7.

「……俺は別に構わんが」

「うむ、有難く思えよ」

 道中着に裁着袴、手甲脚絆も勇ましい寧の姿が、まだ夜も明けきらない裏長屋の通りに輝くような金髪をなびかせて立っていた。無駄なくらい尊大に。

 相対するのは無精ひげを蓄えた如何にも起き抜けといった具合のキリだ。寝癖だらけの蓬髪に着たきりの単衣は着崩れて、腰高障子から覗く巨躯のだらしなさは普段の五割増しに見える。

 起こされたばかりだからか、普段は右顔に被せている手拭いもない。痛々しい傷跡が曝け出されているが、寧はそんなものに構っている余裕はなかった。

「さあ、行くぞ!」

「待て、支度する」

 キリの低声に、寧が文句のありそうな顔をしつつも、押しかけた分際をわきまえてか流石に口を噤んだ。

 それから一刻(一時間)後、すっかり日の昇った街道の上に寧とキリ、並び歩く姿があった。二人とも――寧はしっかりと、キリはいつも通りの完全武装だ。

 街道は田日良町がある多兼山を北東から南東になぞるように走っている。二人が数日前に通った往還はもう少し先でこの街道とぶつかる。つまり二人が今歩く道は過日も、田日良町に入るために通った道だ。

 今回は往還への手前で道を逸れ、山の方へとなだらかな傾斜の薄っ原に押し入った。キリの頭くらいもある薄が密生する藪の中、何かが押し倒してできた道とも呼べない獣道を潜るように進む。

 ここを抜ける頃には薄の綿毛塗れになっているであろう自分を想像して、寧は少しうんざりした。

 話の経緯はこうだ。全財産を失った寧はしばらく魂をそのあたりに飛ばした後、仕方なく現実へと戻って方策を考えた。お気に入りの千鳥の巾着に入っていたのは銅銭が三十数枚。これでは蕎麦を一枚手繰れば消えてしまう。

 寧はそもそも、穢物狩りとして新月の夜に現れる穢物を狩る為に待機していた。穢物は雑魚が一体小銀子二枚。頭分を討ち取れば小判一枚。それを当てにしての待機生活なのだ。

 待機の間、家賃はそれぞれの丁名主が肩代わりしていた。しかし生活に掛かる実費、小間物や食費、薪代や湯銭といった支払いは己で持たなければならない。

 新月まであと七日。手持ちは銅銭三十枚。

 一応、大銀子があるもこれは使いたくなかった。それ以前に取るべき方策があるからだ。つまり、金がないなら働けばいい。今までそうやって生きてきたのだから何も難しいことはない。

 しかし、人の出入りも規模も大きい国府ならばともかく、ほとんど閉鎖状態で生活が廻っている元町では余所者の入り込む余地がない。だから口入屋などの斡旋所もない。仕事を探すだけでも骨の折れる仕事になる。

 そこで寧は思い付いた。穢物が来ないならばこちらから出向けばいい、と。そして既にそれをやっている者に心当たりがある、と。

 それがキリだった。キリは田日良町に到着した翌々日から外に出て穢物を狩っている。その上りも日によっては五体を越える上々の収入だという。

 五体も穢物を狩れば雑魚でも大銀子一枚分だ。それだけあれば一週間の生活費にお釣りがくる。

 これはやらない手はないと思った。

 案内ならキリにさせればいい。裸を見たり仇討の邪魔をしたりと色々な貸しがあるのだから――寧が襲い掛かったことは棚に上げて――協力を惜しむようならそれらを材料に脅し付ける。キリになら無下にしないだろうという期待もあった。

 思い立ってすぐに寧は行動した。石呉丁丁名主の屋敷でキリの寝起きする長屋を聞き出し、朝早くから押し掛けたというわけだ。

 薄の藪を抜けた先は白い岩場が露出する原野が広がっていた。緑もないことはないが、圧倒的に白い岩肌の色が多い。

 寧にとっては初岩神社から見下ろした光景だが、それでも自分の足でこの風景に分け入ることは胸に迫るものがあった。

 名も知らない小さな草花が生い茂る緩やかな丘を、キリはずんずんと登っていく。

 道らしい道はなかったが、岩場と呼べるほど崔嵬とした様子でもなく、下草も踏み分けられる程度の高さしかない。二人の足取りは町の大路をいくものとそれほど変わらなかった。

「どこまでいくんだ」

 ここにきて、寧は自分がどこへ向かっているのか気になった。キリが毎日のように穢物を狩ってくると聞いていたので、てっきり町のそばにあるものと思い込んでいたのだ。なので、寧は今はじめて自分がどこに向かおうとしているのか尋ねた。

 尋ねつつ、改めて周囲を見渡す。これといった心ゆかしもない原野が、先行きに不安を抱いた寧には先程とは別の光景のように見えた。荒涼としているわけではないが、開けた視界に青空と白岩の冷たい色だけが光るのはどこか寂しい。

