阿古万千 あこまち 第二章

 七三の話


 さて、このおじさんにまつわる話も、後で考えると呆気なく終わりを迎えて、そこから私の人生の様相もいささか変わっていく事になった。


 別にその日もいつもと変わり無くおじさんとご飯を食べに行って、少しアニメの話をして、いや、少しじゃないな、殆どアニメの話だったかな。とにかくいつもと変わらず子供なりに気を使って、おじさんに接していた積もりだった。どうしてそんな事になってしまったのか、今でも良く分からない。帰りに駅の近くまで二人でぶらぶら歩いてきて、分かれる前に不意におじさんが肩に手を回してきた。別に初めての事でも無かったのだが、私は無意識に逃げるように離れてしまった。そこでおじさんの顔色がサっと変わったのだ。おじさんの表情は初めて見る物だった。ひどく傷ついた顔と怒りを含んだ暗い目が一瞬浮かび、そしておじさんは


「まったく、あなたにはガッカリですよ。」


 と、ぼそっと呟いた。私は慌てて何か言い訳しようと口を開きかけたが、おじさんはいきなり私を暗い路地に突き飛ばし、仰向けに倒れた私は頭を強く打って、ショックと痛みで立ち上がる事も出来なかった。おじさんはゆっくり近づいて来て、私の胸ぐらを掴み、強張った表情と血走った目で私をじっと見つめ、やがて拳を大きく振り上げた。私は恐怖で体が動かず、その振り上げられた拳を馬鹿みたいに見上げる事しか出来なかった。私がその拳をぼーっと眺めてる時に、ふと、その叫び声に気付いた。彼女がいつから叫んでいたのかは分からない。最初は街の喧騒に紛れた騒音の一部かと思ったが、やがてその叫び声だけがだんだん大きくなって、私の頭の中はその叫び声で一杯になった。私はいつの間にか叫んでいた。彼女の叫び声に呼応するように、そして彼女の叫び声は私の叫び声となり、私は喉が裂けんばかりに叫んだ。


 空子の話


 冷蔵庫を開けて、初めて牛乳が切れている事に気付いた。もう日が暮れて辺りは暗くなっていたが、コンビニはそんなに遠くないし、晴兄は仕事で居ないし、お気に入りの法被を羽織って、私はぶらっと夜の街に出た。綺麗な月を眺めながら、少し肌寒いくらいの街をブラブラ歩く事はとても楽しい事で、抗いがたい魅力があったから、飲みたい時に牛乳が切れている事も、そんなに悪い事じゃない。


 駅の近くのコンビニに近づいた時、ふっと視線の端に、樟葉さんを見かけた。彼女は年配の男性と一緒に居た。最初は彼女の父親かと思っていたが、彼女の表情に何か不審な物を感じ、何故か私は彼女から目を離せなくなった。やがて年配の男性が突然彼女を突き飛ばし、彼女は細い路地に消えてしまった。私は慌てて駆け寄って、路地を覗き込んだ。年配の男性が路地に倒れ込んだ彼女の胸ぐらを掴み、大きく手を振り上げたのを見て、私は頭が真っ白になった。その時、咄嗟に漏れでた声がぐんぐん大きくなっていったかと思うと、やがて自分でも驚くくらいの叫び声となった。私は自分でも気付かず大声で叫んでいたのだ。私の叫び声に驚いた通行人がばらばらと駆け寄ってくる足音が響くと、年配の男性はハッとした様に、彼女を離して路地の奥に足早に消えていった。私は逃げていく男性の後ろ姿を見ながら、何故かふーっと気を失ってしまった。


 気付くと、私の目の前に赤い木の鳥居が建っていた。私は山の中腹みたいなところに立っている様だったが、辺り一面暗闇で、見えるものは古めかしい街灯に照らされたその鳥居だけだった。ふと、その鳥居の後ろを見ると後ろにも鳥居が建っていた。いや、その鳥居はどんどん後ろにコピーされる様に次々と素早く現れて、山の頂上に向かって増えていき、見えなくなるまで続いている様だった。私は、ふと振り返って見ると、後ろにもやっぱり鳥居が建っていて、同じように鳥居が下までどんどんコピーされていった。前を見ると、今度は黒い着物を着た小柄で柔和な顔付きをした老婆が立っていた。まるで私を中心にした芝居みたいに、そうした小道具が少し遅れて現れてきている様だった。老婆は私の頭の少し上を凝視していた。


「確かに六つ目の星が出ました。」


 老婆が口を開いた。老婆は少し小太りで、にこにこと笑顔を浮かべてはいたが、侵しがたい威厳をコートの様に着込んでいた。ふと見ると老婆の傍らに真っ黒の狐が座っていた。老婆とその狐は何やらひそひそ話しをしていた。私の頭はまだ霧が懸かっていて、その様子を、奇妙とも思わずただ眺めているだけだった。


「七川 空子。」


 老婆は私の名前を呼んだ。私の頭の霧が、段々晴れてきた。


「……これは、夢?」


 私は思わず呟いた。


「夢でも何でも構いしまへんえ。」


 老婆は少しくだけた口調で言った。


「どうせ、あなたはここで見た事も、聞いた事も綺麗さっぱり、忘れますさかい。」


「……私は、前にもあなたに会った事があるの?」


「私は阿古万千あこまちと申します。そんで、ええ、ええ、何回かお会いしてますよ。」


 老婆の口調は相変わらず穏やかで、まるで公園のベンチでたまたま出会った人と世間話をしている様な感じだった。


「今日はあなたに星が出たというから、ここまで御足労願った、という訳です。」


 私は当然一掴み以上の聞きたい事を抱えていて、それらの疑問を老婆にぶつけようと口を開きかけたその時、老婆は私の目の前で静かに人さし指を一本突き立てた。私は虚を突かれ、黙ってその人さし指を見つめた。


