9.
飯屋での騒動以降、寧は自分の身辺に怪しい影がないかと気を配っていたが、一向にそれらしい気配はなかった。
一度だけ勘吉親分のところに御用の進捗を窺いに行き、捕縛した髭面の仲間たちが何か話さなかったと聞いてみた。わずかでも自分を狙う影について知りたかった。
勘吉親分は少し考える素振りを見せた後『あなたも当事者だ、多少は構わんでしょう』と前置きして、破落戸たちの話した内容を聞かせてくれた。
と言っても、彼らはどうやら誰かに雇われた髭面が更に手数として雇っただけの小者らしく、『女侍を一人かどわかし、どこぞ別の町の遊里に放り込む』としか聞かされていなかったようだ。
それを聞いた寧は怒りか嫌悪か背筋に鳥肌が立つのを禁じえず、それが顔に出ていたのか勘吉親分は苦笑を浮かべた。
結局、何もわからないまま、同じく手詰まりになりつつある金助親方にもう一度お調べを受けそうになった寧は慌ててその場を逃げ出した。
自分を煙たく思っている誰かがいるのは確かだが、その思惑にとんと見当がつかない。寧の心底にはもやのような得体の知れない不安が立ち込めていた。
とはいえ幸か不幸か、今はそんなあやふやなものにかまけている余裕はない。
昼もだいぶ過ぎ、これから日が傾き始めるといった刻限。頭痛に悩まされていた寧は敷布団に横たわって天井裏の梁を眺めていた。
既に頭痛はだいぶ引いている。頭痛の原因もおおよそ見当がついた。
というのも、横になってあれこれ思い返すにつけ、昨日の出来事が鮮明に戻ってきたのだ。
その内容に、寧は悶絶していた。
その中で火薬湯なる薬酒を飲まされたことを思い出し、これがかの有名な二日酔いかと納得した訳だ。
そんなこと、どうだってよかったが。
「一体、どんな顔をして会えばいいというのだ……」
これで果たして何度目だろうか。命を助けてもらった件といい、狩った獲物を譲ってもらった件といい、ここまで運んで貰った件といい、キリには返しきれないほどの借りを作ってしまった。
それ以上にそもそも、あんなあられもない姿を晒した時点で合わせる顔がない。
「いや、しかし、あいつだって……」
寧の裸を何度も見て、触れている。あまり自分の容姿に頓着する寧ではないが、世間に出てみて自分がそれなりの器量良しと見られることくらいは弁えている。
そうした眼福に預かれているのだから、それなりの返済にはなっているはずだ。
とは思いつつ、キリが果たして今まで嬉しそうにしていたかというと、寧にはよくわからない。
キリは普段から何を考えているのか何を見ているのかわからないところがある。表情も、顔の半分を隠しているというのも手伝って読み辛い。
果たして寧が思うほどキリが喜んでいるかは怪しいところだった。
「もう少し嬉しそうにしろと言うのだ」
不平を漏らしたところで聞く者もいない。そんな風に零した愚痴が、寧が見る部屋の天井には無数に漂っていた。
どんどんっと乱暴に表戸を叩く音がして、そうした幻想が吹き飛ばされる。
「藤花さん、いらっしゃられますかー藤花さん」
聞き覚えのない若い男の声だった。夢から覚めたような気分の寧がゆっくりと身を起こす間も、無神経に戸を叩いている。
「羅切さまの使いで参りました、石呉丁名主屋敷の三太です、お届け物があります、藤花さんいらっしゃいませんかー」
如何にも面倒臭そうに淡々とした口上を聞き終えて、寧は危険はないと判断した。片手で布団脇をまさぐり、槍は失われたのだと思い出して少し気を落とす。
昨日、暖を取るために柄の部分をキリに燃やされたのだ。これも急いで拵えを用意しないと新月まで時間が無い、と思い出し更に気を滅入らせる。
身体に掛けていた掻巻を頭から被り、薄い襦袢一枚の身体を隠して土間に立った。
「待たれよ、いま開けるでな」
裾を擦らないように土間を横切り心張棒を外すと、待ちかねたように来訪者が戸を開けた。
戸の外にいたのはまだ二十歳くらいの若い男で、着流しにお仕着せの法被を羽織っている。丁名主の屋敷に奉公する下男といったところか。
下男は掻巻を被った寧を見て一瞬ぎょっとしたように立ち竦んだが、関わりたくないと思ったのかすぐに気を取り直して奉公人の顔に戻った。
「羅切さまよりお預かりしたものです。中にお運びしてよろしいですかねー」
先程述べた口上を繰り返し、片手に提げていた四角い風呂敷包みを持ち上げて見せる。
「ご苦労、上り框に置いてくれ」
寧が身を避けて中へと誘った。
受け取ってくれれば面倒がないのにと目で語りつつ、下男は言われた通りに上り框へ荷を置くとそそくさと踵を返す。
そのまま立ち去るのかと思いきや、開けっ放しの戸に手をかけたところで思い出したように寧へと顔を向けた。
「羅切さまからの伝言です。『明日二十二日の昼一ツ、左大門提灯前にて』とのことです」
言うべきことを言うと、下男は「それでは」と短い辞去を残して戸を閉めた。戸の向こうで、気配が早足に去っていく。
羅切からの贈り物。寧には心当たりがあった。
過日、羅切は寧に料亭への同伴を願った。寧が着ていくものが無いと断った折、羅切は一計があると言って寧を説得したのだ。
「これがその一計とやらか」
中身の見当はついていた。その単純明快な企てに失笑も已むを得ないが、言葉とは裏腹に寧の声は弾んでいた。
戸締りを改めた寧は掻巻を脇に置き、さっそく包みの結び目を解いてみた。
風呂敷包みの中身は畳紙の包み四つ重ねだ。一番上の包みを取り上げると、風呂敷の隣でそれを開く。
「おぉっ」
寧の口から独りでに歓声が漏れた。
出てきたのは一枚の袷だった。
折り目正しく畳まれていたそれを広げてみると、寧の視界が静かな夜の冬に染め上げられた。
生地には雪花小紋が染め抜かれ、深々と降り積もる雪を背景に肩から叢雲の満月が覗き、月光は裾に枝を伸ばす梅花を鮮明に浮かび上がらせている。
雪月花と呼ばれる肩裾模様の外着だが、生地は木綿地だ。不思議に思いながら襟を捲ってみると裏地は絹だった。
絹地で外を歩くのもないではないが、分限者でもない限り浮ついて見えるのは確かだ。木綿地であるのは普段着でも着用しやすいようにという羅切の配慮なのだろう。裏地が絹なのは言わずもがな、着心地を求めてのことだ。
あまり余所では見ない誂えで、さぞかし値が張ったであろうことは察するに容易だった。
寧はわくわくする気持ちを抑えるように、着物を身体に当ててみる。少し裾が短い気もするが、おおむね問題はなさそうだ。
次の包みには帯が入っていた。
地が薄色の着物に合わせ、帯は暗い色の紺青だ。表情豊かな縮緬を敢えて一色に染め上げ、銀糸で小さく雁の群れを刺繍していた。雪月花の夜明け前、暗夜を飛ぶ雁の姿は儚くも躍動的な点景を添えている。
残り二つの包みには、寧が武家であることを考慮してか無紋の羽織と袴が用意されていた。
新調した着物なぞ、何年振りだろうか。真新しい布地と染料の残り香を胸一杯に吸い込み、寧はこれを着た自分を想像して恍惚とした表情を浮かべる。
折角だから髪も結おうか、化粧もしたいがおちえさんに借りられるだろうか、かんざしは、帯留めは、履物は――久方ぶりの晴れ着に、寧の妄想は留まるところを知らない。
寧はいつのまにか頭痛も昨日の羞恥も忘れて、そわそわと浮足立った様子で明日の準備に動き出したのだった。
