に回り込みつつ、寧は反対に左方から挟み込むようにコウシンへ肉薄した。
鬼型とは長く生きた穢物が生物の限界を超えて穢を取り込んだ結果生じた化け物だ。その存在は穢物以上に不明な点が多く、ほとんど何もわかっていないと言っても過言ではない。
確かに、二人はこの化け物に圧倒される何かを感じた。それは穢物とは一線を画する気配だ。人の言葉を解し、操り、思考する知性がそんな気配を生んでいるのかもしれない。
しかし肉がある以上、傷をつけることは可能なはずだった。傷つけば、肉で出来ている以上、動けなくなる時が来る。いつかは逃げる隙が作れるはず。
よくわからないもの、危険なものからは逃げる。それが桃橘榊外の世を生きる浪人の鉄則であり、二人はその暗黙の理に沿って行動した。
鬼型も穢物であれば、直接触れるような戦闘は危険だ。穢を移されれば、客子でない二人は命の危機に瀕する。故に小太刀一本しか持たない羅切の攻めは寧を動きやすくするための見せ太刀に終始した。
羅切が切り込むと見せかけてコウシンの気を引く。コウシンが羅切に対応しようと手を伸ばしたその背後から、回り込んだ寧が槍を突き掛ける。コウシンはそれを振り返りもせずに回避した上、槍の千段巻きを掴み上げた。
武器を取られまいと抵抗するか、引き寄せられる前に手放すか、ほんのわずかに寧が躊躇っている間にコウシンは自ら槍を手放して、首を狙った羅切の刃から逃れるように社の方へと跳躍する。鳥居ほどの高さまで軽々と伸び上がり、石畳の上に羽のように着地した。たった一跳びで五間(約九メートル)ほども間合いを開けられ、二人と一体はそれぞれ社と階段を背負う形で睨み合いの対峙に戻った。
寧も羅切も、コウシンの嫌らしい笑みを苦しい心持ちで見ていた。二人ともある程度の武人であるからして、コウシンの驚異的な身体能力に加え、穢を避けるため迂闊に近寄れないという不利も背負ったこの状況で、僅かでもいいから動けない状況を作って逃げ切るという目算が、どれだけ無謀なのか思い知った。
なにせ相手は、二人を脅威とみなしていない――ただ、弄んで楽しんでいるに過ぎない。それほどの力の差が、人間と鬼型の間にはあった。
行動不能まで追い込まずとも逃げ切る手段がないでもないが、寧はその選択肢を選べずにいた。仇とはいえ共闘者を囮に自分だけ逃げるなぞ、武士としての誇りが選ばせなかった。
だが、羅切はどうだろうか。他者を裏切ることを生業としているような男だ、このまま信頼を置いて戦えば出し抜かれるかもしれない。
だとしても、寧はそんな真似をしたくなかった。この男と同じところまで堕するのは、これまでの己の苦労を――兄の死も、乳母の死も、己の恥辱も覚悟も、生き抜いてきた証の全てを踏みにじるも同然なのだから。
「埒が明かぬな」
羅切が忌々し気に吐き捨て、寧を振り返った。
「俺が押さえつけた隙に参道を駆け抜けろ、俺は脇の山道を行く。二手に分かれて奴を惑わす」
「……信じていいのか」
羅切にか、己にか、寧の問いに羅切は少し困ったように微笑んで、何も答えなかった。
なんと答えられようが、ここは力を合わせて切り抜けるしかないと腹を決めている合間に、羅切が動いた。
一間、二間と間合いが詰まる。寧が動くのは羅切が奴を抑え込んだその瞬間だ。
もう一間。
もう一歩。
その瞬間を逃すまいと寧が身構える。
コウシンの浮かべる笑みが濃くなった。次はどうやって楽しませてくれるのかと、期待と嘲弄を混ぜた笑み。
自然体に立つコウシンに肉薄する寸前、羅切の身体が沈み込んだ。相手の跳躍を封じるために先に飛んだ形か。
空中で反撃されれば避けるのは難しいが、今のところコウシンがこのお遊戯を終わらせるつもりはない以上、反撃の可能性は低い。後方は既に階段なので後退も難しいだろう。であればコウシンはその場での回避を余儀なくされる。
二人にとっては、一手の防御がコウシンから引き出せる最大限の間だった。
その少ない好機を逃すわけにはいかない。
寧が羅刹に呼応して走りだそうと一歩を踏み込んだ。
身を沈めた羅切が跳躍した。前方に。
佇むコウシンの脇を矢のようにすり抜け、羅切はそのまま参道の階段を転ぶように駆け下りていった。バタバタと騒がしい足音が遠のき、間の抜けた静寂が訪れるまで、コウシンと寧はポカンと立ち尽くしていた。
「逃げ……た……?」
「逃げたネ」
まさかこうまであっさりと予想通りに裏切られるとは……流石の寧も、怒りすら湧いてこなかった。
コウシンがゆっくりとした動作で、羅切が逃げた階段の方、町を見下ろす際まで動いた。
