11.
思わぬ転寝に見た悪夢と初冬の寒さに冷えた身体と心を温めるべく、一杯引っ掛けに繰り出したキリだったが……それから数時間後、どこをどうしてそうなったか、気が付けば酔った女穢物斬りに肩を貸して深夜の広小路を上っていた。
「旗本こーけのぉ、庶子がぁ、なんだぁっ!」
だらしなく着崩れた着流し姿の女穢物斬り――片倉凛子が傍若無人に叫んでも、その声は石切神楽の石遣り歌に飲まれて賑わいの一つと紛れた。
傍から見れば情の深い仲にも見える年頃の男女だが、彼女とキリは別段深い親交があるわけではない。かといって初対面というわけでもない。
キリがよく使う煮売酒屋で何度か呑んだ――正しくは一人しっぽりと飲むキリに凛子が酒をたかることがままある。その程度の仲だ。顔見知りと呼ぶのがしっくりくるだろう。
そんな飲み仲間はキリにも凛子にもいくらでもいた。ほとんどが懐が寒くて酒をたかるような口だが、一人では飲めないような時もある。たかる方もそれを見越して擦り寄るのだ。
今晩は一人でしんみりと思い出に耽ろうと考えていたキリだが、先に店で呑んでいた彼女に見つかったのが運の尽きだった。
彼女は虫の居所が悪かった。
なんでも、気に掛けていた男に袖にされたとかで懐も顧みずに自棄酒をかっくらっていたらしく、キリに絡んできた時にはすでに目が据わるほど聞し召していた。
相手の男は武者修行中の某国の旗本高家の次男坊らしく、家に戻れば分家の道も大いに期待できる功労者らしい。凛子も三十路を目前に身の落ち着きどころを期待した矢先のつまずきだったらしく、その落胆ぶりは半端ではなかった。
落胆は焦りに変わり、焦りが苛立ちへと変わり、苛立ちは誰に向くとでもない怒りへと変わった。誰に向けられたものでもないのなら、誰に向いてもおかしくない。
つまり、キリは凛子の八つ当たりの相手に選ばれたのだ。キリとしてはありがたくない話だったが、酒に紛らわそうとしていた感傷はどこかへ吹き飛んだ。一応、目的は果たせた形か。酔っぱらいを送り届けるという余計な面倒を抱え込みはしたが。
「俺に寄り掛かるな。自分で歩け。重いぞ」
「良いじゃないか、あんたもホントは嬉しいんだろう」
凛子はキリと並んでも遜色ない長身に無駄のない四肢をすらりと伸ばしつつ、女らしい部分は余すところなく女らしい男好きのする身体付きだ。しかも輿入れ願望を抜きにしても本人が男好きときている。今も、わざとか偶然か、開いた胸元から豊満な谷間をキリに見せつけるように品を作っている。
武家の出ゆえに彫りの深い顔立ちは見場よく、意外と気働きも出来るしっかり者なのだが、男好きの性向が仇となってか娶ろうとする男はなかなか見つからなかった。
「……」
キリはそんな凛子を腕に纏わりつかせながら彼女の当て推量を吟味していたが、
「いや?」
「そう熟考した上で否定されると立つ瀬がないじゃないか。この間はあんなによくしてくれたのにさ」
耳元で婀娜っぽく囁かれても、キリには虫の羽音ほどに何かを感じた様子もない。
以前にも、キリはこうして酔いつぶれた彼女を彼女の仮住まいの長屋まで送っていったことがある。そしてそのまま彼女に引き留められて同じ褥で夜を明かした。送り狼ならぬ送られ狼だったわけだ。
だがそれとてキリが望んでそうなったわけではない。断る理由がなかったから付き合ったに過ぎない。
「やるなら真面目にやるだけだ」
「真面目ときた。まるでしてもしなくてもいいような言い草だね」
「そうだからな」
淡々としたキリの口調には衒いも照れも見出せない。あっけらかんとした言い様にしばし唖然としていた凛子だが、やがて面白そうににんまりと笑んで、
「抱かれ甲斐のない男だよ」
と、裏腹に吐き捨てる。凛子にとって、キリのそういう恬淡としたところが好ましかった。
しかし、好みと将来性は別物だ。穢物狩りの浪人なぞ、苦労しかない。一緒にいて楽くとも、生活苦に喘ぐようではいずれ一緒にいる事が辛くなる。金の切れ目が縁に切れ目という奴だ。だから凛子にとってキリは遊ぶ上では好い男でも、一緒になりたい男ではなかった。
そのさばさばとしたところが、キリは気に入っていた。一期一会の中で後腐れなく付き合えるのは、根無し草のキリにとって大事な点だ。
それがどうしたことか、妙にあの仇討娘には拘っている。いや、どうして拘るのか本当はわかっていた。だが、だからこそ不思議だった。