大門広場から西の横丁へ入り、桃橘榊沿いに小径をしばらく進んむと雑木林と桃橘榊が交じり合う境目がある。その木々に埋もれるようにして、二階建ての一石庵はひっそりと佇んでいた。
小体ながらも細やかな部分まで手を抜かずに作り込まれているのが、造作の端々に見受けられる。それに加えて隅々まで行き届いた女将の心行かしが、店内に温かで居心地の良い空間を作り上げていた。
一階部分は料亭らしからぬ体裁で、土間に並べた長床几に小上りの気軽な飯屋風に設えられている。本格的に料理を楽しみたいときは予約が必要な二階の座敷を利用する。
座敷は八畳間が四間あり、襖戸で仕切られていた。大人数の客には二間を繋げたり四間全部を開放したりして座敷を広げることもできる工夫だ。
小柱に活けられた一輪挿しの紅葉も楽しいが、四間にはそれぞれ別の方角を見る窓があり、窮屈な思いをしないようにとの心遣いがあちらこちらに散りばめられている。
特に、寧と羅切が通された部屋は田日良町の大門広場に向いており、窓からは木々の梢を通して遠く石切神楽の熱気がそれとなく伝わってきた。
木々に囲まれているおかげで、この時節は喧しいくらい賑やかな田日良町において、貴重な落ち着きがもたらされているのも格別だ。
「心地良い店ですね。心が穏やかになります」
先付けを持ってきた仲居に羅切が心付けをそっと差し出すのを後目に、寧は退出する仲居にも聞こえるよう少し大きな声でそう言った。
「お気に召したようで何よりです」
仲居の階段を降りる足音が遠ざかるのを聞きつつ、にこにこと相好を崩した羅切が寧を見た。
羅切は普段とそれほど変わらない気さくな着流し姿で、肩の葡萄色から裾では朱色に変わる暈し染めの袷に銀糸縫い取りの兵児帯を締めていた。それは払暁を身に纏っているかのようで、寧の雪月花と合わせてきたのだろう。腰にはいつも通り煙草入れがぶら下がっていたが、今日のは黒い燻し革のそれだった。
さりとて全部普段通りというわけでもなく、短く切り揃えた金茶の髪には嫌味にならない程度に香油が塗られ、顔や腕の肌も磨かれたなめし革のように艶めいていた。
寧は羅切の笑顔に微笑み返すと、窓の外に目を移した。
「窓からの景色が堪りません。石切神楽の威勢は心騒ぐものがありますが、人波に慣れていないわたしには少々疲れます。それが遠目に移るだけでこれほど風情のあるものに変わるとは、思いも寄りませんでした。それに梢を渡る風の清々しいこと」
障子を開け放った丸窓から山を下る冷たい秋の風が吹き込み、寧をそよぎ金糸の髪を揺らす。
部屋には二つの火鉢が用意されそれぞれの傍に配されていた。おかげで秋風を楽しんでいてもそれほど苦にはならない。
「風景も良いですが、この部屋にも人の目を惹きつけて已まない佳絶がありますよ」
「ほう、それはなんですか?」
窓から羅切に視線を移し、その佳絶とやらがどこにあるなんなのかと首を巡らせる寧を、羅切が笑った。
「なかなか、貴女が見るのは難しいかもしれませんね。鏡でもあればよいのですが」
そこまで言われて寧はようやくその意味を悟り、恥ずかしいやら照れ臭いやらで赤面した顔を俯かせた。
今日の寧は、昨日送り届けられた羅切からの贈り物を身に着けていた。
といっても羽織袴姿ではない。流石に羅切に対してそんな正装で出るのは野暮の極みと考え、今日の寧は女姿でこの場にいた。
油で洗い編み込んだ上で結上げた黄金色の長髪は金細工の花のように寧の頭上に咲き誇り、秋の透き通った陽光を部屋の中に散らしている。
加えて、面差しにはおちえに借りて――というかおちえに施してもらった化粧も刷いている。
自然な風合いの白粉を下地に、頬と目尻には紅を刷き、目元は墨で際立たせる。唇の紅は淑やかに小さく引いて存在感を押さえた。
人前に出るのが仕事の女将は府町で流行りの化粧も押さえていたものか、若い娘の溌剌とした美貌を最大限に活かす薄化粧を心得ていた。寧の素地と相まって、その華やかさは何度も目見えているはずの羅切が息を呑んだほどだ。
雪月花の袷の着付けもおちえが手伝った。縮緬の帯を胸高にきりりと締め、儚く幻想的な夜を身に纏った寧は普段の男姿からは想像もできない艶姿に仕上がっている。
足付き膳を前に対面する二人の傍らには、やや無粋ではあるがそれぞれの得物が横たわっていた。羅切の横には反りの深い野太刀が。寧の横には槍身の茎に粗布を巻き締めただけの刃が。それは小太刀と呼ぶにも均整の悪い小刀だったが、無いよりはマシと護身用に持参していた。
「まずは一献」
恥ずかしさを紛らわすように、寧はちろりから燗のつけられた銚子を手にした。
「頂きます」
羅切が掲げた猪口にそれを傾けると、わずかに黄みがかる透明な酒が流れ出る。辺りに酒精の甘く鼻を突き通すような香りがぱっと広がった。
「藤花どのも」
「不調法者ですので、お酌に努めさせて頂きます」
今度は羅切が自分の膳の銚子を取り上げたが、寧は愛想笑いで断った。先日の醜態を思い出すととても人前で酔う気分にはなれない。
「左様ですか、それはそれで贅沢かな」
銚子を片手ににっこりと微笑むと、羅切は猪口をゆっくりと口に運ぶ。
「流石、北の下り酒は香りが違う」
途中でそんな呟きを挟んでから、静かに酒を口の中に落とし込んだ。
一息に猪口を開けると、余韻を噛みしめるようにしばし瞑目し、満面の笑みを寧に向けた。子供のように無邪気でありながら歳相応の渋みも含んだとろけるような笑みだ。
「藤花どのの酌と思うと何倍にも美味に感じますね」
「そんなことは……」
照れ隠しに愛想笑いを深め、空になった羅切の猪口へと二杯目を注ぐ。
階段を踏みしめる足音が聞こえてきたのはそんな折だ。寧は乗り出していた身を自分の膳の前に戻した。
同時に襖が開き、そこに端座して畏まる女性が姿を現す。灰地に薄らと小紋が散った地味な着物を小粋に着こなした姥桜だ。
「本日はご来店の程、誠にもって有難う存じます。女将のおかるで御座います」
「親切な御招待に預かり、厚顔にも罷り越しました」
おかると、身体を向き直した羅切が丁寧に頭を下げ合う。
嫌に丁寧な挨拶に寧は自分も畏まった方がいいか居心地悪く悩んでいると、顔を上げたおかるの視線がすっと寧を捕らえた。まだ若さが残るその顔には、打って変わった気さくな笑みが浮かんでいる。
「とまあ、堅苦しい挨拶はここまでに致しまして、こちらが寧さんで御座いますか」
「如何にも」
羅切が肯う。おかるの眼差しは寧のことを知っている風で、寧は不思議がった。
「わたしを御存じですか」
「ええ、色々な所でお話を伺います」
「はぁ、それはまたけったいなことで……」
「けったいだなんてことはありませんよ」
意味深長な笑みを浮かべるおかるに代わり、羅切が話を継ぐ。その間におかるは、小女と共に運んできた料理の数々を二人の膳に整え始めた。
「並び横丁の大立ち回りで、藤花どのの名と容色は今や田日良に知れ渡っているのですよ」
「そんな、あれはそんな人の噂になるような勝負では……」
実質、あの髭面との一騎打ちでは寧が負けていたのだ。キリが居合わせなければどういう決着になっていたことか……あまり面白い結末ではないだろう。
そんな情けない勝負で名が知れ渡っていると聞かされて、寧が忸怩たる思いに苛まれていると、
