第3話 少し近づいて


 先生は静かに庭の紫陽花を見つめていた。その横顔は普段の明るくて優しい雰囲気とは違い、どこか神聖に見える。

 きっとこの庭は先生にとってたくさん思い出も思い入れもあり、とても大事なんだろうと察する。

「雨、止んだみたいね」

 立ち上がった先生はゆっくりと窓を開いた。湿り気の混じった冷たい風がふわりと流れて来る。

祥夏さちかさん、庭に出てみる?」

「はい⋯⋯!」

 私も先生の傍に行き、縁側から庭を眺める。パノラマの景色が広がり、想像以上に紫陽花の山が続いていた。

 先生がサンダルを貸してくれたので、私はそれを履いて庭に降りた。

 大輪の紫陽花もあれば、咲いたばかりの小さな花もある。

 花びらや青葉には透明な雫が宝石のように散らばっていた。

 間近で見ると、更に花の美しさにため息が出る。

「先生は毎日のようにこんな景色が見られるなんて素敵ですね」

「なかなか贅沢かなって思うよ。あっちの方に行くと海も見えるよ。行く?」

「是非!」

 私は先生のあとをついて庭の端へと進む。お寺は高台にあるせいか、紫陽花の生け垣の向こうにミニチュアのような街並みと、蒼い海が横たわっているのが見渡せた。

「見ているだけで空を飛んでいる気分になります。高いところっていいですね、先生」

「祥夏さん、病院にいた時も屋上に行ってみたいなんて言ってたよね」

「はい。あの近辺では病院が一番高い建物でしたから、きっと景色も素晴らしいんだろうなって」 

「うちの病院、屋上は立ち入り禁止だからね。そうでなければ祥夏さんに景色を見せられたんだけど」

「でも私は先生が見せてくれた取っておきの紫陽花が見られたので、他の患者さんに比べたらラッキーでした」

 話しててふと、先生は何人あの場所に案内したのだろうと考える。

 自分と先生だけの秘密だったらいいのに、と心の狭いことを思う。

「あの時に祥夏さんが喜んでくれたから、連れて行ったかいがあったよ。患者さんにあの裏庭見せるの初めてだったから、迷惑に思われたらどうしようかと思った」

 先生は笑いながら話す。

 私は自分だけだったのだと知って、甘い感情が胸の内に広がる。

「私はあれですごく元気をもらえました。先生からもらった最高のプレゼントですよ」

「ありがとう、祥夏さん!」

 先生は突然、私をハグした。

 一瞬何が起こったのか分からず、私は身動きできずにいる。

(大好きな先生にハグされてる⋯⋯!!)

 改めて事態を把握して、私の体は太陽のような熱さで火照り始める。

「ごめん、何か嬉しくてつい」

 先生は私が幸せを噛みしめる前にささっと離れてしまった。

「いえ、大丈夫、です」

 そう答えるだけで一杯一杯だった。

「祥夏さんが今こうして元気でここまで来てくれたことが、本当に嬉しくて。こういう時に、やっぱり私は医者になって良かったって実感するの」

「優しい先生らしいですね」

「うーん、優しいのかな。分かんないけど」

 先生は子供みたいに照れて、その様子に私は思わず笑みがこぼれる。

「この辺りの花は青いけど、もう少しあっちの方に行くとピンク色になるの。見に行って見る?」

「はい!」

 私は先生に案内されるままに庭の更に奥へと踏み込む。紫陽花はどこまも続いていて、青から紫、ピンクと見事なグラデーションを見せていた。

「先生、何故こんなにたくさん紫陽花が植えられているんですか?」

「元々は曽祖父が別のお寺から分けてもらったの。それを増やしたり、新たに買ってきて植えたりしているうちにいつの間にかこんなになってた、って感じかな。どうも曽祖父が紫陽花を育てるのに夢中になっちゃったみたいでね」

「それが受け継がれて今もきれいに花を咲かせてるんですね」

「受け継がれたっていうか、勝手に育ってるというか。多少手入れはしてるけど、ほとんど何もしてないんだよね」

「それでもこんなにきれいに咲くんですね」

 私たちはしばし紫陽花に見とれていた。

 会話がなくても、意外と気にならないのは私が先生を好きだからだろうか。

 ちらりと先生に目を向ければ私の方に瞳が向いていることが分かる。しっかりと目と目が合い、先生の微笑みに何だか恥ずかしくなってくる。

「家に来た人たちみんな紫陽花を写真に撮って行くんだけど、祥夏さんはどうする? さっき階段のところで撮ろうとしてたみたいだし」

「そういえば、そうですね。せっかくなので写真に残したいです」

「いいよ。好きなだけ撮っていって」

 先生に言われ、私はスマホを取りに部屋に戻る。再び庭に降りて、紫陽花たちの共演に目を奪われた。

 何度もカメラを向けて、ここだというアングルを探り、私は庭の美しさを写真に閉じ込める。

「祥夏さん、自分は撮らなくていい? 私、撮ろうか?」

「あっ、はい。それじゃお願いします」

 私は先生にスマホを預けた。

「撮るよー。はい、チーズ」

 ありきたりにピースを向けて私はカメラに笑う。

「おっ、いい笑顔だね」

 憧れの人が目の前にいたら、いくらでも笑顔になってしまう。

(先生とも撮りたいな。だめ元でお願いしてみようかな)