寧と桃花はれほど似ているだろうか。
自問に自答すれば、似ているとは思えない。桃花はあんなに感情的ではなかったし、武辺の者でもなかった。似ていると思っている自分の心に理解がつかず、キリは混乱していた。
しかもあの娘は既に町を去った。いまさら何をどうしようというのか。混乱は麻袋から染み出るようにゆっくりと、苛立ちへ変わっていく。
そんな気持ちを鎮めようと桃橘榊に赴き、そして昔の夢を見た。ここ最近忘れていた、彼女の笑みを。
寧と桃花。今と過去に繋がりを見出そうとするのは感傷だろうか。
「なんであれ、隣を歩く男が他の女のことを考えているのは癪だねぇ」
出し抜けの言葉に、キリは目を瞠って凛子の悪戯っぽい笑みを見つめた。
「何故、女のことを考えているとわかった」
「おや、あんたでも女のことを考えるんだ」
「……鎌か」
「上手に掛かってくれたね。どうせ、あの仇討娘のことだろう?」
「……」
キリは不貞腐れたように黙って広小路の坂を早足に上る。
凛子は悪びれた様子もなくその後を小走りについていった。
既に季節は初冬、深更も間近となれば袷を着ていても寒さが身に染みる時期だが、威勢の良い石切神楽の熱気のおかげで広小路は肌寒い程度だ。
その肌寒さが、酒で火照った顔に心地良い。
酒と人いきれに心地良く酔ったせいだろう。その晩のキリは心も身体も饒舌だった。
「俺も、よくわからん。何故、あの娘にこれほど気を揉むのか」
「そうかい? あんたみたいに物事に間を取る奴ほど、下らないことに熱を入れる気がするけどね」
凛子は、キリが心境を話したことに少し驚きつつもそう返した。キリが足を止め、凛子を振り返る。
「何故だ?」
「さあてね。あたしの直観だから、理由はわからないさ」
「いい加減だな」
苦笑する凛子に難しい顔で鼻を鳴らすと、キリは再び歩き出す。凛子が後に続く。並んで歩けば話し易いものをそうしないのは、石切神楽のせいで深夜の目抜き通りと言えども人通りがそれなりにあるからだ。並んで歩くと石切神楽の邪魔になる。
「いい加減なくらいが気楽でいいのさ。あんたみたいに思い詰めてると、疲れるだろう」
「……確かにな」
「だから、さ」
凛子が背後で足を止める気配につられ、キリが振り返る。足を止めた理由は聞くまでもなかった。気が付けば町の中腹、凛子の長屋がある横丁の入り口についていたからだ。
「今晩は一緒に全部忘れようじゃない。一人寝するには寒いし、ね?」
明かりが絶えない広小路と違い、木戸の常夜灯くらいしか明かりのない路地は暗い。半身でその奥を示しながら一夜の感興に耽らないかと暗夜に誘う凛子の姿は、抗いがたい妖しげな雰囲気を纏っていた。
品を作った凛子は、同じ人間かと見紛うほどに艶めかしい。その視線を向けられた男が抗うには、何か相応の理由が無ければ難しいほどだ。だが、今回ばかりは相手が悪い。
「悪いな、そういう気分じゃ――」
言いかけたキリが北西の方角、神社のある方に急に顔を向けて黙り込んだ。
キリの長身が邪魔だった凛子が、身を乗り出してキリと同じ方角を眺めてみるも、夜闇に沈んだ今の時刻では朱く塗られた社の柱すら見分けがつかない。
「何かあるのかい?」
「猿の遠吠えが聞こえた」
「遠吠え……猿の?」
聞き慣れない言葉の組み合わせに、凛子が怪訝そうに眉根を寄せる。
「聞こえなかったか?」
「聞こえなかったねぇ、空耳じゃないのかい? それよりもさ、今夜こそ――」
言い掛けた凛子の声を遮るものがあった。
半鐘だ。
半鐘とは二つの凶事を知らせるための、一抱えほどの鐘のことだ。鐘楼の上に吊るされ、有事にはそれを決まった速さで打ち鳴らす。
二つの凶事とはすなわち火事と穢物の襲来だが、桃橘榊に守られた町にとって穢物の襲来は町人の一生にあるかないか。故に半鐘とは火事を知らせるための鐘、という認識が一般的だ。
そしてその時の鳴らし方は、実際に火事の鐘だった。カンカンカン、カンカンカンと三回連打して一拍開ける、火事の始まりを告げる鐘だ。この後、火事が広がるようなら火元に近い鐘はガシャガシャとがむしゃらに鳴らし続け、延焼方向にある別の鐘楼がゆっくりとした感覚で鳴らして方角と火勢を知らせるのだ。
とはいえ、この町のこの時期に火事は珍しくない、どころか風物詩と言ってもいいだろう。
なにせ石切神楽は夜通し行われるのだ。光源にも熱源にもなる火があちこちで焚かれているし、昼夜を問わず腹を空かせた石切工たちへの賄いにも火を使う。