「立ち回りは尾鰭でござんしょ、やはり噂の焦点は藤花どのの美貌にございますよ」
といった具合におけいの合いの手が入った。
「如何にも全く、その通りですね」
恥ずべき話題が急に転じて美貌がどうのという話に変わったものだから、寧は困惑の表情を浮かべて照れた。
「いや、別にわたしは、それ程では……」
真っ赤な顔を隠すように俯いた寧に、愛らしい子供を見るような目のおかるは声もなく上品に笑う。羅切も楽しそうに笑んでいる。部屋に和気藹々とした空気が満ちていた。
「お近づきのしるしに私から一献」
おかるが羅切の猪口に酒を注ぎ、寧の方に口を向けた。寧が俯いたまま首を振って辞退すると、微笑を浮かべたおかるは立ち上がった。料理の数々を並べ終えたのだ。
「それでは、何か御座いましたらお声掛け下さいませな」
おかると小女は影が動くように無駄なく移動して、入ってきた時と同じように廊下に座すと、静かに襖を閉めた。階段を降りる僅かな音が、二人の動静を伝えてくる。
寧は遠ざかる足音を聞きながら、整えられた膳部を見遣った。
用意されていた足付き膳の上だけでなく、新たに持ち込まれた膳の上まで所狭しと並べられた料理の数々。煮物、焼き物、吸い物と居並び、煮物だけとっても味が染みた野菜の煮しめ、獣肉を使った見たこともない煮物と多種多様な料理が温かな湯気を立てている。思わず涎を垂らしそうになった寧が慌てて口元を押さえた。
「本来であれば順繰りに運んできてもらうのですが、面倒がないようわざわざ一時に持ってきて頂いたのです、冷めない内に頂きましょうか」
「そうですね、そうしましょう」
待ってましたと言わんばかりの勢いで箸を取ると、寧は早速、目の前に置かれた小鉢に箸をつけた。青菜と根菜を油で炒めたものらしく、口に含むと香ばしい香りが膨らみ、しゃきしゃきとした歯応えとふんわりとした甘みが堪らない。
「美味しいです、こんなに美味しいものは久しぶりに頂きました」
借りた長屋に炊事具は一通り揃っていたが、寧は自炊が苦手だ。その為、三食毎度外に出て食べるか、飯屋に寄ったついでに握り飯と菜を包んで貰うのが日常だった。一膳飯屋や煮売屋の飯がまずいわけではないが、ほとんどが作り置きしたものをよそって出すだけなので煮物は味が染みすぎていたり肉の旨味が出きっていたりと美味いと手放しに思えるようなものは少なかった。
その点、今日という日に二人のためについ先ほど仕上げられた料理の数々は、作り手の心情まで味わえるような温もりが料理の味をより一層引き立てている。あれもこれもと箸をつける料理全てが美味かった。寧は次第に、料理を味わうことばかりに没頭していった。
羅切は手酌を傾けながら、にこにことその様子を眺めている。
一頻り料理を味わった寧が、それに気付いた。
「これは至らぬことで」
慌てて酌をしようと自分の銚子を取り上げて尻を上げたが、羅切はそっと掌を見せて制止した。
「構いませんよ、藤花どのは食事に専念していて下さい」
「いやしかし御相伴に預かる身としては……」
「それがしにとっては藤花どのの健啖振りを拝見しているのが何よりの肴です」
そう言って貰えると寧としても悪い気はしないが、同時に複雑な気分にもなる。
「健啖とは仰いますが、ぱくついているところをまじまじと見られるのは……」
「おや、そういうつもりではなかったのですが……失敬失敬、女性には褒め言葉になりませんか」
「そういう訳でもないのですが……いえ、お気遣いは有難く頂戴します」
苦笑する羅切に寧もまた苦笑を返し、さっきよりも少しゆっくりとした動作で食事を再開する。
料理を堪能する寧に、食事よりも酒を楽しむ羅切があれやこれやと旅の空で見聞きした四方山話を披露し、味わう合間に寧が相槌を打ち、笑う。
数日後には穢物との一大抗争が待ち受けているとか、得体も目的も知れない相手に狙われているとか、そうした諸々の不安を忘れ去ってしまうような豊かで穏やかな時がゆるゆると過ぎてゆく。
「藤花どの」
そんな雑談の中、羅切が唐突に寧の名を呼んだ。
不思議そうに首を傾げる寧に、羅切は自分の口の右側を人差し指でちょいちょいと突いて見せる。
寧の表情に怪訝なものが混じっても、羅切はにこやかな面持ちを崩すことなくその動きを繰り返す。
あっ、と寧に閃くものがあった。
慌てて胸元を探るが、無い。そういえば今日は忘れ物がないようにと前日に合切袋へ予め必要なものを詰め込んでおいたことを思い出し、梅の図柄が散らされた白地の合切袋を引き寄せた。
その中から懐紙を取り出そうとして、動揺から銭巾着やら手拭いやらも一緒くたに引っ張り出してしまった。黄色い千鳥模様の巾着が不平を漏らすように中の銭をじゃらじゃらと鳴らす。
畳の上に散らばったそれらはさておき、寧は懐紙を一枚取り出すと自分の口元を拭う。懐紙に食べ滓の染み汚れが付いた。羅切は他の部屋に入った客に知られぬよう気を遣って、所作でそれを教えてくれていたのだ。
「忝い……」
食べるのに夢中で口を汚していたり、慌てて物をぶちまけたりと幼子のような失態に頬が熱くなるのを感じながら、寧は落ちたものを集め始めた。
その手が銭巾着に伸びた時、それを見ていた羅切が気の毒そうな顔で口を開いた。
「結局、落とした巾着は見つからなかったようですね」
「見つかるとも期待はしていませんでしたが、残念ながら。気に入っていたのですが」
寧は自嘲気味な苦笑を浮かべた。
「あの青い組紐だけでもなかなかの品とお見受けしました。残念でしょうね」
「……巾着をお見せしたことがありましたか」
「初岩神社のお社の前で、懐から組紐が伸びているのを拝見しました」
「そう言えば、そんなこともありました……お恥ずかしいところを見られたようです」
「いえいえ、愛嬌があってよろしいかと」
にこやかな羅切に、寧も微笑み返す。こういう腹芸が苦手な寧には至難の笑みだった。
寧にそんな至難を強いたのは、羅切に対する違和感だ。正しくは羅切の言葉に対する違和感か。
あのとき寧は『赤い組紐に千鳥模様の黄色い巾着』だと言った。その時はそちらを落としたと思い込んでいた。後で、事実は全財産が入った青い組紐に絣格子の赤い巾着だったと知れるわけだが、羅切はそれを正確に知っていた。懐からこぼれた組紐の色は確かに青かっただろうが、それを見て巾着の口紐だとわかる者はいない筈だ。
あの時の会話を覚えていれば、羅切はここで巾着が見つかったことを幸いと辞するべきなのだ。
その差が何を意味するのか。寧にはそこのところをじっくりと追及するだけの余裕はなかった。羅切との会食で意識が一杯一杯だからだ。
一通り食事を終え、食後の茶が供された折、羅切は辛抱が切れたように煙草入れを腰から外した。
「一服頂いてもよろしいかな」
「ええ、どうぞ……」
それまでも何度か黒燻革の煙草入れをさすっていたが、彼はなかなかの愛煙家なのだろう、それが寧のためとこれまで我慢していた様子だ。
膳部の前から窓の傍に移動した羅切は、座敷の隅にあった煙草盆を引き寄せて手際よく刻みを詰めると火鉢の火を付け木で刻みに移した。
舐めるようにすぱすぱと二度三度吸い込んだ後、ふわりと押し出すように紫煙を窓の外に燻らせて至福の顔付きを浮かべた。
