10.

 キリには物心ついた時からの癖がある。

 それはなにかに迷ったり落ち込んだり、苛ついた時に桃橘榊の杜で一人きりになるというものだ。

 桃橘榊には一間四方の赤い屋根の社がそこここに安置されている。礎石の上に木造の小さな建屋を安置しただけの簡素な社だが、穢士や巫女にとっては特別な感慨のある建屋だった。

 客子の社は客子が宿った木の根元に置かれる。客子が宿るとは文字通り、その樹の根元にあるとき俄かに赤子が現れ産声を上げるのだ。そんな樹の根元に社を立てると、不思議なことに今度はその社の中に赤子が現れるようになる。即ち、客子の社は客子の産屋なのだ。

 まるでこの世を訪れたかのように現れる赤子を、客子と呼んだ。そして客子が生まれながらに備えた穢への抵抗を利用し、穢士や巫女へと育てるのだ。

 故に、客子にとって桃橘榊は母なる杜なのだ。多くの客子が桃橘榊を大切にするように、キリもまた桃橘榊には特別な思い入れがある故、思い悩んだり迷った時には自然とここへ足が向く。母を知らぬ客子だが、不思議とこれが母というものなのだろうかと胸を和ませる心境だ。

 もっと北にあるキリの祖国では桃の葉もとうに落ちているだろうが、田日良の桃橘榊にはまだ葉の残る木が多い。夏のぎらつくような生命力は薄れても、全体で見ればまだまだ視界には緑が溢れていた。

 田日良の桃橘榊は町の内証が豊かなこともあってしっかりと管理されており、そのおかげか国府ほどではないにしても時折、客子を宿すこともあるそうな。

 客子を宿す桃橘榊には独特の空気がある。そんな空気を掻き混ぜるようにゆるりとした風が吹き、濃い緑の梢を揺らした。そよぐ梢は陽光を散らし、見通しの利く林の中に光の濃淡を舞い踊らせる。

 重石でも付けられたように重苦しかった気持ちが少し軽くなる。少し冷たい風に隠れていない左眼を閉じると、不意に、まぶたの裏に若い女性の面差しが浮かんだ。それはつい最近知り合った少女に似た面影を持つが、別の女性だった。

 年の頃は二十歳を少し過ぎたくらいか。よくよく見れば寧と彼女はあまり似ていない。共通点と言えば金糸のような長い髪くらいか。それとて、柔らかく真っ直ぐな寧の髪と違い、残影の彼女はふんわりと軽く波打つ豊かな金髪だ。

 キリの記憶の中の女性は歳を取ることもなく、いつの間にかキリは彼女と同じ歳になっている自分を見つけて少し感慨を催した。あの頃は子供扱いされてばかりだったが、今の時分を彼女が見たら何と思うだろうか。淡い思いが詮無く漂っては桃橘榊の風に溶けてゆく。

 藤花寧の姿が田日良町から消えて二日が経とうとしていた。この二日、キリはなんとなく町から離れがたくて日課となっていた穢物狩りにも赴いていない。日がな一日町を練り歩き、あの凛とした佇まいを――否、その向こうに見えている記憶の影を求め彷徨った。

「桃花……さん」

 目を閉じたままその名を口ずさみ、未だに呼び捨てできない自分が可笑しくて口元に薄らと笑みを浮かべる。

『やっぱりここにいた』

 ふと、耳の奥に在りし日の声音が響く。思わず目を開きそうになったが、堪えた。

 あの日から五年、何度も繰り返してきた徒労だ。見回したところでそこには誰もいない。空しい空間の中に自分の女々しさを見つけるだけだ。

『桐、もう時間でしょう』

 それでも、胸の底から湧きだす懐かしさが、微睡の中の意識をいつの間にか記憶の中へと引きずり込んでいった。

 そういえばあの時も、こうして腰の曲がった桃の木に腰かけていたか。今と違い、あの当時は黒髪も綺麗に整え、身形もしゃんとしていた。穢司の方ですべて整えてくれていたから、お仕着せに任せるだけでよかった堅苦しい日々も今は懐かしい。

 桃の木の陰からこちらを覗き見る彼女は、優しい面差しに困ったような表情を浮かべている。確か、俺よりも四つ年上だったから、今年で二十歳のはずだ。その割にはまだまだ表情にあどけなさが残っている。

 濃い緑を湛えた桃橘榊の梢は盛夏の日差しを透かして下草の地面にくっきりとした木下闇を描いていた。高山の国は、陽射しがきつい。

「ほら、目を覚ましてしゃんとなさい」

 声の主が――桃花さんが、木の陰から出てきて俺の正面に立った。白衣に緋袴、そして紗の千早。きつい日差しの中を歩いてきた割には汗一つ掻いていないが、片手に畳んだ日傘を提げているからそれのおかげだろう。陽射しの割に空気はさらっとしていて、日影なら暑さが気にならないくらい涼しいのだ。

 いかにも巫女然とした形の彼女は、見た目通りの巫女だ。穢を屠る穢士と対を為し、穢れを祓う女性の客子。

 腰まで届く黄金の髪には一点の曇りもなく、白く透き通った頬は名前の通り桃色に色付いている。好奇心の強い性格を表してか、碧眼にはいつも楽しそうな光が宿っている。

 俺は、この瞳が苦手だった。深い泉のような透明な青をじっと覗き込みたいという欲求はあったが、気恥ずかしくてすぐに目を背けてしまう。逆に見つめられるのも同様だ。

 昔はそうでもなかったのに、いつからそんな風になってしまったのか……もう、思い出すことも出来ない。

 この時もそうだった。忘れもしない、この年、穢物の異常な集団移動が発生した。理由は不明だが、熊や狼、鹿、猪といった大型から狐、猿、兎と言った小物まで、数千数万という穢物と鬼型が群れを成して真っ直ぐに北を目指してきたのだ。集団移動の話は三年も前から噂に聞いていた。去年には不運にも巻き込まれた国が一つ滅んだという。

 その轍を踏まないためにも、この国では二年前から念入りに準備を整えていた。山岳地帯の地形を利用し、穢物たちの進行路をあらかじめ確保してそちらに誘導する計画だ。

 山を削り土塁を築き、辛うじて間に合った土木工事の仕上げが、穢司総出の誘導作戦だ。

 穢士と巫女は大まかに二つの組、穢物の流れそのものを誘導する先手組と、先手組の補佐と主流からこぼれて町へ向かうはぐれ者の屠殺を主とする後備えの組に分けられた。

 そして俺は、後備え組に入れられた。それも後備えの後方も後方の小荷駄に。

「別に……俺が行く必要もないだろう」

「もうっ、御役目なのよ? 要不要を決めるのは組頭様方でしょう」

 小荷駄組なんて、年少組の仕事だ。荷物運びと兵糧の準備と陣の設営、そして見張り。そんなもの、俺が一人いなくたって他の奴らで十分だ。

「拗ねているのさ」

 桃花さんが何も答えない俺の扱いに困っていると、今は顔を合わせたくない人の声が割って入ってきた。

 俺の低く轟くような声と違う、軽妙で爽やかな声。この声に、姿に、働きにずっと憧れてきた。俺の兄穢士、槙(まき)だ。

 兄と言っても血の繋がりがあるわけではない。

 同じ社で見つけられた客子が兄弟姉妹のように扱われることもあるが、それとも違う。

 兄穢士とは穢司の方で勝手に決める、年少組の面倒を看る年長組の穢士のことだ。といっても、俺はすでに年少組から若手組に格上げされているから、今はもう直接の世話になっているわけじゃない。それでも、俺と槙みたいに兄弟穢士の繋がりを引きずってる穢士は意外と多い。穢司が外部との交流を制限された閉鎖的な組織だからだろう。