 どうやって切りだそうか考えあぐねていると、先生が不思議そうに私の顔を覗く。

「祥夏さん、どうかした?」

「いえ、ええーっと⋯⋯。その、先生もよければ一緒に撮りませんか」

 嫌がられたどうしようと不安にまとわれつつ、私は思い切って提案した。

「私も?」

「はい。先生との思い出も残したいというか⋯⋯」

「なるほど。よし、撮ろう。どこにしようか」

「あそこの白い紫陽花のところがいいです」

 私と先生はその場所まで移動した。

 冴え渡るような白に染まった紫陽花をバックに先生と私が並ぶ。

「祥夏さん、これ自撮りどうやるの?」

「それはですね⋯⋯」

 今度は私がスマホを持ち、二人の姿をフレームに収める。

「撮りますね」

 私は何枚か先生とのツーショットを撮ることができた。

「どう? 上手く撮れた?」

「いい感じですよ」

 私は撮ったばかりの写真を先生に見せる。

「おー、いいね、いいね。この写真私も欲しいかも」

「送りますか?」

「いいの? じゃ、遠慮なく」

 私たちは部屋に戻ると、スマホの通信機能を使って、さっき撮ったばかりの写真を送った。

「すっごい、よく撮れてるねー。祥夏さんもいい笑顔だし、紫陽花の色もきれいだし」

「はい。想像以上にきれいに撮れました。壁紙にしたいくらいです」

 思ったことをするりと口にして、気持ち悪い発言をしてしまったと後悔する。

 いきなり壁紙にしたい、なんて慣れ慣れしい。私はおずおずと先生の顔色を伺う。

「あー、それは私も思った。壁紙にちょうどいいよね。壁紙にしておこう」

 先生はささっと写真をスマホの壁紙に設定する。

「ほら、見て、祥夏さん」

 見せてくれたスマホの画面には先生と私と紫陽花が収まっていた。

 たとえ後で先生がこの写真を変えてしまっても、私に気遣っただけでも、実際にこうして壁紙にしてくれたのは飛び上がるほどに嬉しい。私なんて先生の元患者でしかないのに。

 私も先生と同じようにあの写真を壁紙にする。

「お揃いだね」

 笑顔の先生が眩しくて、だけど何だか少し切なくて、私は涙が出そうになるのを堪えた。

 

 

 

 服は元々そんなに濡れていなかったせいか、二十分ほどで乾いた。

 私は着てきた服に着替えて先生と一緒にお昼を食べに行くことになった。

 車も出入れできる、お寺の大きな裏口から通りに出て、先生に先導されるままに喫茶店へ赴く。

「ここのお店、あんまり知られてないんだけど、フレンチトーストがすごく美味しいの。私も実家に帰るとたまに食べに行くんだよね」

 お店は昔ながらの喫茶店で、古めかしいがきちんと手入れが行き届いている。

 先生おすすめのフレンチトーストと、これによく合うコーヒーを二人で頼んだ。

 まさかの先生とのデート、とは言い過ぎだけど食事をすることになるとは想定外だった。

 運ばれてきたフレンチトーストはボリュームたっぷりで、甘い香りのバニラアイスがついている。

「祥夏さん、食べてみて。絶対に美味しいから!」

 先生にうながされるまま、ナイフで切れ目を入れてフォークを使って口に運ぶ。

 柔らかなフレンチトーストはほんのり甘くて、優しい味がじんわりと舌の上に広がった。

「どう?」

「⋯⋯美味しいです!」 

 飽きの来ない甘さがちょうど良く、空いていたお腹にぴったりだ。

「やった! 祥夏さんに喜んでもらえた」

 にかっと先生は歯を見せて笑う。

 無邪気なその様子に、先生への愛しさが溢れそうだ。

「私も食べよう」

 先生もフレンチトーストに手を付けた。

 私たちは時折世間話を挟みつつ、少し遅めのお昼ごはんを堪能した。

 食後は再びお寺に戻り、私は帰り支度をする。

「そこまで送って行くよ」

 先生の言葉に甘えて、来る時に登ってきた階段を降りる。

 左右を彩る紫陽花はまるで見送ってくれているかのように、風にさやさやと揺れていた。

 まだ離れたくない。もっと先生と一緒にいたいのに、あっという間に下の通りにたどり着いてしまう。

「祥夏さんは何でここまで来たの? バス?」

「はい。電車を乗り継いでここまではバスを使いました」

「そっか。バス停まで送るよ」

「今日は突然来てしまってすみませんでした」

「えー、何で謝るの? 私は来てくれて嬉しかったけどね。祥夏さん、私のこと覚えてくれてたんだなって」

「先生にはたくさんお世話になりましたから、忘れたりなんてできません。私も先生が覚えていてくださって嬉しかったです。先生は毎日大勢の患者さんを相手にしてるのに、私のことも忘れずにいてくださって、先生の患者でよかったなって思います」

「祥夏さんにそう言ってもらえるなら、私も医者冥利に尽きるってものだね」 

 話しているうちにバス停に到着してしまった。時刻表を見るとあと三分ほどで駅に向うバスがやって来る。

「先生、あの⋯⋯。またお寺に遊びに行ってもいいですか?」

「もちろん。いつでも遊びに来て。祥夏さんなら大歓迎だから。今は紫陽花の季節だけど、これからノウゼンカズラも咲くし、朝顔や桔梗も咲くから。花の季節の間は楽しめると思うよ」

「それは楽しみですね。是非、また伺わせてもらいます」

 程なくして白と水色のツートンカラーのバスが通りの向こうから近づいて来た。

「先生、今日はありがとうございました」

「どういたしまして。またね、祥夏さん」

 バスに乗ると先生は見えなくなるまで手を振ってくれていた。

 

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