鏡の中の虚構世界
霧島玲
第1話
今日のテストも全然わからなかった。体育の徒競走もクラスで1番遅かったし。やっぱりわたし、何もできない。
毎日同じことを考えながら帰路に着く。保育園に通っていた頃、早く小学生になりたい、早くランドセルを背負ってみたいと思っていた日々が嘘のように鬱々とした毎日が続いていた。あんなに楽しみにしていたランドセルも、この辛い思いが詰まっているかのように重く感じた。
家に着き、自分の部屋に向かう。勉強しなくてはという思いはあったが、小学校最初のテストで100点中17点をとった時から、何をやってもうまくいかないというイメージが頭の中に染み付いてしまっていた。全くやる気が出なかった。
そんな気分になった時、ふと鏡を見てしまう。母に入学祝いとして貰った鏡だ。自分の背丈ほどのその鏡は、木彫りだがかわいい花柄の装飾がついていて、宝物のひとつだった。昔母が外国で一目惚れして買ったらしいそれは、当時の母の姿見として使うには小さく、スタンドミラーとして使うには大きかったようで、結局1度も使われないまま押し入れに眠っていたらしい。母は、これで身だしなみを自分でチェックしなさい、ごはん粒なんてお洋服につけていったらお友達に笑われちゃうわよ、と言ったが、笑ってくれる友達すらわたしにはいなかった。そんなことを思いだし、また暗い気分になってしまった。いつもなら宝物は見ているだけで楽しくなれるのに。
「ねぇ、」
ふと声が聞こえて辺りを見回す。母の声ではない。それは紛れもなく…
「こっちよ」
わたしの声だった。鏡の中の女の子が、こちらを覗き込んでいる。
「だ、誰…?」
「私はあなたよ。」
未だ呆然としているわたしに、続けてこう告げた。
「いつも辛そうな顔で私を見てるわよね。私はあなただから、あなたが辛い顔をしていると私まで辛く、悲しくなってくるの。…何かあったの?」
顔も声もわたしだが、わたしにとってその子は、小学校に入って初めて喋る、同年代の女の子だった。緊張しながらもわたしは、洗いざらい全てを話した。勉強が苦手なこと、足が遅いこと、友達ができないこと…。私はわたしの話を熱心に聞いてくれた。そして、全てを聞き終えた後、こう言った。
「私が代わってあげようか?」
そんな出会いを果たした翌日、わたしは鏡の中にいた。入れ替わったのだ。もう1人の私によると、鏡の中と外、どちらか片方の世界に0.1秒でも2人のわたしが存在してはいけないらしい。つまり入れ替わるには、鏡に2人で同時に手を着き、そのままもう1人を押し込むように鏡に入れば、わたしは鏡の中へ、私は鏡の外へ出ることができるという仕組みなのだ。そして今、私はわたしの代わりに学校へ行ってくれている。
わたしは鏡の中の世界を探検し始めた。どうやら外の世界とは全く真逆の構造になっているようで、教科書の図や文字は反転し、時計の文字盤も逆になっていた。それは家の中だけでなく、町も同じだった。毎日のように見ている風景と逆ではあるが、道路があり学校もあった。だが不思議なことに、いや当然なのだろうか?人は1人もいなかった。
1週間程鏡の中で過ごすと、環境にも慣れてきた。あれからずっと私が学校に行ってくれていたので、先生にも母にも会っていない。鏡の中でもお腹はすくらしく、近所のスーパーから適当に食べ物を見繕ってきては部屋に運び込んで食べる生活が続いている。鏡の中はすることがなく暇になるかと思っていたが案外そうでもなく。わたしの元いた世界がそのまま再現されていたので、遊び道具には困らなかった。もともと平仮名すら満足に読めなかったので、反転した絵本などの文字の解読には手こずったが、今では反転しているほうが読めるくらいだ。
そんな完璧な世界にも、1つだけ再現されていないものがあった。鏡である。こちらの世界とあちらの世界を繋いだ鏡に変化はなかったが、家の洗面台の鏡や学校のトイレの鏡は、いつ見てもテレビの砂嵐のように黒や白の無数のザラザラした点が揺れ動いていた。
そしてさらに時がたち、わたしはとうとう鏡の中から出なくなった。鏡の中の方が気楽で自由で、楽しかった。学校に行かなくても誰にも咎められないし、勉強もしなくていい。体育で恥をかくこともなければ、友達について悩まなくてもいいのだ。鏡の中はわたしにとっての楽園だった。
そうして鏡の中で生活し続け2年が経過したある日、私が声をかけてきた。家族旅行に行くらしい。わたしたちは2年の間に身長も伸び、成長したのでそろそろ少し遠出しても大丈夫なのではないかと母は考えたようだ。
「いいなぁ、わたし行きたい!代わって!」
わたしは声をあげた。2年も鏡の中にいて、そろそろ1度外に出ようかと思っていたところだったので、いい機会だと思った。少しの間の後、私は無言で鏡に手を着いた。わたしも鏡に手を着き、押し込み、入れ替わる…押し込めない。鏡の感触が手に伝わってくるだけで、一向に手は鏡に沈んでいかなかった。鼓動が早くなる。冷や汗が伝い落ちるのを感じた。
「え、なんで…?」
困惑した様子のわたしを見て、私はこう言った。
「私もあなたも成長したの。サイズオーバーよ。もうあなたはそこから出ることはできないわ。」
「っじゃあどうするの!?」
「どうするもこうするもないわ。もう入れ替われないってことよ。」
「そんな…!なんで教えてくれなかったの、なんでこんなことするの!?」
絶望に染まり青い顔のわたしを私は冷たい目で一瞥し、
「考えればわかることでしょ?」
と言ってこう続けた。
「私も最初はね、純粋に助けてあげたいと思って声をかけたの。でも、外に出て…こっちの世界に来て、初めて知ったの!家族と食べるご飯はなによりも美味しくて、友達とする下らない話がこんなにも楽しいなんて!勉強は辛いけど、頑張れば頑張っただけ先生も家族も褒めてくれるわ!…できないとばかり決めつけて、努力することもなく逃げ続けていたあなたにはわからないでしょうけど。」
何も言えないわたしにさらに私は畳み掛ける。
「あなたと私は同じだったの、2年前まではね。私にできたんだもの、あなたにだってできたはずよ?」
「ごっごめんなさい!わたし頑張るから!これからはちゃんと勉強するし、お友達だって…!ね、だから戻して!ほんとは戻れるんでしょ!?」
何を言えばいいか分からず、とりあえず謝ることしかできなかった。わたしの必死の訴えに私は大きなため息をついた。
「無理だと言っているでしょう?できたとしても、また入れ替わるつもりはないわ。」
もう声も出ないほどに打ちのめされたわたしに、さらに追い討ちをかけるような言葉が聞こえてきた。
「そうだ、今がいい機会よね。」
そして私はおもむろに鏡を持ち上げた。
持ち上げられて床が見えたその瞬間、理解した。これから何をするつもりなのか。
「やめて!お願い、それだけは!なんでもするから!ねえ!」
「あなたはもう用済みなのよ。」
泣き叫ぶわたしに、私は満面の笑みで告げた。
「私に最高の人生をありがとう」
耳をつんざく破壊音が家中に響いた。その音に反応し、粉々に砕けた破片を避けながら母が駆け寄って来る。大丈夫?怪我はない?と聞いてくる母に、こう答えた。
「うん!『私』は大丈夫だよ!」
鏡の中の虚構世界 霧島玲 @kirishima_
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