 俺と同じ濃紺の筒袖筒袴、いわゆる穢士装束に鍛え上げられた長身を包み、落ち葉が降り積もった柔らかい地面を音もなく歩み寄ってくる。

 槙に軽く笑みを返した桃花さんの、叱るような視線が俺に戻った。

「拗ねてるの?」

「拗ねてない」

 悪戯っぽい声に、俺は即答する。

「拗ねてるだろ」

「拗ねてねえってば」

 槙の追い打ちについつい声が大きくなる。

「拗ねてるわね」

「拗ねてるだろ?」

 こっちの言うことに聞く耳持たず、呆れたと言わんばかりに二人が繰り返す。俺は付き合ってられないとばかりに無視する。

「桐くんはどうして拗ねているのかなぁ?」

 あやすような物言いに、自分の眉間の皺がより深くなるのを感じた。不愉快ってほどではないが……いや、桃花さんじゃなきゃ間違いなく不愉快だったろう。

 口を噤む俺の代わりに、事情を知る槙が答えた。

「俺と同じ先手備えに入れなかったからさ」

 図星だ。それを聞いた桃花さんが目を丸くした。

「まあ、そんなの当然じゃない。キリはまだ若手組なんだから、後方に回されて当然よ。ましてや先手組なんて、前線で穢物や鬼型の大群と戦うのよ? 若手みたいな経験不足じゃ、あっという間に餌食になるだけよ」

「俺は戦える! 少なくとも杉なんかよりよっぽど動ける!」

 桃花さんに侮られて、思わず声が大きくなった。

 杉とは、槙と同じ小組の穢士だ。つまり俺より一世代先輩にあたる。実力の程は年長組の下の下。それでも若手組よりはよっぽど動けるし、御役目で役に立たないというわけでもない。

 だが、自惚れ覚悟で言わせてもらえば、杉は俺より弱い。そもそも俺にとって、若手組の御役目は安全で退屈、まったくもって役不足なのだ。

 国府の周辺に寄ってきた穢物を追い払う、桃橘榊の見廻りをする、旅人から周辺農村の情報を集める、そんなお使いみたいな御役目はもううんざりだった。

 だから、今回の穢司総出の大役目は組頭や奉行に、俺の実力を示すいい機会だと思っていたのに……。

「確かにな、桐、お前は強い」

 槙が請け合い、俺の正面に回り込む。見上げた拍子に夏の木漏れ日が目に染みて、槙の姿が黒く浮き上がる。影になった表情は読めなかったが、声からはさっきまでの調子の良さが抜けていた。

「おまえは年長組の中でも中くらいの働きができる」

「だったら――!」

「桐、穢士にとって最も大事なことは何だ」

「庶民を穢から守ることだ」

 そんな当たり前を聞かれること自体が無性に苛立つ。俺だって、逸っているのはわかっているさ。だけどそうやって大人たちは正論ばかり振りかざして俺に活躍の場を与えようとしない。本当の俺を見ようとしない。

「その通りだ。それと同じくらい大切なことは?」

「同じくらい?」

 答えに詰まった。穢の脅威を払うため、穢士は穢物の屠殺、巫女は身濯、それ以外に大事な役目が、俺たち客子にあっただろうか……。

「上様への忠心……か?」

「そんなものは旗本連中にでも任せておけ」

 槙は顔を顰めてそう言い放った。桃花さんまでその後ろで失笑している。組頭が聞いたらすごく渋い顔をしそうな話だ。

「俺たち穢士はな、穢物を屠殺するのと同じくらい生きて帰ることが大事なんだ」

「生きて……」

「そうだ。死んだら、誰も守れないだろ? だから俺たちは絶対に死んじゃいけない。そして命を賭して庶民を守る」

「言ってることが滅茶苦茶だ……」

「そうだ。だから俺たちは常に命の勘定をしている。今ここで捨てるべきはどの命か、救うべきはどの命か、秤にかけながら」

「必要であれば見捨てるって言うのか……」

「その方が結果的に多くの命が助かるのであればな。そしてその勘定をするのは誰だと思う」

「生死を決める者……強い奴か」

「そうだ。俺たちか、穢物か、強い奴の多い方が勘定を決める権利を持つ。お前はまだそこまで強くない」

「そりゃ、そうだけどさ……それならどのくらい強くなればいいのさ」

「少なくとも俺より強くなれ。お前ならあと二年で出来るだろう」

「……ああ」

 憧れの兄を越える。複雑な心境だが、実感はある。兄とて穢司の中では上の下程度の実力だ。勿論、その上は兄よりもずっと歳のいった年配組ばかりなわけだが。

 年配組は穢士の中でも壮年くらいまで生き残った強豪ばかり。肉体の能力は年長組に劣っても、培った感性や判断力で穢物に反撃すら許さず屠殺する。生存力にかけては穢士の中で比較のしようもない人たちだ。

「桐、一人で鬼型を倒せるくらい強くなれ」

「は?」

 それはもはや無謀を通り越して夢想の所業だ……一人で鬼型を倒す穢士の話なんて、子供だましの絵草子にも聞いたことはない。

「呆れた、そんなのもう人じゃないわよ」

 桃花さんも苦笑しつつ呟いた。

「たとえだよ。それくらい強くなれば、自分の命も他人の命も守りたい放題だ。お前は、それくらい強くなれる素質を秘めているんだよ。だからみんな、おまえのことを大事に育てたいんだ。いつか必ずその時はくる。だから焦るな。俺たちを信じろ」

 そこまで言われたらもう何も返せないじゃないか……。

 俺が黙っていると、視界の隅からツイッと桃花さんが顔を覗かせた。悪戯っぽく笑う愛嬌たっぷりの花顔に頭の芯がじんわりと熱くなる。

「それとも桐は、私のお守りが不服かしら?」

「お守りって……」

「代わって欲しいくらいだぞ」

「代わるとか、そういうのじゃないだろ……御役目は……」

 打って変わって正論を吐いていることは自覚しているが、それ以外に言うべきことを思いつかなかったのだからどうしようもない。迂闊に口を開けば、取り返しのつかないことを言ってしまいそうで……。

 押し黙る俺を訝しむことなく、或いは全部わかった上で二人は二人の会話を続けていく。

「あら、槙がいたらあなたのお守りにつきっきりになっちゃう」

「俺から離れがたくてか」

「誰よりも手間が掛かるからよ。あなた、他人の分まで怪我をするじゃない」

 桃花さんがコロコロと笑いながら町の方へ歩き出した。

 その背中を槙と並んで見送っていると、肩に軽く手を置かれた。

「桃花のこと、頼むな」

 言うと、槙も桃花さんを追って駆けだす。

 あの二人が恋仲だって噂は、正しくない。幼馴染で遠慮がないからそう見えるだけだ。だけど、二人ともお互いを意識しているのは、知っている。俺は二人とも好きだから、よく見ているから、嫌でもわかってしまう。

 熱かった頭の芯が、一気に冷めた。


 この頃の俺は、身勝手に焦っていた。

 あれから五年の時を経て、ようやくわかってきた。自分の過信と槙への憧れと桃花さんに関わる嫉妬。それらが俺を急き立てて、あの惨劇に繋がった。それともこれは責任転嫁だろうか……。