それに加えて多兼山の冬は空気が乾燥する。火事を起こすなという方が無理だろう。
その為、この町の家々は石造りなのだ。石の土台に石の腰壁。少し裕福な家では壁も石造りだ。飛び火を防ぐ火避け地やうだつも利用し、火事が最低限の被害で収まるように町ぐるみで工夫されている。
住人も火事には慣れたもので、キリの周りにいた通行人も石工も、半鐘の音に気をやる様子はあっても慌てふためくようなことはなかった。数人の野次馬が坂上を目指して駆けていく姿はあれど、火事そのものを恐れた風はない。
火事も対岸の人間にとっては態のいい見世物か。あまつさえ流れ者であるキリと凛子にとっては火に巻かれないのであれば全く関係のない話だ。
「ほら、猿の雄叫びだかもあれの聞き間違いだろうよう、だからさ――」
遠く間延びした半鐘を後目に凛子がすかさず秋波を送る。が、それもすぐに遮られた。
今度もまた半鐘だ。
先程とは鳴らし方が違う、カンカン、カカカンと小気味よく鳴るその意味を、キリと凛子はすぐ様に呑み込む事が出来なかった。
本来、その音はそれほどに聞く機会が無いのだ。
火事の報せを聞いても狼狽えなかった町民たちに波濤のような緊張が走り、誰かの「まだ新月じゃねえのに……」という呟きで二人はようやくその意味を思い出した。
人類が桃橘榊の杜で身を守るようになって幾星霜、穢物が湧くように襲ってくると聞かされていても俄かには思い至らないほど、聞き慣れない鐘の音なのだ。
だが事態に気付いてからの二人は素早かった。
「先に行くぞ」
「お構いなく、あたしも好き勝手に暴れさせてもらうさね」
この時のためにこの町で管を巻いていた穢物狩りだ。どうして新月でもないのに穢物が襲い来たかという理由を考える前に、稼ぎ時だという好機に突き動かされていた。
稼ぎはどうあれ、キリにとっても好機であることに変わりはない。穢物を斬り続けていればいつか片角の鬼に出会える。そう信じる以上、穢物がいればそこに向かうだけだ。
「邪魔するぞっ」
駆け出したキリは、そう断りつつ石工たちが右往左往する広小路の中心に躍り出た。広小路の両側は、何事かと顔を出した町人や穢物狩りの人出で深夜とは思えないほどごった返していた。人込みを避けて町の上層を目指すには中央を突っ切るのが早い。
両側より少ないとはいえ、中央にも切り出した石を下ろす石工と人足がいる。今は、成り行きを見守るか責任者からの指示を待っているのか、手を止めて上層部を見上げる彼らの林を、キリはその長身を感じさせない身軽さで走った。
半鐘は相変わらず、火事と穢物の両方を警告している。初めは我先にと家屋に逃げ込む住民と稼ぎ時とおっとり刀で飛び出す穢物狩りとの流れがぶつかって混乱していたものの、今では穢物狩りと野次馬とが上を目指して流れを造り、キリもそれに乗って鐘の音が高い方へと急いだ。
現場は火消しも働けないほど混乱しているのか、火炎はみるみる大きくなる。今では数町離れたキリの場所からでも明々と天を焦がす炎が望めた。
目的地がわかりやすくなったのはいいものの、火事に焼け出され穢物に追われて逃げ惑う町民たちが逃げる流れと、我先にと先を急ぐ穢物狩りたちの流れが正面衝突し、広小路は押すな押すなの大渋滞に見舞われていた。
なかなか前に進めなくなったキリはやむを得ず横道へ飛び込んで混雑を避けると、火事を目印に隘路をひた走った。
しかしまともな明かりも土地勘もないキリは、入り組んだ道に阻まれ行きつ戻りつしてなかなか上層へと向かえない。
苛立ちながらそろそろ広小路に戻ろうかと思い始めた時、前方の横道から人が駆けてくる気配にキリは足を止めた。。
もし町民であれば広小路まで案内を頼もうと思ったのだが、飛び出してきた二人の血相がそれどころではないと告げていた。
石工らしい年恰好の男と、その母親と思しき老女だ。二人とも何町も全力で走り通してきたのか、今にも転びそうなほど息も絶え絶えだ。何かに追われるように背後を気にしつつ曲がり角を曲がった青年が、危うくキリとぶつかりそうになる。
「あぶねえだろうがでくの坊が!」
キリは人がようやくすれ違える程度の狭い道で大きな身体を壁に寄せて青年に道を譲ると、いつも腰裏に差している小太刀を器用に抜き上げた。
青年の雑言にキリは見向きもせず、青年も言うだけ言ってそのままキリの脇を駆け抜ける。
