6.

 寧はそこに立って、金助親方の言葉が決して大袈裟ではなかったことを思い知った。

 キリを追い出してから二日、寧は町を散策して土地勘を養っていた。いずれこの町で穢物を迎え撃っての戦を為すなら、戦陣くらい把握しておかなければ戦功を逃すからだ。だが階段状の町の最上段にあたる場所――初岩神社や町の代官屋敷がある界隈は足を踏み入れていなかった。

 勘吉親分への苦手意識が無自覚に出たものか、何故かそちらには足が向かなかったのだ。

 大まかな町の路地は頭に入ったところで、金助親方が言っていた神社の存在を思い出し、今日は朝から石切大路を上って白木の大鳥居を潜ったのだった。

 ちなみに、キリと寧はあれから顔を合わせていない。金助親方との世間話でキリが外にまで穢物の首を求めて遠出していると聞かされ、寧は『物好きな』と唖然としたものだ。

 寧は千段にも及ぶ石段を、朱槍を杖代わりにようよう登り切ったところで振り返った。そして、目を瞠る。

 なだらかな山容に高木が自生しない多兼山は、高い場所からの眺望が素晴らしかった。

 寧が登ってきた石段はくねくねと蛇腹のように伸びて大路と合流する。

 石切神楽の真っ最中である石切広小路は小指の先もない人々が絶え間なく動き回るので見ていて飽きない。

 段々に甍を並べる家並みも下から見上げるのとではまた違う迫力があった。

 なにより、白い岩石に緑の薄化粧を施したような多兼山の山裾は神韻縹緲とした絵画の趣があり、見ていると嫌な出来事に荒んだ心が解きほぐされていくような爽やかさだ。

 寧は、息が上がったせいばかりではないであろう上気した顔を、神域の方に戻した。

 境内は山中の神社にしては広く、中央をゆく参道は大鳥居から社までおよそ一丁ばかりもあるだろうか。右手側はすぐに玉垣が神域と山の境界を引き、左手には手水場、社務所、祈祷所と神社の施設が一通り並んでいた。

 寧の他には境内を掃除する禰宜らしき中年の男性と参拝客が二人ほどいるばかりで、神妙な静寂が辺りを支配している。

 その神域と下界を隔てる大鳥居は長く風雨に晒されたせいで灰色に乾ききり、巨大な骨のように屹立していた。こんな巨大な骨を有する生き物を想像して、寧はぶるりと身震いした。

 震えたのは何も恐怖ばかりからではない。多兼山の中腹に位置する神域は石切神楽の熱気に包まれた町中よりも空気が冷えていた。

 着慣れた袷に、町の古物市で購入した袖なしの綿入れを掛けていても肌寒く感じるほどだ。感動の余韻もすぐに冷えてしまう。

 古着屋で贖った綿入れはよくわからない染みや日焼けがひどく、これで小銀子一枚はぼったくりもいいところだと思うが、町で生産できない諸色が穢物騒ぎで高騰しているらしい。実際、これよりましな綿入れは倍の値段がした。二日分の食費は、寧の懐には痛すぎる。

 あとは実家から持ち出した着た切りの緋染めの袷に、黄色い蹴出し。今日は動きやすさを考慮してこれらに黒い各帯を締めていた。これから冬を迎えるという季節に一足も二足も早い春の色合いは少しみっともないかとも思ったが、紫の単衣で出るよりはマシだろうと自分を説得しての外出だ。

「足袋を履いてきて正解だったな……」

 参道の石畳を歩きながら独り言ちる。

 さっさと磐座を拝見して町へ戻ろうと、寧は参道を急いだ。手水場で手と口を漱ぎ、社の前で二礼二拍一礼をこなし、社前の三段を乗り越えて開帳された社の奥を見た。

 社そのものはどこにでもある切妻造りの高床式だが、磐座を御神体に据えているだけあって社の中に床はなかった。磐座が直接地面に置かれている。磐座に社を被せているといった具合か。社の中に明かりはないが、明り取りの柔らかい光が雰囲気を醸していた。