 穢物の大移動が国府に差し掛かってから三日が経過。すべては順調に進んでいた。順調すぎて俺は暇を持て余した。遠くから穢物の大行列が粛々と北へ向かうのを眺める日々に、時間の浪費を感じて焦りが増した。

 別に何かが起きて欲しいとか、そんな不謹慎なことを考えていたわけじゃない。だけど何かをしなきゃいけないと気持ちが落ち着かなかった。

 だから俺は小組の仲間に黙って荷駄陣所の様子を――いや、桃花さんの様子を見に戻った。槙にも、よろしく言われていたし……。

 森が少し開けたところにある河原に陣所は構えられている。穢物たちの行列はこの河の上流にあたる谷間を通っている。もし前線で穢士が怪我をしたり身濯が必要になれば、川伝いに歩くか筏で運べるように考えられてのことだ。

 戦運びが順調でも、負傷者が出ない戦はない。小荷駄の陣所はここだけではないというのに、数十人ほどが巫女や幼年組の穢士による治療を受けていた。

 桃花さんはそんな中でも重篤に穢れてしまった年長穢士の身濯をしていた。

 巫女の格好は身濯の能力に関わる。普段は白衣に緋袴草履履きの簡素な形を好む桃花さんも、今日はきちんと桃橘榊の正装に身を包んでいた。

 桃橘榊の正装は、絹の白衣に緋袴、緞子の千早に加えて、鏡の嵌め込まれた榊の冠、髪を纏める水引には榊の枝を差し、桃のぽっくり下駄を履いている。桃橘榊にまつわる装身具を身に纏うことで穢に対する抵抗を高めるためのものだ。

 普段は化粧の必要ない彼女も御役目では紅を引き、目尻に朱を差し、白粉を刷いている。俺は普段の桃花さんよりもこちらの方が好きだ。美々しくて、かっこいい。

 陣の端でそんな桃花さんの仕事を観察していると、ひと段落して患者から立ち上がった桃花さんが、不意にこちらを睨めつけた。どうやら、ばれていたらしい。隠れているつもりもなかったけど、忙しそうにしていたから気付かれているとは思わなかった。

「何故ここにいるの。交代は夕刻でしょう」

 つかつかと歩み寄りながら詰問してくる桃花さん。俺はばつが悪くて目を合わせられなかった。

「だって、あんなもの見張ってたって意味ないし……」

「だってじゃないの。早く戻りなさい」

「特に問題もないし、そんなずっと見張っていても仕方ないだろう」

「何かが起きる前に見つけるのが物見の役目なの。あなたが抜けたら、もし何かあったとき誰がそれを見つけるの。物見を安易に考えないの、とても大事な役目なのよ」

「……」

 桃花さんが俺のことを『あなた』と呼ぶのは本気で怒っているときだ。少し桃花さんの様子を見に来ただけなのに、どうしてここまで怒られなければいけないのか。納得のいかなさが擡げてくる。

「戻らないというなら、私が引っ張っていくわよ」

「わかったよ、流石にそれは勘弁してくれ」

 低い声で脅し付けられて、慌てて答える。

 俺は小組の中で浮いている。元々五人しかいない小組だ。馬が合わない奴はすぐ爪弾きだが、俺は特に、自分で言うのもなんだが頭一つ抜きんでて能力が高いせいで妬み嫉みを受けやすい。しかも俺自身、あんな幼稚な奴らといるよりも槙や桃花さんといた方が居心地がいいんだから、仲間外れにされて当然だろう。

 そんな訳で、桃花さんといる時間が長い俺はよくつまらない陰口を叩かれる。別に俺がとやかく言われるのは構わないんだが、桃花さんの陰口は流石に苛立つ。構い付けるのも癪だから放っとくが、言われないに越したことはない。桃花さんに引っ張っていかれたら、また何を言われるか分かったもんじゃない。

 俺が渋々持ち場に戻ろうとしたその時だった。西の方で呼子が鳴った。すぐさま、護衛に控えていた年長組の穢士が三人飛んでいく。呼子は決まった鳴らし方で簡単だが状況を伝える笛だ。今の鳴らし方は援軍求むの呼子だった。

「今みたいなこと、結構あるのか」

「そうね、日に二、三度はあるわ。つまり、よくあることだからあなたは気にしなくていいの。早く戻りなさい」

「わかったよ……」

 睨む桃花さんに追い返されるようにして、俺は河原を後にした。

 俺の持ち場は小荷駄陣所から川を遡上して北に向かったところにある。そこで、樹上に身を潜めて日がな一日穢物が陣所へ向かわないよう見張るのだ。鬼型や三体以上の集団を発見した場合は呼子で前線から人を呼んで退避、一体二体の穢物であれば個々人で対処してもよいことになっていたが、この三日、兎一匹現れる気配もなくて、俺の退屈と焦りは極致に達していた。

 確かに、物見を外れたことは少し浅慮だったとは思う。でも、予定では計五日で穢物行列は国府に被害を与えないところまで移動するのだ。既に三日も半分を過ぎた現状、何が起きるとも思えなかった。

 そう、思いも寄らなかったんだ。その瞬間まで。

 幅が狭くなってきた川沿いに、そいつらはいた。まるで何かを待ち構えるように。

「キた」

「キたぞ」

 山猫と狼の穢物――いや、言葉を操るということは鬼型か。二体はまさしく待ち構えていたのだ。川の真ん中に転がった平らかな岩の上に並んで。この俺を、待っていた。

 川幅はだいぶ狭くなったとはいえ三間(約五・四メートル)はある。扁平な岩は流れの真ん中だ。俺は歩みを止めず、水際まで近付く。穢物にとっては一足飛びの距離、既に奴らの間合いの内だ。勿論、武器は抜いている。お互いに臨戦態勢を整えたところで、

「おマエのおカゲでミコをたらふくクえる。だからおマエもクう」

 狼の鬼型が聞き取りづらい人語で聞き捨てならないことを言った。

「俺のお陰? 何がだ」

「おマエのアトをツけた。ヒトのスをみつけた。これでミコがクえる」

 狼の代わりに山猫の鬼型が説明してくれた内容に、愕然とする。

 山猫の穢物の森での隠密性は熟練の穢士でも気付かないことがある程だ。それは座学で聞いていた。しかし穢物が知恵を絞って穢士の後を尾行し、陣所を見つけて襲撃しようなどとは夢想だにしなかった。

 鬼型はこちらの甘さに付け入る。散々、年長穢士に言われてきた訓戒だ。それを今、実感した。穢物と鬼型は違う。穢物は動物の延長だが、こいつらは化け物なのだ。

 まるで人のように言葉を操り、人のように思考し、人のように罠を張る。だが、人のように突っ張った欲の皮が身を滅ぼすことまでは知らなかったようだ。

 ……それは、人も同じか。

 陣所を発見されたとしても、ここでこいつらを屠殺してしまえばいいだけの話。わざわざ喰いに来てくれるならば探す手間が省ける。

 こいつらは必ずここで屠殺する。物見に穴を開け、こいつらを引き入れてしまった俺にはその責任がある。

「おマエ、ワシらにキヅかない。おマエ、ヨワい。サキにクっておかないと、ホカにクわれる」

 鬼型は常識外れの化け物だが、いきなり露のように湧いて出るものではない。穢物が長い時を経て更なる穢を蓄積し、その穢に耐えて鬼型となる。そう言われている。故に、穢物とも鬼型ともつかない中途半端な奴らもたまにいるのだという。