キリは待った。といっても、待たされたと思うほどの時間は掛からなかった。
すぐにもう一つの足音が駆け付けてきた。
曲がり角から姿を現したのは、着流しに槍を携えた青年だ。まるで先程の親子を追い立てているような構図だが、その恐怖に引き攣った面持ちは追う者のそれではない。
事実、曲がり角から少し離れたキリの姿を見つけて足を止めた青年の顔に、僅かな安堵が広がった。逆に、キリは内心で毒づいた。
「た、たすかっ――」
「足を止めるな!」
「ぎゃぁっ!」
キリの警告が届くか届かないかの寸前、青年の身体に何かがぶつかり、曲がり角正面の壁に叩きつけられた。
キリが舌打ちしつつ疾走る。
暗い闇の中から黒い塊が鞠のように青年へ飛び掛った何かを、穢士として鍛えたキリの夜目は辛うじて見分けていた。
それは猿の穢物だった。
キリが最近、付近で屠殺してきた個体と同じ、猿にしてはやや体が大きく、犬歯と爪が異様に発達した凶暴な姿の猿だ。
それが三匹、青年を長屋の板壁に押さえつけるようにしてしがみついていた。
「痛いっ、痛いぃっ」
闇の中で一塊になった四つの生き物から、断末魔と、荒い息と、肉を噛み裂き血の噴く音が聞こえてきた。青年の命が削られる音だ。
だが、穢物三体に飛びつかれた時点で青年の命運は尽きていた。それだけの穢物に襲い掛かられれば、客子でもない限り穢に抵抗しきれない。巫女の身濯も間に合わぬほどの速度で身体が穢に蝕まれて黒化していく。
そして、キリが駆け付けた時には青年の断末魔は消えていた。
猿の穢物たちは青年をむさぼるのに夢中で、すぐそばにキリが立つのもお構いなしだ。
キリは何度も見てきた光景を褪めた眼差しで見下ろしつつ、無造作に小太刀を振った。穢物の首が一つ飛んだ。
返す刃でもう一つの首が飛ぶ。
そこでようやく、最後の一体が自分の身の置かれた状況を察して跳び離れた。穢物と化した猿の脚力は、真上に跳んだだけでその体を長屋の屋根まで届かせる。
転瞬の出来事にキリもすぐには対応できなかった。が、逃すつもりはない。
キリの腕が翻ると、屋根の上から嘲るようにキリを見下ろしていた穢物の胸に、小太刀が突き立った。小太刀の柄頭からは頑丈な組紐が伸びて、それはキリの手に握られている。穢物の絶命を確認したキリは慣れた手つきで紐を操り、小太刀を手元に引き戻した。
あとに残ったのは食い荒らされ虫の息の青年と、それを見下ろすキリと、遠い闘争の喧騒だけ。
助けを求めるように呻く青年の顔はもう半分ほども黒斑が広がっていた。穢物に食われた傷と相俟って相当な痛みのはずだ。
キリの小太刀が前触れもなく閃いて、青年の首の急所を鮮やかに切り裂いた。
キリを見上げていた首ががくりと項垂れ、青年は痙攣もなく事切れた。
その死を見届けたキリは片手拝みで冥福を祈ると、血刀に血振りをくれて鞘に納めた。
先程の穢物は町民と青年を追ってここまで下りてきたはぐれ者なのだろう、他に気配は感じられない。
青年の遺骸は事が収まれば後片付けの際に町衆が発見して決まり通りに供養してくれるだろう。
キリは踵を返すと広小路に出そうな方角へ、目見当で歩き出した。
「おや、あんた、まだこんなところをうろついてたのかい」
呆れ半分な凛子の声を聞かされたのは、それから一寸刻も経たない内だった。散々迷ったつもりのキリだったが、どうやら横丁の入り口をうろうろしていただけのようだ。
ひょいっと広小路に顔を出した直後に、広小路を登ってくる凛子とばったり出くわした。
「こんなところにいるのはお互い様だろう」
凛子の姿は先程までのだらしない着流し姿と打って変わっている。
朱塗りで揃えた面頬、手甲、脚絆も勇ましく、袷の下には鎖帷子を着込み、紺の野袴に足拵えもしっかりと整えていた。この際、朱塗りに剥げが目立つのも、袷が草臥れているのも、袴に継が当たっているのも、言うだけ野暮だろう。走る為に肩に担いだこれまた朱塗りの薙刀は既に鞘を払ってある。
どこにも汚れがないところを見ると、今の今まで戦支度に手間取っていたらしい。顔には軽く化粧まで刷いてあった。
「戦場へ赴くのに化粧がいるのか……?」
二十人ほどだろうか。戦場へと向かう穢物狩りたちが三々五々、八間(約十四・四メートル)ほどの幅の広小路に広がり、駆け足の一歩手前の速さで登っていく。
その人波の後尾を流されながら、キリがあまり関心なさそうに言った。凛子は自嘲なのか皮肉なのか口の端で笑って、