 磐座は大きさ一間四方、角の取れた賽型の巨岩で、苔むした表面は風化でざらざらとしているように見えた。三重にまわされた注連縄は比較的新しく、例祭の際にでも新調しているものか。手前に誂えられた祭壇には御幣や神具が所狭しと並んでいる。

 金助親方の言う通り意志を持っているかのように泰然と鎮座する磐座は、その周囲だけまるで別の時間が流れているように静謐だ。時間が重さを持っているような錯覚すら受けた。

 そんな磐座の厳かさと一線を画するのが、その周りの光景だった。

 板壁に立てかけられたり、土を集めて立てられたり、無造作に横たえられたり――そこには大小さまざまな木の棒が思い思いに奉納されているのだ。

 およそ一尺から五尺ばかりの棒たちは比較的新しく見えるものからどれだけここに放置されているのか見当もつかない古色を帯びたものまで様々で、中には黒や緋に塗られたものもある。

 その様はまるで遠目から見た祭礼の人混みのようですこぶる賑やかだ。

 その棒きれ達の曰くに多少の興味を覚えつつ、磐座の偉容に見惚れていた寧だが、朝の肌寒さにぶるっと身震い一つして我に返った。

 同時にここまで足を運んだ目的を思い出す。磐座を見に来たのもそうだが、この磐座に厄払いを願いに来たのだ。

 改めて社を上げられる位置まで退がると、寧は着流しの懐に手を入れた。横着にも銭巾着を懐から抜き出すことなく賽銭を取り出そうとしてのことだ。

 その人物に声を掛けられたのは折り悪くもそんな時だった。

「藤花どの、このような所で奇遇ですね」

 春風のような声音がふわりとそよぐ。耳にまろいその声に、寧は身を固くした。

 振り返るまでもなく、その声の主が誰なのか、わかってしまった寧はどういう顔をすればいいのか迷った。願う振りを決め込んで、どうするか考えた。

 しかしいつまでも祈願にかこつけて素知らぬ振りを通せるはずもない。意を決して振り返ることを決め、同時に不自然にならぬよう懐から手を引き抜くことを画策した。巾着を出すのが億劫で胸元に手を突っ込んでいたなど、気付かれたら恥ずかしい。

「羅切どの……奇遇ですね」

 返す声が少し上擦ったのは仕方がないか。手を引き抜くのは上手くいった自信があった。ちゃっかり銭も抜き出せた。しかし寧は巾着の青い組紐が懐から垂れてしまったのには気付かなかった。

