ちいちゃん
鋼の翼
一話
「ちいちゃん、やだよ」
血塗れで四肢があらぬ方向に曲がったちいちゃんの体を揺さぶる。全身を紅く染めた少女は、何も反応をしない。ただ大きく開いた目を空に向け、力なく口をぽかんと開け、僕の腕の中でぐったりとしているだけ。
「ちいちゃん、ちいちゃん」
揺さぶっても、ちいちゃんの意識が戻る気配はない。どころかその小さな体が揺れる度に全身から血が噴き出す。
「ちいちゃん、返事、してよ......」
サイレンを鳴らし、白いボディの救急車が雨に濡れた道路を走って目の前で急停止する。青い服を着た大人がぞろぞろと降りてきてちいちゃんの体を持っていこうとする。
僕は、ちいちゃんと離れたくなかった。
「僕、離してくれるかい?」
ちいちゃんの体を抱きかかえる。お気に入りの服が汚れることなんて、気にしなかった。大人たちの伸ばしてくる白い手が、僕には悪魔の手にしか見えなかった。優しく、手招いて、僕の手からちいちゃんを奪うような手にしか、見えなかった。
「やだ!」
ちいちゃんを抱きかかえたまま、大人に背を向ける。今ここで大人たちに渡してしまったら、もう二度と、ちいちゃんに会えなくなる気がしていた。
「どうしますか?」
「やむを得ん、少年も乗せる。少女とは多少力ずくになっても構わんから引き剝がせ。今大事なのは少年の意思尊重ではなく人命救助だ!」
偉そうな一人の大人がそう叫ぶと同時、三人の大人が僕を取り囲み、腕をつかみ、救急車へと運んでいく。
「ちいちゃん!」
その間に手元から離れて行くちいちゃんのボロボロの体。必死に手を伸ばしても、届かない。
「ぢい゛ぢゃん゛!!」
涙で視界が霞み、何も見えなくなっていく。離れるのは嫌だった。手放すのは怖かった。けれど、何もできず、視界は暗転していく。
「いや、だょ」
目が覚めた時、目の前には少し盛り上がった白いベッドがあった。顔は白い布で隠され、見ることはできなかった。すすり泣く声がした。隣を見れば、ちいちゃんのお母さんがハンカチを目にあてていた。
「ちい、ちゃん......は......?」
知らず知らずのうち、体はベッドの上で白い布を使って顔を隠しているものに近づいていた。白い布の下にある顔を見たい。その衝動に突き動かされ、白い布に手をかける。しかし、それと同時に見てはいけないもののような気がして自分の気持ちにストップがかかる。
「っっっ!」
けれどもやはり、気になるものは見てみたかった。そして、後悔した。見るべきではなかった。
白い布の下には、ところどころ骨が覗くボロボロの顔のちいちゃんがいた。心臓が早鐘のようになっていた。呼吸も乱れる。そうして、酷い哀感が胸を刺し貫く。
――そこから先のことは、覚えていない。
「哲、朝だよ」
気づけばいつものベッドに寝ていて、いつも通りにお母さんが起こしに来る。空っぽの胸を抱えながら着替え、朝食を食い、ランドセルを背負う。ソファアに座り、右から左に流れていくニュースを眺める。
「哲、そろそろ出ないと......」
「なんで? まだちいちゃん来てないよ?」
毎朝なるはずのインターホンは、鳴っていない。まだ、ちいちゃんは来ていない。ちいちゃんが来ていないから、家を出るわけにはいかない。
お母さんが突然泣き出した。その涙が、琴線に触れる。心の堤防が決壊し、涙が波となって胸中に押し寄せる。
「哲、千里ちゃんは......千里ちゃんはね......」
「......嘘、だよ。あれは、夢だよ......ちいちゃんは、生きてる!」
直後、悲しみの充満する部屋にインターホンの高い音が響いた。僕は、涙をぐっと堪え、口元に手をあてるお母さんに『行ってきます』とあいさつをする。大慌てで靴を履き、躓きながら玄関の鍵を開け重たい扉を押し開く。
そこには、花のついた白い帽子をかぶったちいちゃんが、おはようって笑っている――はずだった。
扉を開けて真っ先に入ってきたのは黒。ちいちゃんの、笑顔でも、白い帽子でも、少し控えめなピンクや水色の服でもない。
真っ黒な服。ちいちゃんのお母さんが、ハンカチを目にあて、立っていた。
「ちい、ちゃん、は......?」
僕の言葉に、ちいちゃんのお母さんは首を横に振るだけ。ちいちゃんは死んだという現実が、脳内を占領し、心の内を締め付けてくる。僕は、思わず走り出していた。
どこに向かっているかはわからない。ただ遠くへ、現実から目を背けれられる場所を目指して僕は走った。走って、走って、足がもつれた。刹那、鳴り響くクラクション。横を見た視界一杯に広がるトラックの前面。
ちいちゃんの体が吹き飛ばされた光景が脳裏に浮かぶ。
「ぁぁ、これで、またちいちゃんに会える......」
ガチガチに固まる体。どこからともなく溢れてくる涙。口元が、震えた。もう一度特大のクラクションが鳴り、トラックがさらに接近する。その瞬間、僕の体は、真後ろに引かれた。トラックの巨体が鼻先を掠め、火花を散らして急停止する。
「はぁ、はぁ、おかあ、さん?」
振り向いた先にはお母さんが驚いた表情を見せて息を荒げていた。
極度の緊張と恐怖で爆発的に増えた心臓の拍動数は収まらず、血が全身に巡り巡っていることを実感しながらお母さんの腕を掴む。
怖かった。ちいちゃんのところに行けると思ったのに、あの一瞬は死にたくないと強く思った。
「お母さん......おがあざぁ~ん」
慰めてほしかった。大丈夫だと、安心しろと、言ってほしかった。けれど、返ってきたのは強烈なビンタだった。
見れば、お母さんの目には、いつでも零れ落ちそうなほど涙がたまっていた。
「バカ、バカ! 心配させないで......」
僕の体は、母さんの体にすっぽり埋まる。僕は、大声で泣いていた。
怖かった、怖かったよと叫びながら。
「......哲、千里ちゃんにまた会いたい?」
僕の泣き止むころを見計らって、お母さんはそう聞いてきた。
そんなの、会いたいに決まってる。小刻みになんども首を縦に振る。
「じゃあ、頑張って生きよう? 千里ちゃんはね、最後に哲に生きててほしいっていってたらしいよ。千里ちゃんの最後のお願い、哲は叶えてあげられる?」
もう一度、小さく顎を引く。
「よし、偉い子だ。
昔、お母さんのお父さんが言ってたよ。死んだ人の思いは、生きている人に受け継がれる。受け継がれた思いは、生きている人の希望や勇気になるってね。だから哲、あんたは千里ちゃんの分まで、しっかり生きるんだよ」
拳をつくり、涙と鼻水で汚くなっている顔を空に向け、
「う゛ん゛!」
僕は誓いを建てた。
ちいちゃん 鋼の翼 @kaseteru2015
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