第5話 恋の花



 この七月中、私は週末になると先生のお見舞いに出かけていた。

 毎回三十分ほどの短いひとときだったけれど、先生は毎回面白い話を聞かせてくれた。

 私は市内の花の名所を巡っては撮影をして、それを先生への手土産にした。

 それをきっかけにメールアドレスを交換して、最近ではよくメールで話している。

 入院中の先生は暇なようで、私とのメールが息抜きになっていると言う。

 たとえそれがただのお世辞でも、そう言ってくれることが何より私を舞い上がらせた。

 七月最後の金曜日。先生は無事に退院した。

 退院後はしばらく実家で静養することになったそうだ。一人暮らししているマンションよりも、実家の方が病院に近いためである。

 私は先生の許可をもらって、真夏の太陽の下、お寺へと向かう。

 さすがに紫陽花の花は咲いていない。ただ青葉を茂らせている。

 門を通り、すぐ左脇には鮮やかなオレンジ色のノウゼンカズラがめいっぱい花をつけていた。

 玄関脇にはネットが張られ、そこをアサガオが埋めるように蔦を絡ませていた。

 呼び鈴を押すと、中から先生のお母様が現れる。顔立ちは先生とは似ていないけれど、声はよく似ていた。

祥夏さちかさん、いらっしゃい」

 何回か来ているうちに、すっかり先生の家族とは顔なじみになってしまっている。

「後でお茶持っていきますね」

「どうぞ、お構いなく」

 よく来ているので今では部屋に案内されることもなく、私は何度も通った廊下を進んで先生の部屋に向かう。

 扉をノックすると、すぐに先生の声が返って来た。

「こんにちは、先生。遊びに来ました」

祥夏さちかさん、待ってたよ〜」

 部屋の真ん中に足を伸ばして先生が座っている。私は隣に腰を下ろした。

 ほどなくしてお母様がお茶とお菓子を持って来てくれた。お菓子は小鳥の形の和三盆だ。これは初めて先生の家に来た時にもいただいたお菓子だ。市内の有名店の銘菓である。

 先生はこの和三盆が好きらしいと最近知った。

「足の具合はどうですか?」

「一昨日病院に行ったけど、順調に良くなってるってさ」

「順調に治ってきてるなら良かったですね」

「まぁね。もっとこう一瞬でぱっと治ったらいいんだけど。そうは行かないってよく分かってるけどさ」

 先生はちょっとふてくされたようにため息をつくと、和三盆を口に放り込んだ。

「完治するのって十月くらいでしたっけ」

「そうなの。今年の夏は海も山もなく終わっちゃうみたい」

「先生は毎年、海や山に行かれてるんですか?」

「ん〜、全然。実際には仕事で病院にこもってるし。行けても花火見に行くくらいなんだけどね」

「先生のお家のお庭からなら、花火見られそうですよね」

「そうだね。すっかり忘れてた、庭から花火見られるんだった。祥夏さんも見に来る?」

「いいんですか?」

「一人で見てもつまんないし、祥夏さんがいてくれたら楽しいなって」

 先生は天真爛漫に白い歯を見せる。

「私も先生と花火見たいです」

 夏の夜空を彩る大輪の花を見たいのはもちろんのこと、それよりも先生との時間が増えることが私を浮かれさせる。

「それじゃ決まりだね。花火の時期になったら家に来て、夜だから泊まりがけでどうだろう。家お寺だからお墓あるし、怖いかもしれないけど、三十年以上生きてきて霊とは会ったことがないから大丈夫!」

「そう言われると逆に意識しちゃいます、先生」

「そう!? ごめん、ごめん。幽霊とか怖いタイプ?」

「⋯⋯私も大人ですからそんなことはないですけど。⋯⋯⋯⋯いえ、やっぱりちょっと怖いです」

「大丈夫だよ、私が守るから! って何か特別な力があるとかそんなんじゃないけどね」

 先生が私の手に手を重ねる。

 柔らかなぬくもりが伝わってきて、ふと横を見れば先生と目が合った。

 思った以上に顔の距離が近くて、吐息を感じるほどに傍によっていたことに気づく。

(もし、これが少女漫画やドラマならキスしてたりしたのかな)

 いけない妄想が脳裏をよぎった。

(女同士だし、そんなこと起きるわけがない)