「三里ほどか」

「三里……」

 寧の足ならば歩いておよそ一刻半(一時間半)といったところか。しかしそれは街道の三里だ。緩やかとはいえ山道を行くならば三刻(三時間)近くは見なければならない。

 寧は急に足が重くなるのを感じた。

 うんざりした気持ちが寧の顔に現れ、それを一瞥したキリは歩き出しつつ寧を気遣う。

「おまえに合わせる」

「それは親切にも有り難いことだ……」

 そんな気遣いも、どうせゆっくりとしか歩けないだろうと決めつけた嫌味に聞こえてしまう寧だった。馬鹿馬鹿しい負けず嫌いだとは思いつつも、面白くない感情を持て余す。

 田日良町の周辺に、猿の穢物が居そうな森は無い。森もないのに猿の穢物に襲われる。それは町を初めて訪れた時に寧が感じた不思議だった。

 あるのは穢物が潜めない桃橘榊の杜と、その内側に申し訳程度に広がる疎林くらいだ。穢物のケの字も隠れ潜む余地はない。

 そもそも穢物が生息する生態が近くにない不可解。だがそれは『桃橘榊の杜を無視してどこからともなく穢物が涌いてくる』という更なる不思議の前に霞んで、追及する機会を失わせていた。

「この山は、面白いな」

 滑るように丘を登りつつ、キリが話しかけた。

「なにが、面白いんだ」

 寧にそんな余裕はなかったが、必死だと思われるのも癪なのでそう切り返す。

「山を登り切った向こうとこちらで様子が急に変わる。向こうは森で、こちらは草っ原。この一見何もない境界に何があるのか、不思議だ」

「ああそうかよかったな」

 ここのところの日和続きで、高い所に鱗雲が棚引く空は今日も今日とて陽射しが強い。晩秋とは思えない照り付けだ。

 山間を渡る冷たい秋風も、汗みずくの寧の身体には涼しく爽やかなくらいだ。そもそも山に来なければよかったと考え始めた寧には、山の風なぞちっとも慰めにならなかったが。

 寧は気晴らしにあれこれと考える。猿の穢物も町を襲いに来るとき、この原野を進むのだろうか。だとすればちょっとした見ものだろう。

 丁名主曰く、町に現れる穢物の数は十やそこらではない。その程度なら、石切神楽があるとは言っても町を挙げて穢物狩りを掻き集めたりはしない。

 夜闇に乗じる彼らの正しい数を把握する者はいないが、優に五十は超えるのではないかというのが町の予測だった。

 その数でこんな見晴らしのいい野っ原を渡ればさぞかし目立つだろう。

 そんなはずはないか、と寧は思い付きに蓋をした。穢物がどこから侵入してくるかわからないから必要以上に警戒しているのだ。それだけわかりやすく行軍していれば、容易く侵入方法を突き止められるだろう。

 それから半刻後、寧とキリは八合目ほどの峰に登りついた。寧は峰を跨いで摩訶不思議な風景を目の当たりにする。

「まるで別世界だな……」

 山下を見下ろすようにして峰に立った寧は、思わずそんな嘆声を上げていた。眼下には緑の壁――としか思えない峻険な深山が、幾重にも横たわって寧の視界を覆い尽くしている。

「ここからは穢物の領域だ、気を抜くな」

「わかっている」

 寧は気持ちを切り替えるように杖代わりにしていた朱槍を小脇に抱え直した。

「まあ、穢物と出会うかどうかは運次第だながな」

「そうなのか?」

 町が困るほどいるのだから、歩けば四方八方から襲われるくらいのものかと、寧は勝手に思い込んでいた。

「これだけ広い森だ。穢物が潜む場所はいくらでもある。猿の穢物は用心深いからな。こちらが寝ているくらい油断していないと襲ってきたりはしない」

「そういうものなのか」

 話しながら、キリは森の方へと歩き出す。寧も続く。

 キリはすでに切り拓かれた道を進んだ。それは昨日一昨日とキリが森に入る際に切り拓いたのだろう。人が一人やっと通れる程度に下草や枝を払っただけの獣道だ。

「対峙すれば話は別だがな。猿の穢物ほど厄介な穢物もいないだろう。鬼型を除けばな」

「鬼型なぞ、本当に居るのか」

「いるぞ」 

 鬼型とは穢物の中でも特に強大な個体だ。その成り立ちは一時に大量の穢を浴びて耐えきった獣が成るとも、数十数百の時を生き抜いた穢物が自然と変化するとも言われ、通常の生物には在り得ないような生態を持つものが数多く確認されている。とにかく謎の多い存在だった。

 少なくとも鬼型は穢士ですら一人で相手取るには危険な存在であり、場合によってはたった一体で町を一つ滅ぼすほどの脅威になるとまで言われている。

 故に伝説の化け物である鬼になぞらえて、鬼型と称されるのだ。

「戦ったことがあるのか」

 寧としては話継いでの雑談程度の気持ちだった。

「ああ……」

 だが、短く肯うキリは、悲惨なくらい重く暗澹とした気配を漂わせた。

 寧は己の過失と思いつつも、謝罪はしなかった。下枝を切り分けるキリの背が、一切の追及を拒んでいるように思えたからだ。

 不意に寧は、キリが片角の鬼を探す理由がその辺りにあるのだろうと悟った。

 キリの背中はすぐ目の前にあるのに、重くわだかまる沈黙がその距離を何倍にも遠く見せる。遠くにいるからなおさら声を掛け辛い。

 そうして二人とも口を噤んだまましばらく歩き続けた。

 悪いことをしたと思いつつも謝る時宜を逸して悶々としている寧には、漂う水の匂いも次第に大きくなる流水の音も意識の中に入ってこなかった。

 不意に、寧の視界が開ける。そしてようやく気付く。溢れる光の中に、振り返ったキリの顔が浮かんでいた。そこはかとなく得意そうな表情のキリの顔の向こうには、寧が今まで見たことも想像したこともない光景だった。