 こいつらからは、そんな気配がした。自分が強くなったと気付いて、その力を試したくて粋がっているのだ。

 俺はもっと大型の、それこそ化け物と呼ぶに相応しい鬼型を相手にした事だってある。捕縄で動きを封じる助役だったが。だが、あの圧倒的な威圧感に比べれば、こんなの穢物と変わらない。気後れはない。俺でもやれる。

 そんなことを考えている間にも、狼の鬼型が飛び掛かってきた。

 予想通り、二間をものともしない瞬発力で、助走も無しに俺の頭上まで跳んだ。しかし、予測できていれば好機以外の何物でもない。相手は空中にあって真っ直ぐにこちらへ飛んでくるしかないのだから。

 懐から一本の棒手裏剣を抜き出し様、投げつける。鎖帷子が要所に縫い込まれた穢士装束は、その内にいくつもの袋が縫い付けてある。手裏剣や薬の類を常時携帯するためだ。

 幼い頃から毎日修練に明け暮れた手裏剣術だ。向かってくる的なんて、目を瞑っていても当てられる。俺が投擲した手裏剣は、過たず狼の鬼型の目に刺さった。

「ぎゃあっ!」

 人とも獣ともつかぬ不気味な悲鳴を上げて、狼の鬼型が流れに墜落する。それを目で追うような間抜けはしない。なにせ相手は鬼型もどきが二体だ。さすがに視線を遊ばせるほどの余裕はない。

 思った通り、狼の鬼型の攻撃に遅速を合わせて山猫の鬼型が水面を滑るように跳躍していた。その牙に小太刀を合わせ、巨体の脇を潜るようにいなす。

「そのテアシからクってやるっ!」

 躱した体躯の陰から、黒い眼を煮えさせた狼の鬼型がずぶ濡れのまま襲い掛かってきた。

 そんな怒り任せの攻撃に当たるほど柔じゃない。大振りの爪を難なく躱し、追撃の噛み付きも余裕で見切ると、伸びきった首という最大の好機が見えた。

 躊躇わず打ち下ろした小太刀が、隙だらけの狼の首を呆気なく叩き落とす。攻撃の勢いのままに黒い血を噴射しながら転がっていく首と体。その穢れた血が掛からないように気を付けつつ、山猫へ意識を向ける、が――。

「やられた! ツヨいぞ!?」

 そう叫んで、一目散に森の茂みへ逃げ込んでしまった。

 あまりの引き際の鮮やかさに足止めを思い付く暇すらなかった。が、このままでは陣所が襲撃される恐れがある。

 とはいえ、あいつ一体が襲撃してきたところで、こちらが身構えていればなんの脅威もないだろうし、そもそも陣所は一日置きに場所を変えている。偶然、場所を知り得た穢物の襲撃を予防するためだ。

 つまり、俺がこれから陣所に戻って発見されている旨を伝えれば、後は陣所の護衛についている年長組が対処してくれる。もしかしたら、今日はそのまま俺も護衛組に入れてもらえるかもしれない。飽き飽きした物見よりはよっぽどマシな御役目だ。それに、桃花さんと少し話せるかもしれないし。

 まあ、陣所を発見されたのは俺の失態だ。その辺、組頭から怒られるだろうな。でも、組頭にこっぴどく怒られれば、桃花さんは気の毒に思って俺を慰めてくれるだろう。それは少し楽しみだ。


 そんな日常の延長は、どこにもなかった。

「なん……だ、これ……」

 陣所が、穢物の大群に襲撃されていた。

 遠く、近く、あちこちで救援を請う呼子がけたたましく鳴いている。逃げ惑う巫女、怪我で身動きできず喰われる穢士、怪我をおして応戦する穢士、動けぬ穢士を助けようとする巫女……そんな中に、桃花さんの姿を見つけた。彼女は、つい先程手当をしていた年長穢士に肩を貸して、この場を離れようとしていた。

 その背後を、三体の穢物が狙っているのが遠目から見えた。河原の中頃にいる桃花さんのところまでおよそ五十間(約九十メートル)、間に合うか……いや、間に合わせる!

 腰裏の鞘から小太刀を抜くと、真っ直ぐに桃花さんへ駆ける。その途中、手の届く範囲や襲い掛かってくる穢物を片っ端から斬り伏せる。止めを刺す余裕なんてない、視界に入ってきた穢物のどこかを当たるを幸いに斬りつけて押し進む。

 纏わりつく砂利に悪態をつきながら十間(約十八メートル)も移動したところで、桃花さんも俺に気付いてこちらを目指してくれた。しかし碌に歩けない大の男を抱えての逃避行は捗らず、もう数秒もすれば追いついてしまうのは明白だった。

 間に合わない。絶望的な諦観が鎌首を擡げる。あと二十間(約三十六メートル)。他の巫女や穢士は各々の命を守るのに必死で、二人に手を貸す余裕はない。

 二人を間合いに収めた狼の穢物が飛んだ。牙を剥いた口から涎が飛沫くのが見えた。あと十五間(約二十七メートル)。穢物に当たるかどうか、下手すれば二人に当たる可能性もあるが、懐の棒手裏剣を構えた。

 だが俺がそれを抜き放つより先に動いた奴がいた。桃花さんに助けられていた年長穢士だ。彼は桃花さんを突き飛ばすと、駆けていた勢いそのままに転がった。そこにこれ幸いと穢物が襲い掛かる。身動きできなくなった獲物がいると気付いた他の穢物も二体加わり、年長穢士の姿は五体もの穢物に隠れて見えなくなった。

 桃花さんが後退りながら穢物の山へと悲鳴のように何かを叫んでいる。あの穢士の名前だろうか。

 穢物の山から一体がよろよろと離脱して倒れた。首を切り裂かれている。あの穢士は、まだ戦っているのだ。動けなくなっても、喰われながらも、桃花さんを助けるために自ら囮となって穢士として最後の意地を通そうとしている。

「桃花さん!」

 思わず叫んだ。年長穢士からあぶれた一体が桃花さんに狙いを変えたのだ。身代わりになった年長穢士から言い含められていたのだろう、顧みることなく俺の方へ逃げていた桃花さんだが……このままじゃ追いつかれる。

 あと十間。手裏剣はギリギリ射程範囲だが、桃花さんと穢物が一直線になっていて狙いが定まらない。

「くっそぉぉっ!」

 全力を出し切っている足にもっと走れと叱咤を飛ばす。河原の砂利にも慣れてきたが、それでも限度はある。狼の穢物が跳んだ。ここまで来て見殺しにするのかっ……!