「甘露甘露……」
かなり香りの強い煙草なのか、独特な匂いが部屋の中にも流れた。鼻に触れた瞬間は花のような甘い香りだが、喉に近くなると渋みのある苦いものへと変じる不思議な香りだった。
それが顔に出ていたのか、窓際に寄り掛かる格好の羅切が悪戯っぽく笑う。
「南方でしか栽培していない特別な煙草です。ここのところ病み付きでしてね、入手に苦労するぶん旨さも格別なのかもしれません」
「煙草はとんと存じ上げませんが、悪い気はしない香りです」
「でしょう。如何ですか?」
と吸い付けを差し出してくるのを、愛想笑いを浮かべた顔を横に振って辞退した。羅切もそれをわかっていたか、無理に勧めるようなことはしなかった。
「さてと」
三服ほどして満足したか、椀型の灰落としに燃え止しを落とした羅切が、そんな呟きと共に寧へと顔を向けた。
「あまり快いお話ではなかったので食後にと回していたお話があります」
改めて切り出され、寧は疑問符を浮かべながらも居住まいを正した。それを見届けた羅切は煙管の手入れもそこそこに切り出した。
随分と長い時間を過ごしていた気がしたが、一石庵を出るとすぐに昼三ツ(十五時)の鐘が町から風に流れて聞こえてきた。
用事があるという羅切とは大門広場で別れ、今日も今日とて威勢の良い喧騒を余所に、寧はつらつらと物思いに耽りながら石切広小路を登っていく。
寧が考えていたのは他でもない、羅切に聞かされた話のことだ。
羅切は言った。
『以前、この田日良町には四人の鬼斬り羅切がいると申しましたが、その内の一人、西山丁に借り住まいする羅切、本名服辺直成(ふくべなおなり)と申す者、来し方、容貌、腕前とあなたの仇と思しきところがありました。一度、あなた自身の目で確かめてみては如何でしょうか』
羅切はわざわざ、この町で得た伝手を使ってそれだけの情報を探り出してくれた。彼の言う通り、寧がすべきはこの男を直に見て、仇かどうかの最後の判断をすることだ。
だが……と、寧の懊悩はここから始まる。
もし服辺とやらが本当に藤花家の仇の鬼斬り羅切であれば、寧はその男と刃を交えなければならない。
決して命が惜しいわけではない。だが、ここまで来たのであれば三年の苦労を犬死にで終わらせたくはなかった。
生き残れなくともいい、せめて相討ちに出来れば……そう思いはするものの、それ覚束ないのが寧の正直な目算だ。
寧自身、己の業前が如何程のものか嫌というほど承知している。彼女は未だ、師でもあった次兄に及ばない。その次兄を討ち斃した相手に、真正面からぶつかって寧が勝てる見込みはない。さりとて、闇討ちなど卑怯な手段には走りたくなかった。あくまで武家の仇討ちとして、正々堂々と討ち果たしたい。
不可能を可能にしなければならない矛盾が、彼女を苛んでいた。
羅切はこうも言い足した。
『もし手に余るようであれば、それがしが手を貸すのもやぶさかではありません』
だが、寧は断った。
助太刀は禁じられているわけではない。が、それにはある程度の規則があった。具体的には助太刀は助太刀として仇討に出る時点で連れてきた者であるべきなのだ。
寧もその仕来りに則り、御家から世話係の元乳母と検分役兼助太刀に若党武士一人を連れ立った。しかし、若党武士は継母側に言い含められていたか、巻き添えで御家を追放されたことに嫌気が差したか、一月も経たずに姿を消してしまった。
ここで改めて助太刀を外部に恃むのは、いささか外聞が悪いのだ。
加えて羅切を頭から信頼できなくなっていたのもある。
彼は、寧しか知らない巾着を取り違えた事実を知っていた。それがどういうことなのか、寧はまだ断定を躊躇っている。ともすればこの仇の話すら疑わしい。故に羅切の助太刀を断った。のだが――
「助太刀か……」
呟いてふと東の空を見る。
長屋の屋根の上、空のずっと高い所に魚が群れ泳ぐような雲が棚引いている。今日も今日とて絶好の秋晴れだ。そんな東の方角の空の下にあの男は寝起きしている。
今の時間はまだ町の外だろうか。今日も親の仇のように穢物を狩っているのだろうか。今、あの男は……キリは何をしているのだろうか……。
直接刃を交えずとも、検分役として引き出すのならばどうだろうか。あの男ならもしかしたら、咄嗟に助けてくれるかもしれないし……。
誰が聞いているわけでもないのに、寧は慌てて自分の心の声を振り払った。
(いかんいかん、そんな浅ましい考え方……そもそも何故いきなりあんな男のことを……!)
顔が熱くなるのはきっと怒りのせいだ。己の惰弱な思惑と、あの男への怒りだ。
奴に関わるといつも碌でもない目に遭っているから、怒りが込み上げて顔が熱くなる。そうに決まっている。
そう、自分に言い聞かせてのしのしと大股に坂道を登る。かと思えば、寧は急に足を止めた。周囲を歩く町民が寧の突飛な動きを訝しむのも気付いていない。
(自分一人で斃すのが無理であれば、助太刀を恃むのも仕方のないことではないか……?)
ぽっかりと、寧の胸中にそんな考えが浮かんだ。
確かに仇討を独力で成し遂げることは重要なことだ。しかしそもそも仇討を果たせないのでは外聞がどうのこうの以前に話にもならない。まずは大前提として、仇討が果たせる状況にあるべきだ。未熟故にそれができないのは、この際甘んじて受け止めるしかない。あわよくば助けてもらうのではなく、そうした未熟を認めた上で助力を請うのだ。であればそうした状況を整える意味で、誰かに助太刀を頼むことは決して恥でも怠慢でもない。むしろ必要な措置だ。
羅切を改めて頼るのは、気が進まなかった。一度断っている上、例の違和感がある。
となると、あとこの町で寧が頼れるのは――。
「やはりあいつか……キリ……」
顔を顰めてその名を呟く。こちらも羅切と別の意味で気は進まないが背に腹は代えられない。
思い立ったが吉日。寧は早速、キリの長屋がある町の東へと爪先を向けた。
過日に訪れた時はまだ夜が明ける前で周囲の様子もわからなかったが、こうして明るい時刻に来てみると、キリの住まう長屋は同情するほどの安普請だった。
石壁の漆喰はほとんど剥がれ落ち、角の部分には鼠の出入り口のような穴が開いている。板壁も同様で、何度も継ぎ接ぎされた板はところどころが腐っていた。
キリの長屋だけではなくこの界隈の家屋は軒並みそんな具合だった。田日良町の中でも古くからある下層の丁は、同時に貧民が住まう意味でも下層なのだ。
部屋に染み付いた汚れや生ごみの腐臭と便所から漂う悪臭が交じり合い、お世辞にも快いとは言えない住環境に拍車をかけている。
裏路地に屯する住人も、どこか生気の抜けた老人とも壮年ともとれない男ばかりで、虚ろな目が何対か、めかし込んで輝くばかりの存在感を放つ寧を鬱陶しそうに眺める。
そんな視線に気付きつつも、寧は長屋の前でまごついていた。
傾いで穴だらけの腰高障子を前に、髪を整えたり衿を正したりとなかなか踏ん切りがつかない様子だ。
寧が躊躇うのは、やはり過日の一件だろう。
致し方ない仕儀であったとはいえ、祝言も上げていない男女が裸で抱き合うなぞ、武家の寧には耐えがたい羞恥だった。しかもそれを重く受け止めているのが自分だけ、独り相撲を取っているような具合だから、寧の気の持ちようも曖昧なままだった。