「興醒めだネ」
心底つまらなさそうにコウシンは呟くと、キィッっとひと鳴き夜気を裂く猿叫を上げた。
矢庭、社を包む暗がりから十体ほどの猿の穢物がノソノソと姿を現し、寧を取り囲んだ。
「あんたはそこで待っててネ、おいらはあいつを殺してくるかラ」
「なにを――」
寧の言葉も待たず、コウシンはひょいっと階段を飛び降りて姿を消した。
これは寧の予想に反する状況となった。
羅切が逃げ出した場合、邪魔者がいなくなったとすぐさまコウシンの塒に連れ去られるかと寧は考えていた。
だが、コウシンは己の楽しみに水を差した無粋な羅切に怒りを感じている様子だった。
まるで人間のようではないか。
しかし、穢物が人間のようであるということは、ただの化け物である以上に得体の知れない危機感を寧に植え付けた。
あれは決して人と交わらぬ、完全な敵。伝承の鬼と遜色のない、どうしようもない天災なのだと直観させられた。
そんな災いから抜け出す最大の好機が、今この瞬間なのではないか。寧は自分の周りでじっとしている十体の猿の穢物を見回した。
穢物は本来、人間への敵愾心を剥き出しにして即座に襲い掛かる生き物だ。それがコウシンの指示一つでこうも従順に本能を抑え込んでいる。これもまた鬼型の強大な力を示す一事か。だが幸いにも今、寧を取り囲んでいるのは鬼型ではなくただの猿の穢物だ。
試しに、寧は槍をやや長めに構えると、拝殿の方にいた一体へと無造作に突き掛かった。
流石に監視を命じられた穢物も木偶人形でいるつもりはないのか、キィッと小さく鳴いて飛び退り、その穂先を躱す。すると退いた一匹の穴を埋めるようにその左右にいた二体が激しい威嚇の声を上げつつ寧の正面に回り込んできた。しかし襲い掛かってくる気配はない。同調して他の穢物たちも威嚇を始めたせいで喧しくなったが。
「成程、難儀だな」
あくまでこの穢物たちは寧をここに繋ぎ止めておくのが目的らしい。傷付ける許可は与えられていないのだ。少なくとも、軽く突き掛かる程度では。本気で挑めばどうなるかは未知数だが、先手を取れるのは間違いない。
「それならばこの程度の数、どうとでもなろうな」
鬼型を目の当たりにした心の毛羽立ちは、今だ以て鎮まってはいない。恐怖心とも呼べない本能的な惧れが、寧の身体の芯に巻き付いているような感覚だ。それを振り払うかのように、寧は槍を大きく振って弾みをつけ、
「押し通るっ」
そう宣言すると、寧は意表を突いて身を翻し、背後の一体へと襲い掛かった。
※ ※ ※
明かりもない夜闇を切り裂くように、神社へと続く石段を駆け上がる影があった。着流しの尻を絡げ、下穿きの半股引を晒した姿のキリだ。
もし、ここで彼とすれ違うものがあれば、間違いなく町を騒がせる猿の穢物と見間違えたであろう勢いで、飛ぶように石段を昇っていく。その足が、何の前触れもなく止まった。あれだけの速度から無理のない、ふわりとした停止ができるのも、全身の筋肉が均等に発達している証だ。
キリは石段に屈み込むと、じっとして周囲の匂いを嗅ぎ取った。
神社まで続く石段の参道の中程五段分程度の広さに、強烈な穢の気配を感じた。キリはそれを穢の匂いと呼び、嗅ぎ取るように集中することで感得できた。それにまだ新しい血の匂いも漂っている。ここで命をやり取りする出来事が起こったのは間違いない。
キリは立ち上がると少し考える素振りを見せ、それから再び駆け出した。
穢と血の匂い以外にも、うっすらと煙草の香りが残っていた。それはこの町で二度ほど嗅いだことのある独特な匂い。一度目は到着した夜の丁名主の門前で、二度目は訪れてきた寧の着物に付着していた。あの男、羅切を名乗る穢物狩りの愛飲する煙草の香りだ。
どうして石段の途中にこの香りが特に残っていたのか、あの中年役人が言っていた不安が的中したということか。であれば、社から降りてきた鬼型が社に戻る可能性は薄い。
それでもキリが社を目指したのは、残留した穢の流れが社に戻っていたからだ。
不可解だった。
とはいえ、この町を取り巻く状況も、鬼型の狙いも、穢物たちの動きも不可解だらけなのだ。今更、不可解が一つ増えたところで考えても仕方がない、今は動くべきだとキリは考えを固めていた。
疾風のように石段を駆け上がっても、キリは息一つ崩さない。石段を登り切った鳥居の下で足を止めたのは、神域に広がる惨憺たる光景ゆえだ。
手前には折り重なるように五体の猿の穢物が、奥には二人の武士が倒れている。