 それよりも、自分がどんな顔をしているかという方に気が回っていた。自然に微笑んでいるつもりだが、自信はなかった。

「お参りですか」

 散歩でもしているのか、棒縞の紺袷に親子縞の三尺帯には白革の煙草入れ、足元は足袋草履という気軽な出で立ちだ。

 四尺はあろうかという野太刀を携えているのは物々しいが、今のご時世では致し方のないことか。寧も外出時、他の忘れ物はあっても朱槍だけは忘れない。

「ここのところどうにも荒んでまして、厄払いに来たところです」

「それはお気の毒に」

 心から同情するような声と顔が寧を苛む。

 寧が羅切を兄の仇と迫ったのはつい三日前のことだ。それから一度も顔を合わせる機会がなく、むしろ寧の方から避けていたのだからぎこちなくなるのも仕方のないことだった。

「その木の棒の林、気になりませんか」

「え? はあ、まあ、そうですね……」

 どう対応したものか困惑しているところへ無造作に声を掛けられ、取り繕ったような返事になってしまい、寧はますます気が重くなる。

 そんな寧には気付く様子もなく、羅切は磐座の周りを埋め尽くす木の棒の曰くを語り始めた。

「そもそもこの磐座の曰くは御存じですか?」

「あー……この石切場で最初に切り出された石材とか聞いた覚えが……」

「まさしく、その通りです。それがおよそ五百年前の話だということです」

「五百……では、この岩は五百年、ここに置かれているということですか」

「縁起によればそうなりますね」

「それは、なんだか急に神々しく見えてきた気が……」

「はは、それがしも初めて聞かされた時、そう思いましたよ」

「左様で……」

 屈託のない羅切に対して、寧の愛想笑いはぎこちない。

「しかもこの大岩、切り出す際に独りでに石切場から離れてここまで転がってきたとか」

「それは、危険ですね……」

「ところがその奇事で怪我をした者はいなかったとか。それどころか、ここにはその昔、悪しき水が湧く泉があったそうで、この磐座はその泉に栓をする形でここに鎮座したそうなのです」

「なるほど、それで信心が生まれましたか……」

「まさしく。しかしこれでは磐座の曰くになってしまうので話を戻しますと、そうして御神体となったこの磐座は安全祈願をする石切作業に従事する石工や人足の信仰を特に集めることとなりました。その信仰の形が、石切神楽と出会い、この棒きれの奉納に繋がったのです」

 と締めくくられても、寧にはこれが結局なんの棒なのかわからなかった。それよりも羅切からどうやって逃げ出そうかと思案する方がよっぽど忙しかった。

「棒きれの曰くの説明にはなってないという顔ですね」

「そんなことは……」

「この棒は、石切神楽で使われた工具の持ち手や把なんですよ」

「……ああ、そういうことですか」

 そう言われれば、この棒たちがここに奉納されている曰くにも納得がいく。

「一年の作業でぼろぼろになった工具の持ち手を交換する際、毎年長月に執り行われる安全祈願の祭礼の際に古いものをここに奉納していく風習がいつの頃からか始まったそうで」

「それで磐座の周りが雑然としているのですね」

「知って見るのと知らでに見るのとでは心持ちも違ってくるでしょう」

「ええ、仰る通りで……」

 と、感心している場合ではない。寧はにこやかな羅切の細面から逃げるように磐座へと向き直った。

 その背中に、羅切が親切そうに言い掛ける。

「さて、お参りの途中、お邪魔しましたな、続きをどうぞ」

「はぁ、それでは失敬して……」

 とりあえず本来の目的を果たそうと、寧は祈りに気持ちを集中した。

「厄難消除、除災招福……」

 呟いて、手にした賽銭を投げ入れる。銭は箱の中でちゃりっと硬い音を立てた。

 羅切はどこに行くでもなく、磐座に願掛けする寧の後ろ姿を眺めている。寧に用があるのは明白だ。

 しかし寧に用はない。それどころか避けていたくらいだ。にもかかわらず、心構えも無しに遭遇したのだから逃げ腰になるのも仕方がないだろう。

 背後の気配に居心地の悪さを覚えつつ、じっくりと祈願した寧はこれ以上時間を引き延ばすのも変かと顔を上げた。

「その、それでは、わたしは用も済んだのでこれで……」

 踵を返して段に足を踏み出し、羅切の脇をさっさと通り過ぎようと思ったその時だった。三段を一気に降りようとした足がもつれて躓き、空中に投げ出されるような形でこけた。

 あわやと思った寧だったが、石畳に顔面から着地するような無様にはならなかった。すんでのところで、羅切がその身を受け止めてくれたのだ。

「大事ないですか」

 細身ながら引き締まった身体に抱き留められ、寧は跳ねるように飛び退った。

「も、申し訳ない、ぶつかるつもりはなかったのですが」

「急ぐのはいいですが、足元には気を付けた方がよろしい」

「は、まったく仰る通りで……」

 しどろもどろの寧は、羅切が何を言っているかどころか自分が口走った言葉すらわかっているのか怪しいくらいだ。

 そんな寧を頭から爪先まで見下ろした羅切が莞爾となって頷く。

「何事もないようでなにより」

「き、恐縮です……」

 もはや、羅切を避けるどころの話ではない。ここで強引に立ち去るのは失礼に輪をかけることになる。それは寧の望むところではない。であれば、覚悟を決めて自分の失態と向き合うべきだと、寧はいよいよ心に決めて気持ちを切り替えた。