どうにかこうにか忘れようとしていたのに、どういう風の吹きまわしでキリに会おうなぞと考えてしまったのか……寧の躊躇いが次第につい四半刻前(十五分前)の自分自身に対する恨み言に変わり始めた頃、目の前の戸ががたりと鳴ったかと思うと、ばたんと乱暴に引き開けられた。
出てきたのは幸か不幸か、無精髭の生えたキリの顔。寧は思わず仰け反り、二三歩後退してしまった。そのおかげでキリの隻眼に寧の晴れ着の全身像が映る。
キリはそれを胡乱気な眼差しで値踏みして、それが誰かようやく気付いたように隻眼と口をまんまるに開いて固まった。
滅多に見る事の出来ないキリの唖然とした表情に、むしろ寧も驚いて見入る。お互いに凝然と相手の顔を見つめていたが、ようやくといった具合にキリが口を開いた。
「おまえか」
「おまえじゃない、藤花寧だ」
「誰かわからなかった」
「貴様の目は節穴だものな」
初めて顔を合わせた時、キリが寧を真実、男だと思っていたことを論うと、キリは後ろ頭を掻いて気まずそうに弁明を始めた。
「その、驚いただけだ」
「驚くほど似合ってないと」
寧の口は自虐ではない。寧は寧自身、己の見てくれが良い方だと自覚している。これはキリに対する皮肉だ。
「いや、逆だ」
「逆とは?」
寧の口元に意地の悪い笑みが微かに浮かぶ。
キリがわざとはっきりしない物言いを選んでいるのに気付き、その口からちゃんと言わせたい衝動にかられたのだ。
意地っ張りであれば怒ってはぐらかしたり他のことに気を逸らしたりして誤魔化すであろうが、寧はキリがそうするとは微塵も思わなかった。鈍いくらい素直なのだ、この男は。
「……綺麗だ」
「そうだろう」
勝ち誇った笑みを浮かべる寧には、日に焼けて浅黒いキリの顔が少し紅潮したように見えて、更に満悦の度合いを深める。
「何をしに来たのかは知らんが、丁度よかった、今からそちらに向かおうと思っていた」
「わたしのところに?」
「これだ」
言いながら戸口の脇からにゅっと取り出したのは、七尺三寸(約二二〇センチメートル)の黒塗りの直槍だ。穂先は五寸(約一五センチメートル)ほどか、全長がやや短いがよくある両鎬造りの槍だった。
「燃やしてしまったからな。次の新月まで拵えは間に合うまい。間に合わせだ」
寧の愛用していた家宝の朱塗り直槍を、やむを得なかったとはいえ薪としてくべたことを、キリはちゃんと気にしていたのだ。
寧自身もどうにかしなければと思ってはいたが、昨日の今日、しかも今日は羅切との会食に頭が一杯ですっかりその事を失念していた。
受け取った黒塗り両鎬直槍は、愛用していた槍よりも少し重かった。柄が太く、更に三寸(約九センチメートル)ほど長いからだとすぐに察せた。
石突を地面に付いたまま、両手で軽く扱いてみる。新品の漆の感触はまだ引っ掛かりがあり、手に馴染むとはお世辞にも言えなかった。とはいえ、少し慣れさせる必要があるというだけで、使えないほどではない。
キリはちゃんと寧の得物を見覚えていてこれを選んだのだと推察できて、寧は少し胸中が浮つくのを感じた。が、それを表に出すことなくキリに顔を向ける。
「当然と言えば当然だが、気遣い痛み入る。使わせて貰おう」
寧が微笑を浮かべて礼を述べた。
その笑みに、武骨で大きな掌が伸びてきた。寧の顔がすっぽり収まってしまいそうな大きな手だ。それが寧の頬へと伸ばされる。
キリの顔が目の前にあった。眼帯代わりの手拭いのほつれが見える程の近距離だ。掌に気を取られている間に、そこまで踏み込まれていた。
両腕は胸の前で槍を支えてすぐには動かせない。突き離す間も無く、キリの身体はますます近付いた。
その手が寧のうなじを捉え、鼻先が首筋をなぞる。キリの熱い吐息を首筋に感じながら、同時に寧もキリの匂いを否応なしに吸い込んでいた。
頭の奥が痺れるような感覚に、混乱した思考が更に掻き混ぜられる。
「こ、こんな往来で……!」
叫んだつもりが囁くような声しか出ない。キリの吐息は首の稜線を少しずつ下り、肩に達し、そして――何故か髪に移った。
キリは寧を押さえていたうなじの手を離すと髪留めを毟りとり、せっかく結い上げていた金の髪を無造作に流して掌に載せた。
その頃には寧の思考にも冷静さが戻っていた。というか、醒めていた。
「貴様は何をしているんだ」
「におう」
寧の髪を犬のように鼻を鳴らしながら嗅いでいたキリの丹田に、寧の小さな拳が刺さる。密着した体勢からでは十分な力を載せられなかったが、不意打ちはキリをもんどりうたせるのに十分な威力を持っていた。
「貴様は学ばんな」
噎せ返るキリに、寧の冷たい言葉が降りかかる。一呼吸おいて、涙目のキリが半身を折ったまま寧を見上げた。
「あの匂いだ」
「どの匂いだ」
怒りのあまり、寧はキリの言葉をまともに受け止めていない。匂いと言われても、自分のことを言われたとしか思えなくて余計に腹が立つだけだ。
「覚えていないか、あの髭面が殺された裏路地で、変わった匂いがしただろう」
「そんなものは知らん、わたしには血の匂いしかしなかった――待て、それはつまりわたしが下手人の近くに寄ったと言うのか」
寧は自分の髪を束ねると、キリと同じように顔に近付けた。確かに、嗅ぎ慣れた香油とは別の匂いがはっきりと感じられる。
「どこかでその匂いを嗅がなかったか」
「この匂いを……」
香油と混じってすぐには思い出せなかったが、薫じられたような独特な甘い香りを嗅ぎ分ける内に寧の記憶が一つの情景を脳裏に描き出した。
それはちょうど一刻半(一時間半)ばかり前、居心地の良い座敷の窓枠に肘を置き、紫煙を燻らせる羅切の姿。寧の髪に付いた匂いは、どう思い出しても羅切が自慢していた南方産とかいう不思議な甘い香りの煙草の匂いだった。
「羅切どのだ」
「丁名主屋敷の前で出会った羅切か」
「ああ、彼の吸っていた煙草の匂いだ」
「そうか、だから少しきな臭いのか」
納得したように頷くキリに、寧は縋るような眼差しを向けた。
「それはつまり、羅切どのがあの破落戸にわたしを襲わせ、あまつさえ口封じに殺したということか」
「断定は出来ん。偶然の可能性もある。だが、あの男があの場に居たのは間違いないだろう」
「そんなことは全く話に出ていない……」
町中で話の種になっている出来事だ。その裏で人が一人死んだことを、情報通の羅切が知らないとは思えなかった。羅切は意図的にあの場に居たことを隠していると考えるべきだろう。加えて、例の銭巾着の件もある。
寧は目を閉じて、立ち騒ぐ己の心を覗き込む。
初め、御家の雪辱、兄弟の仇として寧はあの羅切に斬り掛かった。だが丁名主を巻き込んだ狼藉を当の本人に執り為され事無きを得ると、寧の中であの羅切に対する疑念は揺らいだ。
揺らぐ疑念は、茶屋での再開に及んで霧散した。逆に、彼に対する敬意すら感じた。料亭での親切も深く感じ入る所だった。
そうして培われた信頼と、今こうして生まれた疑念が、渦を巻いて寧の思考を撹乱する。
キリはそんな寧の心中を見透かしているかのように、戸枠に寄り掛かって見守っていた。
やがて寧は大きく息を吐くと、決然と双眸を見開いた。
「羅切どのから聞いた話がある」
そう切り出し、寧は羅切から聞いた寧の仇かもしれない男の話をキリに聞かせた。
