第2話 花は咲く
まだ私が社会人になったばかりの頃。
私は手術が必要な病気になった。
消して重い病気ではなかったし、手術すれば完治するものだった。
だけどすぐに不安に揺れ動いてしまう私は、本当は重い病気だったらどうしよう。癌に発展したらどうしよう。手術が失敗したらどうしよう。別の病気が見つかったらどうしよう。そんな悪い想像に囚われて、随分と沈んでいた。
主治医の先生は父くらいの年齢の人で、いかにもベテラン医師だったけれど、どこか冷たい印象のある人だった。
私が不安を訴えても面倒くさそうにあしらわれて、それで更に私の不安は増した。
春が訪れる頃になって、その先生が転院することになった。
私はあの冷たくて怖い先生から新しい先生に変わる安堵と同時に、次の先生も似たような先生だったらと落ち込んでいた。
だけど新しい先生は優しくて笑顔が素敵な先生だった。それが
若い先生だったけれど、常に親身になって私に寄り添ってくれた。
私の、先生からしてみたらくだらないであろう不安についても一つ一つ丁寧に説明して、私が納得できるように話してくれた。
『先生はどうしてそんなに優しくしてくれるんですか? 私が不安ばっかり口にして不快になったりしないんですか?』
今までの先生との違いに、私は疑問をぶつけたことがある。
『私は
望美先生は私の手を取り、目を真っ直ぐに見つめて、真摯にそう答えてくれた。
触れた先生の手が少しひんやりしていたことを今でもありありと思い出せる。
その時に私はこの先生なら信頼できる。全てを預けて病気と戦おうって決めた。
些細なことかもしれないけれど、先生が私に向き合ってくれたことがとても心強く嬉しかった。
それ以来、先生は時間ができるとよく病室に会いに来てくれるようになった。
病気について話すこともあったし、何気ない世間話に花を咲かすこともあった。
どんな時も先生は嫌な顔一つせずに、私の傍にいてくれた。
先生にとってはただの仕事だったと思う。でも私には大切で、心が和らぐ時間。
それをくれたのは先生だ。
だからか、いつしか私は先生に淡い恋心を抱くようになっていた。
毎日、病室のベッドで先生が来るのを待ちわびた。
辛くて大変な検査も、頑張ったら先生が褒めてくれるから耐えられた。
私が病気に立ち向かえたのも先生の笑顔が見たかったから。それに他ならない。
不純な動機でも私に生きる目標ができたのも先生のおかげだ。
そうして先生との時間が重なる度に私の気持ちは、想いは強く育っていった。
だけど体が良くなっていくにつれ、想いは膨らみ、だけど実ることなく私は退院の日を迎えた。
病院の先生とただの患者。まして女同士の恋など叶うはずもない。
退院後はしばらく望美先生がいた大きな病院へ通っていたけれど、完全に回復した私はもう先生へ会うことすらできなくなった。
それでも諦めきれなかった私の中で恋心は萎れることもなく咲き続けた。
社会人になり、初めての初夏。
私は先生との会話をふと思い出した。
季節は今と同じ梅雨。先生は私を車椅子に乗せて病院の裏庭に面した建物に連れて行ってくれた。そこは関係者以外は使わない通路で、大きな窓が並んでいた。
窓からは裏庭がよく見渡せた。夏空のような青い紫陽花がたくさん咲いている。
『すごい、きれいな紫陽花!』
『でしょ。ここはね、私が病院で一番お気に入りの場所なの。祥夏さんに見せたいって思っててね』
『先生、ありがとうございます』
私のベッドは病室の廊下側にあり、残念ながら眺めとは無縁だった。だから私はよく談話室に行ってそこから外を見つめていた。見えるのは病院の駐車場だったけれど。それを知っていたから先生はこの景色を見せてくれたに違いない。
『祥夏さんが喜んでくれて良かった』
『私、お花の中でも紫陽花は特に好きなんです。花色がグラデーションになってたり、さわやかな色合いだったりして、見てて楽しいんです』
『それは私も分かる。見てると心が華やかになるよね。私のお気に入りのお寺があってね、そこもこんな風にたくさん紫陽花が咲いているの』
『お気に入りのお寺があるんですね。もしかして観光スポットになってる有名な所ですか?』
『そういう有名な所もいいんだけど、そのお寺は穴場みたいな感じでさ。落ち着けるんだ』
『そうなんですか。私も行ってみたいな』
そして私は先生からその穴場だというお寺を教えてもらった。
『退院したら行きたいです!』
『うん。きれいだから紫陽花見に行ってみてね』
それはまるで先生との秘密のようで、私は密かにわくわくしていた。
先生がきれいだと思った景色を私も見たい。
季節が巡り、再び梅雨がやって来た。
そのお寺に行ったら先生とまた会えるかもと期待を胸に抱いて。
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