「あと一つ。」


 老婆はまた私の頭のすぐ上あたりを凝視して、そう言った。


「あと一つ?何が……」


「あと一つ、星が必要です。正直星六つまでの子は、ちらほら居てはります。」


 私はふと、頭をぐるりと上に回して老婆が凝視していた辺りを見てみた。もちろん星などは見えるはずも無かった。


「それで、どうなるの?あと一つ星が出たらどうなるの?」


 それでも私は好奇心に駆られて、聞いてみた。


「それは……その時にまた話しましょ。」


 老婆は言い終わるとにっこりして、横に居る黒い狐に何か目配せをした。そして老婆はこちらに向き直り、またもや人さし指を突き立てた。すると頭の中に霧が流れ込んできて、私は無意識に頭を両手で抱え込んだ。そして私はまた意識を失った。


 次に目を覚ますと、どこかのベッドの上で、晴兄が心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「私……」


 すっかり混乱している私に晴兄はゆっくり説明してくれた。駅の近くで意識を無くした事、樟葉さんの事、逃げていった男の事、聞いているうちに段々記憶が蘇ってきた。


「樟葉さんは?」

「あの子の怪我は大した事無いって。母親が迎えに来ていたよ。」


 それを聞いて私は不思議と充足感に満たされ、ただ家に帰りたいという思いだけが一つ残されたまま、もう他の事はどうでも良くなってしまった。


「晴兄、家に帰りたい。」

「ああ、お医者さんに聞いてみよう。」


 晴兄は医者を探しに病室を出ていった。私は再びベッドに横になって、何か忘れてる気がして、変に座りの悪い自分の記憶をうまく繋ぎあわせようと試みたが、どうも欠けているピースが見つからず、ますます混乱するだけだった。やがて私はその作業を投げ出した。そして晴兄が帰ってきた。


「帰っても良いって。」


 私達は病院を出た。建物を出ると少し冷たい風が吹いて、私の意識も少しはっきりしてきた。


「晴兄、ごめんね。」


 私は何となく謝った方が良い気がしてそう言ったのだ。


「空子、お前は良い事をしたみたいだ。」


 晴兄はごそごそと煙草を取り出し、ライターを探しながら言った。


「だから、別に謝る事は無いさ。」


 そして、こっちを見ながら


「どうやら、お前は俺が思っているより、成長してるみたいだ。」


 そう言って、晴兄は微笑んだ。


「その調子だよ、空子。」


 そして晴兄は、満足そうに煙をゆっくり吐いた。晴兄に不意に褒められて、私は胸の奥底がじわーっと暖かくなるのを感じた。私は他人に自分の存在を肯定される感覚を初めて味わったのだ。私はその感覚をもっと感じたくて、自分の胸にそっと手を当てた。後から考えれば、勿論晴兄は最初から私を無闇に否定したり、無視するような事など無かったのだが、私はそんな事に気付いてもいなかった。これは私の問題なのだ。この世界で私を受けて入れてくれる場所や人が存在する事なんか考えられなかった。私の準備が出来ていなかっただけで、そして私はやっと世界を受け入れる準備が出来たのだ。


 七三の話


 その後のごたごたについては、あまり思い出したくない。とにかく私はおばあちゃんに引き取られる事になった。ママと離れる事は悲しくもあったが、新しい環境は私に期待を持たせた。幸いおばあちゃんはまともな人で、私はそこで成長して、今もおばあちゃんと一緒に暮らしている。少し田舎に引っ越す事になったが、それも私には良かったのかもしれない。私は吃音のせいで人付き合いが苦手な所もあったので、人の少ない田舎の方が性に合っていた様だった。


 とにかくおばあちゃんのとこに引っ越すまで学校にはほとんど行ってなかったのだが、ある朝、不意に思い立ってまたウサギの檻を見に行ってみた。何となく最後に見てみたくなったのと、七川さんの事が気になっていたのだ。彼女とはあの事件以来会ってなかったが、あの叫び声とその後気絶したという事は聞いていた。あまり期待せずに行ってみたが、果たして彼女はそこに居て、おずおずと近づいてくる私を見て微笑みを浮かべて迎えてくれた。


「樟葉さん、もう大丈夫なの?」


 七川さんはとても自然に、そう訊ねてきた。私は突然ぽろぽろ泣いてしまった。私は堰を切った様に流れる涙にすっかり戸惑っていた。自分でも何故泣いているのか理解出来なかったからだ。そんな私を見て、彼女はびっくりして心配そうに見つめていた。


「……な、七川さん、わ、わ、私、怖かった……」


 私は絞り出すように、彼女に言った。そうか、私は自分が感じた恐怖を誰かに訴えたかったのだと、その時やっと気付いた。彼女は私の肩に手をかけて色々慰めてくれたのを憶えている。その後私達は檻の傍らに座ってウサギを眺めながら、お互いの境遇なんかをぽつぽつと話したりした。とにかく、私はその後いくぶんすっきりした気持ちでおばあちゃんのとこに出発する事が出来た。私の重荷の幾分かを彼女に預けた気になって。


 なんで、こんな事を思い出したのかというと、来週あの町の近くでライブをするから、空子に連絡を取ったからなんだ。ご飯でも食べようって誘ったのさ。彼女はすぐ返事をくれて、楽しみにしてるって。彼女の返信を眺めてると、昔の事をふっと思い出してね。さて、私の話はここまで。ありがとう、私の話を聞いてくれて。


 ありがとう。

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黒手 高瀬 梟角 @yellowhorse

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