「今からその男の長屋に行ってみようかと思う。それで、だな――」
寧は言い淀んだ。何故かこの先を続けるのが気恥ずかしかったのだ。
キリはそんな寧を見つめたまま、彼女が続けるのを待つ。何度かキリの穏やかな眼差しを見返した後、寧は躊躇いがちに告白した。
「貴様には、な……わたしの仇討の、立会人になって欲しいのだ」
言い終えた時、寧はいつの間にかキリの顔から視線を外していた。ゆっくりとキリの顔に背けていた目を戻す。
この時、寧はキリが二つ返事で応諾してくれるものと思っていた。
キリは興味のなさそうな顔をして、なんだかんだ他人の世話を焼いている。以前に言っていた『人を助けるのが穢士』の延長なのだろうが、寧は幾度となく救われてきた。
今回もきっとそうしてくれる。寧はそう、高を括っていた。
寧が見つけたキリの面持ちは、思いのほか険しいものだった。思わず、不安になるほどに。
「それは代わって戦えということか」
キリの問いに、寧は大きく首を振った。
武家諸法度には仇討に関する細かい規定がある。寧のように、武家以外の者に当主が殺害された場合、次席の者つまり次の党首が仇を晴らさぬ限り相続は認められない。その間、家は閉門の沙汰を受けて外部との積極的な接触を禁じられるのだが……実情は規則と大きく離れていた。
ほとんどの場合、仇討に赴くのは次席ではなく腕の立つ家臣だ。しかも大抵、町の外を一月ほど周遊してどこぞの代官あたりに仇討立会状をでっちあげてもらい、仇討が完了したものとする。閉門の沙汰にしても門を閉じるだけで実際には勝手口から自由に出入りしているし、場合によっては別邸に拠点を移して平時と変わらぬ生活をしている武家もいる。
そうした形骸の根底には、絶えぬ戦乱がある。武家はとにもかくにも忙しいのだ。仇討なぞ武官としてのけじめに過ぎない。そんな瑣事に割く時間を、他国は待ってくれない。現実を考えれば守っているように見せかけるのが賢明だった。
寧がそうせず、実際に仇を求めて三年も他国を放浪しているのには二つの理由がある。
一つは相続争いの敗北だ。家の実権を継母とその一派に掌握され、正妻の最後の子である寧は彼らにとって邪魔者以外の何物でもない。死を望まれて仇討旅に送り出された。
もう一つは寧の意地だ。たとえ追い出された身だとしても藤花の家名は寧にとっての誇りであったし、何より兄が実際に殺されているのだ。
「それでは、わたしの仇討にならん。わたしの手で奴の首を落とさぬ限り、兄上たちの無念は晴れんのだ……」
当時はまだ幼くて、寡黙な次兄の威圧的な姿に怯えてばかりいた寧だが、二人きりの家族になって、彼が長兄と同じように寧を可愛がっていたのだと気付かされた。その矢先、殺された。仇討云々なぞ関係なく、寧は次兄の仇を、己の手で討ち取りたいのだ。
「だから、貴様にはもしわたしが敗れた際の後詰を頼みた――っ?」
キリの顔に漂っていた険しさが色を濃くした。
その体躯が一回り大きく見えるほどにキリの気配が膨らみ、圧倒された寧は思わず口を噤んだ。
「おまえが殺される様を見届けろと」
「……もしかしたら、死なないかもしれない」
そんな可能性は万に一つもない。寧と直接手合わせしたキリも理解している。
「確かにおまえは弱くはない。だが、強くもない。特に人間相手には躊躇いが感じられる。他者と雌雄を決しなければならない時、大事なのは肝の据わりだ。一回り強い相手でも、修羅場の差で勝負が分かれる。おまえに、修羅場を潜った凄みを感じん」
寧は思うところがあるのか、俯いたまま答えない。その間が、キリにふと思い付いた疑問を口にさせた。
「おまえ、人を殺したことが無いな」
「……あるぞ」
沈痛な返答に、キリは少しばかり驚いた。その答えに、強がりからくる嘘を感じなかったからだ。寧の刃風には、人を殺めたことのないものが見せる躊躇いがありありと見えていたから、意外だった。
目を瞠るキリに、顔を上げた寧が自嘲気味な、それ以上に悲し気な笑みを向けた。
「あるにはあるが、な、その時も、お前の言う肝の据わりが無くて手心を加えてしまった……わたしが仇討の旅に出た時、見届人の若衆と、幼い頃から面倒を見てくれた乳母がついてきてくれた。だが、野盗に襲われた際、わたしが躊躇ったばかりに、乳母を死なせてしまった……その時は怒りに駆られて野盗を全員、逃げた者も含めて追いかけて討ち取ったがな、それ以来、人間を相手にする時はわたしを庇って倒れた乳母の安堵の顔がちらついて、どうしてももう一息が踏み込めない」
一気に喋り通して息が切れたか、天を仰いだ寧がふっと白い息を吐いた。そのまま、天に語り掛けるように後を続ける。
「情けないな。普通ならそれで発奮して覚悟を決めるだろうに、わたしはいつまでもその事を引きずっているようだ……だがな……」
再びキリに戻された眼差しには、迷いも悩みも封じ込め、気持ちを検めた悲壮感が宿っていた。
「それでもわたしはやらねばならない。いや、だからこそ、犠牲になった者たちに報いる責務が、大儀がわたしにはある。怒りもだ。わたしの行く末を壊したあの羅切を憎む気持ちは、今もしっかりとこの胸の内に煮えている」
それを確かめるように胸を押さえた寧だが、その顔はどこか頼りない。
それほどのものを抱えていながら怨讐に囚われきれない彼女に、キリは歯がゆさを感じた。そしてそんな彼女が仇討に人生の終わりを見出していることに怒りを覚えた。彼女は、こんなところにいるべき人間ではないのだ。もっと、己も他人も幸福にできる道があったはずなのだ。
「……俺はおまえの仇討ちに意味を見い出せない」
キリの声は酷薄とも取れるほど落ち着いていた。
「……どういう意味だ」
不安と心細さが勝っていた寧の顔に苛立ちが増す。それは刻々と寧の端正な顔に翳をきざした。
「前にも言った。敵わぬ相手に挑み、命を散らすことに何の意味がある? 御家の為? 家族の為? それでおまえが死ぬことを、本当にそれらは喜ぶのか?」
「喜ぶ喜ばないの問題ではない。これは武家の仕来り、矜持だ。矜持なくして何が武家か」
寧の語調が強くなる。
「武家だ御家だと、そもそもそこが理解できん。俺からすれば法度の人身御供にしか見えん」
釣られたようにキリも吐き捨てた。
「むしろ理解できない方が理解できん。穢士も武家の端くれであればその矜持を持ち合わせているだろう」
「穢士に御家はない。そして穢士の矜持は死なないことだ。穢士は増やそうと思って増やせるものじゃあない。客子次第だからな。そのくせ、穢士はよく死ぬ。死にたくなくても、死んでしまうような戦場ばかりだ……そうしてますます戦力は減り、死ぬ者が増える。だから穢士は死んではならないんだ。第一に己の命、次に庶民の命。死なないことは死なせないことに繋がる。穢物から人々を守ることが穢士の矜持であり本懐だ。その為にはまず己が生きることが必要なんだ。死ぬことが矜持だなんて抜かす武家とは違う」
「だったら! 穢士が人々を守るというなら、どうして大兄は死んだんだ! 小兄は殺されたんだ! 何故あの時、貴様は野盗を見捨てた!」
寧の絶叫が木霊する。
道行く人が振り返るのにも構わず、寧は涙が滲む瞳でキリを睨みつけた。