キリはまず奥の武士二人に駆け寄った。確認するまでもなく息絶えた二人の武士は、パッと見た風では互いに死合った結果のようにも見えたが、つぶさに見ればその成り行きには違和感がある。第三者が関わっていると考えた方が妥当だが、キリはそこでこの二人について考えるのを止めた。
今、キリにとっての大事は鬼型の行方だ。片手拝みに冥福を祈ると、踵を返して五体の穢物の死骸へ移動した。
鬼型がここに居たことはほぼ確実だ。そこに転がる穢物たちとは一線を画す穢の匂いがあたりに立ち込めている。
キリは歩きながら前身頃の上から持ち物を確認する。
穢士の道具には高価なものも多いため、キリは着流しにしている小袖にあれこれと収納を付けて常に身に着けていた。流石に手裏剣の類は重くてうるさいので常に携帯はしていないが、薬種の類はそれなりに持っている。寧を低温から救えたのもそのおかげだ。
ざっと思い返して、奥歯を噛みしめる。鬼型を独りで相手取るには不足もいいところだ。話に聞く分ではそれほど大型の鬼型ではなさそうだが、せめて足止めの為に桃の矢か榊の縄くらいは欲しかった。どちらも長屋に置き去りだ。まさか、前夜にして鬼型と接触することになるとは思ってもみなかった。後は相手の首が小太刀の一太刀で落とせる程度の太さであることを祈るしかない。鬼型は一太刀で首を落とすか完膚なきまでに粉砕するしか屠殺できない。首回りが人の胴ほどもあったら絶望的だ。
望みは薄い。だというのに、キリの心に恐怖はなかった。かといって闘志が燃えているわけでもない。ただ淡々と、鬼型を屠殺できる可能性が低いとだけ考え、それで終わりだ。死ぬならその時はその時だ。悔いは残るが――キリの思考がそこで止まった。散乱する穢物の死骸に止められた。
死骸を眺める双眸が、大きく見開かれていた。
「何故、ここに……」
思わず呟くが、無論、返す者はいない。
無造作に横たわる穢物たちの死骸に、キリは見慣れたものを見つけていた。あの娘が――藤花寧が操る槍によってつけられた傷だ。
独特な構えから繰り出される槍の斬撃は、やはり独特な傷を残す。ある程度の腕前の者であれば一度見ただけで覚えられるほどのだ。
ここにその傷があるということは、十中八九、あの娘がこの穢物たちを屠殺したということだ。
ゴロリと腹の底で何かが動いた。それが何なのか、見定めようとする前にどこかへ動いて正体を隠してしまう。得体のしれない違和感が、キリの心を掻き乱す。
「情けないぞ……今更女に執心するのか」
口に出して克己を図るも、そもそも愛だ恋だは見当違いだと自覚しているだけに自嘲しか生まれなかった。
キリは、藤花寧に己の影を見ていた。二人がそれぞれ求める仇――片角の鬼も、羅切も、対極にあるがよく似ている。鬼は夢想の産物と実在すら笑われ、羅切は伝説故に名乗る者が多すぎて探そうにも埒がない。二人ともに、途方もなく馬鹿げたものを探して彷徨っている。
(いや、違うな……)
寧はどうだか知らないが少なくとも自分は違う、とキリは翻す。
少なくとも自分はとうに諦めていた。片角の鬼なぞいるはずもない。極限状態で恐怖心が見せた幻想だったと、既に気持ちは落着していた。それでも片角の鬼を口実に彷徨っていたのは、死に場所を求めてのことだ。
鬼型と聞けば一も二もなく首を突っ込んできたのも、そこに危険があるからだ。大切な人の仇討と夢幻を追い求めることに疲れ果て、仕方なく命運尽きたと己に言い訳するためだ。
しかし桃花を失ったあの日から、キリは鬼型と見えた例がない。そもそも鬼型の発生がここ数年で顕著に減っている上に、鬼型は最優先で穢士に屠殺されてしまうから、一介の穢物狩りが首を挟む余地など無いのだ。
つい先程、鬼型がこの町を欲していると聞いて、信じられないと思いつつも事実関係からの信ぴょう性の高さに胸が高鳴るのを覚えた。いよいよ、この悲惨な仇討に終止符を打てる――己の命の終着という形で――そう期待した矢先に、寧の影を見た。
どうしてそう感じるのかキリ自身にも不明瞭だが、キリは藤花寧と桃花を重ねて見ている。桃花に似たあの娘に、己の踏んだ轍をなぞって欲しくない。だから、彼女の存在に心を乱される。
彼女には、こんな悲惨な終わり方をして欲しくないのだ。彼女には、せめて真っ当な死に方をして欲しいのだ。
それがキリの独り善がりであったとしても、少なくとも己が目で彼女の死を看取るようなことだけはしたくない。
己を終わらせる前に寧を救う。その思いを胸に、境内から南西、疎林の中に続く穢の痕跡を辿って走り出した。
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