「死化粧さね。間抜けに野垂れ死んで、あまつさえ顔も汚れたまんまじゃ誰も供養してくれないじゃないか」
と宣わった。
「戦働きで汗を掻けば化粧なぞ落ちるだろうに」
「化粧をすることで心構えを固めてるんだよ。死地に赴く準備ってやつさ。ま、そもそも死ぬ気なんざ髪の毛の先っぽほどもないんだけどね。危なくなったらさっさとずらかるからさ」
「死ぬ気はないのに死ぬ準備か。ますます意味が分からんな……」
言い合っている間に、きな臭さが鼻につくようになってきた。見上げれば火災の炎で天が赤く染まっている。穢物の出現で、まともに鎮火作業ができていないのだろう。炎は凍った夜空を焦がれるように、身を捩って踊り狂っている。
幸いは、石造りのおかげで火災が一丁にも満たない狭い範囲で収まっている事か。キリや凛子のいるところまでは、火災の熱波も届いていない。
だが、煙と熱が逃げ道を限定しているのは間違いない。逃げ遅れた町民の悲鳴や先に辿り着いた穢物狩りたちの雄叫びの入り混じった音が、人波の雑踏よりも大きく聞こえてくる。人波の中から、己の戦場を探して裏路地へと姿を消す穢物狩りも出始めた。
凛子もこのまま広小路を進んで他の穢物狩りと一緒に戦うか、独力で確実に手柄を立てるか悩んでいる様子でキリを見た。
キリの顔は、社のある北西を向いていた。
「そんなに、気になるかい。さっきの猿の、雄叫び? が」
「呼んでいるようだった。いや、報せている、か」
「どっちでもいいけど、気のせいだと思うけどねぇ……それよりさ、キリ、あたしと組んで一戦やらかさないかい?」
「ふむ……」
キリが凛子の期待顔に視線を移したその時だった。前方が俄かに騒がしくなる。
「どけ、どけっ! 町民の避難が優先であるぞ!」
どうやら、戦禍の難を逃れた町民の一団を、役所の武士が誘導してきた一団のようだ。
「町の衆、この度は災難であったな! だがもはや心安からむべし! 我らの手に掛かれば、穢物の百や二百、一息つく間に蹴散らしてくれん!」
悄然と歩く人々に向けて、登ってきた穢物狩りの先頭から激励の胴間声が投げかけられる。が、それが激励というより売り込みなのは見え透いていた。己が穢物狩りの集団の頭領のように振舞って、役人の覚えを良くしようとしての魂胆だろう。
その魂胆は上手くいったようで、二つに割れた穢物狩りの集団の間を通る町民たちは、少し希望の湧いた顔付きでその男に頭を下げたり頼み込んだりしながら通り過ぎていった。
火事で火傷を負った者、黒斑に苦しみ呻く者、それらを背負ったり戸板に乗せて運ぶ者、まるで戦場から退く負傷兵のような無残な行列が通り行く。
一頻り町民たちが通り過ぎた後、穢物狩りの集団も再び動き出した。
先導してきた二人の役人たちはまだ御用があるのだろうが、やはり穢物が蔓延る戦場に戻るのは気が引けるのだろう、少し休憩するつもりか、広小路の隅でまごまごしている。
そして穢物狩りの集団がほとんどいなくなってから、ぼやくように話し始めるのを、キリは背中で聞くともなしに聞いていた。鍛えられた穢士の耳ならではの芸当だ。
「鬼型――」
その単語を耳に挟んだ途端、キリの足が止まった。訝しんで凛子も立ち止まる。
「交渉は――新月でもないのに――」
「羅切どのは――」
「しくじった――」
キリが勢いよく長身を反転させた。凛子が驚くほどの勢いでだ。
十間(約十八メートル)ほどを四歩で跳ぶと、表店の庇の下に座り込んでいた役人二人の前に立ちはだかった。常夜灯に浮かび上がるその姿は、威圧的な気配を漂わせて二人の役人を圧倒する。
「な、なんだ貴様、我らを代官所番方役人と知って見下ろすか!」
「見世物ではないぞ、去ね、去ね!」
その圧力に反発してだろう、役人二人が座ったままの姿でキリを睨め上げて虚勢を張る。
火事の熱で脂の浮いた肌が頭頂部まで続く小太りの中年役人と、見習いを脱したばかりといったそばかすの残る若い役人の二人組だ。どちらも役人用の火事装束が煤と汗で真っ黒に汚れ、虚勢を張ってもみすぼらしさに足を引っ張られていた。
「さっきの話、詳しく聞かせろ」
「さっきの? ――っ!」
言われて思い返し、自分たちの迂闊さを思い出したのだろう、中年役人の顔に動揺が走る。
「な、なんの話だ。我らはただ御用の相談をしておっただけで……」