 それは棚田のようだった。棚田とは山の斜面を開墾し、階段状に囲った水田のことだが、似ているだけで様子はずいぶん違う。

 そもそもそれは人の造作ではない。

 一つ一つは庭池程度の大きさの浅い窪地だ。それだけ見れば大した感動はないが、畦のように茶色い石に囲われたそうした窪地が、頂上から一つ二つと階段状に増えていき、寧の足元あたりでは二十ほどに広がっている。

 明らかに岩でありながら生き物の皮のように滑らかな畦の中が鮮やかな緑であるのは棚田と似ているが、若穂の緑とは異なり、その緑は湛える水そのものの翠なのだ。翠の水が、輝いているのだ。初めて目の当たりにする寧には不可思議そのものでしかない。

 自然が作り出した丸みと色彩で縁取られた天然の棚田が、寧の視界も心も圧倒した。

「華段と呼ぶらしい。俺も実際に見たのはここが初めてだ」

「すごい……きれい……」

 華段の輝きが映ったかのような翠瞳を瞠らせる寧は、キリの言葉も耳に入らぬようだった。

 キリは苦笑を浮かべて、華段の岩に腰掛ける。そうして、興味深そうにあちこち歩き回る寧の姿を見守った。

「すごい、すごいなキリ! こんなの絵草子にも見たことないぞ!」

 やがて一通り見て回った寧は、白い頬を子供のように紅潮させてキリの元へと戻ってきた。

 普段の肩肘張った姿からは想像もできない無邪気な様子に、キリの隻眼もいくらか和んでいる。

「少し早いがここで中食だ。好きなだけ見ていくといい」

「うんっ」

 満面の笑みで素直に頷く寧を見送り、キリは背負っていた風呂敷包みから竹筒を輪切りにした弁当箱を二人分取り出した。町の飯屋が職人衆相手に昼夜を問わず販売している弁当で、値は張るが味も量も申し分ない。

 戻ってきた寧とキリは差し向かいでその弁当を食べたのだが、寧の様子がおかしかった。というより、元の寧に戻っていた。

 頬に紅潮を残してはいるが、どこかむすっとして弁当を掻き込む間もずっと黙っている。

 燥いだり不貞腐れたり、キリにはとんと理解のつかない寧の気分の変わり様だった。

「わたしはな、風光明媚を求めて貴様についてきたわけではない」

 そう、小難しい顔で宣言したのは弁当をしっかり平らげた後だ。

「穢物を狩って日銭を稼ぎに来たのだ。だというのに半日歩き通して未だに子猿の姿も見ておらん。貴様、わたしを謀ってはおるまいな」

 寧の文句の内容はつまるところ穢物狩りにかこつけて遊びに連れ出されたのではないかというところだが、その実、むすっとしているのは単に恥ずかしくなっただけだ。歳相応――よりも少し子供っぽいところを見られ、複雑な心境が働いての不愉快さだった。

「穢物が出るかどうかは向こう次第だ。俺は保証できん」

 平然としているキリに、寧が喰って掛かる。

「それでは困る! 明日にも干上がってしまうではないかっ」

「これからが本格的な山入りだ。後は運を天に任せろ」

「何としても三体は狩らねば……」

 二人は手早く中食の跡を片付けると、猿の穢物を求めて人跡のない森の中へと更に身を沈めていった。

 ブナやシイといったどこか陰鬱とする高木が等間隔に立つ森は、見通しが悪いわけではない。だが、道もなく、同じような景色が続くのにはうんざりした。腐葉土に足を取られて一瞬下を向いただけで、自分がどこから来てどちらに向かおうとしていたのかわからなくなる時すらあった。

 キリは時折、周囲の風景やそばに生えた樹木、鬱蒼とした梢からわずかに覗く陽の輝きを見て、おもむろに方向を転じた。

 キリには何か見えているのかもしれないが、寧には今どこをどう歩いているのかさっぱり掴めない。それを一々説明してくれるようなキリでもなし、あれこれ尋ねる寧でもなかった。ここでもしキリとはぐれれば、山を下りることすら寧には難しい。そんな不安と穢物の鳴き声すら聞かれない状況に、寧の焦りと不満は高まっていく。

 黙々と進むキリの後ろを怏々とした寧がついていく。しばらくはそんな具合に進行していた二人だが、その瞬間は唐突に訪れた。

 どこからともなく降るように、猿叫が木霊したのだ。

 寧はまず襲撃を警戒して朱槍を構えた。

 キリはそれが近くではないどこからか発せられた警告だと察して、複雑に反響する声を辿った。

「こっちか」

「いるのか!」

 それまで鬱憤を溜めていた寧の顔に気色が走り、キリと並ぶようにしてその方向へと走り出す。穢物の気配は頭上の梢を渡り、山の斜面を駆け上がっていく。二人は落ち葉を蹴散らしてそれを追いかけた。

「いつもだ。この辺りに来ると現れる」

「これを追えばいいんだな!」

 猿叫は追いかける二人から付かず離れず聞こえてくる。

「どこかへと誘うようだな……」

「屠殺すれば関係ない!」

 キリの懸念を跳ね除けるようにして、寧が足を速めた。

「俺の前に出るな!」

 キリが怒鳴った。

 キリが声を荒げた場面に、寧は初めて遭遇した。驚き、半ば慄き、つんのめるようにして足を止めようとするが、遅かった。

「なっ」

「寧っ!」

 厚く降り積もった落ち葉で気付かなかった足元に突然、大きな穴が開いていた。寧は咄嗟に槍を掴んでいない腕を伸ばすが、大きな穴の縁を掠めるだけで敢え無く闇の中へと落ち込んでいく。