 そう思った時、宙にあった穢物の体が急に均衡を崩した。桃花さんの背中を捉えていた爪が手前に流れ、彼女の緋袴の裾を切り裂いた。穢物の体が着地も無様に転がる。だがまだ生きている。起き上がった穢物の右目から、見慣れた鉄棒が生えていた。片目を貫くのは棒手裏剣だ。喰われながら戦っていた年長穢士の、最期の抵抗だった。

 遠目には緋袴が切り裂かれただけに見えたが、どうやらふくらはぎに爪が当たっていたらしい。つんのめって膝をついた桃花さんに、起き上がった穢物が唸りながら駆け寄る。

 あの穢士の抵抗は、無駄じゃなかった。今は桃花さんも伏せていて当たる心配もない。俺の射程に入ってくれた穢物の、まだ無事な眼に棒手裏剣が突き立った。

 両方の視力を失った穢物が悲鳴のように小さく鳴いた。そして同時にそれが断末魔となった。棒手裏剣を追いかけるように疾った俺の小太刀が、丸太のような素っ首を叩き落とす。

「杉さんっ、有難う!」

 横座りに片足を押さえる桃花さんが叫んだ。その視線の先を見遣ると、穢物に集られていた年長穢士が小太刀で自裁するところだった。

 客子は穢への抵抗が高いがために、人の穢物――堕鬼へと変ずることがある。我を忘れ、穢物のように人を襲う客子の成れの果てだ。だから、穢士や巫女は限度を超えて穢れそうなとき、自裁することを教え込まれている。誰だって、自分の成れの果てが仲間を殺すことなんて望まない。そのおかげで、俺は――多分、穢司の誰も、堕鬼なんてものは見たことがない。

「桃花さん、動ける?」

「止血すれば大丈夫よ」

 気丈に言うが、緋袴の裂け目から見える白いふくらはぎは真っ赤に染まっている。止血どうこうで動けるようになる傷でないのは明白だ。しかし桃花さんは弱音一つ吐くことなく、懐から薬と晒を取り出して止血に入った。

 であれば、俺が諦めるわけにはいかない。

 穢物はまだまだうんざりするほどいるのだ。桃花さんの応急手当が終わるまでの時間を稼がなきゃならない。呼子の音は更に周辺へと広がり、遠く近く木霊している。この分であれば前線や別の後陣から救援が駆け付けるのも時間の問題だ。最悪、その時まで息があればなんとかなる。

 汗ばんでいた小太刀を握る手を開き、握り直す。幸い、武器はその辺のに大量に転がっていた。既に餌食となった穢士たちの得物だ。手裏剣も、小太刀も、使いたい放題だった。

 桃花さんを守り抜く。気構えを新たにした俺の目の前に、飛び込むようにして現れた一体の穢物がいた。

「おマエ、キたのか。クわれに」

 言葉の内容からしてさっきの山猫の鬼型なのだろう。どいつもこいつも同じに見えるから、実際はどうなのか知らないが。

「おマエのにツいてきたおカゲでみんなクえた。レイをイうぞ」

 わかっていたことだが、面と向かって言われると流石に動揺する。

「だからこそ、俺がなんとかするんだ……」

「そう、それで納得いったわ」

「桃花さん……」

 背後から聞こえた声にギクリとする。

「どうして、いきなりこんな大群で襲われたのか、しかも護衛の穢士が散っている間に。偶然にしてはあまりにも悲惨だって思ってたけど……全部、鬼型の企てだったのね」

「ひひっ、だからどうした」

「桐、気を付けて。こんな鬼型もどきが思い付く計略とも思えないわ。まだ真打がいる」

 一瞬、俺が原因だったことを責められるのを覚悟したけど……桃花さんは、振り返った俺を励ますように微笑んでくれた。

「わかった」

 萎えかけた闘志が、より一層激しく強くなって蘇る。

 動かない俺を臆したと見たか、山猫の鬼型といつの間にか集まってきた狼やら猪やら猿やらの穢物たちが一斉に襲い掛かってきた。

 折角の数の優位だというのに、包囲が雑だ。正面から二体、左から三体、右から二体、背後から四体、ほぼ同時に向かってくる。穢物に戦術を解くのも阿呆臭いが、特に背後の四体。背後だからとあまりにも寄せが無造作だ。遅速を見極めるまでもない。

 とりあえず、何かと目障りなあの山猫だ。抜き打ちの手裏剣二本、立て続けにもう一度二本、正面にいた山猫の額と右にいた猪の額にそれぞれ二本ずつが突き立ち、地面に転がった。これで二体。

 桃花さんの手当てが終わるまでは穢物を近付けるわけにはいかない。

 右に跳び、もう一体の猪の穢物の突進を避け、すれ違い様に首筋を一閃。勢いそのままに転がる首を後目に、小太刀を投げた。

 小太刀は、砂利に座り込んだ桃花さんの頭上を飛び越え、左手側から迫っていた狼の穢物の頭蓋を砕く。

 小太刀を投げると同時に、俺は足元の穢士の遺体から小太刀と手裏剣を二本拝借していた。手裏剣を背後から来る四体に向けて放ち、桃花さんまで半間と迫っていた正面からの狼の穢物を新たな小太刀で斬り伏せる。

 そのまま駆け抜け様に左の残り二体に立ちはだかった。背後から迫っていた四体は全部が猿の穢物で、飛んできた手裏剣を警戒して今は足を止めている。手裏剣はもう打ち止めだが、奴らがそれを知る術はない。下手に動けば他の穢物のように串刺しにされると怯えているのだ。『猿の穢物は中途半端に頭が良い』故に使えるはったりだ。

 その間に、俺は狼と猪の二体を悠々と仕留めさせてもらった。これで残るは背後からきていた猿の四体、なのだが……形勢が不利と見た四体は、背を向けて逃げ出した。

 わざわざ背を向けてくれるとは好都合だった。避けられる心配がない。

 俺は少し離れたところに倒れていた別の穢士の遺体から新たに三本の手裏剣と小太刀を借り受けると、猿の穢物四体に向けて擲った。多少距離があったせいで即死させられたのは一体だけだったが、他の奴らもすぐには動けなくなったようだ。周囲にすぐさま襲ってきそうな穢物がいないのを確かめて駆け付け、止めを刺した。

 穢士は穢物を見逃さない。見つけた時に必ず屠殺する。見逃せばその穢物は何人もの庶民を殺めるかもしれないし、鬼型化してより脅威を増すかもしれないのだから。

 俺が戻ってくると、桃花さんは応急手当てを終えていた。

「流石、少年組最強は伊達じゃないわね」

 額に脂汗を浮かべた桃花さんがそう茶化す。

「……動けそうか?」

「座して死を待つ、なんて私の趣味じゃないわ」

 とは言うが、立ち上がろうとする桃花さんの動きは硬い。無事な左の膝に手をついて支えながら右足を持ち上げようとしても、痛みにままならないらしい。どうやら、思ったより傷が深いようだ……。

「無理に動いて傷が悪化すれば足を落とさなきゃいけなくなるかもしれない。ここで援軍を待とう」

 既に救援の呼子はかなり遠いところからも聞こえてくる。ここから逃げた誰かが、呼び続けてくれているのだ。これを聞き逃すような穢士はいない。いずれ必ず、援軍はやってくる。

「……そうね、わかったわ」

 躊躇いがちに、桃花さんが頷く。ここで救援を待つということは、桃花さんを守って俺が戦い続けるということだ。桃花さんはそれを心配してくれたのだろう。

 だからこそ、守り甲斐があるというものだ。そう、槙との約束だけじゃない。俺自身も、桃花さんを守りたいんだ。ここで踏ん張らないでいつ頑張るってんだ。

 周囲を見渡すと、同じように動けない者を守りながら戦う穢士や巫女が三々五々、そしてそれらに集る穢物が数十体以上。数は把握しようとしている間にも増えていく。悠長に状況を確かめている暇はすぐになくなった。五体もの穢物が、動けなくなった桃花さん目掛けて襲い掛かってくる。

 援軍が駆け付けてくるとしたら、他の小荷駄陣所からではなく前線からだろう。小荷駄陣所にはそれぞれ最低限の守りしか置いていない。むしろ余力があるとしたら小競り合いが主な前線だ。