「穢士の本懐が守ることだというなら、全ての人を守って見せろっ、この世から死を失くして見せろ! 出来るわけがないだろうなっ、死は天の定めだ! 定めたる死に意味を持たせることは生に意味を持たせると同義、何故その意味がわからん!」
「残された者のことを考えたことがあるのか」
急にキリの気配が冷めた。逆に寧は過熱していく。
「わたし自身がその残された者だ! そしてわたしには残された者の責務がある!」
「それが返り討ちに遭うことか」
「そうだ!」
「……平行線だな」
「そもそも貴様にわたしの仇討をどうのこうの言われる筋合いはない!」
それは決別の言葉だった。
わたしに構うな。そう言われてしまえば、キリが寧に関わる必要も義理もないのだから。
「……そうだ、な」
それまで表情に乏しかった巌のような面持ちに、自嘲気味な笑みが浮かんだ。
寧が知るキリには似つかわしくない湿った表情に、寧は言葉を失った。
キリが何を求めて言葉を重ねてきたのか、寧とてわからない訳ではない。
だがそんな中途半端な優しさは、傍観者の同情と変わらない。いや、決死の思いに水を差す分、同情より質が悪い。優しさは、せっかく振り切った死の恐怖を呼び覚ます。
藤花家にすら帰る場所が無い寧は、進むしかないのだ。仇を見つけたその先、死が待つ未来へと。
そうして死ぬ覚悟を養うのに、寧は三年の月日を労した。そうやってどうにかこうにか練り上げた覚悟を、今更現れた得体の知れないこの男は真っ向から否定し、突き崩そうとする。
寧という人物にとって、キリは害悪となったのだ。キリの優柔な考え方は寧にとって腐敗と同じだ。だから寧は、己の覚悟に腐敗が移る前にキリを遠ざけなければならない。
そんな簡単なことを、寧はすぐに決断できなかった。
どうしてそこまでキリに対して拘るのか、寧には理解できなかった。
どうしてこんなに涙が溢れるのか、寧は誰かに教えてもらいたかった。
迷い、戸惑い、悩んだ末に、寧は始まりに戻ることにした。
理解できないものに拘って己の半生を無下にするよりも、全てを失った始まりの時に戻るのだ。
怒りと、悲しみと、憎しみと、悔しさを胸に押し込めて旅立ったあの日に。迷う必要はない。他者なぞ当てにできぬと、あの時思い知ったのだ。最初から、独りで成し遂げる覚悟であったはずだ。
「どうやら別れの時のようだな」
言う最中にも、寧の大きな瞳からは止め処なく透明な涙が溢れる。こんなに泣いたのは、いつ以来だろうか。兄を失った時でさえ、これほど泣きはしなかった。
「……そうか」
キリは言葉らしい言葉を返さない。ただ、寧の泣き顔を見つめている。
寧はキリの言葉を待つようなことはしなかった。つい先ほど譲られたばかりの黒槍を突き返し、踵を返す。
「さらばだ。もう会うこともないだろう」
返事はなかった。
寧は息苦しさに何度目かの目覚めを迎えた。折しも昼正時の鐘が町に木霊している。
「まだ昼か……」
キリの長屋から逃げるように帰った寧は、帯だけ解くと掻巻を巻き付けて化粧も落とさず眠りについた。そのせいで髪は絡まり顔は乾いた化粧が固まって剥がれ落ちるという凄惨な状況だ。化粧は涙に滲んだ残骸だからなお悲惨だ。
寝心地が良いとは言えない状態でも無理やり眠っていたのは、起きていても腹が減るだけだし何より起きたくなかったからだ。起きていれば余計なことやつまらぬことばかり頭を過ぎる。であれば、寝苦しくても寝ている方が楽だった。
しかしどうやらそれも限界のようだ。寝ていても結局腹は減るし、出すものも出さねば酷いことになる。悪足掻きをあきらめた寧はのそのそと掻巻を脇に除けて身を起こした。
そうしておいてむくんだ顔に手をやり、そこに乾いた白粉が粉になってついてるのを気怠げに見遣る。まずは昨夜来の化粧を落とさなければ、ただでさえ旅の空で荒れ気味の肌が取り返しのつかない状態になる。
大儀そうに立ち上がった寧は、しどけなく乱れた袷を腰紐で形ばかり整え、顔を洗うべく竃横の水瓶へのそのそと移動を始めた。
当然ながら気分は最悪だった。何が最悪かといえば、出口のない思い煩いに苛まれる現状がだ。
妥協のしようがないのだ。多少なりとも自分に非があればそれを口実に謝りにも謝らせにも行けるものを、いくら考えても寧自身に非を見つけられない。言葉を交わす切っ掛けが何もない。
ただただ悶々とキリへの不平不満が溜まっていく。そして何よりもそれが腹立たしい。
「どうしてわたしがいつまでもあんな奴のことで思い悩まなければいけないのだ……」
水瓶に直接手を突っ込んだ姿勢のまま、動きを止めていた寧が呟く。それは我知らずつぶやいた言葉で、寧はそれが自分の口からついた言葉だと気付くのに一拍を要した。気付いて、言葉を濯ぐように顔に水をぶつけた。
朝の冷え込みを過ごした汲み置きの水はひんやりと心地よい。寧は雪月花の袷が濡れるのも土間が水浸しになるのも気にせず何度も顔を洗った。
ふと視界の隅、竃上の格子窓に見慣れぬものを見つけて濡れたままの顔をそちらに向けた。
格子窓には黒い棒が立てかけられている。漆塗りの棒は六尺ほどの高さにある格子窓を超える長さがあった。寧はそれが何か考えるよりも先に心張棒を蹴飛ばして外に顔を突き出した。
それは槍だった。
新品の、黒塗りの、直槍。
どう考えても、昨日、キリに押し付けられて突き返したはずのあの槍だ。
それがそこにあった。
つまりそれは――
「……来たのか」
キリがこの長屋まで来た。寧が気付かぬ間に。
そして、なんの言葉をかけるでもなく槍だけを置いて去った。
それはつまりどういうことか。
「わたしと話すことなど何もないということだな」
寧は戸の陰から半身を出して槍を掴むと乱暴に戸を閉め、その槍を濡れたままの土間に叩きつけた。
それでも荒い鼻息は収まらず、濡れた小袖を毟るように剥ぎ取った。下帯一枚の姿になると脱いだ袷で無造作に濡れた足の裏を拭い、板の間に跳び上がる。袷を上り框に放り捨て、着替えを得るべく枕屏風の陰の乱れ箱に向かった。
薄紅の袷に道中袴を身に着けると足袋と草履を支度し、一度は擲った黒槍を拾い上げた。着替えている間に槍自身に罪はないのと実際に得物がないのは不便である現実を飲み込んで思い直したものだ。
懐の銭入れ巾着に必要分の金銭しか入っていないことを確かめると、それで寧の支度は成った。
不貞寝で時間を浪費していたが、寧には確かめねばならないことがある。
キリへの怒り発起した寧は、もう難しいことは考えずにただ身体を動かそうと心に決めて腰高障子を開け放った。
向かう先は昨日、羅切から聞かされた寧の"仇かもしれない羅切"の仮住まいだ。
服辺某が住まう西山丁は、寧がいる石呉丁から十丁(約一・一キロメートル)ほど山を下りた西にある。歩いて半刻(三十分)ほどか。
寧は途中で何か昼餉を摂る事も考えたが、やめた。面倒なことはさっさと済ませたかったし、ぐるぐると静かに渦巻く怒りのせいかあまり食欲もなかった。
もし、服辺某が本当に寧の仇だったとして、その時寧はどうするか。無論、その場で仇討決闘を申し込み、刺し違えてでも御家の雪辱を注ぐのだ。寧が死んだ場合、御国にその報を届ける立会人も必要だが、そんなものはその辺の通行人で事足りる。その為の遺書は、常に飛脚代と共に持ち歩いていたから、それを渡せばいいだけだ。
では逆に、今回もまた人違いであれば?