 身体の外側を引っ張られ、内側は押し上げられるような不快な感覚に苛まれながら、寧は地上の光がどんどん小さくなっていくのを見ていた。それは須臾のようにも那由他のようにも感じられる時間の中で、希望が消えていくような錯覚を植え付ける。

 落ちた先がどうなっているのか、それを考える間もなく、寧の身体は冷たく重い何かに包まれて落下を止めた。

 止めたが、冷たく重い何かは乱暴で圧倒的な力を以て寧の小枝のような身体を翻弄する。

 息ができない。身動きが取れない。寧は自分が水の中、それも奔流に揉まれているのだと悟ってなんとか水上に顔を出そうと藻掻いたが、儘ならない。

 槍を離せばもう少しまともに身体を動かせるのではと思ったのが、寧の思考らしい思考の最後だった。


 異様に暗い。

 目が見えないのは元より、思索の先すら見通せない昏さ。

 寧は恐怖した。

 そしてこの恐怖が消える時、自分の命の灯も消えるのだと思い、恐怖に縋りついた。

『どうした、怖いのか』

 男の声がした。

 懐かしい声だ。懐かしくて、恐ろしい声。当時はただ、恐ろしかっただけの声。

「寧は、戦いたくなどありません」

 絞り出した自分の声は驚くほどか細くて、相手に聞こえているか不安になった。それでなくとも相手は――父は自分の話など聞いてくれないのだ。

「武家に生まれた以上、戦で御上に仕えるのが本懐だ。それが嫌なれば死ぬしかないぞ」

 この時も、子の気持ちより己の信条を優先し、押し付けた。

「死にとうありません」

 その声で、自分が泣いているのだと気付かされた。手にした木製の槍が懼ろしくて、目の前の父が怯ろしくて、死が怖ろしくて、心から泣いている。

「ならば戦え」

 言うが早いか、父が定身の木刀を片手殴りに寧の槍目掛けて叩きつける。

 自分の身長と同じくらいの半槍を身代わりにするように掲げて、その乱暴な乱打を受け止める。

 乾いた木と木ががぶつかる間の抜けた音とそれに唱和するかのような寧の悲鳴が混ざり合って八十畳あまりの道場に響き渡る。

 父が本気で木刀を振るえば身を丸めた寧の槍なぞ一撃で吹き飛ばされる。そうならないのは手加減しているからなのだろうが、寧にはそんな事情は察する余裕もないし、関係もない。

 ただ、恐いのだ。

 こうやって屋敷の道場に立つことは、幼い寧にとって恐怖の代名詞だった。それを強要する父もそうだ。寧には夜に住むお化けと同じくらい怖い存在だった。

「このままでは死ぬぞ、寧!」

 父の罵声が飛ぶ。この後決まって強烈な一撃が見舞われ、寧はその一撃に防御していた槍ごと床に叩きつけられ、気を失って稽古の時間は終わるのだ。

 まだ、お化けの方がましかもしれない。父は、鬼と同じくらい恐い。

 そう思いながら、幼い寧は眠るように意識を手放す。


「おんヤ」

 いやに明るい、素っ頓狂なくぐもった声に寧の意識が揺り動かされた。

 だが、それは夢の中にいるようにあやふやで、感覚も遠い。そしてひたすらに眠い。寧はこれを現実だとは思わなかった。

「こんなところに珍しいネ。けどこれ、死んでるカ?」

 甲高くざらざらとした声の主が、うっすらと開いた寧の双眸を覗き込んだ。

 寧の眼前に現れたのは、鬼の顔だった。

「死んでるカ? 生きてるカ。でも死にそうカ」

 夢の続きかとある種の安心もしたが、父はたとえ夢の中でもこんな甲高い声の出し方はしない。これは、別の夢だ。

 鬼の顔は寧が幼い頃に見た絵草子の姿そのままだった。赤い顔、太い眉、鋭い目、耳まで裂けた口、人の指ほどもある牙、そして黒い角。だが、その鬼の額には角が一本しかない。

「死にそうならいっカ、遊んでも面白くもないしネ」

 鬼の顔が消えた。

「あと六日の我慢ダ」

 何がおかしいのか、けたけたと笑う声が耳障りに反響しつつ遠ざかっていく。

 その声に引っ張られるようにして、寧の意識もまた現実から遠ざかる。

 一瞬訪れた無の後、寧は急に寒気を感じて身を竦めた。

『どうした、寒いのか』

 それは父の声によく似ていた。

 だが決して父と聞き間違えることはない、優しさに溢れた寧の大好きな声。

「大兄様……?」

「雪が降ってきたものな、寒くて当然だな」

 先程よりは成長した寧は、大兄――藤花太人(ふじばなだいと)の胡坐の上に座って転寝をしていた。

 それが鼻先に落ちた雪花で妨げられたのだ。見上げれば、いつの間にか空は重苦しい鈍色の雲に覆われ、そこから雲を千切ったような綿雪が落ちてきている。

 視線を転じれば眼前に広がる水面も似たような色をしていた。気の滅入るような色だ。

 太人は寧を膝に抱えて、その水面に釣り糸を垂らしていた。それは彼の日課だった。釣り糸の先に針はない。ただこうして、湖面と向き合って己の内側を見つめるのが目的だと寧に話したことがあったが、魚の釣れない釣りに何の意味があるのか、寧には見当もつかなかった。

