商人の我輩、毒物を飲む。

オロボ46

毒は中に潜み、じっと待っている。疑心暗鬼に陥れるのも毒の戦略だ。




 その扉を目の前にしても、我輩はドアノブに手を伸ばすことをためらった。


 その扉の先にいかなければならない。そして、我輩はその扉にいくことを望んでいる。


 だが、これから始まる取引のことを考えると、緊張で手が伸ばせないのだ。




 我輩は今、雑居ビルの3Fにいる。四隅に黒カビの跡が目立つ、あまり整備が届いない古めの雑居ビルである。

 今、我輩の後ろを人が通っていった。他の事務所に用があるのだろうか。

 扉の前で何もせずに立つのは、やはり人の目が気になる。我輩は右手に持つビジネスバッグを握りしめ、左手で扉をノックした。


 その扉は、スマホを取り扱う事務所の入り口だった。






「わざわざお越し頂き、ありがとうございました」


 事務所の応接間にて、男性は氷の入ったジャスミンティーを用意してくれた。

「結構古いビルしか借りられなかったもので……結構入るのに勇気がいるような玄関ですよね?」

 向かい側のソファーに座る男性の言葉に、反対側のソファーに座る我輩は反射的に後ろの窓ガラスを振り向いてしまった。なるほど、あの窓には我輩が戸惑っている姿が見えていたのか。

 とりあえず、「いただこう」と答えてジャスミンティーを口に含み、心を落ち着かせよう。

「……今回の取引のことを考えて、こちらが緊張しただけだ。あの玄関はむしろ入りやすい方だな」

「なるほど、ウワサ通りの人だ」

 男性は納得したようにうなずいた。どのような点でウワサ通りの人と判断したのかは断定できないが、おそらく我輩の口調のことだろう。

 相手の男性は敬語であることを考えると、こちらの話し方は第三者が聞くと偉そうに感じるかもしれない。

 しかし、我輩はこの口調が昔から慣れている。過去の取引では無理して敬語を使ったことはあるが、その時は何度もかんで取引どころではなかった。無論、今回の交渉相手である男性には、事前の口調のことは通達している。

「しかし、肩の力は抜いて大丈夫ですよ。今回の取引は、きっと我々の望む結末に至るのですから」

 望む結末に至ると言われても確実に信じるわけにはいかないが、肩の力に関しては一理ある。


 肩を力を抜いてまぶたを閉じ、口とともに開いた。


「ああ、それじゃあ取引を始めよう」


「ええ、最新式の“変異体”用スマホですね」






 変異体とは、この世界に存在する元人間の化け物だ。

 変異体の変異した部位を人間が見ると、恐怖の感情がわき上がる。その特性故に、変異体たちは人間に見つからない場所で身を隠している。


 そんな変異体たちが互いに連絡を取るための道具として、スマホが使われている。一部は普通のスマホを使っている変異体もいるが、ほとんどは契約や位置の特定といったリスクのない“変異体用スマホ”が使われている。

 変異体用スマホは耐久性に優れているだけでなく、専用のネットにつながるため、変異体や理解のある人間にしかつながらない。外出の自由がきかない変異体にとっての、他人とのコミュニケーションがとれる重要なツールだ。


 そんな中で、この男性は変異体用スマホの新たな器種を開発したという。今までの変異体用スマホとは違った、新たな機能を搭載しているらしい。


 我輩は変異体相手に商品を売る商人である。この新機種をなるべく多くの数を仕入れることができたら、相当な利益が見込める。

 だから、この取引の結果はなんとしてもいいものにしたいわけである。






 我輩があらかじめ用意していた用紙を渡し、男性と交渉を始めた。


 途中で妥協しつつ、かつ途中で自分の意見を押し通しながらも、雲行きが怪しくなることはなく交渉は進んでいき……




「……わかりました。この取引内容なら、私も納得して結ぶことができます」


 男性が笑顔でうなずいた時、我輩の心は一気に晴れた。

「そうか。我輩も同じ意見だ」

 我輩は立ち上がり、男性に手を差し伸べた。


「おっと、まだ交渉は終わっていませんよ」


 ……やはり、安心するのは早すぎた。

「まだなにか、引っかかる点があるのか?」

 我輩がもう一度ソファーに座り直すと、男性は首を振った。

「いや、さっきも話した通り、取引内容に不満はありません。しかし、法律に触れる変異体と関わる以上、こちらも慎重に選択をしなければならないのでね」

「つまり、我輩が信頼できる人物であることを示さない限り、交渉は成立しないと?」

 男性は「その通りです」と口にしてから初めて立ち上がる。

「今からテストをしますので、少し待っててください」


 そう言い残して、男性は別の部屋に消えていった。




 男性を待っている間、我輩は肘を膝に乗せながら男性の言葉を頭の中で繰り返していた。

 あの男性は「変異体と関わる以上」と言っていたが、実際、彼も変異体なのである。今回の交渉の打ち合わせの際に聞いた話によると、腰に変異が起きているらしい。

 まあ、これに関してはどうでもいいことだ。もしも露出していた部位だったら我輩は叫びだして交渉どころではなかったが、衣服に隠れているおかげで支障はなかった。


 気になるのは、テストという言葉だ。

 我輩が信頼できる人間かどうかを確かめるためという理由は、彼自身が変異体であるという点も含めて理に適っている。だからこそ男性は慎重に見極めるために、簡単では済ませそうにないテストを我輩に課すのだろう。