「何か、御用がおありでしたか」

「用、と言うほどのことではないのですが、偶さかここで顔を合わせたのも何かの縁、坂下の茶屋で一服如何かな、とお誘い上げようと考えた次第にござる」

「茶屋ですか……」

 軽く話し込むなら立ち話よりも水茶屋の方がふさわしいか。

「そうですね、お話したいこともありますし、ご一緒させて頂きます」

「それは重畳」

 にっこりと笑いかけられ、多少の困惑を形の良い眉のあたりに残しつつも、寧はなんとか笑い返した。


 千段の石段を降りる頃には、確かに一服したくなるほど喉が渇いた。

 石段の後には代官屋敷を大きく迂回するように整備された坂道がある。こちらにも曲がりに石段が設けられており、下りてきた参拝客をうんざりさせた。

 一つ目の曲がりは幅広の石段になっており、道が二股になっていた。斜面に横這いの平坦な道を行けば、代官屋敷へと通じる。

 寧と羅切はそちらには進まず、曲がりに沿って石段を下っていく。原野につけられた下り坂は遥か下方の町屋へ長々と続いている。

 そもそもここは地元の氏神で、祭礼以外に地元民がこんなところまで登ってくることはあまりない。それでもちらほらと上り下りする人の姿が見れるのは、暇を持て余してほっつき歩く穢物狩りだ。

