8.

「うぅ……」

 頭まで被っていた掻巻をずり下げ、寧は呻きながら目を開いた。

 中で虻の大群が飛び交うような頭痛がする。痛みが引くのを待ってから、寧はゆっくりと身を起こした。

 ここに滞在して五日ほど、見慣れた間取り、見慣れた調度となった自分の仮屋を呆然と見回し、寝癖でぼさぼさの金髪を撫でつける。が、徒労に終わった。 

 寧の髪は芯が太く、寝る前の手入れを怠ると朝にはこうして爆発する癖があった。昨日は手入れを怠っただろうかと記憶を手繰りつつ立ち上がろうとして痛む頭を振ってしまい、中腰のまましばらく呻く羽目になった。

 小さな庭に面した障子戸からは、すで昼の光が差し込んでいる。

 長屋には井戸が一基、厠が二戸あるが、五戸ある長屋の住民が一斉に起き出すものだから朝の時間は込み合うのが日常風景だった。なのでわざわざ朝に起きる要も無い寧はわざと昼前まで起きる時間をずらすようになり、ここのところそれが習慣として定着してきたところだ。

 ようやくの思いで立ち上がった寧は、ふらふらと土間の水桶のところまで歩いていき、柄杓のまま二杯の水を飲んだ。どうにも喉が渇いて堪らない。

 服に水が滴るのも気にせず喉を潤したところで、自分が寝巻もろくに着ていないことに気付いた。この寒い季節に襦袢一枚の薄着だったのだ。

 しかも昨日着ていたと思しき衣類は、枕元に雑に丸められていた。

 普段であれば洗濯物は畳んで乱れ箱に入れておくのだが……と疑問を感じ、その理由を思い出そうとすると頭痛に思索を邪魔された。

 薄着で寝たから風邪でも引いたかと思いつつ、寧は厠へ行くべく、乱れ箱に入っていた袷を引っ掛けただけの姿で外に出た。この時間であれば職人やお店者ばかりの長屋は閑散としているだろうと踏んでのことだ。

 ところが運悪くその思惑は外れた。

「おや藤花さん……すごい格好だね」

「あ、いや、その……誰もいないと思って……」

 障子戸を開けた途端、向かいに住む女将さんと鉢合わせた。気まずいながら、何も言わず引っ込むのも失礼、どうせ女将さんだからいいかと諦め、袷の前を掻き合わせつつ、寧は愛想笑いで誤魔化した。

「そりゃ悪かったね、今起きたのかい?」

「はい、女将さんは今日はお店がお休みですか」

「こっちもね、恥ずかしながら忘れ物さ。お互いしゃっきりしないとねぇ」

「はぁ」

 からからと笑う女将さん――"おちえ"に、寧は曖昧に返した。

 女将さんというのは愛称でも何でもなく、彼女は旦那と一緒に表通りで小料理屋を営む正真正銘の女将さんだった。田日良は職人が夜に日を継いで働いているからか、食い物屋が多い。

「それにしても藤花さん、格好もひどいが顔もかなりのもんだ、大丈夫かえ」

「う、そんなにですか……」

「ああ、そんなに」

 寧は思わず頬に両手を当てて確認するが、それでわかるはずもない。

 気風の良さが売りのおちえだが、こういう歯に衣着せぬところを寧は少し苦手に感じていた。

「さっさと顔を洗ってくるといいよ」

「そうします……」

「あ、そういえばさ」

「はい?」

 行けと言ったり引き留めたり、忙しい。

「先日はうちの子がお世話になったみたいだね」

「いえ、そんな……」

 おちえの娘である"おけい"と寧は顔を合わたら挨拶がてら軽く世間話をする程度の仲だったが、過日、暇を持て余した寧が話し相手にと部屋に招いてお菓子を振舞ったことがあった。

 おけいは利発で好奇心旺盛な性分で、まだ十をいくつか過ぎたばかりだというのに寧も知らないような他国の文化や自然の成りたちを知る勉強家だった。話していて為になることも多い。

「むしろこちらがいろいろと教わってお世話になりました。おけいちゃんは本日も塾ですか」

「ああ、そうなんだよ、まったくねぇ、塾のない日まで押しかけて……」

「勉強熱心なのは好いことではありませんか」

「勉強だけならねぇ……最近、塾に新しい講師が来たらしいんだけど、これが若くていい男と評判でねぇ……まったく、誰に似たんだか」

「それは、気が早いお話ですね……」

「早いも何も、あれの初恋は親方の息子さんだから、かれこれ――」

「金助親方にご子息がいらっしゃったのですか」

「あ……」

 驚く寧におちえは『しまった』と言わんばかりに顔をひきつらせた。

 不意に寧は、老巫女に身濯を頼んだ時の歯に物が挟まったような話を思い出した。おちえの反応、話を止めようとした老巫女、そして影も形もない金助親方の息子。

 大雑把な推察でも、これくらいは思いつく。

「亡くなったの、ですか」

 寧の推察に、おちえは観念したように大きく嘆息した。少し芝居がかって見えるのは、本当はしゃべりたいのだが仕方がないという姿勢を演出をしたいから、と寧が穿っているせいか。