 この小荷駄陣所と前線は直線でおよそ三町(約三二四メートル)ほど離れている。小荷駄陣所としては最短距離だが、間には峻険な小山――というか壁のような崖が立ち塞がってる。穢物たちを誘い込む戦場にこの地が選ばれた由縁だ。この辺りはそんな風化に取り残されたひだのような壁が迷路のように入り乱れている。

 その壁を回避するために西から回り込んでいたら、援軍が到着するのにかかる時間は四半刻(十五分)。援軍までこの窮状が届くとして、それから動いたとしたら半刻(三十分)ほどか。これだけの数の穢物からその時間、仲間を守る。なかなか骨の折れる役回りだ。

 いつか、本物の鬼型を一人で倒す穢士になるなら丁度いい試練だ――そう考えて己を奮い立たせでもしなければ、とてもじゃないが立ち向かえない。

「弱気になったらそれこそ思う壷だ。今は――」

 桃花さんのことだけを考える。

 流石に、背後に控える彼女には聞かせられない言葉尻を飲み込み、駆けだす。

 まずは正面の勢いを削ぐ。それからは相手の出方次第、とりあえず自分たち以外を狙う穢物は無視だ。この場に残っている穢士や巫女は各々残らざるを得ない理由があって残れる手段を講じて残っているはず。そうでない者はとっくに骸となって転がっている。だから、彼らは彼ら自身でどうにかして貰うしかない。そしてそれは俺と桃花さんにも言える事。どんな苦境に立たされても、援助は当てにできない。

 誰を狙っているのか、何を狙っているのか、どう動くか、どう動かせるか、考えることも動くことも一瞬たりとて止めてはならない。そうして援軍まで生き残る。それが俺たちの戦の勝利条件だ。

 狼の穢物の口蓋に小太刀を突き込み、猿の穢物の首を刎ね、猪の穢物の後肢を切り飛ばし、鹿の穢物の横腹を切り裂く――一体どれだけ、小太刀を振るったか……そして、どれだけ繰り返せばいいのか……一日中戦っているような疲労感を和らげようと一息ついてふと周りを見渡すと、立っている仲間の数が半分ほどの二十人程度に減っているのに気が付いた。

 他は無論、穢物にやられたのだ。この状況から自力で逃げ出せるようなら、こんな地獄に最初から居残らない。

 あとどれくらいで援軍は到着するのか……狼の穢物の喉元に小太刀を突き入れ、既に完膚なきまでに浴びた穢物の穢れた血を更に塗り重ねた時、西の方から穢物ではない何かが森を抜け出てくるのが見えた。人、穢士装束に身を包んだ穢士だ。

 追い縋る穢物に這う這うの体ながらも止めを刺し、砂利へと変わる河原の手前で立ち止まった。おそらくここを守備していたであろう青年の穢士だ。そばかすが印象的な素朴な顔に見覚えはない。その彼が、肩で息をする合間に叫んだ。

「逃げろ! 援軍は期待できない! 向こうも穢物の大群に手一杯だ! こっちに手を差し向ける余裕はない!」

 ここで奮戦していた誰もが、一瞬だけ状況を忘れてしまうような、絶望的な宣告だった。そう思っている間にも、俺の視界の隅でそれまで頑張っていた満身創痍の穢士が喰われた。次いで、彼の護っていた巫女と怪我人の穢士も餌食となる。

「桐……あなただけなら――」

「逃げないからな」

 背後から聞こえた気丈な声の機先を制する。

「槙と約束したんだ。桃花さんを守るって。だから、逃げるなら一緒にだ」

「……わかった、じゃあ、他の穢士と連携を取りましょう。各々で戦っていても数に圧されるだけよ。守る対象を一か所に集めて、こちらも数で防ぐの」

「それしかないか……あそこまで動ける?」

「動くしかないでしょう」

 力強く肯った桃花さんが、額に脂汗を浮かべながらも立ち上がり、歩き出す。

 目的地はもう少し川の方に寄ったところで応戦していた仲間たちのところだ。そこには三人の巫女と、動けなくとも手裏剣で援護している穢士が一人と、二人の護衛が付いた一番人数の多い集まりだった。

 そこに合流して川にもう少し寄れば、攻め手の方向も限定できる。一人を休めながら交代で応戦する余裕も生まれるだろう。

「移動するなら手伝うぞ!」

 伝令役だった青年穢士が、一番手近に居た俺たちの援護に入ってくれるらしい。俺は内心、一息ついた。流石に、穢士は穢に強いとは言っても限界はある。既に、身体中の皮膚が引き攣るような痛みに襲われていた。たぶん、血塗れの下は黒斑だらけだろう。早いところ誰かに身濯いでもらわないと、せっかく希望が見えたのにさっきの壮年の穢士みたく自裁しなきゃいけなくなる。川に付けば誰かに身濯いで貰えるだろう。ここには巫女と穢士しかいないのだから、その点は心強い。

 まずは彼に桃花さんの移動の補助をしてもらって――そう考えた矢先だった。

 黒い疾風のような大きな影が、森の木下闇から千切れ飛んできたかと思うと、その青年穢士にぶつかった。ぶつかられた青年穢士の身体が、まるで紙細工のようにバラバラに弾けた。骨も肉も変わりなく薄紙のように千切れ飛ぶ光景は、悪い冗談のようだった。

 血煙の向こうに他の穢物より優に倍はある巨大な体躯の狼の鬼型――成り損ないや未熟者ではない、本物の鬼型を見なければ、冗談か夢だと思っただろう。

 それは俗に天災とまで呼ばれる怪物だ。存在するだけで周囲を穢し、生命そのものを憎むように殺し、悠久の時を閲した化け物。穢物にとって穢士が天敵であるならば、穢士にとっての天敵がこいつらなのかもしれない。ここに現れたこの一体を倒すのに、五人一組の小組が五組は必要になるだろう。そしてその半分も生きて帰ってはこれない。

 そして、今、俺の眼前には、そんな鬼型が、三体いた。

 その三体から発せられる尋常ならざる威圧が、否応なしに俺に現実を悟らせてくる。勝ち目……いや、勝ち目どころか、生き残る算段すら失われた、と。

 鋼のような銀毛は眩いほどの異彩を放ち、見上げるような巨躯で悠然と周囲を睥睨する。上顎から伸びた牙は穢士の小太刀ほどにも重厚で、四肢に備わる爪が人の身を紙切れのように引き裂いたのは今さっきの出来事だ。それも、穢物の動きに見慣れた俺の――いや、恐らくこの場の誰も見切れてはいないだろう。穢士の反応すら上回る敏捷さで、それをやってのけたのだ。

 戦場の真ん中で棒立ちになる経験は初めてだった。そんな自分に気付いた時、戦慄した。そいつらの登場で、この場に居た穢士や巫女だけでなく穢物の動きも止まっていなければ、間違いなく俺は不意を突かれて喰われていた。

「何を梃子摺っておるのかと思いきや……」

 苛立たし気な唸り声の混じる不思議な声が、静まり返った戦場に響き渡る。それが、三体の化け物の内の一体からだと気付くのにわずかな間が入るほど、澄んで耳に障らぬ声だった。いや、耳に聞こえたのかどうかも怪しい。聞こえたような気がしただけで、気のせいだったのかもしれないと自分の正気を疑うような声だった。