「帰るか?」

 太人は少し悪戯っぽく膝上の寧に聞いた。寧がどう答えるか、わかった上で訊ねているのだ。

「まだ帰りたくない」

 寧は膝の上で器用に身を反転し、太人の広い胸にしがみついた。帰ればまだ父がいる。だが、あと一刻もすれば父は国府へと出立する。それまでは屋敷に戻りたくはなかった。

「このままここにいれば、風邪をひいてしまうぞ」

「父上に見つかるよりは風邪をひく方がいい」

 太人の胸に顔を埋めたまま、寧は拗ねたように言った。

 釣り竿から片手を離した太人が、寧の金色の頭を撫でる。

「父上は寧のためを思って厳しくしている」

「そんなの知らない」

「そうだな。だが知らぬと言いながら、寧はよく頑張っている」

「……うん」

「きっと、父上も寧の頑張りに気付いて下さるさ」

「……いつ?」

「いつかはわからない。だがそれまでは、こうして頭を撫でやるからな、頑張るのだ」

「……うん」

「さて、本降りになる前に戻らねばな」

 太人が釣り竿を片付け始めたその時、湖面を渡る風が雪を叩きつけるように二人を包んだ。

 寧は飛ばされまいと太人の身体に強くしがみついたが、何故だか先程のような温もりをその胸から感じ取れない。

「兄様、寒い……」

「もうすぐ冬がくるからな」

 そうではない、と答えようとしが、寧の舌は凍り付いたように動かない。それなのに顎は寒さに震えっぱなしで奥歯ががちがちと鳴っている。

「さあ、戻るぞ、寧」

 太人は寧をしがみつかせたまま、強い足腰を見せて立ち上がる。

「寧、歩きづらいではないか」

 笑って寧を下ろそうとする太人だが、寧は手を置かれた頭をいやいやと振って必死にしがみつく。

 寧は知っている。ここで太人が屋敷に戻れば、彼は流行り病を得て帰らぬ人となってしまう。ここで食い止めなければいけないのだ。何としても、太人の気持ちを翻さねばならない。

 それなのに、寧の身体は寒さでほとんど動かなかった。

 太人にぴったりと張り付いているのに、ちっとも暖かくない。温もりも、拍動すらも感じない。これではまるで……。

「寧、大丈夫だ」

 太人は寧を落ち着かせるようにその背中を擦る。寧は顔を上げられなかった。太人の顔を見るのが怖かった。そこに生色があるとはとても思えなかった。

 水の音がごうごうと、嫌に耳に付く。湖水は多少の波はあれど、波濤のように音がするほどのものではない。なのに、寧の耳の中は水がうねりを上げて流れるような音に満たされていた。

 それが一層、寧の恐怖心を煽る。

 寧は精一杯に腕を伸ばして太人の身体を抱き締めた。一度とて、その背中に腕を回せたことのない太人の大きな背だったが、今、祈りが通じたかのようにしっかりとその身体を抱き締められた。

 逃がすまいと、寧は必死にその身体を掻き抱く。

 すると不思議なことに、それまで寒くて仕方のなかった身体に温もりが広がっていった。

 寧はその温もりを逃すまいと、掻き集めるように無心で温かな何かに縋りつく。

 不意に唇に触れるものがあり、口中から喉へ、喉から胃の腑へと熱いものが流れていく。

 始めは心地良い熱さだったそれが次第に熱を増し、湯を飲んだようになり、火を呑んだように感じたところで寧は目を開けた。

 一瞬、何かの生き物に呑み込まれたのかと錯覚した。だがよくよく見れば、それは揺れる火明かりに照らし出された石壁だった。妙にぬめぬめとした光沢を帯びているせいで、赤い光を吸った壁面が肉のように蠢いて見えたのだ。