 しかし、そのテストの内容はなんだろうか? まもなくわかるといっても、取引の行方を決めるとなれば、短時間であってもこの時間がもどかしいのである。






「いやあ、お待たせしました」


 戻っていた男性が手に持っていたのは、湯飲みを乗せたお盆だった。


 男性はソファーに腰掛けると目の前のテーブルに湯飲みを置く。


「中身の液体を飲みきること、それが、あなたを信頼するためのテストです」


 その湯飲みの中に入っていたのは、透明なお湯。


 手を取って窓の光に当てても、固体が沈んで残っている様子はなかった。

 一見すると、ただの水にしか見えない。


「……これには――」

「おっと、中身については何も聞かないでくださいね。だいじょうぶです、たぶん美味しいですから」


 “たぶん”とはなんだ“たぶん”とは。しかし、それを口に出すのはルール違反になるだろう。この液体の中身についてたずねていることになるからだ。


 それにしても、この液体はなんであろうか。

 疑問は尽きないが、この取引を成功させるためには飲むしかない。たとえ罰ゲームで使われるような苦いものであっても、飲みきってやろう。


 我輩は湯飲みを手にして、中身を水面に垂直になる位置からのぞき込んだ。




 ……なんだ、この寒気は。


 まだ我輩は、液体に舌の表面すら触れていない。


 液体は相変わらず、透明のままだ。先ほど調べた時と変わっていない。


 それなのに、なんだ、この寒気は。


 まるで、なにか嫌な予感を感じているように、本能が危険信号を出しているかのようだ。


 ……まさか、この中身に毒でも入っているのではないだろうか。


 ふと、男性の顔を伺ってみた。


 すごい笑みだ。我輩の口元を見て、口の角を限界まで上げている。


「さ、どうぞ、召し上がっていいんですよ?」


「あ、ああ、ゆ、ゆっくりと味わうように、に、匂いを嗅いでから、な」


 我輩はまぶたを閉じ、無臭の液体の香りを嗅いだ。


 無臭の向こう側にあったのは、無臭だった。




 しかし、冷静さを取り戻すことはできた。


 この液体は毒物である可能性は極めて低いだろう。


 その確定的な根拠はないが、この男性は我輩を試そうとして、偽の毒物入りの飲み物を差し出した可能性が高い。

 我輩を毒殺するメリットは薄いと見ていい。借りに毒殺したとしても、雑居ビル内の事務所という場所によって死体の処理という問題点が出てくる。相手が丸のみといった死体を消す変異体であれば別だが……この男性の変異した部位は腰だ。そのような能力はないとみていい。睡眠薬などで眠らせた後で別の場所に移すという行為も難しいだろう。

 第一、我輩を毒殺するのなら、交渉中に何気なく出す方がはるかに成功率が高い。




 我輩は湯飲みの縁に唇を付け、中身を一気に飲み干した。


「……」

「……どうですか?」


 舌に残った味を思い起こしながら、男性の顔と向き合う。


「……はっきり言おう、こいつはうまい。味としてはフルーツジュースのような甘みが感じられるが、余計な物を入れず、果実の成分を余すところなく抽出したようだ」


「それって、交渉を意識したお世辞ですか?」


「いや、この場合にお世辞は返って逆効果だ。だが、それを度外視してもこの感想が言いたかった。口先だけに聞こえるかもしれないが、これは本心だ」




 男性はじっと我輩の顔を見つめて、立ち上がる。




 そして、右手を差し出した。




「合格です。これからよろしくお願いしますね」


 我輩も立ち上がり、男性の右手を握り、握手を交した。






「……ちょっと気になることがあるのだが、テストが終わったから聞いていいか?」

 帰り際、事務所の玄関の扉に手をかける前に、我輩は振り返って男性にたずねた。

「ええ、あの液体の中身のことですね?」

 男性はわかっているようにうなずいて、そこでいったん黙った。




「あれ、私の腰をミキサーで液体にしたものなんですよ」




 我輩の体が、一瞬で凍り付いた。


「……腰って、あの変異した腰を?」


「ええ、今回の新機種を開発を終えた時期に腰辺りに大きなケガを負ったんですけど、すぐに再生したんですよ。それで、どうせ再生するんだったら、食用に適しているんじゃないかとふと思いまして……」


 ……次の言葉がなかなか浮かばない。


 男性のカミングアウトに付いていこうと、必死だからだ。


「一応友人もいるんですけど、さすがに変異体であるとは明かせないし……そう考えていたころ、ちょうどあなたから取引の連絡が来たんですよ」


「……そ、それで、本当に……毒はないのか?」


「ないと思いますよ、多分。一応なにかあればここに連絡してきてください。今回の取引よりもこの飲み物が安全かどうかが本命だったりしますけどね、個人的には」











 ……男性に毒味をさせられてから、数週間がたった。




 今、特に我輩の体には変化はなかった。




 飲んだ翌日に下痢を起こした時以外は。

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