「西はあらかた片付いたが、いずれマヒトの猛者が訪れよう。貴様ら、喰うのであれば疾く喰え。我らが見守ってくれようぞ」

 別の一体が仕方なさそうに宣告した。それは物言わぬ穢物たちにとってはお墨付きだが、俺たちにとっては死の宣告。まるで家畜扱いの好き勝手な物言いだ。その横柄な態度に感情が揺さぶられる。

「簡単に、喰われると思うなよ」

 俺はいずれこいつらを、この本物の鬼型を独りで倒す穢士になるんだ。今この場を切り抜けられない程度であれば、その域に達する日はこない。

 だが、身構えた俺を嘲笑うように二体の穢物は一瞥もくれず戦場の左右に散った。残った一体が、考えの読めない獣の眼差しで俺をじっと眺めていたかと思うと、すいっと視線を流して猿の穢物の死骸を見た。

「去んだか、憐れな」

 その言葉に感情が揺れる。仲間を悼む感情がある事、その感傷を僅かでも人間に向けることのない非情さ。手前勝手な殺戮に怒りが湧くも、そこに火が付く前にその威風に吹き散らかされる情けなさ。それらの引っ張り合いに、俺の内心が少し乱れた。

 そうした動揺が表に出ないよう、堪えながら鬼型の動向を注視していると、鬼型が思わぬ行動に出た。

 優美ともいえるゆったりとした所作で、踵を返したのだ。

「待て、どこへ……!」

 武器を構えて応戦しようとする俺をまるで歯牙にもかけないその態度に、威圧感より怒りが勝った。思わず叫ぶ。だが、鬼型はのうのうと闊歩して戦場の中央あたりに陣取ると、まるで総大将の貫禄であたりを睥睨し始めた。

 俺は、そこに至るまで悠長に鬼型を眺めていた。何も、できなかった。恐怖心とも自制心とも取れる得体の知れない感覚が、俺を動かさなかった。

「桐っ、しっかりして!」

 桃花さんの叱咤が飛んでくるまで気付かなかったが、勿論、呆然と突っ立っている間に周囲を穢物に囲まれていた。こちらに興味を失ったかのような鬼型への警戒より、そっちの方が喫緊だ。

 気構えを直している間にも飛び掛ってきた狼の穢物を斬り捨て、俺の死角から桃花さんへと牙を剥いた猿の穢物へ飛び掛る。そう、鬼型が現れたところで俺のやることは変わらない。この場を切り抜けるためにひたすら穢物を屠殺するだけだ。生き残る希望が見つかるその時まで……。

 穢物の相手に手一杯で周囲を確認する余裕はないが、それまでは断続的だった戦場に木霊する絶叫や怒号が、鬼型の登場で激しくなった。そして徐々にその数が減っていくのを、耳が捉えてしまう。

 いつ、どうやってその時ってのは訪れるんだ……?

 仲間の死と、全身を苛む疲労が、胸に疑問を沸かせる。

 普段であれば絶対に浮かべることのない、絶望を生む疑問だ。

 絶望が兆せば、後に待つのは死のみ。俺が死ねば、次は桃花さんだ。

 それだけは決してさせない。

 幾度となく芽吹く絶望を、桃花さんの存在を支えに摘み取りつつ、穢物を屠殺していく。だが、穢物はいくら減らしても西から次々とやってくる。鬼型が先導した支流が、北からの援軍を防いでいると言っていた。槙たちのことだ、どうにかしてこちらに援軍を差し向ける手立ては打つだろうが、それがいつになるかはわからない。

 わからないまま戦い続けるのは、つらい。

 しかも多勢に無勢、独りで一人を守っている状況だ。手傷が増えていくのはどうしようもなかった。僅かずつでも血が流れればそれだけ体力を失うし、何より痛みは気を萎えさせる。

 加えて仲間の断末魔、そして鬼型の存在。ただそこにいるだけだというのに、奴らの視線は見えない糸のようにこちらの身体に巻き付き竦めさせる。感じる疲労が段違いに増えた気がする。

 桃花さんの存在で奮い立たせる以上に、心が摩耗していく。

 疲労で身のこなしが鈍る。受ける傷も増えてきた。来るとわかっている攻撃なのに、辛うじて避けるのが精一杯になっている。穢の影響も無視できないものになってきている。皮膚があちこちピリピリと痛み、身体の節々にも違和感が出てきている。

 このままではまずい。だが、手の打ちようもない。じわじわと真綿で締められるような鈍い危機感が、心を冷やしていく。

 だが、まだ、穢物程度なら十分やれる……そう、痩せ我慢で己を鼓舞した矢先だ。

 一体の猿の穢物が、俺の屠殺した狼の穢物の身体の陰に隠れていた。気付いた時には手の届かないところまで、桃花さん目掛けて抜け出していた。

 懐に手裏剣はない。それ以上考えるより早く、俺は背後に身を捻りつつ手にしていた小太刀を投げ打っていた。小太刀は猿の穢物の喉を貫いて、その動きを止めた。

 すぐに次の得物を見つけないと、これ以上傷を受ければ穢が溜まり過ぎてしまう。穢が溜まり過ぎれば、先程の穢士のように俺も首を掻き斬らなきゃいけない。それじゃあ桃花さんを守れない。

 視線だけを這わせて手近の得物を見繕うと、幸いにも誰かが遺した小太刀が突き立っているのを見つけた。或いは、こんな事もあろうかと自分で立てておいたものかもしれないが、もはや記憶にない。

 それを手にすべく首を巡らせた矢庭、視界の隅に何かが映り、右の太股に軽い衝撃が走った。それが何なのかと判断する前に、漣のようだった衝撃が炎の津波のような痛みへと変じて俺の半身を焼く。

「桐っ!」

 桃花さんの悲鳴が聞こえた。それをよすがにかろうじて意識を保つ。痛みにぐらつく視界で捉えたのは、太腿に噛みつく狼の穢物だった。この直後には肉を引き千切る狼の首振りが来る。その前にこいつを屠殺しないと、完全に動けなくなってしまう。

 右腕で一抱え以上もある狼の頭を押さえると、半歩、左足を踏み出し当て推量で小太刀を取り、抜き様に狼の穢物の首を掻き切った。力を失って、首だけになった穢物の牙が地面に落ちる。

 追い打ちは防いだものの、傷は決して浅くなかった。そのせいで次に動きが続かない。

 自分の身体を叱咤している間に、背中を何かに叩かれる。感触から、爪か何かで引き裂こうとしたようだが、穢士装束の下に着込んだ鎖帷子がどうにか防いでくれた。動かない右足を庇いつつ振り返り、背後を小太刀で薙ぐが、すでにそこには何もいない。

 まずい。そう思った瞬間、視界の右側が一瞬だけ真っ赤に染まって闇に転じた。そして追いかけるように続く灼け付くような痛み……右目を潰されたのだと理解する前に、正面から駆けてくる狼の穢物を残った左目で捉える。大きく開いた顎が、俺の喉首を深々と捉えた。