 それがただの石壁だと気付く頃には、寧は自分がどういう状況なのか把握できるだけの感覚を取り戻していた。

 まず、自分は洞窟のような場所にいた。背後に焚火が燃えている。

 そしてその身には一糸すら纏っていない。

 そこまではいい。地下を流れる水脈に落ちたのだ、濡れた服を着たまま寝かされるのは確かに不快だ。

「目覚めたか」

 しきりに状況を確かめようとする寧の頭の動きで気付いたのか、耳元で聞き慣れた男の声がした。

「……キリ」

「よかった」

 本来であれば、思い切りその土手っ腹に膝を叩き込むところだった。

 だが、キリの心の底から安堵する声が、寧の怒りを霧散させた。

「……それほどまずかったのか」

「息をしていなかった」

「……しょ、そうか」

 寧は、一糸まとわぬ姿で、同じく一糸まとわぬキリに抱きかかえられて目覚めたのだった。

 自分の置かれた状況を思い返し、死なずに済んだと実感した途端、寧は身体のあちこちに鈍痛を感じて小さく呻いた。

「あまり無理はするな。身体が動かないとか会話が難しいとかあるか」

「しょ、そういうのはないが……何故かりょれちゅ、呂律が回らん」

「窒息の後遺症か……?」

「にゃ、なんだか……世界も回ってるぞ」

 よろめくように身動ぎする寧の身体を、支えるようにキリの腕に力が籠る。熱く硬い筋肉に覆われた腕は、それだけで安心感を与えるほどに逞しい。

「少し、様子を見よう。会話は出来ている。一時的なものかもしれない。骨は折れていないが打ち身だらけだ。筋を痛めているかもしれないから動くならゆっくり動け」

 いつになく饒舌なキリの注意だが、

「動こうにもな……こんにゃ、こんなにしっかり抱き締められていたら動けんぞ」

 冗談めかした文句を返され、キリは鼻を鳴らすように少しだけ笑って見せた。

「もう少し温まれ。せめて火薬湯が染み渡るまで」

「かやくとー?」

 初めて聞く名を寧が繰り返す。

「身体を温めるための薬湯だ。火も起こせる」

「えじの、知恵か」

「そうだ」

 ぶつけでもしたか火薬湯のせいか、喉の痛みを感じて寧は口を噤んだ。

 道理で、じめじめとした洞窟内において乾いた粗朶もまともに集まらないであろうに火が起こせたわけだと納得する。

「温かいな」

「まさか、これほどの鍾乳洞が広がっているとは、思いも寄らなかった」

「しょーにゅーどー?」

 これまた初めて聞く名に、寧がぼんやりする頭を巡らせて周囲を見回そうとした。が、見られたのは焚火が照らし出すわずかな空間だけだ。それでもそこには今まで寧が見たことも聞いたことも無いような不思議な造形物がたくさんあった。

 つららのように天井から垂れ下がる岩、逆に筍のように岩の地面から生える石柱、溶けだしたかのように爛れた岩壁。始めに生き物の体内と見間違えた錯覚がぶり返すようだ。

「水に溶ける岩が、長い年月をかけて雨水に溶かされてできた洞窟だ」

「わたしは、しょこに、落ちたのか」

 まだ身体の芯に冷えが残っているのに、火薬湯の効能か臓腑や頭が妙にかっかとして、寧はのぼせたように陶然となっていた。そのせいか声に力がない。

「鍾乳洞は年間を通して気温が低い。しかもここに流れる水はやけに水温が低い。正直、おまえが助かったのは運が良かったからだ。あそこで岩場に引っかかっていなかったら、もっと発見が遅れた」

「わざわじゃ……追いかけてきたのか」

「ああ」

「……しょか」

 どこか嬉しそうに呟いて、寧は胡坐をかくキリの上に腰かけたまま、その胸に頬を寄せた。

「だいにい様の夢を、な、見ていた」

「夢か」

「よく、釣りに行くだいにい様にちゅ、ついていって……こうして膝の上ににょ、乗せて貰ってた……あったかくて、だいにい様を直に感じられて、わたしはだいにい様の膝の上が大しゅ、大好きだった……」

「よい夢だったんだな」

「しょうだな……悪くは、なかった……」

 そう答えはしたものの、大きく嘆息した寧の声は精彩を欠いていた。

 夢の終わりに感じた恐怖を思い出すと、今でも胸が締め付けられるような息苦しさを覚える。

 あれから八年もの歳月が流れているというのに、寧は未だに長兄の死を受け入れ切れていなかった。

 寧が顔に掛かる湿った髪を後ろに撫でつける。半ばまで乾いているのは、相当な時間、キリがこうして温めてくれていたということだろう。それが無ければ、寧はこうして目覚めることはなかった。

 寧は自分のこと、キリのことに思い耽り、言葉を失った。

 キリも、何も口にしなかった。ただそっと、寧の背を撫で続けた。

 果たしてどれくらい沈黙していただろうか。転寝のように心地良い沈黙なぞ、寧には想像もしたことのない経験だ。

 眠る直前のような現実感のないふわふわとした意識が、思い出の中をくるくると飛び回る。うっすらと開けた視界を染める炎の色も、滲んで回って忙しなく揺れる。

 まるで別世界に迷い込んだかのような感覚。だが、嫌な感じはしない。それどころか、頭の芯が痺れたようなこの感覚は、嫌なことも辛いことも溶かして拭い去ってくれるような安心感がある。

 キリが顔を上げて、その沈黙が破られた。

「そろそろ乾いただろう、動けるか?」

 寧の死角になっていた岩場から、干していた小袖を引き寄せたキリが、それを寧の背に掛け落とす。まだ少し湿った袷の冷たさが、火照った身体にむしろ清々しい。

「動けるなら、そっちで着替えろ」

 寧が動かないと自らも動けないキリがそう促す。寧は熱に浮かされたようにぽーっとした面持ちで言う通りに動き、岩場の陰に回った。火灯りの外に出ると途端に冷気が襲いきて、寧は裸身を震わせた。

 道中袴に紫の袷、下着の類が無かったが、寧は何故か細かいことだと思って気にならなかった。

 寧が一通りの着替えを済ませて火の傍に戻ると、キリが少なくなった荷物を纏めて待っていた。下帯一枚の姿で。

「なにゆえ……きしゃまは服を着ないぃ?」

 やや棘のある言葉だが、どこか気抜けしている上に呂律が回っていないせいでどこか頓狂だ。キリを見る目も妙に据わっている。

「燃やしたからな、着るものがない」

「ましゃか、火を付けるために……?」

 事情も斟酌せず、詰るような気持ちでいた自分が愚かしく思えて寧がたじろぐ。

「火薬湯で火は付くが、粗朶が芯まで濡れていては長続きしない。他に燃えやすいものを用意する必要があった」

 確かに、洞窟内には山から流れ込んできた細い木の枝が無数にあるものの、どれも芯まで水を被っているので火は長続きしない。他の燃えるもので火を維持しつつ、強引に乾かしながら燃やすしかなかったのだろう。

 それにしても自らの着ているものまで火にくべるとは、寧の胸に迫るものがあった。

 胸の奥から込み上げる熱いものに、寧は動揺した。キリに対して怒りや苛立ちで熱くなることはこれまでもあったが、この熱さは明らかにそうしたものとは違う。もっと具体的で、頭の芯を溶かすような熱さだ。