 私は図らずも顔を背けてしまった。

「⋯⋯祥夏さん、ごめんね。私、何か気持ち悪かったよねー」

 どこか沈んだ先生の声にはっとして顔を上げる。

「まさか気持ちわるいだなんて。そんなこと微塵も思ってませんよ。先生が守ってくれるなら心強いですし。私はいつだって先生といたいって思ってます。本当です」

 私の何気ない仕草で先生に嫌な思いをさせてしまったのかと思うと苦しい。

「そっか。それならよかった。私、馴れ馴れしくしすぎて祥夏さんに嫌われたら、悲しいから」

「先生を嫌うなんてないです。絶対に。だって私⋯⋯!」

 危うく告白しそうになって口をつぐむ。

 告白なんてしたら、それこそ私の方が嫌われてしまう。

「だって、何? 続き、気になるな」

「先生⋯⋯」

 私をじっと見つめる先生の瞳はとても真剣で、真摯で、私は目を逸らすことができなかった。

 魔法で囚われてしまったかのように体が動かない。

「祥夏さん、時々すごく何か伝えそうな顔するよね。それがね、私は前から気になってたの。いつか、それを伝えてくれたらいいなって」

「⋯⋯⋯⋯」

 私が伝えたいこと。先生に伝えたいことは一つだけ。でもそのたった一つを伝えたら、全部壊れるかもしれない。

 楽しい先生との時間が二度と訪れない。

「⋯⋯⋯⋯伝えたいこと、ですか。あるかもしれないし、ないかもしれません。けど、きっとそれは先生が知らなくていいことのような気がします」

「どうして?」

「どうしてでしょう。全てを知ったらがっかりすることもありませんか。すごくきれいな花が咲いてると思って近づいたら、ハリボテだった、ってこともありますよ」

 すぐ傍に好きな人がいて、私の体中を巡るこの想いをどうにかしたくて。でもどうにもできなくて。 

「私の見ている花はハリボテなのかな。そうは見えないけど。仮にハリボテだったとしても、きれいに見えるならそれでいいって私は思うよ」

 静かな時間が二人の間を流れる。

 クーラーの効いた涼しい部屋。

 軒に吊るされた金魚の描かれた風鈴。

 青々と山を築く紫陽花に、入道雲が並ぶ広い空と蝉の声。

 このまま時が止まってしまえばいいのに。

 先生に私の気持ちが知られてしまったら、夏も終わってしまう。

(でも叶わないならここで終わってしまう方がいいのかな)

 優しい瞳の先生を見ていたら、全部言ってしまおうかという気持ちも芽生える。

「祥夏さん、もう少しこっちに寄ってくれる」

 と言われ、私は一瞬ためらってから、先生に寄り添った。体と体が触れる。

 私は先生の体に負担がかからないように気をつける。

「実はね、私も祥夏さんに伝えたいことがあるんだよ。ううん、きっと私が伝えたかったから、祥夏さんもそうに違いないって思ったのかもしれない」

 私は先生に抱き寄せられた。まるで大事なものを扱うように、そっと。

「時々ね、こうして祥夏さんと近づきたくなるの。何でだろうね。祥夏さんがいなくならないように、傍にいてほしいって思うのかな」

 先生の腕の中にいるのは何度目だろうか。

 できることならここにいたいと願う。

「私はいなくなったりしないですよ。先生が、許してくれるならいつまでも、いつだっていますよ」 

 期待が胸の中で大きくなる。

 もしかしたら、先生も私と同じ想いでいてくれている。そんな気がしてくる。

 これは私に都合のいい夢だろうか。

 だがいずれ夢は覚めるもの。

 後で壊れるのも、今壊れるのも変わらない。

 私の夢は何かあればすぐに消えてしまうしゃぼん玉のようなものだ。

 それなら。

「望美先生、私、先生が大好きです。世界で一番、大好きなんです」

「祥夏さん⋯⋯」

 私たちは見つめ合う。

 先生が顔を近づけて、私は目を閉じた。

 唇と唇が触れる。

 それは僅かな瞬間で、すぐに離れたけれど、唇には柔らかな感触が残っていた。

「先生、私先生への気持ち、持っていてもいいんですよね」

「今ので私の気持ち、伝わらなかったかな」

「もう一回、確かめてもいいですか?」

「そうね。次はもっとちゃんとね」

 私たちはお互いの想いを確信するために、再び唇を重ねた。 

 蝉時雨が降り注ぐ。

 私は幸せに身を委ねた。

 

 

 

 八月も終わりに近づいた頃、私は望美先生の家にいた。日はすでに暮れて、夜空が広がっている。

 庭に置かれたベンチに先生と並んで座る。

 二階の部屋が一番眺めがいいらしいのだが、まだ骨折中の先生は階段で移動するのが大変だ。

 比較的松葉杖でも移動しやすい庭を特等席とすることにした。

 今日は花火大会があり、海の見える先生の家の庭は絶好のビューポイントだ。

「望美先生、何か飲みますか?」

「ビール」

「ビールはありません。お酒なんて飲んでうっかり転んだらどうするんですか?」

「ごめんごめん、祥夏ちゃん。冗談だから。ラムネあったよね」

「ありますよ」

 私は氷水が張られたクーラーボックスから、二本ラムネの瓶を取り出した。

「夏って感じでいいね〜」

 私たちはラムネの栓を抜き、弾ける炭酸の飲み物で喉を潤す。 

「そろそろ花火大会始まるかな」

 先生は腕時計で時間を確認する。

「カウントダウンするよ」

「えっ、もうそんな時間になってましたか?」

「5、4、3、2、1、0!」

 先生のカウント後に、花火が打ち上がった。開始時間にぴったりに、夜空には赤や黄色に、青に緑と様々な色をのせた花が開く。

「来年もさ、一緒に見ようね。祥夏ちゃん」

「そうですね。叶うなら来年も再来年も。その先も」 

 先生は辺りをキョロキョロして、何かを探す素振りを見せる。

「大丈夫。OK」

 そう呟くと私の頬に手を伸ばした。

 ドン、ドンと花火が打ち上がる。

 先生からキスをされる。

「もう、先生。ご家族に見つかったらどうするんですか」

「確認したから大丈夫だよ」

 先生と恋人同士になれるなんて、未だに私は覚めない夢を見ているようだ。

 これをきっと幸せと言うのだろう。   

 私たちは手をつないで飽くこともなく、花火に魅入っていた。

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恋の花 砂鳥はと子 @sunadori_hatoko

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