「前置きはいい。鬼型、交渉、羅切、何の話だ」
キリが声を潜めてその単語を突きつけると、薄闇にもわかるほど二人の顔は青くなった。
「そっ、それはだな……」
気まずそうに若手と顔を見合わせて言い訳を拵える中年へと、キリがおもむろに一歩近づいた。二人の役人が思わず後退る。
「およしなよキリ……役人に楯突いたってなにもいい事ないよ」
そこに追いついてきた凛子が窘めるも、キリは止まらない。覆い被さるように伸ばしたその手が、忍びやかに役人の着物の袖に伸びて、引っ込んだ。
怯えて目を瞑っていた中年役人が、袖に生まれた違和感に気付いて目を開け、次いで外から触ってその感触を確かめて安堵と喜色を衝き交ぜた品のない表情を浮かべる。
「話せばもう一枚だ。若い方にもくれてやる」
その言葉で凛子にも理解が付いた。キリは袖の下で役人の口を割ったのだ。どうしてどうして、凛子が思っているよりもキリは世間に擦れていた。
「ま、まあ、そこまで聞かれたならば致し方ないな。貴様は町の外の人間のようであるし、話しても問題なかろう。よいな、川瀬どの」
「は、はぁ……小諸どのがそう仰るなら、それがしに異論はござらぬが……」
まだ賄賂を渡されていない若い方は、今一つ事情を飲み込めていない様子で頷いた。
中年役人は「よいこらしょ」と重そうに身体を持ち上げると、広小路から人通りの少ない横丁の暗がりへ丸い身体を滑り込ませた。キリや凛子、若い役人も後に続く。人がいないことを確認した中年役人は、暑苦しい刺し子頭巾を剥ぐと薄い頭を一撫でして唸った。
「さて、どこから話したものか、貴様は町に雇われた穢物狩りであるな?」
「前置きはいらん、聞きたい事に答えてくれればいい。代官所は鬼型を確認しているのか」
「……しておる」
「どんな鬼型か聞いているか。元は。大きさは」
「……恐らく猿の鬼型であろう。手と足が異様に長く、ひょろりとした七尺(約二・一メートル)ばかりの身体に、猿のものとは明らかに違う、人間によく似た面相の化け物じゃ」
「面と向かったような言い様だな」
「ワシ如き木っ端役人があのような席に並べるものか。人に聞いた話じゃ」
「席? 鬼型と対話したとでも言うのか」
「したのだよ、代官様とその近習たちがな」
「鬼型と対話? ありえん……」
「ワシらとていまだに信じ難い話じゃ。だが、どうやらまことらしゅうてな、なんでも鬼型の方から持ち掛けてきた交渉らしいが」
「鬼型からだと」
流石のキリも驚きを隠せず声が高くなった。
キリの知る鬼型はもっと野卑で粗暴で自儘な生き物だ。まさか他者と、それも憎むべき人間と交渉を持つような思考の個体がいるとは思いも寄らなかった。
「半年近くも前の話でな、ワシも詳しくはわからん。だが、交渉が決裂したことは間違いなかろうな」
「交渉が上手くいってたら、この町が新月のたびに襲われるはずもないからねぇ」
納得した様子で呟く凛子に視線をやった中年役人が頷く。
「そして今晩、再度交渉を求めてきたということか」
何かを考えこんでいたキリが、話を先に勧めた。
「そうじゃ。此度は羅切どのもおったからな、上も強気にでたようじゃ。なんでも、羅切どのに交渉の場での鬼型暗殺を申し付けたとか」
「今の状況と関りがありそうだな……」
「やはり、羅切どのはしくじったのであろうな……もはやこの町も仕舞いじゃな」
どこか他人事のような呟きは、代官所の人間だからだろう。代官所は国府から派遣された旗本が監督する。その下の役人も、ほとんどがその旗本の御家人だ。つまり彼らは、ここさえ切り抜ければ帰る場所があるのだ。
それは穢物狩りも変わらない。『無理無茶無謀は旅の三無し』が座右の銘である彼らは、鬼型が本気で町を滅ぼそうとしているとわかれば代官所の人間よりも軽薄に町を見捨てるだろう。
「さ、左様でござれば、穢物が坂上から降りてくる前に逃げねばならぬのでは……」
それまで黙って聞いていた若い役人が、堪りかねたように口を挟んだ。何よりも我が身を優先させようとする意見に他の三人が物を思うように黙ると、若者は自分の言葉に恥じたように慌てた。
「いや、我らだけの話ではなく、町民のことを考えればでござる」
「よい、お主を非難してのことではないわ。今の有様ではいずれか見捨てなければならぬことは明白、致し方ないこととは言え、な……」
「そもそもさ、逃げようにも穢物がどこからともなく飛び出してくるような町中を逃げ回るのはごめんだねえ」