 寧も羅切もその暇を持て余した穢物斬りそのものの態で坂を下り、三丁(三百二十四メートル)ほどのところでようやく一軒の茶屋に出くわした。

 その辺りはほとんど大路と変わらぬ道の広さで、二間(三・六メートル)ほどの間口の茶屋は表に六台もの縁台が整然と並んでいる。

 その内の一台に二人は微妙な距離を取って座った。寧が意識的に羅切から間を取った形だ。羅切も気付いてはいたが、気にも留めない風を装って店の奥に茶を頼んだ。

 店の軒先にひねこびた楓の木が一本、朱に染まった葉を揺らしていた。寧はそれを見るともなしに見ながら、気まずい沈黙に耐えた。

 やがて盆に二つの茶碗を載せた老婆が店の奥から現れ、危なげなく縁台の合間を縫って歩き寄ってくると、二人の間に盆ごと置いた。

「おばばどの、この店の名物はなにかな」

「名物と呼べるほどのものじゃございませんが、豆餅がございますよ」

「それを、そうだな二つ頂けるか」

「承知しました」

 痩せた白髪に手拭いを被せた老婆は軽く腰を折って頭を下げると、来たとき同様しっかりした足どりで店の奥に戻っていった。

「豆餅か、どのようなものでござろうな」

「豆が入った餅、でしょうかね」

「それは間違いなかろうなぁ」

 寧の素っ頓狂な答えに、羅切は愉快そうに笑う。それはとても人を殺して除けるような悪人の顔には見えず、寧は過日の勘違いを強く悔悟させられた。

 言わなくてはならない。自責は瞬間を重ねるごとに強くなる。

 顔を俯けて唇を噛めればどれだけ気が楽になるだろうか。少なくともそうやって自分の殻に閉じこもってしまえば、なけなしの勇気を振り絞る苦労からは解放される。

 しかしそうすると、羅切からの印象は悪くなるだろう、今後まともに顔を合わせられないだろう。

 実はそれで何一つとして困ることはない。どうせ彼とは今後の旅路で再開することもないであろうし、この町の問題が解決するまで神経を擦り減らせば済むだけの話だ。

 それを良しとしないのは、寧の矜持がそれを許さないからだった。

 彼女は末子とはいえ武家に生まれた身だ。培われた矜持は町民よりも公家よりも崇高で厳格なのだ。

 それが彼女を奮い立たせた。

「まことにもって相申し訳ない!」

 地面に頭をぶつけるのではないかと思わせる勢いで、縁台に腰かけた寧が頭を下げた。

 茶屋の客は他に一人の老爺がおり、彼とたまたま通りかけた通行人たちはその大声に目を剥いて振り返る有様だ。

 誰よりも驚いたのは羅切だったろう。寧の黄金色の後頭部に見張ったまなこを張り付けて固まっていた。

 その場にいた誰もが、事の成り行きを見守って固唾を飲んだ。娯楽の少ない元町での出来事だ、騒動を傍観するのは彼らの義務のようなものだった。後で知り合いと面白おかしく話すために。

 羅切が軽く目を閉じた。

「仇討とはいえ人違いなぞ以ての外、わかってはいるのだが羅切と聞くともはや心が勝手に恨み辛みを吐き出そうとして暴れるのだ、普段はあれでもかなり押さえ込んでいるのだが先夜は――」

 謝罪とも言い訳ともつかない寧の長広舌の合間に、羅切は赤茶色の瞳を開いた。そうして、すべてを呑んだような大度の様相で彼女を見下ろす。

「頭を上げてください、藤花どの」

 その声は思い遣りに満ちていて、寧はハッとなって喋るのを止めた。

「す、すまない……また勝手なことを……」

「まずは頭を上げてください。それでは地面に謝っておられるようですよ」

 優しく諭され、寧は真っ赤な顔を元の位置に戻した。頭を下げていたせいで血が昇ったのと恥ずかしさで寧の顔は首まで朱色に染まっていた。

 寧の大声に驚いて見守っていた野次馬の数人から嘆声が漏れる。頬を赤くして青い瞳を潤ませる様子に艶姿を見たか。

 しかしそんな輩は寧の意識の隅にも入らない。

 一体何を言われるか、身構えて彼の言葉を待つ寧に、羅切はあくまで鷹揚だ。

「あの一件は既に終わった話です。気になさらないで下さい」

「そ、それでは筋が通らぬ。わたしはきちんと詫びがしたい」

「なんのことがござらん。誰も怪我もしなかったのです。皆さん、ちょっと悪ふざけが過ぎた程度にしか考えておりませんよ」

「しかし……」

「ほい、豆餅二つでございます」

 何かを言い募ろうとした寧と困ったような面白がるような面持ちの羅切の間に、割竹が二つ差し出された。

 老婆は耳が遠いのか、二人の遣り取りに興味を示した様子もなく踵を返すと店の奥に戻っていった。

 その背中を、寧の呆気にとられた視線が追いかける。羅切の方は豆餅に気を取られていた。

「これは美味しそうだ」

 径二寸(約六センチ)、長さ三寸(約九センチ)ほどの焦げた割竹に、円筒状の餅が詰まっていた。竹筒に餅を詰めて蒸し焼きにしたのであろう。餅は少し黄みがかった半透明で、その中にうっすらと黒い豆が浮かんでいるのも見える。

 黄色のきめ細かい餅肌は弾力のありそうな艶を帯び、立ち上る湯気は餅の甘味と竹の香気をはらんでなんとも言えない香ばしさを漂わせた。

「冷めないうちにいただきましょう」

 寧の返答も待たず、羅切は堪えかねたように餅の一つに手を出した。円筒状の餅は食べ良いようにと輪切りで四等分に切ってある。

「これはキビ餅か。なんとも言えない不思議な味わいだ」

 もったりとした甘さを竹の爽やかな香りが漱ぎ、塩で炊いた小豆のしょっぱさが後から旨味を引き出す。

 一口齧った羅切が小首を傾げるのを見て、何か言いたげだった寧も興味を抱いた。

 自分の分を一口齧り、目を瞠った。

 見開いた青い瞳がきらきらと輝いている。その無邪気な表情だけで、何を思ったのか誰もが手に取るようにわかった。

「気に入りましたか」

 次の一口を齧りながら寧が頷く。食べているのか頷いているのか、傍目にはわかりづらいが気に入っているのは間違いなさそうだ。寧はあっという間に一つを平らげて二つ目に手を伸ばしたところで羅切のにこやかな眼差しに気が付いた。

