選べない地獄

「むーーーとうくん、あーそびーましょー!」

開け放った窓。そこから入るうだるような夏の気配と蝉の鳴き声の中に突然、聞き慣れた声が混じった。体を伸ばして窓から下を見下ろすと、育ちの良さそうな身なりをした男の子がひとり、こちらを見上げてにこにこと手を降っている。

15歳の夏休み。受験生。勉強で忙しい季節、のはず。

「いや、急なんだけど……」

あいつは昔からこういう唐突なところがあった。とはいえ来てしまったものは仕方ない。断るにせよ出るにせよ、一度降りて話さなければ。今行く!と返事を投げて問題集を閉じ、部屋を出ようとドアを開けた。


ドアを開けた途端、母さんの視線が自分に注がれるのがわかる。

「どこ行くの?」

「なんかすぐるが来てるからちょっと話しに」

笑って答えれば、母さんはあからさまに緊張をゆるめる。それでもそのまま俺についてきて、玄関のドアを開けるときもすぐ後ろにいた。

あおい、あそびいこ!」

「いやでも、勉強してたし……」

「あ、蒼のおかーさんこんにちは!」

「こんにちは。いいじゃない、息抜きがてら行ってきたら?」

最近頑張ってるじゃない、無理しすぎもよくないわよと、母さんは柔らかく笑う。声をかけられているのは俺なのに、意識は優に向いているのがはっきりとわかる。相変わらず外面だけはいい。

そして、俺も優もそれを分かっていてわざとやっている節があった。

「すみません、じゃあ蒼くんお借りしますね!」

「あ、ちょっと待ってて、荷物とってくる」

「おう」


母さんに手を振り家に背を向けるまで、優はずっと完璧だった。角を曲がって家から見えないところまで来て、一気に脱力する。

「はーー緊張した。蒼の母ちゃん相変わらずだな」

「まあね」

「まあこうでもしないと蒼と遊べないし」

「うん、ありがとう」

目一杯伸びをした優が振り向いて笑う。太陽が透けて眩しい。

「じゃあ、行こうか!」


最寄りの駅まで来て、切符売り場の上の路線図を並んで見上げる。

「どっか行きたいところある?」

「どこでもいい」

「ほんとに?」

「うん」

「じゃあ、東京行こう」

「え?」

「東京、行こう。」

「いいけど……東京って5時間はかかるよね?」

「うん」

「いま、16時だよね」

「うん」

「帰ってこれないんじゃない?」

「そうだね」

路線図を見上げたままの優は、至って真剣だった。ああ、そういうことか、と思う。そのまま帰らないつもりなのだ。

「俺、お金ないよ」

「俺が持ってる」

「……だよね」

色々言っても優の意思は変わらない気がした。だから乗ってみようと思った。何より、ワクワクしていた。

「行こうか、東京」

自分が言い出したくせに、優はびっくりしたみたいだった。それからすぐ笑顔になって、よし行こう!と券売機にお金をつっこむ。


通学の時に見かけるだけで乗ったことがない特急に乗った。買った切符に座席が書いてあって、自分たちの座席を探して座るだけのことも新鮮で楽しかった。ワクワクした。

「ほんとに東京行っちゃうんだね」

「行っちゃうよ」

見慣れない景色をびゅんびゅん通り抜ける電車に乗っているのは気分が良かった。あっという間に乗り換える駅までついて、また別の電車に飛び乗る。



今度は海沿いを走る電車だった。

窓から見える、いままで見たことないくらい広い海にはしゃいで、東京まであと何時間で着くかいちいち計算して、他愛のない話をして、ひとしきり話して、クラスメイトの進路の話になった。あいつはもう働き始めるらしい、あいつは工業系の高校に行くらしい。あいつは……。

「花田のやつ、東京の全寮制の高校受けるらしい」

「え、そうなんだ」

中学を卒業したら東京に行く。地元を離れる。親から離れる。そんなこと考えたこともなくて、そんな選択肢があったなんてことも知らなくて、ガツンと殴られたような衝撃が走った。東京なんて、今日まで自分には全く縁のない場所だと思っていた。だけど、来年からそこへ行って生活をするクラスメイトがいると言う。

「地元のは何も受けないのかな」

「そうなんじゃない?」

へえ、と何気ないフリで聞きながら、その未来があまりにも羨ましくて、魅力的で、混乱する頭で窓の外を眺めた。

暮れていく太陽と空を反射して、水面がきらきら橙に煌めいている。

「蒼は、出ていこうとは思わなかったの?」

「……思わなかった」

「ふーん」

「だって俺がいなくなったら、母さんが壊れちゃうから」

「蒼は?」

優がゆっくり息を吸う。

「俺はこわいよ。蒼がいつか……、もう、すぐにでも壊れちゃうんじゃないかって。蒼の母ちゃんだけじゃない。先輩たちだって蒼があの街にいるかぎりずっと、一生、蒼のこと良いようにするんだよ」

「そうだね」

優は窓の外を見たままだった。太陽が沈みかけている。

そうなのだろうか。優の言う通り、自分はもう壊れてしまいそうなのだろうか。わからなかった。


熱海駅まできて、また乗り継ぐために電車を降りた。夏の日暮れは遅いとはいえ、もう真っ暗だった。ホームには人気がない。ベンチに座って電車を待つ。

近づいているとはいえまだ静岡で、東京はまだ遠かった。このまま向かえば、今日のうちに帰れないことは確実だった。

俺を連れ出したのは優だったけれど、「帰ろう」と言い出さずにここまできたことについては優も俺も共犯だった。

電車に乗り込んだばかりの時の高揚感はとっくになくて、もういいんじゃないかな、という気がした。

「優」

「んー?」

「帰ろう」

俺の言葉にスマホから顔をあげた優の顔から表情が読めなくて少し焦る。

「嫌だった?」

「いや、」

視線が外れる。少し考えるような仕草。

「蒼が言うとは思ってなくて。いや責めてるわけじゃなくてさ。珍しかったから」

「確かに、そうかも」

今までは優についていって、優がやろうと言ったことをするだけだった。

「今出ていっても、まだ何もできない気がするんだ」

東京に行くのはすごく魅力的だったんだけど、と添えれば、そっか、と笑う。

「うん、帰ろうか」



来た時に使った電車をそのまま逆に辿って戻り、家についたのは日付を超えてからだった。連絡なしにこの時間まで帰らなかったのは初めてだった。

優は一緒に行って謝ると言ってくれたけれど断った。

母さんは戻ってきた俺をみて泣いた。そのままその腕の中に閉じ込められる。

どこ行ってたの、帰ってこないかと思った、ごめんね、ごめんねと言って泣いている声を聞いて、ああやっぱり、どうしてもここからは逃げられないと、何度目かの諦めが胸に満ちていった。



**



あれから何度も季節が巡って、高校生になって、大学生になって、自立できる年齢になってもまだ、俺は相変わらず同じ囲いの中にいた。

まだこの街で、この家で。

一人で全てを背負って街を出るなんてことはできなかった。誰かに強引に連れ出してほしかった。

あの夜の熱海駅を思い出しては、あのまま帰らなければ、なんて不毛なたらればに思いを馳せて。

ただだた、ずっと、窓を開けて待っている。


「むーーーとうくん、あーそびーましょー!」


ああまた、幻聴。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

選べない地獄 @wreck1214

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