この場には若者を非難する者はいなかった。ただ、命を懸けてまで他人を救わなければいけない理由を持つ者もいなかった。どうしても、最後には我が身を守る行動に走らなくてはならなくなる。
穢物に襲われた時、最も効果的な身を守る手段は建物の中に避難することだ。穢物はしょせんけだもの、戸を開けたりはしてこない。そうして、穢物が諦めるのを待つわけだ。
だが今回は火事によりその手が封じられている。家に閉じこもってやり過ごそうにも火に巻かれれば一巻の終わり。穢物たちは人間を喰いたいわけではない、殺したいだけなのだ。
もしこの火事がその鬼型の策謀だとすれば、奴らは町にいる人間を一人残らず殺して回るつもりなのか……。
逃げ出すならば、穢物も火も充満していない今この時しかない。
「数を減らしたいところだな」
キリの呟きに、四人が揃って坂上を見た。
怒号や悲鳴、干戈の音は絶えず響いてくる。火事も消える気配はない。どちらもどんどん坂下へと追いやられているように感じられた。
「穢物の数は増える一方であった……一体どこから湧きだしてくるものか……」
「穢物は桃橘榊を通れない以上、必ず、抜け道があるはずなのだが」
「桃橘榊のどこかに穴でも開いてるんじゃないかい」
「それは我らが散々確かめさせられたわ。穢物が通れる場所なぞどこにもないと断言できる」
うんざりした口調で言い切る中年役人に、若い役人がうんうんと何度も頷いて追従する。山岳の桃橘榊は平野のそれと違って入り組んでいる分、それなりの苦労があったのだろう。
「抜け道もない、飛び越えている風もない、であれば後は……」
「地面の下かねぇ、土竜みたいにさ、ずずずぃっと、ねぇ?」
自分で言っていて馬鹿げていると思っているのだろう、身振りを交える凛子の口調は空々しい。役人二人も呆れた様子で首を横に振った。
だが、キリだけは違った。
「地面……地下……交渉の場に鬼型は神社を指定したんだったな」
「うむ、そうじゃ。北西に見える初岩神社の境内じゃ。それがどうかしたか」
何かに気付いたようなキリの顔に、中年役人の期待が高まる。
「この町の井戸は溜め井戸か、それとも湧水か」
「さて、井戸の事なぞ気にしたこともない……」
役人たちはしょせん期限付きの出向、町の内情に興味が無ければ知らぬでも役目は勤められた。中年役人が井戸の具合なぞ知らないのは不思議でもない。
話が予想外の方向に飛んで、中年役人の顔に落胆の陰りが差す。投げ遣りな言葉に代わって、若い役人がおずおずと嘴を容れてきた。
「この町の井戸は全てが伏流に達していると、以前町の者がこの町の水が美味い秘訣だと教えてくれ申した」
つまり、町の地下を川のように水が流れており、そこから井戸口を使って水を汲み上げているということだ。
「やはり、井戸か」
「井戸がどうしたというのじゃ。皆で井戸に飛び込んで隠れようとでも言うのか」
「逆だ、穢物は井戸から出てきている」
キリの推測に、三人は唖然とした。
「井戸から? 話がさっぱり見えんな」
中年役人が苛立ち紛れに吐き捨てる。あまり気の長い方ではないらしい。その気性にいつも振り回されているのか、中年の声色の変化に若い役人の顔が強張った。
しかしキリはそんな変化には無頓着に役人二人の顔を見、凛子を見、少し考える素振りを見せてから口を開いた。その間、中年役人が額の青筋を余計に膨れさせたのは言うまでもない。
「詳述はしない方がいいだろう。町の下を走る地下水脈網は、町の外から侵入できる。その道を俺は偶然だが見つけた。穢物たちもきっかけはわからんがそれを知って今回の襲撃に利用したのだろう」
「地下水脈が町の外に繋がっている? そんな話、聞いたことがないぞ」
「そんなものがあったら、桃橘榊も形無しなわけだ」
「いかにも。そのような大事、我ら役人に知らされぬはずもない」
凛子の軽口にしかつめらしく中年役人が答える。凛子は冗談に本気で返され、役人に見えないところでわざとらしく顔を顰めさせたのがキリからは窺えた。が、それに反応することなく、キリは持論の展開を続けた。
「田日良はかつて国府だったと聞く。今の代官が把握しているかは知らんが、恐らく、当時は御上が落ちのびるための隠し通路か何かだったのだろう。その様子では、もはやこの町には存在を知る人間もいないのだろうがな。そしてその忘れられた通路が長い年月を経て地下水脈に浸食され、外と繋がってしまった。それが今、穢物たちに利用されている」