 その熱さに思い当たる節は、寧には一つしかなかった。しかしそれを認めたくはなかった。キリと出会ってからまだ数日程度、よく知りもしない相手にそんな情動を覚えるなど寧の感覚からすればはしたないことこの上ない。

 寧は気持ちを落ち着けようと長年の相棒――屋敷から持ち出した朱槍を探った。嫌っていた武器も致し方なく頼る内に愛着が湧いていた。今では寝る時もそばに置いていないと落ち着かないほどだ。

 しかしその姿が見当たらない。

 衣服の傍にはなかった。薄れる意識の中でも離すまいと念じていたが、もしや流されたのかと寧は不安に駆られた。

「わたしの……槍はぁ……?」

 うわごとのような呟きに、焚火から何かを拾い上げようと身を屈めていたキリが反応した。

 身を起こしつつ、手にしたものを寧に見せつけた。

「それならここだ」

 下帯に無理やり小太刀を差し落としたキリを見てしまい、噴き出しそうになった。

 下帯一枚で普段通りに動かれるといろいろと問題がある。目のやり場もそうだが、現実離れした光景がどうにも笑いのつぼを刺激する。こんな状況でも笑いが込み上げる自分にいささか閉口しないでもないが、可笑しいものは仕方がない。妙に感情の起伏が激しいのは、死の瀬戸際から生還したばかりだからか。

 そんな風に内察していたのも束の間、キリが手にしたものを見て愕然とした。

「にゃ、にゃんで……にゃにが……」

 キリが手にしていたのは即席の松明だった。木の棒の先端に布を巻き締め、火薬湯を染み込ませたものだがしっかりと松明の仕事は熟している。その燃えている木の棒は、味わいのある朱塗りの棒だ。

 どう見ても、何度見ても、寧が愛用していた槍の柄だった。

 そしてキリがおもむろに差し出したのは、革鞘に収まった刀身――茎が剥き出しになった、槍身のなれの果てだった。

「も、燃やしたにょか! 我が家ひょ家宝を!」

「薪が必要だった」

「き、きしゃっ、きさみゃっ! これがどれほっ、どれほにょ!」

 怒りのあまり言葉にならないのか、呂律の回らぬ舌で寧がキリに詰め寄る。

「業物だな。柄なら別に拵えればいい」

「しょおゆう問題ではにゃいっ!」

 叫びつつ、足をもつれさせた寧をキリが片腕で受け止める。寧はそれを幸いにキリの厚い胸板を思い切り拳で叩いた。が、思ったよりも力が入らず、キリは小動もしない。寧はそのままキリの胸にもたれかかるようにして動きを止めた。

「にゃ、なんだ、ちかりゃ、はいらな……」

「酔ったか」

「にょ、酔った……?」

 キリを見上げる寧の白い頬が紅潮しているのは、怒りのせいだけではないらしい。傷の露になったキリの顔が回って、寧の頭はぐらぐらと覚束ない。

「火薬湯は身体を温める生薬を煮詰めた酒精に溶かしこんだ薬だ。効果は早いが慣れていないと少量で酔う」

「しゅ、しゅしぇい……? しゃけか!」

「酒だな」

「こ、こりぇが酔う……」

 初めての感覚に呆然とする寧をその場に座らせると、キリはまだ燃えている焚火を松明で流れの方へと押しやり、火のついた粗朶をそのまま水流へと落とした。それで火の始末は済んだ。

「歩けるか」

「……しゃむい」

 言われるでもなく、身を抱えて震える寧を見れば尋常でないことは察せられた。

「飲め」

「にょ、のんだりゃ……歩けにゃぁ……」

 キリが差しだした火薬湯の入った竹筒を、寧はいやいやをするように拒んだ。

「歩けなくなったらおぶっていく。いいから飲め」

 キリの切迫した面持ちに、背負われるのも体裁が悪いとの抗弁はできなかった。

 仕方なく、木の栓を抜いて一口だけ含む。

 鼻孔に抜ける強烈な刺激に吐きかけた。口を押えて堪える。だが、出ていかないだけで喉を通ろうとはしない。いつまでも口中に留まる刺すような薬臭さに、寧は顔を赤くしたり青くしたり忙しい。

 時間をかけてどうにか喉の奥に落とし込むと、今度は火薬湯が通り過ぎたところを灼けるような刺激が追いかけ、最後に胃の腑でとぐろを巻いた。

 それでも消えない酒精の刺激に咽びつつ、寧は竹筒をキリに返す。

 受け取ったキリも一口呑み込み、平然と蓋をして小太刀の鞘に筒を括りつける。

 小太刀には他にも得体の知れない包みやらが結わい付けられており、元々そのようにして荷物を纏められる工夫が鞘に施されているのだと見て取れた。それもまた、穢士の工夫なのだろう。

