第2話 いつだって

 ずるずると続く未来のない関係は、三十路の大台が迫ってくると徐々にではあるが、確実に重たく自身に圧し掛かってきた。そろそろ見切りを付けなくては、そう思っていた矢先に妊娠が発覚した。

 それは些細な変化だった。ほぼ狂わない生理がずれたのだ。人手不足の影響から業務負荷が増大して、終電で帰ることも珍しくない時分。単純に疲労の蓄積かなと呑気に構えていたが、二週間も生理がこないことに、いよいよ置かれた状況を理解する。


 出来てしまった。心の中での第一声がそれだった。


 出来た、ではない。出来てしまった、だ。


 エコーで確認されたのは、小さく丸いゴマ粒のような点。医師から指摘されないと気が付かない程の小さな点が、何百、何千、何万もの細胞分裂を繰り返して、人間を形成していくことに、じわじわと感動が押し寄せてきた。だけど、波というものは引いては返す。感動から後悔へと、正と負の感情が幾度となく揺れ動いていく。


 どうやって伝えればいい。

 伝えたところで、その後はどうすればいい。

 仮に受け入れられても、奥さんはどうなるの。

 いや、そもそも受け入れられなかったら、この命は――。


 深い沼に沈み込むように夜が訪れて、何の変哲もない朝日が昇り、時間の経過が意味を成していく。

 何も決断も行動も起こせない私を嘲笑うかのように、突如として終わりはやってきた。業務中に下腹部に違和感を覚えて、トイレで下着を確認すると薄っすらと血の跡が付いていた。器官形成期とも呼ばれる初期に流産をしたのだ。親にも友人にも、当事者である上司にも伝えなかった、私だけが知っている一つの命の終焉。


 その時になって初めて、自分がいかに浅はかであったか痛感した。

 長きにわたって上司の奥さんを裏切り続けていたこと。

 産まれてこなかった小さな命に対して、祝福する言葉も出なかったこと。

 流れるように身を任せて、己の意志すら持てなかったこと。


 かかりつけの産婦人科で掻把法そうはほうと呼ばれる手術が行われたあと、狭いトイレの中で、声を押し殺して嗚咽する。当たり前の日常の色が消えた瞬間であった。


『東京に転勤が決まったけん、家探しよるよ』


 彼との出会いは中学生の時であった。もう十年以上の付き合いになる。彼氏でもなければ友人とも呼べないような関係。

『なんかあったん?』

 続けざまにこちらを窺うメッセージが入った。

『なんでそんなん聞くん?』

『だって、既読になっても返信遅れとうやん』

 彼はいつだってこんな感じだ。単純にこちらが既読スルーをしているだけという発想はないらしい。こじらせた自意識過剰に捉えかねないぞ、と心の中で毒づく。


 中学生の頃の私は人付き合いが苦手であった。自分の思っていることを伝えたり、器用に相手に合わせることが出来なかった。場当たり的に愛想だけを振りまいていたことも周囲にばれており、友人もいなく教室の隅で下を向いているような女の子であった。

 そんな私に声を掛けてきたのが彼だ。最初は隣の席であったこともあり、忘れ物の貸し借りから始まった。今思えば、少し抜けている彼に一方的に消しゴム、教科書を貸してあげただけかもしれない。

 彼は所謂ぼっちと呼ばれる存在であった。マニアックな映画や本、知識をこよなく愛しすぎて、人に押し付けてくるので完全に周囲から浮いていた。クラスの中で孤立気味の私となんら変わりない存在。幾度となく、興味もない本を貸してあげるだの、自分が勧めた映画の感想を求められるだの、こちらの感情を無視した推奨に、その都度、呆れて拒絶する、といった奇妙な関係。


 そんな中、一つの事件が起きた。些末なことで女子とのいざこざがあり、それが元ではないが翌日から熱を出して二、三日休むことになった。母親から友達がお見舞いに来てくれたわよと寝室のドアを叩かれて、玄関を開けると彼がいたのだ。人並みに思春期であった私は、いくら変わり者の彼とはいえ、男子からお見舞いを受けることに気恥ずかしさを覚えて、


「どうしたん、急に」とその顔に投げかけた。すると、返ってきた答えは、

「なんか心配事あるなら、これ読むといいよ」だった。


 どうやら、彼は私がクラスメイトから苛められて不登校になったと勘違いしたらしい。それを元気付けようとした彼なりの優しさであった。

 今でも笑ってしまうのが、そんな傷心であろう女子を元気付けようと手渡された本は、無限の時を彷徨う悪夢のようなホラー小説だった。


 その時からだろうか。私に周囲の目を気にせず、自分で一歩を踏み出す勇気の欠片が芽生えたのは。徐々に周囲とも打ち解けて友人もでき始めた一方、彼は相変わらず孤立を深化させていった。でも、そんなこと気にする風でもなく飄々と生きていた。

 思い返せば、私が落ち込んだ時には、どう計ったのか定かではないが、いつも彼から連絡がきた。


 初夏の夜風は生温く、胃に流し込んだビールも相まって体の熱は冷めることはない。申し訳程度に設置されたブランコが佇むだけの小さな公園に、なんだか無性に人恋しくなった私は無意識のうちに電話をかけていた。


「家、探しとうなら三鷹においでよ」


 私の一歩は時に間違えることはあるけど、自らの足跡に流れ込んだ感情が浄化されて、輝く湖となる日がくるかもしれない。


 メッセージのやりとりを縫って検索した巨人に思いを馳せる。


 巨人は何も国を造ったり、命を育むだけの存在ではない。ただそこにいるだけで安心を与える存在であったそうだ。じっと動かず市井を見守る存在。目には見えない力が今も武蔵野台地を見下ろしているのかもしれない。


 でも、目に見える巨人だっている。ようはそれに気付くか気付かないかだけ。


「実は最初からその辺の物件を探しとったんよ。だいだらぼっちのメッセージでばれるかなって思ったんやけど」

「そんなん、わかるわけないやん」

「やっぱり難しすぎた? まあ、お前の近くに住みたいなと思っとるわけよ」

「なんそれ」


 ぼっちだったくせに。


 私だって。

 

 この胸に明かりを灯すのは、いつだってそんな存在だ。


 了



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ぼっちだったくせに 小林勤務 @kobayashikinmu

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