この可能性が一番高いのだが、その場合は新月を待って穢物狩りとしての本分を全うするつもりだった。というか、しなければ次の町への旅費が心許ない。遺憾ながらもキリに恵んでもらった稼ぎのおかげで極貧は免れたが、ある程度余裕を持つにはもう少し稼いでおきたかった。目標は雑魚の首十個ほどか。そうしてまた、あてどない旅へと繰り出す。寧の心に纏わりつく諦観が、また重みを増した気がした。
大まかな可能性はこの二つ。なのだが、寧にはもう一つ気に掛かる可能性があった。
すなわち、羅刹の話が嘘であった場合、だ。
実のところ、寧の気持ちはこの可能性に大きく傾いていた。
しかしこの可能性に関しては慎重に取り扱う必要があった。今、この町で面と向かって羅刹を追及したところで、周囲にいる人たちに阻まれてしまう。それほど、鬼型を恐れる町衆の信頼が厚いのだ、羅切は。
まずはこの話の行きつく先を確認する。そのために、寧は急ぎ足で広小路を下っていく。目的地は西山丁の丁名主屋敷だ。羅切も、服部某がどの長屋を借り受けているかまでは調べがつかなかったらしい。
だが、調べる手段は講じてくれた。石呉丁名主を経由し、服部某に長屋を紹介したであろう西山丁名主への紹介状を認めてもらったというのだ。これがあれば、丁名主の助力を得られる。これはもう見つけたも同意義だ。
西山丁の木戸を見つけた寧は広小路から横丁に入った。
目的の丁名主屋敷は、町屋のど真ん中に広い敷地を以て鎮座していた。
門番に羅切から預かった紹介状を見せると、門前で四半刻ほど待たされて現れた家宰らしき壮年の男から、服辺某が住まう長屋の詳細な場所を聞けた。羅切に預かった石呉丁名主の添え状は効果絶大で、多少訝しむところはあったが寧の知りたいことはすんなりと教えてくれた。
服辺某が住まう西山丁の長屋もまた、キリが暮らす貧乏長屋の趣だった。垂れ流される生活臭が染みついた路地を進み、看板の落ちた木戸を潜り、継ぎ接ぎだらけの腰高障子の前で足を止めた。
この戸を叩けば寧の運命が動き出す。不安が無いといえば嘘になる。不意に脳裏に浮かんだ逞しい背中の影を振り払い、寧は軽く握った拳で腰高障子の桟を軽く揺すった。
立てた黒槍を握る手に寧の我知らず力が籠る。
だが緊張する寧を嘲笑うかのように、戸の向こうからは音沙汰どころか物音一つない。
もう一度揺するが、やはり反応はない。人の気配すらしない。寝ているものかと今度はもう少し強く叩こうと拳を振り上げたその時、路地の向こう、木戸の方から近付いてくる人の気配があった。
寧がそちらに身体を向けると、壮年の浪人と目が合う。着古した縞模様の着流しに大太刀を提げた姿を見るに穢物斬りだろう。手にした大太刀だけでなく小太刀も差し落としている。
大太刀は寧の記憶にある仇の得物であり、小太刀は過日の路地裏での辻切りに符合する。相手はすでにこちらを認めており、歩みを緩めず近付いてきた。
寧は相手に気取られぬようわずかに右足を引いて半身を作り、左手に立てた槍をほんの少し傾ける。これで相手が小太刀の抜打ちを遣っても槍で受け止められる姿勢ができた。寧に相手の様子を窺う余裕が生まれた。
男の顔は永の旅の空に焼けて年の頃より皴が多く見えるものの、それ以外に特徴らしい特徴はない。つまり、羅切の特徴たる右半顔の傷がない。それでも羅切を名乗る不届き者は多いが、少なくとも寧の仇は顔に傷のある男だ。この男ではない。
だがその羅切の仲間である可能性はある。あれから三年、どのような来し方を過ごしていたとしても不思議はないのだ。
寧の警戒に気付いたか、男は足を止めた。そうして硬い気配で戸の前に佇む若侍を見て、それが女侍なのだと気付くにあたり目を見張り、次いで怪訝そうに眉根を寄せた。
「そこは拙者の長屋なのだが、何か御用かな」
「そこもとの部屋でしたか。わたしは寧人と申す旅の穢物斬りです。用が無い訳ではありませぬが、不躾ながら先にそこもとの名をお聞かせ願いたい」
有無を言わせぬ強い口調の寧に、男は少し困ったように白髪交じりの頭を掻いた。
「名乗るにやぶさかではないが……まあよい。拙者は園田平八郎、同じく穢物斬りにござる」
「園田どのか……」
寧の声に混じった感情は、園田と名乗った穢物斬りの怪訝を一層深めた。寧の声には安堵とも落胆ともつかない気抜けの気配が漂っていた。
「卒爾ながらお尋ね申す。園田どのの相部屋に、服辺どのはおられませなんだ」
「ほう、服部氏の存じ寄りでござったか」
「まあ、そのようなものです」
園田は服辺の知り合いと名乗った寧が意外だったのか、やけに感心したように首肯したり不思議がったりしている。
寧は怪しまれているのかとも考えたが、園田からは警戒の色は窺い取れない。むしろ好機の目で寧を観察していたが、不意に思い出したように口を開いた。
「聞いておらなんだか、服辺氏であれば二日前に出立なされたぞ」
「出立? どこへ向かったか存じませぬか」
「存じておる。東中道を南下して五那国に向かう、と申しておったな」
無精髭の伸びた顎をさすりさすり、園田は言った。
「東中道を五那へ……? やけに具体的ですね」
「で、あるなぁ。この話を聞かされた時もな、それまで一度もなかったのに呑みに誘われてなぁ。つい先日まで拙者と同じ家無し文無し甲斐性無しの三なしかと思っておったが、その時は二人で散々呑んで食っての支払いもすべて服辺氏が奢ってくれてのう。どこからそんな金が湧いたのかと不思議に思って聞いてみたのだが、大きな仕事の支度金が入った、としか話さなんだわ。拙者も一枚噛ませてほしかったが、隠し立てするのであれば碌な話ではなかろうしな。それ以上は詮索せんかったわ」
「……その服辺どのは、羅切と名乗り顔の右半分に傷のある偉丈夫でしたか」
「ああ、羅切と名乗っているかどうかは知らぬが、身の丈六尺は優に超える偉丈夫で右目を掠めるように額から顎まで大きな傷跡が走っておったな……そなた、知り合いなのに何故そんなことを聞く?」
「騙すような形になってしまい申し訳ない。わたしは羅切と名乗る仇を追って旅する武家にて、こちらにいた服辺どのが我が仇に似ているとの話を聞き及んで罷り越した次第にござる」
「はあ、成程、そういう事情にござったか。しからば残念であったな。最前話したように服辺氏はすでに発たれた。今から急げば東中道のどこかで追いつきそうなものではあるが……」
「で、ありますな……」
園田の話を考える風に聞いておいて、その実、寧は全く別のことを考えていた。
確かなものになってしまった、羅切への不信感について、だ。
寧にもたらされた状況はあまりにも上手く出来すぎていた。羅切から情報を得て尋ねてみれば、偶然にも仇と思しき男は出立しており、これまた偶さか同居人との酒席で行き先を漏らした。まるで追いかけろと言わんばかりの御膳立てではないか。この御膳立てを整えたのがあの羅切であったとしたら?
多少、考えが飛躍しているとは寧も思う。だが、そう考えると拭い切れない違和感に符合するのだ。
破落戸殺害の現場に残っていた独特な香り。
知る由もない寧のうっかりによる財布の真実。
そしてこの都合の良い逃亡劇。
淡く抱いていた不審が、これで確かな不信感に固まった。
(であれば、わたしはどうする……?)
園田への礼もそこそこに、寧はもと来た道を戻り始めた。
選択肢は二つ。服部某を追うか、羅刹を追及するために残るか、だ。それはつまり、羅刹を信じるか否かということでもある。
寧の答えは否だ。今の羅刹を信じることはできない。となると、田日良に残るのが寧としては心に適う選択か。
「まずは、この不信を確かめる必要がある……どうやって?」
さっさっと入れ替わる自分の爪先を見ながら、寧が独り言ちる。
容易く本性を現さず、その上で様々な人種とそつなく付き合いを広げる彼の隙を見つけるのは容易ではない。それ以前に、もし、寧が残ることを羅刹が知った時、彼は果たしてどう動くのだろうか。
彼の目的が寧の家を荒らした時と同じ火事場泥棒であるのなら、その期限は次の新月の夜、明明後日までだ。
期日が差し迫った今、あの羅切であれば強引な手段に出ることも考えられる。それこそ、闇討ち不意打ちなんでもするだろう。真正面から敵わぬ相手に不意を突かれれば、それこそ犬死だ。羅切に、寧が残ることは何としても知られたくなかった。
「なら、出ていったことにすればいい……」
寧の脳裏に閃くものがあり、顔を上げた先に枯れた背中が鉢植えに水やりをする姿が見えた。この数日で見慣れた光景、金助親方だ。考え事をしていた寧は、いつの間にか長屋がある木戸のすぐそばまで歩き通していた。
そう、折角、羅刹が寧を追い出そうとしてくれているのだ。その手に乗って出ていけば、羅刹は策に嵌った寧を怪しまない。
あたかも旅立つかに見せかけて町を出て、羅刹に気づかれぬよう町に戻り潜伏する。あとは我慢比べだ。羅刹の尻尾を掴むか、寧が見つかり闇討ちされるか、二つに一つ。
潜伏先にも当てがあった。まさか、出ていった先に舞い戻ってくるとも思うまい。
寧はこれ幸いと、金助親方に歩み寄っていった。
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