Auditory sense
森上サナオ
Auditory sense
山中仁左衛門は夢を見ていた。
そこでは時の流れは曖昧だった。過去と未来が渾然一体となって入り交じり、仁左衛門の目の前に見たこともない世界が現れては消えていった。
そんな中で、仁左衛門の興味を引く光景が一つだけあった。
いつとも知れない時と場所。若い男が椅子に腰掛けて穏やかな表情を浮かべている。
仁左衛門からすれば珍妙極まりない服装をしたその若い男は、四角い蒲鉾板のようなものを手に持っていた。蒲鉾板の表面は鏡のようになっていて、しかし映っているのは若者の顔ではなかった。まるで別世界を覗き込む箱眼鏡のように、小さな世界の中で小さな人々が楽器を奏でていた。
別世界を映し出す蒲鉾板からは細い糸が伸び、若者の足下でとぐろを巻いて壁に刺さっていた。更に、壁に刺さっているのとは別にもう一本白い糸が、今度は途中で二股に分かれて若者の耳に伸びていた。糸の先端は耳栓のようになっていて、若者はそれを耳に突っ込んでいる。まるでこの若者が部屋の一部であるかのようなその光景に、仁左衛門は不気味さを感じた。
一方、若者の方はと言えば、音の波に乗るかのように心地よさげに身体を揺すっている。空中に浮遊する仁左衛門には何も聞こえなかったが、どうやらあの蒲鉾板からこの若者にだけ聞こえる音楽が流れていると考えるのが妥当のようだ。
夢の中で、仁左衛門はふむ、と唸った。
この時代では、音楽はああいったカラクリを経なければ聞けないのだろうか。音楽というものは、直接、目の前で奏でられるものを愉しんでこそだと思っていた仁左衛門には、目の前の若者が少しだけ哀れに思えた。
妙な哀愁を感じながら、仁左衛門の夢はそこで終わった。
目覚めた仁左衛門は、つい先ほどまで見ていた奇妙な夢を思い返した。奇天烈なカラクリを経なければ音楽を楽しめない若者のみじめな姿が、瞼の裏側にこびり付いていた。
俺はそんなことをしなくても、いつでもどこでも本物の音楽を楽しめる。夢の中の人物に優越感を覚えながら、仁左衛門は手慣れた動作で手を動かした。
直後、拡張電界層に浮かぶ仁左衛門の意識は、絶対零度の真空のように一点の曇りもない純粋な音の中に投げ込まれた。
そこでふと、仁左衛門は思い出した。かつて、人間がまだ物理的制約だらけの基底現実に生きていた時代、音というものは「大気」なるものの振動によって伝えられていた、という話だ。
もしかすれば、自分が見ていた夢はそんな時代の出来事だったのかも知れないと仁左衛門は思った。若者が耳に突っ込んでいた耳栓のようなものの先からは、大気の振動が送り出され、それを若者の肉体が電気信号に変換して彼の脳に送っていたのだろう。
やれやれ。仁左衛門は肩をすくめる。そんなことで、本当に音楽を聴いていた気になっていたとは。つくずく今の時代に生まれて良かったと、仁左衛門は胸をなで下ろした。
大気を振るわせた「音」を聴くなんて、周りにも似たような雑音が溢れた中で音楽を聴くだなんて、水中で酒を飲むようなものじゃないか。
目の前で、最高品質の演奏プログラムが奏でる完璧なノイズフリーの交響楽データに身を委ねながら、仁左衛門の意識は幸福指数を高めていった。
Auditory sense 森上サナオ @morikamisanao
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