「あ、いや、その、これは……」

「お気に召したようでなにより」

 赤面する寧に、羅切は色を正して正対した。

「あなたが追っている羅切のことを、お聞かせ願えませんか」

「わたしの仇の……何故ですか」

「同じ羅切を名乗る者として放っておくわけには参りません。それにそれがしは永の旅烏、何か見聞きしたことがお役に立つかもしれません」

「……そう、ですが……話すことはやぶさかではないのですが……」

 未だに先夜のことを引きずる寧に、羅切はどこまでも優しげだった。

「引け目がありますか」

「……はい」

「でしたらこうしましょう。実はそれがしも一つ困っていることがあるのです」

「お困りごと、ですか」

「ええ。というのも、丁名主どののお知り合いに料亭を営む"おかる"どのという女将がおりまして、彼女から料亭に足を運んで欲しいと再三のお誘いがあるのですよ」

「料亭、ですか」

 それなりの家格を持つ藤花家は、接待の席で料亭を使うことは茶飯事だった。内輪の席では寧も顔を出したことがあるので雰囲気は承知している。

 確かに、あの堅苦しいというか何かにつけて見極められているような空気は、幼かった寧にとって抑圧以外の何物でもなかった。料理の味どころか何が並んだかすら覚えていないほどだ。

 うんざりした記憶が呼び起こされ、寧は少し身構えた。

 その気配が伝わったのだろう、羅切があやすように笑う。

「料亭といっても気軽さを売りにしているらしく、小料理屋のような気軽さでよろしいとの話です」

「いや、しかし、縁もゆかりも薄いわたしよりも、まずは丁名主どのあたりをお誘い申し上げては」

「勿論お誘いしましたが、なにぶん時期が時期、お忙しい身を煩わせるのもいかがなものかと思いましてな」

「それは、確かに……」

 他に断る理由はないかと思案投げ首の寧に、逃がすまいとする羅切が追い打ちをかけた。

「いま、この町にはそれがしとあなたの連れを除いて四人の"羅切"がおります」

「……四人」

 思ったよりは少ないが、残り数日で四人に当ると考えたら多い。

 しかも一体どうやって調べたのか、羅切はキリも"羅切"と呼ばれる穢物斬りであると承知している。口下手な本人が喋ることはそうそうないであろうし、それ以前に羅切は三日目以降ほとんど町の外に出ていて他人と接触を取ることも稀だ。

 それだけ、羅切の伝手が正確で広いということだろう。

「よろしければ、この四人の内にあなたの仇がいるかどうかお調べしましょう」

「その代わり、そのおかるどのの料亭に付き合え、と」

「いえ、お願いいただければお調べします。料亭の件は、あなたがそれがしの手間に気後れするのであれば代償に受けて頂けると幸い、と言う程度です」

 つまり、羅切は無償で引き受けるつもりだが寧の方で無償というのに引け目があるというからわざわざお願いを用意した、ということだ。

 寧にとってどこにも損のない話だ。逆に上手すぎて警戒せざるを得ないほどに。

「羅切どの、お申し出は有難いのですが……忌憚なく申せばその話、信用なりませぬ」

「お言葉、よくわかります」

 厳めしい顔付きの寧に、羅切はどこまでも鷹揚だ。

「こればかりは信じてください、としか言いようがありません。確かに、それがしにはこれといった得もない話。と、あなたには映るでしょうね」

「裏があると?」

 羅切の身体が揺れる。身体だけで笑ったのだ。

「裏というほどのものではありませんよ。美しい女子に気に入られたいのは、男子として当たり前のことだと存じますが」

「呆れた。それを正直に話しますか」

 下心があって優しくしていると宣言したようなものだ。

「そうしなければ信用してもらえそうになかったもので。それがしはあなたのお役に立ちたいだけです。袖すり合うも他生の縁。ここは一つ、それがしの男を立てていただけませんか」