「あたしも詳しいことは知らないんだけどさ、もうかれこれ五年前かね、金助親方の息子さん、金太さんっていうんだけど、府町で職人をしたいとかで金助親方の反対を押し切って町を飛び出しちまってね」

 府町とはすなわち国府、御上がおわす国の中心たる町のことだ。当然、その国の人も物も情報も最終的に府町に集まるため、大変な賑わいだった。

「その道中で随分悲惨な死に方をしたらしくてねぇ……親方があんたみたいな――っと、ごめんね、あんたを悪く言うつもりはないんだけど、ほら、穢物斬りってさ」

「ええ、わかりますよ、旅人は穢物斬りを名乗っていれば渡世人よりはマシと言われる程度には荒んでいますからね」

 別に珍しくもない差別だ。三年の旅で寧も慣れっこになっていた。それでもおちえは申し訳なさそうにしながら話を続けた。

「親方が、率先して旅人を助けるようになったのはそれからだね。金太さんを亡くした時の親方の落ち込みようといったら、あのまま後を追うんじゃないかとはらはらしたもんさ」

「そのようなことが……」

 と返しはしたものの、寧にはあまり興味のない話だった。金助親方が親切にしてくれるのは有難いが、それで息子の死を有難がるのはお門違いであるし、そうなると寧には五年前の惨事なぞまったく関係のない話だ。返事が曖昧になるのも当然だった。

「いい男だったんだけどねぇ、あたしが旦那持ちじゃなかったらちょっと悪戯したかもしれないくらいにさ。いい男と言えば、あんた昨日、男に介抱されて長屋に戻ったそうじゃないかい」

 どうやってこの話を終わらせようかという困惑が寧の顔に出ていたものか、おちえが強引に話を変えた。

「……は?」

 寝耳に水だった。思わぬことを聞いたせいか、頭を殴られたような痛みがぐわんとぶり返す。

「それは人違いでは……?」

「あんたの部屋にあんたを担いだ大男が入っていくのを、隣の藤次さんが見たって話だよ。あ、もしかしてそのやつれよう、昨夜は動けなくなるほど――?」

「そ、そんなわけあるわけないではないですか」

「ま、そうだね、あんたみたいな奥手がいきなりそんな頑張れるはずもないやねぇ」

 慌てる寧を面白がるようにおちえは笑ってその話に蓋をした。どうやらからかっていただけのようだが、男に運び込まれたという話は宙に浮いたままで寧はそこが気になった。

 それを追求するべきか悩んでいる内に、

「おや、つい話込んじまったよ。それじゃあね、ちゃんと顔洗うんだよ」

 と、おちえは旋風のようにさっさと行ってしまった。

 寧はもやもやとした気持ちを抱えたまま厠で用を済ませ、手を洗うついでに顔を洗い、手拭いを忘れたので手でしっかりと顔を拭ってそのまま長屋に戻った。

 昨夜の記憶を何度辿ってみても、男とあっていた記憶はない。というか、夜の記憶が思い出せない。

 朝から何をしていたかを思い出すべく頭痛と戦いながら上り框に腰掛けたところで、見慣れない紙袋があるのに気付いた。

 安価な漉き返しの紙袋は中にみっしりものが詰められているのか胴が太り、口は閉じられていた。

 折り返して閉じられた口を摘まんで持ち上げてみると、見た目以上に重い。

 恐る恐る口を開けると、真っ白い砂のようなものが詰まっている。粒の大きさや砂利が混じっているのを見るに、品質の悪い塩のようだった。

 こうしたものは安い塩漬け肉や保存用に使われることが多く――そこまで思い至って寧の頭の中で一気に記憶が繋がり組み合わさり、昨日の一部始終を思い出した。

 台所から箸を持ち出し、恐る恐る塩の塊を掘り返してみると、案の定、そこから黒ずんだ耳朶のようなものが出てきた。大きさは人のそれだが先が尖っているのを見るに人ではない。猿の穢物の耳だ。

 穢物の身体の一部は死後に塩漬けすると黒ずむ。それを利用して、穢物を狩った証としてわかりやすい身体の一部を切り落とし、塩漬けにして持っていくのが通例になっている。

 つまりこの紙袋には小銀子が詰まっているようなものだった。

「……キリか」

 この紙袋も、大男に運び込まれたというのも、それで全部が符合する。

 寧は昨日、キリに助けられてそのまま眠ってしまい、彼に長屋まで運び込まれたのだ。

 全て思い出し、納得するに至って、寧は叫び出したいほどの羞恥に苛まれ、真っ赤になった顔を人目もないのに覆ったのだった。

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