 口の中に血と獣の匂いが広がる。痛みと息苦しさに意識が遠のく。そのわずかな間に、桃花さんの声を聞いた気がした。

 これで、俺は死ぬ。

 穢士なんて、いつ死ぬかわからない。だから、今ここで死ぬことに恐怖はない。

 ただ、悔しかった。

 俺が死ねば、桃花さんも殺される。

 鬼型の思惑通り、穢物たちの餌として食い散らかされる。

 槙との約束も、将来の夢も、これで潰える。

 死にたくない。死んでいられない。せめて、槙に桃花さんを託すまで、死ねない。

 灼けた鉄を飲み込んだような痛みと熱が、身体の芯から込み上げて、弾けた。

 それからは静かなものだった。ぼんやりと、疾る己の視界と弾け飛ぶ穢物の四肢が、夢のように脳裏に浮かぶ。これがよく言われる走馬灯という奴なのだろうか。だとしたら、俺の人生は穢物の屠殺しか記憶に無いのだろうか。最期くらい、こんな血生臭い光景ではなくもっと穏やかな情景の中で消えていきたいところだったが……。

『桐は何も悪くない。誰も何も悪くないの』

 桃花さんの声がした……。

『悪いことなんて何もない。ただ、悲しいだけ――』

 桃花さんの声を聞きながら消えていくのならば、悪くはない……。

 でも、悲しいなんて、ないよ……怒りも、悲しみも、喜びも、楽しみも、もう、何にもないんだよ、桃花さん……。

『――忘れないでね、悲しみを忘れ――』

 わかったよ、桃花さん。俺は、忘れない。この悲しみを忘れない……。

 でも、桃花さん、俺が覚えていられるのはもう僅かな時間だけなんだ……。

 俺は、穢士の桐はもう、死ぬのだから……。

 桃花さんの声が次第に遠のき、代わりに無粋な音が聞こえてきた。これは、呼子の音だ。穢士の使う、呼子の音が、遠く、近く、間延びして聞こえてくる。

 気が付けば、初夏の空に夕闇が滲んでいた。やけに視界が狭いが、そんな事が気にならないくらい綺麗な空だった。白と、青と、赤と、橙と、紫と、群青が、東から西に描くまだら模様はいつまでも見ていて飽かない。

 どことなく懐かしい気分にさせるのは、場違いな祭囃子のように遠くから聞こえる甲高い笛の音か。

 穢司(けがれのつかさ)の近くの神社では年に一度例大祭が執り行われる。その祭囃子の音が穢司にも届いて、まだ幼かった俺の気持ちをくすぐったものだ。だけど、あれは笛の音ではなく呼子だ。遠くから聞こえる呼子の音以外には、せせらぎしか聞こえない。

 そう、ここは河原だ。荷駄陣所の河原で、俺は横たわっている。

 まるで、うっかり昼寝をして悪夢から目覚めたような心境だった。俺は、どうしてこんなところで寝ているのだろうか。御役目で何かしくじって、後方の陣所に運び込まれたのだろうか。

 右目が見えないことと関係があるのだろうか。どうして、右目が見えないのか……右目に触れようとしところで、不意にその臭いに気が付いた。

 血の匂い。それも、死を連想させる濃密な血潮の匂いだ。それを手掛かりに、記憶が一瞬で戻ってきた。悪夢であれば良かったと思う、悲惨な記憶が。

 だが、この静けさはどうしたことか。身を起こして、息を呑んだ。

 静かなのも道理だった。ここにいた筈の動くものすべてが、死んでいた。穢士も、巫女も、穢物も、そしてあの本物の鬼型ですら、死んでいた。

 原形を留めているものは少なく、皆、細切れか八つ裂きにされて血の海に沈んでいる。血は細流となって河に流れ込み、清流に幾筋もの赤い帯を描き出していた。一体なにが起きたのか、想像すらできない惨状に身体が震える。歯の根が合わない。

 そして、どうして俺はこんな状況で生き延びたのか。桃花さんは、無事なんだろうか。

 ふと、自分が枕にしていたものが気になって振り返ると、そこには黒く醜悪な肉塊が落ちていた。それは人が限界まで穢れて変じる、黒腫の塊。成れの果て。

 弾かれたように肉塊から離れていた。穢士にとって、それは忌むべきものだ。嫌悪感が勝るのは致し方ないと、頭では理解できる。

 だが、それが、親密な人であれば話は別だ。

「桃花……さん……?」

 聞いたところで返事が無いことはわかり切っていた。だが、思わず口からその名が零れ落ちていた。

 その肉塊が人であった特に纏っていた装束――巫女装束と桃橘榊を模した装身具や私物が、彼女であると訴えてくる。

 否定できる材料を探しても、何もない。逆にその黒腫の塊が桃花さんの成れの果てだと、再確認するだけだった。

「桃っ、花、さ……」

 止め処ない涙で、残った左の視界が滲んでぼやける。触れようと手を伸ばすが、嫌悪が先立って触れられない。

 桃花さんなのに気持ち悪がっている自分が、腹立たしい。悔しい。そうした感情が、彼女を失ったこと以上に涙を流させる。

「どうして、こんなことに……」

 思い出そうとしても、子供の頃の出来事や最近のどうということもない記憶ばかりがゴチャゴチと脳裏を飛び交うだけで、自分がどうやってここに来たのか、ここで何があったのか、まともな記憶は出てこない。

 ただ、関係があるのかどうかも怪しいが、こびりついたようにそれだけが何度も再生される記憶の残像があった。

 人とも思えぬ速さで飛び交う視界。

 視界の隅に映ったかと思えば、血を撒き散らして千切れ飛ぶ肉塊。

 そして、血溜まりに映る醜悪な顔。それはあたかも御伽噺に聞く鬼の顔のようで……だが、左側の角がない、片角だ。

「お……に……? 」

 鬼が、ここに現れたというのか。空想の産物であるはずの鬼が、ここに?

 でも、そんなものでも現れない限り、こんな惨状は説明がつかない。穢物も、人も、鬼型ですら、これほど無慈悲に殺せる生き物なんて、いるはずがない。

「そして、桃花さんは、鬼に……」

 自然と視線が桃花さんだったものに吸い寄せられ、嘔吐感に目を逸らした。

 桃花さんは、鬼に穢されて、こんな姿にされたのか。

 嫌悪も、恐怖も、悲哀も、絶望も、すべてが赤く染まっていく。俺の全てを奪っていった、鬼への怒りが膨らんでいく。

 たとえ、それがどれほど強大な存在でも、人の力では到底敵わない化け物でも、そんなことは関係ない。

 ここで追わなければ、俺はもう、ここから何処へも行けなくなる。

「絶対に、見つけてやる……」

 噛みしめた奥歯に、血の味が滲む。この味を、俺は生涯忘れない。

 俺は、鬼を追う覚悟を決めた。

 それはつまり、国を捨てる。穢司を抜けるということだ。

 穢士が穢司を、国を抜けることは大罪だった。俺自身だけでなく、小組の者も同罪で処分されるほどの重罪だ。でも、この時の俺は露ほどもあいつらに対する躊躇いは感じていなかった。どうせもう、鬼型に襲われて死んでいるとさえ思った。実際のところは、わからない。俺はあの惨状の中で死んだものとして扱われたのか、国から追手が掛かるようなこともなく、あれ以降、関わり合いになることがなかった。

 夢を見ていた。何度も見てきた夢だが、ここのところはとんとご無沙汰だった悪夢だ。

 もしかしたら、あの鬼に近付いたのかもしれない。本気でそう思った時に見る夢。己の犯した過ちを思い返すための夢。

 胸の悪さを抱えてキリが目覚めた時、桃橘榊の杜はとっぷりと日が暮れていた。寒さには強いキリだが、冷えた寝汗が思った以上に体温を奪っていたらしく、その長身をブルリと大きく震わせた。

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