第4話 好きがあふれる


 先生と会ったあの日から一ヶ月がたった。

 私はあれからかなり重症になっていた。

 来る日も来る日も、私の中には先生が存在していて、気を抜いたらすぐ先生のことを考えている。

 思い出すたびに、胸がどきどきしてそわそわして、今すぐに本物の先生に会いに行きたくなる衝動を抑えるのが大変だった。

望美のぞみ先生⋯⋯」

 アパートのリビングに寝転がり、窓の向こうの灰色の空を見上げる。まだ梅雨は居座っている。

「会いたい、会いたいなぁ」

 だけど梅雨が明けるまではせめて我慢しようと思っている。

 またお寺に行ったからと言って先生に会えるとは限らない。

(間を空けずに行って先生に変な人って思われたくないし)

 私は近くに転がしておいたスマホを手繰り寄せて、画面を見つめる。

 先生と並んで撮った写真がそこにはある。笑顔の先生と私。

 やっぱり顔を見ると恋しさが増してしまう。

 叶わないと分かっていても気持ちは言うことを聞いてくれるわけではない。

 壁にかかったカレンダーを確認する。

 あとどれくらい過ぎれば先生に会いに行けるだろう。 

 もう頭の中はそればかりだ。

(こんなんじゃダメだ!)

 私は勢いをつけて飛び起きる。

 取り敢えずテレビでも見ようと、電源を入れる。画面にはローカルのニュース番組が映った。

 私は冷蔵庫からペットボトルのお茶を持って来て、クッションに腰をかける。

 他の番組に変えようかとリモコンへと手を伸ばした時だった。

 画面に見覚えのある景色が現れる。

 そこは先生と一緒にフレンチトーストを食べた喫茶店だった。

 番組は地元の知られざる名所を訪れて紹介する内容のようだ。

『今日はK市にある喫茶店ブルームーンへやって参りました。こちらK市民でも知る人ぞ知る隠れた名店で、フレンチトーストが絶品のお店として知られています!』

 女性リポーターが店内に入る。

 私の脳内にあの時の光景がありありと蘇った。店内を漂っていた香ばしいコーヒーの香りを思い出す。

『こちらのお店、常連客も多いとのことで、お客さんたちにインタビューしてみたいと思います!』

 リポーターが初老の女性へとお店について聞いている。

 私はお茶を飲みつつそれをぼーっと見ていたのだが、二人目に登場したのが私の大好きな人でうっかりお茶をこぼしそうになる。

「先生っ!」

 私は思わず身を乗り出し、テレビに釘付けになる。

 夏らしい淡い水色のシャツがよく似合っている。

『ブールムーンにはよく来られるんですか?』

『はい。実家の近くなのでふらっと寄ることが多いですね。先日も友人を連れて来ました』

『ご友人にもおすすめしたくなりますか?』

『そうですね。私にとっては隠れ家的なお店なので、特別な友人には紹介したくなります』

(特別な友人⋯⋯)

 その言葉に胸がばくばくし始める。

(先生にとって、私は特別な人?)

 でもよく考えたらこのインタビューが私に会う前に撮影されたものかもしれないと思い直す。テレビ番組は放送日よりもっと前に撮影されてるなんてざらだ。

 先生の着ている服は夏服だから、そんなに何ヶ月も前ではないとは思うけれど。

 期待しすぎは禁物だ。

『お気に入りのメニューはありますか?』

『パンケーキも捨てがたいんですけど、やっぱりフレンチトーストですね。一度食べたらやみつきになるので、大好きな人には絶対これをすすめます!』

 先生が笑っているのを見て、私は無駄に期待したくなっている。

(私、先生の特別になりたい。無理でも、少しでも先生の心に残りたい)

 その気持ちがますます強くなる。

(会いに行きたい)

 思ったらいても立ってもいられなくなってしまった私は、あわてて昨日の夕飯の残りで昼飯を済ました。

 メイクをして、お気に入りの服を纏ってアパートを飛び出す。

 電車に揺られ、バスに揺られ、あっという間に私はあのお寺へと続く階段の前に立っていた。

 梅雨が明けるまでは来ないと決めていたのに、来てしまった。

(先生がいるとは限らないし)

 今日は土曜日なので先生は休みの可能性が高いけど、休みだからと言ってしょっちゅう実家に来ているわけではないはずだ。

(花を見るだけ。花を)