 頼みごとをきく側の羅切が、頼んでくれと頭を下げる。まるであべこべだ。

 寧が旅したこの三年間、彼女に下心を持って近付く男は数知れずいた。寧がそれらの毒牙に掛からなかったのは、一緒に旅立った乳母と幸運のおかげだった。もし一人であったら、もし少しでも運が悪ければ、寧がここでこうして朗らかに豆餅を堪能していることはなかっただろう。

 そうやって寧も男の下心を見抜く術をあれこれ模索してきた。羅切はその真意がどこにあるか今一つ見抜けないが、単純な好色の目であればだいたい見抜ける自信が寧にはある。

(そういえば、あいつにはそういうものがなかったな……)

 純粋に一個の人間として接してもらえる機会は、寧にはあまりなかった。旅以前は良家の末子として。旅に出てからは土地を追い出された碌でなしか見てくれの良い女として。

 そんなことを思いながら、寧は首を縦に振っていた。

「……わかりました。料亭の件も含めて、お願い致しましょうか」

「料亭の件もですか、それは有難い」

 望外と言わんばかりに羅切が快哉を叫ぶ。

 無邪気とも思えるその姿に、話した下心以上のものは感じられず、悪い気はしなかった。

「これで丁名主どのにもおかるどのにも、方々顔が立ちます。有難い」

「しかし、気軽とはいえ料亭に赴くにこのむさい格好では少々……」

 着古した木綿の着流し姿を見下ろして、寧は顔に少しの恥じらいを浮かべた。このような格好で正式の場に出向くなど、女子以前の話だ。

「それでしたらそれがしが一計を案じましょう。段取りが済んだら追って連絡いたします」

「……まあ、それくらいはお任せしましょうか」

「お任せあれ」

 少しおどけた羅切の物言いに、二人は視線だけで笑い合った。

 話も済んだ頃には日も高くなり、通りに人の姿も増えて茶店の席も半分が埋まっていた。

 その中には先の大立ち回りを見物した熊さん八つぁんも混じっており、目敏く寧の姿を見つけて囀り始めた。

「おいおい、ありゃあこないだの」

「おうおう、並びの大一番かいの」

 それにつられて他の客も寧の方に興味を向けた。

「ありゃがぁそうかい」

「確かにいい女だねぇ、目がいい、あの頑張ってきりっとさせてる強気そうなところが堪んねえな」

「今はちぃとむさ苦しんがぁ、別嬪なうえ身体つきも申し分ないときたもんだぁな」

 好意的とはいえ話しかけるでもなく外であれこれ評されるのは、寧にとって気分の良いものではない。

 居心地が悪くなった寧の様子に逸早く気付いたのは羅切だった。

「さて、長居しすぎましたね。そろそろお暇しましょうか」

「あ、ええ、そうですね……」

 立ち上がる二人。だが、寧の視線は動かなかった。

「……包んでいただきますか」

「え? あ、いや、別に……えー……頼みます……」

 寧の視線が豆餅から一向に動かないのを見て悟り、羅切は茶店の女衆を呼びつけて包みにするよう言いつけた。先程まではいなかったが、客が増えて店の奥から注文を受けに出てきたようだ。小女は寧の残りと羅切の残りも併せて包んで寧に渡した。

