恋の花
砂鳥はと子
第1話 紫陽花に誘われて
大きな通りを右折してしばらく歩くと、細い路地に出る。車一台が何とか通れるくらいの広さの静かな道。
正面を見上げると、上へとずっと続く石造りの階段が伸びていた。両脇の所々には咲き始めたばかりの紫陽花が点々と並んでいる。
しとしとと降る絹糸のような雨に、雫の飾りをまとった紫陽花は梅雨の訪れを表していた。
私は深呼吸して、傘の柄をぎゅっと握りしめると、階段へと足を踏み出した。
近隣にはここと似たような紫陽花スポットがあるが、そちらは観光名所となり、 花の盛りには平日でも人で溢れている。
だがここは観光地にはなっていないせいか、平日の日中だからか、私以外に人の姿はなかった。
私はしとやかに咲く紫陽花に目を留めながら上へと進む。薄紫色に水色、撫子色。淡い水彩のような色に染まった花々は、どれも心惹かれるものがあった。
その中でも私は白い紫陽花に釘付けになる。正確には白ではなく、とても淡い水色である。白にほんの少し青を滲ませたような、清廉で爽やかな色合い。
どことなく珍しさも感じた私は、そこで立ち止まるとカバンからスマホを取り出す。写真に撮っておきたくなったのだ。
傘があるので、操作しにくいが何とか白い紫陽花にピントを合わせる。
画面をタッチして撮ろうとしたところで、私は上から近づいてくる足音に慌てて階段の端による。
狭い階段の上。傘があっては確実に相手に当たってしまう。私は急いで傘を閉じようとしたが、バランスを崩して、傘もろとも紫陽花の生け垣に背中からダイブするはめになった。
シャツに雨の冷たさが伝わってくる。
「大丈夫ですか?」
足音と声が近づいて来て、私は自然とそちらへと視線を向ける。相手と目が合う。
「⋯⋯先生!」
「⋯⋯
お互いに見知った顔がそこにあり、先生は驚いたように目を見開いた。
(会えるかもしれないって思ってたけど、本当に会えるなんて思わなかった)
私がここに来た目的こそ、この目の前にいる女性なのだが、今日いきなり会うのは想定外だ。
もしかしたら、先生の気配くらいは感じられるのではないかなんて期待していた。
それだけにいざ先生を前にすると、後ろめたいような、何か悪いことをしているような気まずさで、私は恥ずかしくなる。その上、今の私は紫陽花に埋もれているという実に情けない姿だ。
「大丈夫、祥夏さん」
先生は傷も染みも一つもない白い手を私に差し伸べる。私は一瞬迷ってから先生の手を取る。
(先生の手は相変わらず冷たい)
ひんやりとした先生の指先の感触が手に伝わって、心臓が体の奥で存在を主張するかのように脈打った。
私は先生に引っ張り出され、紫陽花の生け垣から抜け出す。ほっぽられた傘を取り、邪魔にならないように閉じていたら先生が私の頭上に傘を差し向けてくれた。
「ありがとうございます、
「どういたしまして。シャツやスカート濡れてない? 平気?」
「ちょっと雨で冷たいですけど、びしょ濡れってわけじゃないので大丈夫です」
「そう? 体冷して風邪引いたりしないか心配だな⋯⋯。ところで祥夏さんはどうしてここに?」
「あの、前に先生がお気に入りのお寺を教えてくれたじゃないですか。それで、行ってみようかなって」
私はこの階段の先にあるであろうお寺に視線を向ける。紫陽花の連なりの先に門が覗いていた。
「ああ、そうなんだ。紫陽花見に行ってみて、なんて言ったね。覚えててくれたんだ」
「はい。是非、紫陽花を見たくて」
本当に一番見たかった、会いたかったのは先生だけれど、それは口にはしないでおこう。
「紫陽花を見るだけなら、急ぎとかすごく大事な用があったわけじゃないんだよね? それなら家に寄って行く? そんな服濡れたままだと、やっぱり心配だからさ。今日、ちょっと肌寒いし」
気軽にそんなことを言われて、私はまた先生との時間が戻って来たのだと嬉しくなる。あげくに家に誘われるとは運がいいのか、ハプニングなのかよく分からない。でも私の体は小躍りしそうなくらいに、喜びにそわそわし始める。
「先生、この辺りにお住まいなんですか? だからあのお寺を勧めてくれたんですね。よく散歩に来られたりするんですか?」
「この辺りというか、そのお寺が実家なの」
思わぬ事実に私は驚く。
「先生、お家がお寺なんですか!?」
「そう。意外だった? ところで祥夏さん、今日はお仕事お休み?」
「ええっと⋯⋯まぁ」
わざわざ有給を取って来ました、とは恥ずかしくて言えない。
「先生もお休みですか?」
「祥夏さん、私が木曜日は休みなの忘れちゃったの?」
そう言われて私は、先生が土日と祝日以外に木曜日も休みだったことを思い出す。
「忘れてました。でも先生、木曜日でも私に会いに来てくれたことありましたよね?」
「あったね。だってあの時は祥夏さんが心配だったから」
先生が今も昔も私を気にかけてくれていたことに、改めて感動する。
こんな先生だからこそ、私は今までにないくらいに人に惹かれているのかもしれない。
「立ち話続けるのもあれだし、うちに移動しよう」
先生に促されて私は階段の先へと進んだ。