 私は少し蒸し蒸しとした空気をかき分けて階段を登る。紫陽花はまだ少し咲いていてた。

 門を潜ると青葉の楓の下で、望美先生のお父様が箒で掃除をしている姿が目に入った。こちらに気づきお互いに会釈する。

「こんにちは。望美せ⋯⋯さんはいらっしゃいますか」

 声をかけるとお父様は手を止めてこちらにやって来る。

「あなたは先日の。望美は今日は帰ってないんですよ。本人から聞いてないですか?」

「⋯⋯えっと、すみません。思いつきで来てしまったもので」

「そうでしたか。それじゃ望美が入院してるのも聞いてないですか?」

「入院!?」

 あまりに予想外の言葉に思わず大きな声が出てしまう。

「何かご病気だったんですか?」

 不安が私の周りにまとわりつき、手と声が震えた。 

「いやいや、そんなんじゃなくてね。望美のやつ、先日大雨が降った時にそこの階段でやらかしたんですよ」

 お父様は私の後ろにある階段を指す。

「滑って転げ落ちてしまって骨折したんです。ドジでしょう? あの子はせっかちなところがありますから」

 はっはっはっと晴れやかにお父様は笑うが、そんな笑っている場合なのだろうか。

「そんな心配しないでも大丈夫ですよ。勤めてる病院で世話になってます。毎日退屈してるみたいでね。元気なので心配は無用です。一ヶ月ほどで退院できるって言ってました」

「私、そんなことになってるなんて、全然知らなくて」

 所詮、私たちは元患者と主治医で。連絡先なんて知らなければ、どこでどうしてるかも知りようがない他人だ。

 その事実を突きつけられて胸が痛くなる。

「望美はかっこつけですからねぇ。あまり人に知られたくないんでしょう」

 本当の私たちの関係を知らないお父様はそう解釈したようだった。

「これから息子、望美の兄が見舞いに行くんですよ。よければ一緒にどうですか。望美もお友だちの顔を見たら喜びますから」

 私はお見舞いに同行させてもらうことになった。

 

 

 先生のお兄さんである隆生りゅうせいさんが運転する車に乗って病院へと向かう。

 私はお見舞いの荷物と共に後部座席に収まっていた。

 隆生さんはどことなく先生に似ていて、もし先生が男性だったらこんな風になっていたのだろうなと想像できる。

 優しい語り口がお坊さんらしい、穏やかな方である。

「もうそろそろ着きますね」

 言われて窓の外を見れば、私もかつて入院していた真っ白な病院の建物が目に入った。

 ただお見舞いに行くだけなのに、妙に緊張している。

 先生がすっかり弱ってしまってるわけではないようだけど、心配なのに変わりない。

 車を駐車して、私たちは病院のエントランスに向かった。受付で手続きを済ませ、エレベーターに乗る。

 かつて見慣れた景色が、今は私を動揺させる。

「望美が入院してるのは三階の病棟なんです。いつも働いてる病棟とは違うらしくて何か居心地悪いみたいです」

 隆生さんは苦笑いする。

「だからお友だちが来たら大喜びしますよ」

「だといいんですけど」

 勢いでついて来てしまったけれど、私がいきなり現れて先生が迷惑に思わないか。今更不安になってきた。なるべく先生の負担にならないよう、すぐに帰ろう。

 エレベーターを降りて私たちは病室へと向かった。長い廊下の一番奥に、先生は入院しているらしい。個室だった。

 ドアは開いているがカーテンで覆われている。

 隆生さんはそのカーテンをめくって中に入った。私は入っていいものか、足が止まる。

「望美、荷物持って来た。お友だちが家に来たから一緒に来たよ」

「お友だち?」

 疑問を浮かべる先生の声。

「どうぞ」

 隆生さんに言われて私は病室へと踏み出した。

「⋯⋯こんにちは。お邪魔します」

祥夏さちかさん!? どうしたの?」

「ごめんなさい。先生が入院してるって聞いて、お願いしてお兄様に連れて来てもらったんです」

「祥夏さんとここで再会するなんて奇遇だね」

 ひとまず先生は嫌な顔をするでもなく、いつもの優しい笑顔を向けてくれる。 

「俺はちょっと外で飯食べてくるよ。まだ昼食べてないんだ。二人でゆっくりしてて。後で戻るから」

 私に気を利かせてくれたのか、荷物を置くと隆生さんはそう言ってそそくさと病室を出てしまった。

 二人して去っていく隆生さんの背中を見つめる。

「先生、せっかくお兄さんが来てくださったのに私のせいで追いやるみたいになってしまってすみません」

「祥夏さんが謝ることじゃないから気にしないで。本当に兄さんは何か食べたかっただけだと思うから。どうせ荷物持ってきたら、適当に話してすぐ帰るだけだし」

 私は荷物を床に置いて、先生の様子を伺う。

「先生、足のお加減はどうですか?」

 骨折したと聞いてはいたけれど、実際に左足にがっちりとギプスがはまっているのを見ると痛々しい。

「あー、大丈夫。大丈夫。見た目ほど大した怪我じゃないから。うっかりうちの階段ですっ転んじゃって。まぬけでしょー? まぁでも、しばらく仕事休めるしラッキーだよ」

 先生はいたずらっ子のように笑った。

「でも⋯⋯」

「祥夏さん泣かないで。私は平気だから。心配してくれたんだね。ありがとうね」

 どうやら私は涙を流していたらしい。

 慌てて目元を拭う。

 怪我人にいらぬ気遣いをさせてはいけない。

 先生はちょいちょい手でこちらにおいでと合図する。私は引き寄せられるように、更に先生と距離をつめた。

「祥夏さんが、来てくれて嬉しいよ」

 ふいに伸ばされた先生の腕に捕まって、ハグをされる。

 あの時に、初めてお寺に行った日のことが思い出された。

(先生⋯⋯)