「穢物がそんな知恵を働かせるかね」
役人二人は町の秘密に少なからず衝撃を受けた様子だったが、余所者である凛子はどこ吹く風、あっけらかんとキリの推察に質問をぶつけた。
「鬼型であれば、無い話でもない。奴らは人と会話する程度には頭を働かせる。侵入経路があるからこそ、鬼型も交渉なんて迂遠な手を……いや、そもそも、奴らの狙いは何だ? 交渉なぞしなくとも、一気に手勢を送り込めば住人の一掃も難しくないだろうに……鬼型はどんな交渉を持ち掛けてきた」
キリの自問の最後は、役人たちに対する詰問となった。
青年役人が強張った面持ちを横に振って不明を表すと、考えるように瞑目していた中年役人が目を開いた。
「なんでも、この町をそっくり丸ごと自分たちに譲り渡せ、といった具合の内容だったと思うが……伝聞であるから確かな所は儂も知らぬ」
「はっ、穢駄物が国をつくるっての? そこまでくると笑い話だねえ」
言葉とは裏腹に全く笑う素振りも見せない凛子を後目に、キリが唸った。
「額面通りに受け取るわけにはいかんな、力尽くの方がよっぽど手間も時間もかからないのにわざわざ交渉の席を設けた意図があるはずだ……」
四人ともが、その問いに口を閉ざす。誰もその理由に心当たりはなかった。
キリとて、ここでその答えが得られるなどとは思っていない。
「交渉の場は、山腹の神社だったな」
「うん? ああ、そうじゃが……往くのか」
受けた中年の役人が聞き返す。確認の問い返しではなく、正気を疑うような趣だ。
それもそうだろう、一般に鬼型は天災のように扱われている。地震や落雷と同じ存在だ。人間如きが立ち向かうような相手ではない。
穢士はそれを十数人掛かりとはいえ屠殺するのだから、畏怖の念を抱かれるのも当然か。
しかし、十数人だ。穢士とはいえ十数人必要なものを、たった一人の、しかも前線を離れて久しい元穢士一人が挑もうなどと、正気を疑われても仕方がない。
「往って、直接訊く。確かめたいこともあるしな」
「親切に答えてくれる相手とも思えぬがな、まあ、貴様が往くというのであれば止める理由も儂にはない。こっちはこっちでどうしたものかほとほと見当もつかぬしな」
淡々と述べるのは、すでに状況が絶望的だからか。やや捨て鉢になった様子の中年役人は、吐き捨てるように言った。
その嘆息を遮るように、凛子は何気ない口調で訊いた。
「例の片角の鬼って奴かい」
「そうだ」
キリの視線はすでに神社のある山腹に向けられて、凛子を顧みることすらなかった。
凛子はその背中を一拍ほど見つめて諦めの嘆息を吐くと、役人二人を振り返った。
「あたしらまで地獄に付き合うことはないだろう。井戸が通り道なら遅かれ早かれ山裾の方にも穢物は現れるだろうね。まずは穢物の出所を確かめて、本当なら井戸を潰してみないかい」
「……そうじゃな。そちらの方がまだ望みはあるでな」
しぶしぶといった様子だが、中年役人は凛子に同調して裏路地を表通りの方へと歩き出した。
「それがしは、他の者に話してみます。力を貸してくれるものがおるやもしれませぬ」
「いや、それは井戸の話を確認してからでも遅くないだろうさ。間違ってたら余計な混乱を招きそうだしね」
「言われてみれば確かに……では、それがしも……」
戦闘の喧騒はだいぶ近くまで迫っている。青年役人は干戈の音に怯んだ様子だったが、迷う様子は一瞬ですぐに中年役人の背を追って駆けだした。
キリと凛子が常夜灯の明かりの中に残った。
キリは帯を締め直したり、懐中物の確認といった戦の支度にかまけて、凛子を見ない。
期待した自分を乾いた笑いで吹き飛ばし、凛子はからっとした口調で言い掛けた。
「あんたが一緒だと心強かったんだけどね」
「俺は、仇を討つために命を存えているだけだ」
「わかってるよ……だからあんたとは一緒になりたいと思わないんだ」
語尾はやや投げ遣りだった。捨て台詞のように言い放った凛子も歩き出す。
その背中が何かを思い出したように立ち止まり、
「ま、お互い生きてたらまたどこかで会えるかもね」
「そうだな」
キリの短い返答に肩を竦め、凛子は今度こそ提灯が連なり揺れる広小路へと飛び出していった。
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