 羅切は同時に支払いも済ませようとしたので寧は慌てた。

「いや、自分の分は自分で出しまする」

「気にしないで下さい、お付き合いを願ったのはこちらです」

「いやしかしですね……」

 言いつつ懐から金銭の入った巾着を取り出そうとして、取り出そうとして――

「あれ、ない……」

 巾着が無いことに気付いた。

「ど、どうしたことだ、つい先程まであったのに」

「おい姉ちゃんどうした、後がつかえてんぞ」

 別の客に急かされてますます慌てる寧。

「ここはひとまずそれがしが立て替えます」

 そう言って羅切は手早く支払いを済ませて足元に置いていた二人分の武器を抱えると、困惑を通り越して混乱しつつあった寧の手を引いた。

「相済みませぬ……手間ばかりか支払いまで……」

「気にしないで下さい。こちらは最初からそのつもりだったのですから」

「かたじけない……」

 並んで歩く羅切はにこにことして、恐縮しきりの寧が気を遣わないよう励ましていた。

 寧は渡された包みと愛槍を大事そうに片手に抱え、空いた手で未練がましく巾着がありそうな場所をまさぐっている。

「どこかに落としてしまいましたか」

「どうやらそのようです……厄払いに来て財布を落とすとは……不幸を通り越して不吉だ……」

 戦慄すら覚える寧に、羅切もかける言葉に困った様子だ。

「あー……お気持ちは察しますが財布だけでなく気まで落とせば泣きっ面に蜂ですよ」

「泣きっ面に蜂どころかそのまま谷底に転落した心持ちです……」

「お気を確かに……」

 羅切がそう励ましたくなるほどの、寧の落ち込みようだった。

 少しでも気持ちを前向きに切り替えさせようと思ったか、羅切が寧に尋ねる。

「どのような銭入れですかな」

「千鳥模様の黄色い巾着です。赤い組紐で口を閉じる……」

「どれ」

 簡単に二人で周囲を気にしてみるが、やはりどこにもない。落とした財布を親切に届けてくれる輩もそうそういないだろう。諦めるしかない。

 寧は歩きながら悄然と肩を落とした。

「お気の毒です、如何程入っていたのですか」

 己の紙入れからいくらか出そうとする羅切の手を、寧は慌てて止めた。

「いや、お気遣いなく。外に持ち出す財布には必要最低限の銭しか入れないようにしておりますれば」

 旅の空で銭入れを落としたり掏られたりすることはままある。だから銭入れは二つ用意し、持ち出す金銭を最低限にして全財産を失う事態を防ぐのだ。

 寧は普段使いに赤い組紐に千鳥模様の黄巾着を、全財産は道中嚢に仕舞い込んだ青い組紐に絣格子の赤巾着にと使い分けていた。

「旅の知恵ですね」

「勉強代は高くつきましたが……」

 旅を始めたばかりの頃の苦い思い出が呼び覚まされ、寧の顔にほろ苦い笑みが浮かぶ。巾着を分けるようになったのは失敗あっての知恵だった。

 ちなみにその上で、寧は道中着の襟元にも大銀子を一枚縫い込んでいる。これは本当に最後の最後の手段、虎の子としての蓄えで気軽に手を出すものではない。

 そういうわけで被害のほどはそれほどでもないが、あの黄色い千鳥模様の巾着は寧のお気に入りだった。それを失ったのだから残念なことに変わりはない。

「さて、それがしはちと代官所の方に用がありますれば」

「左様ですか、ではここでお別れですね」

 もはやほとんど大路と同じ広さになった参道と代官所への坂道、大門へ下る大路が交わる追分で、寧は羅切と別れた。

 溜め息交じりに町の中ほどまで大路を下り、東に折れて金助長屋へと帰りつく。そうして何気なく開いた道中嚢の中にそれを見つけた。

 外に持ち出す金銭をいれる、黄色い千鳥の巾着を。

 さっと寧の頭から血が引いた。取り上げた巾着の中身は銭が数枚寂しく鳴いただけだ。引き千切らん勢いで巾着の口を開けるが、結果は変らなかった。

「間違えたのか……」

 或いは安全な町の中だからと高を括って金銭を取り出すのを億劫がったか……朝に弱い寧は起床直後の自分の思考や行動を今一つはっきりと覚えていない。

 だがいま目の前にある現実はどうしたって変わらない。寧はうっかり全財産である小銀子十枚を持ち出し、落としたのだ。

「ほぼ一文無し……」

 口を開けたままの巾着を持ったまま、寧はぽかんと開けた自分の口をいつまでも天井に見せつけるのだった。

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