 不謹慎かもしれないけど、先生の温かい腕の中にいるとドキドキしてふわふわして、幸せな気分で満たされる。

「何だか昔と立場が逆になってしまったね。職場の皆なんて、階段は怪我しなかったのか!? なんて言うんだよ。ひどいでしょ〜。友だちもどうせ三日で治るとか言うし。もう私のこと何だと思ってるんだって。祥夏さんだけだよ。親身になって心配してくれたの」

 それは先生なりに私が気にしすぎないようにとついた優しい嘘なのだろう。

 怪我をしてても明るくいつもの先生で、私はほっとするやら、申し訳ないやらで、心の中が慌ただしくなっている。

「先生のお父様に、入院してるって聞いた時はびっくりしました。家を出る前に先生がテレビに出てて、それを見てまたお寺に行きたくなって⋯⋯」

「あー、テレビね。あれ放送されたみたいね。祥夏さんと会った次の週だったかな。たまたま取材されて。人生初テレビ。そんなに喜ぶようなことでもないけど、祥夏さんがそれで会いに来てくれたなら出て良かったよ」

「先生はずっと、ずっと私に優しいんですね」

 感極まって、私も先生に腕を回してぎゅっと抱きついてしまった。

 私はこの人が、先生が大好きだ。

「どうかな。私、祥夏さんに優しいかな。でも、そう感じてくれるならそうなのかもね。私、祥夏さん大好きだからねー」

 先生はありふれた言葉のように、さらりと言う。

「わ、私も先生のこと、大好き、です」

 きっと永遠に私がどういう意味で『好き』かなんて伝わらないと思うけれど。

 それでも、何かは伝えたくて自然と大好きと口にしていた。

「えっ、本当に!? やったー、両想いだね」

 耳元で言われて、ドキドキふわふわが更に増殖する。

 深い意味はないって分かっていても、先生に両想いだなんて言われて、何も感じないわけがない。

 廊下の向こうから足音がして、私たちはそっと離れた。足音の目的地は向かいの病室だったようで、こちらへは来なかった。

「祥夏さん、その辺に椅子あるから座って」

 私は病室の隅に置かれた椅子を持って来てそこへ座る。改めてきちんと先生と向かい合う。

「そうだ、お見舞いの品買ってきたんです。隆生さんが、先生は桃が好きだと聞いて、来る途中でお店に寄ってもらって買ったんです」

 私は床に置いておいた袋を持ち上げて、中身を先生に見せた。

「わざわざ私の好きなもの買ってくれたの!? ありがとう! うちの病院食、味付け薄くて物足りなかったから、桃は嬉しい」

「本当ですか? 喜んでもらえて嬉しいです。良かったら食べてください」

「うん。ありがたくいただくことにする。あー、早く退院したいなぁ」

「退院したらもっと好きなものがたくさん食べられますね。お父様は一ヶ月ほどかかるって言ってましたけど」

「うん。一ヶ月で退院できるってさ。でも病室での一ヶ月は長いでしょ。この足だから動き回れないし」

「分かります。私もずっと入院していたので、毎日がすごく長く感じました」

「だよね。祥夏さんは私より長い期間入院してたもんね。なのにいつもしっかりしてて。私なんか患者になった途端、入院なんて嫌だってなってさ。情けないったら」

「入院が楽しい人なんていませんから、そんなものですよ。私なんて検査が嫌だって先生を困らせましたから」

「今なら検査が嫌って気持ち分かるよ。私、入院してた時の祥夏さんにちゃんと寄り添えてなかったよね。何とか検査受けさせなきゃって、そればかり考えてた」

「そんなことないですよ。先生はいつだって私の気持ちを汲んで、ずっと向き合ってくれましたから。確かに検査の時はいつもの先生よりほんのちょっとだけ厳しかったですけど。でもそれは先生が私を思って言ってくれたことですし。検査が大事なことをきちんと説明してくださいましたから」

「そう言ってくれると安心できる」

 私たちは隆生さんが戻るまですっかり昔話に没頭してしまった。

 あまり長居をしても先生が疲れてしまうので、一時間経つ前に私は帰ることになった。

「望美先生、またお見舞いに来てもいいですか?」

「えっ、また来てくれるの? 寂しいから祥夏さんが会いに来てくれると嬉しいな」

 先生は私の手を取ってにこにこしている。

(私、また先生に会えるんだ。会ってもいいんだ)

 そのことが嬉しくて私の顔も緩んでしまう。

 私が入院している時、先生がいつも元気を分けてくれたから、その時のお返しが私にもできたらいいなと思う。

 何の力にもなれないけど、せめて気晴らしくらいはできる存在になっていたい。

 後ろ髪を引かれながら、私は病室を後にした。

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