お寺に着くと、敷地内に咲く紫陽花に目を奪われる。青葉を茂らせた桜や紅葉もあるし、つつじの生け垣もある。他にも名も知らぬ木々や植物がきれいに手入れされ、庭を彩っていた。
年中花が絶えない場所なのだろうと想像がついた。
「玄関はあっちの方にあるの」
私は黙って先生の後をついて行った。
お堂の脇に母屋が続いており、玄関脇には立派なイチョウの木が立っている。
「ただいま」
先生は引き戸を開けよく通る声をかけて、家に上がる。奥の廊下から剃髪の年配の男性が現れた。藍色の作務衣を着ている。目元が先生に似ている気がする。
「なんだ、望美。もう戻って来たのか?」
「途中で友だちと会ったから、連れて来たの。祥夏さん、こちらは私の父」
先生は私を友だちとして紹介してくれた。何だか少し先生の特別になれたようで、私の口は緩みそうになる。
「こんにちは。お邪魔いたします」
「いらっしゃい。どうぞゆっくりしていってください」
「ありがとうございます」
先生のお父様はさっき来た廊下を戻って行った。
「さぁ、祥夏さん上がって」
「はい、お邪魔します」
靴を脱いで、よく磨かれた飴色の廊下を進む。お堂があるのとは反対の方向である。
私が通されたのは庭に面した洋室だった。大きな本棚とタンスにベッドがあるだけで、他に余分なものはない、すっきりとした部屋だ。
縁側があり、窓の向こうには淡い青紫の紫陽花が小さな山を築いている。一幅の絵のようなとてもよい眺めが広がっていた。
先生は押し入れからふかふかの座布団を取り出すと、私の目の前に二つ並べる。
「ここは私の部屋だから、気にせずにくつろいでいいからね。さっきは友だちなんて言ってごめんね。そっちの方が説明しやすいというか」
「気にしてませんから。むしろ先生のお友だちなんて光栄ですよ」
「またまた、祥夏さんは相変わらずよくできた娘だね。ところで服、どうしようか」
「そんなに濡れてませんから大丈夫ですよ、先生」
と言いつつ、素直に座布団に座ってよいものか迷う。汚れてしまわないか心配だったからだ。
「ちょっと待っててね」
先生はクローゼットに向かうと引き戸を開けて、何か探している。
「ちょうどいいのがあった」
取り出したのはワンピース型のだぼっとした部屋着だった。
「これなら着れると思うの。取り敢えずこれに着替えてもらって、濡れた服を乾燥機で乾かして来ようと思うんだけど」
「いいんですか?」
「それはもちろん。やっぱり服が濡れたままだと気持ち悪いでしょ。それに祥夏さんが風邪引いたりしたら心配だから」
先生は私の顔を覗き込む。憂いのある瞳に、私の胸に言葉にならない様々な感情が押し寄せる。
「望美先生、私はもう大丈夫ですよ。それは先生が一番分かってるじゃないですか」
「うん、それはそうなんだけどね。祥夏さんが元気って分かってても、心配になるのは性みたいなものなんだよ。医者の性ってやつ」
「分かりました。それじゃ、この服お借りしますね」
「うん。私、あっち向いてるね」
先生は私に背を向けて窓辺へ行くとカーテンを閉じた。外から見えないようにしてくれたのだろう。
私は気恥ずかしさを感じながらも服を脱ぎ、先生が用意してくれた部屋着に腕を通す。
(先生が着てる服、着てるんだ)
その状況がとても不思議で、そして大好きな先生の服を身に着けているのだと思うと、緊張してきてしまう。
「先生、着替えましたよ」
「終わった?」
閉じていたカーテンを開けながら先生が振り返る。
「それじゃその服は乾かしてくるね。すぐ乾くと思うから。ところで祥夏さん、コーヒーと緑茶、どっちが好き? 両方、飲めたっけ?」
「はい、どちらも大丈夫です。強いて言うなら緑茶の方が好きです」
「OK。ありがとう。服預かるね」
先生は私の濡れた服を持って部屋を出て行った。
私は改めて部屋を眺める。天井に届きそうな高さの本棚には様々な本が並んでいた。参考書や辞書、専門的な医学系の古い本が主だった。
しばらくして先生が緑茶とお菓子を乗せたお盆を持って戻って来る。
「よかったら、どうぞ。大したおもてなしできなくてごめんね」
「いえ、とんでもないです。いただきます」
紫陽花色の湯呑に爽やかな香りをまとう緑茶。お菓子は小鳥の形の和三盆だった。
先生と向かい合って座っていると、実に妙な気分になる。何だか現実ではないような、すっと突然覚めてしまう夢のような心地だ。
本当の私は病院のベッドの上で眠っていて、理想の夢を見ているのかもしれない。そんな気がしてしまう。
「先生は今もここで暮らしているんですか?」
お茶を片手に質問を投げかける。
「ううん。今は隣りのY市で暮らしてるよ。しょっちゅう家には顔出してるけどね。家からも病院からも近いから」
「こんなきれいなお庭があったら、すぐに実家が恋しくなりそうですね」
「そうね、紫陽花の頃は特にね。私もこれが見たくて梅雨時期は特に実家に居着いてるよ」
「先生のお宅がもし自分の家だったら、私も実家に居着いてますよ」
私たちはとりとめもなく、他愛のない話を続けていく。
一年前なら考えられない状況に、私はやっぱりこれは夢なのではないかと錯覚しそうになる。
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