 ひとしきり咽た後、寧は回る視界と逆回転する大地に翻弄されていた。

「き、気分がぁ、いいんだか悪いんだかぁ……わかりゃんじょ」

「乗れ」

 横座りの寧の前にキリが背を向けてしゃがみこむ。

 寧が倒れ込むようにその背に寄り掛かった。キリはほとんど座ったままの寧を抱え上げるようにして背に乗せると、岩に立てかけておいた松明を手に歩き出す。

 歩き出してすぐ、背中の寧が話しかけてきた。

「きしゃ、まにはなぁ、よくよく世話になるなあ……にゃ、なんぞ礼なと考えんば、にゃあ」

 呂律が回らない上に子供のように舌足らずな言葉遣いでそう言った。

「礼には及ばん。気にするな」

「こうしてると、だいにいしゃまにおぶって貰ったのを思い出しゅ」

「……そうか」

「礼はぁ、どーしたものかにょう……」

 舌足らずな口調は心が子供の頃にでも戻っているのか武家の姫君のようなそれだ。

 しかも話があちらへこちらへ飛ぶものだから、キリも返答に困った。

「礼はいらんと言ったからな」

「にゃぜじゃ」

「何故と聞いたか?」

 キリが意味を聞き返すと、勢いよく首肯する感触がその背中に伝わった。

「習い性だ。穢士は職掌柄、人命第一を叩き込まれている。物心つく前からな。そのせいで身体が勝手に動くんだ」

「しょ、それはぁ、礼を受け取らぬ理由にならぬぅ」

「そうかもな」

「ならばなぜじゃあ」

 どうやら先程の一口が止めになったのか、寧はもはや半分酔い潰れている状態だと察し、キリは苦笑した。

 酔っぱらいの戯言に付き合うことほど不毛なものもないが、不気味な鍾乳洞を波濤を聞きつつ歩くのはどうにも鬱々としてよろしくない。これも気晴らしには悪くないかと思った。

「俺が欲しいのは片角の鬼の首だけだ」

「しょれは持っておりゃぬ」

「だろうな。次に必要なのは金だ。穢士の薬は金がかかる」

「しょれがあったらこんな苦労はしちょりゃぬぅ!」

 背中で暴れる寧が落ち着くのを待って、キリは続けた。

「だから、おまえができる礼は何もない。何もない奴からせびる気はない。だから礼はいらん」

「おまえではないー、ねいはねいじゃあー」

「あまり騒ぐな。落ちるぞ」

 キリが注意した途端、背中の寧がすとんと大人しくなった。

 訝しむキリの耳に、規則的な呼吸が聞こえてくる。どうやらようやく眠ってくれたようだった。

「……こちらが大人しくなったかと思えば……」

 キリは寧を背から降ろそうとして、考え直した。

 寧はこれから何が起こるのかも知らず、すやすやと穏やかな寝息を立てている。松明と一緒に岩壁の隅にでも横たえておいた方がキリとしては動きを付けやすいが、数がわからない状況で彼女を放り出すのは得策ではなかった。

 彼女は奴らに――穢物に襲われれば致命的だ。

 穢で死ぬ人間を、キリは何度も見てきた。

 どれだけ強靭な肉体を誇ろうが、眩いような美貌を湛えていようが、穢に侵されれば全身を黒く醜い瘡に覆われて苦しみに喘ぎながら無残に死んでいく。

 見なくて済むなら二度と見たくない悲惨な光景だ。キリはそれを何度も見せつけられてきた。

 あまつさえ、この背中の少女の死など――想像しかけたキリの腕に力が籠る。松明の明かりに陰影を深めた剛腕が、一回りも二回りも大きく見えた。

「待ち人来る、だ……いいだろう、気の済むまで相手をしてやる」

 闇の奥から、岩場の陰から、鍾乳石の裏から、双眸を火灯りに赤く輝かせて姿を見せたのは、猿の穢物だった。その数、視界にあるだけで五匹ほどか。

 武家はおろか穢士ですら闇の中この数に囲まれれば怯む状況で、尚且つ眠る少女を背負ったまま戦おうというのに、キリは不敵に笑んでいた。

 しかもキリは寧を起こさないように戦うつもりだった。疲労と酔いでそう簡単には目を覚まさないであろうが、それでも無謀極まるのに変わりはない。

 キリの出方を窺うように猿の穢物たちは忙しなく動いていたが、それにも飽きた様子で今度は歯を剥き出してぎゃあぎゃあと威嚇し始めた。

 もともとは人間の幼子程度の大きさの猿が、穢物と化すことで大人ほどに巨大化している。

 被毛は縅のように堅牢になり、発達した四肢はしなやかだが恐ろしい膂力を秘めている。やや突き出した口吻からは巨大化した牙がにゅっと覗いていた。

 体当たりを喰らっても、殴られても蹴られても、噛みつかれても痛手は避けられない。それでも動きは比較的緩慢なので穢物の中では与し易い方だ。あくまで一対一の場合であれば、だが。

 猿の穢物の怖ろしさは、穢物でありながら連係を取るところにある。穢物は獣であった頃の特徴が強調されるが、猿の場合はその小狡さがなによりの武器として強化されている。連係を取るのもその知恵の一つに過ぎない。

 穢物の中で最も、何をしてくるか想像のつかない相手と言えた。

 キリは岩壁に都合の良い穴を見つけると、そこに松明を差し込んだ。その松明にはこれまた穢士特製の油を使用している。松脂を原料にして様々な薬種を混ぜた油は多少の雨であれば耐えるほど火を強くする。湿った鍾乳洞でも安心して置いておくことができた。

 穢士の薬種は便利だが使う材料が高価なものばかりであまり頼りたくはなかったが、

「四の五の言っていられる状況でもないからな。少しばかり本気でいくぞ」

 キリの死角となる背後から、鍾乳石に隠れて飛び掛る一匹がいた。キリは振り返りもせず小太刀を抜き上げ空中でそれを両断しつつ、返り血が寧に掛からぬよう前へと飛んだ。

 それが開戦の合図となり、残った猿の穢物たちもキリへ向けて飛び掛かっていった。

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