阿古万千 あこまち 第一章
時は平安初期の弘仁年間(810~24)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、年老いた狐の夫婦が棲んでいました。全身に銀の針を並べ立てたような白狐だったのです。この狐夫婦は、心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていました。とはいえ、畜生の身であっては、所詮その願いを果たすことはできない。そこで、狐夫婦はある日意を決し、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝し、「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」と、社前に祈りました。すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣がくだりました。「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲み稲荷神の慈悲と付託にこたえるべく日夜精進につとめることになりました。男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を明神から授けられたとのことです。
伏見稲荷大社ーHPより
七三の話
私の名前は
パパは私が小さい頃、ふらっと、消えてしまった。パパの事はほとんど憶えてないけど、手を繋いだ時に、よくパパの指輪をいじっていたのを思い出す。パパはキースの指輪って言ってた。っていうかキースって何だろう?ああ、違う、こんな話は関係無いんだった。
ママがおかしくなったのは私が小学校六年生に上がった頃だった。何があったのかは分からないが、とにかく一日中パソコンに張り付いてゲームをする様になってしまった。ご飯も掃除も、もちろん私の事も放ったらかしだ。それでもママのゲームの邪魔をする事は許されない。うっかりそんな事をしたら、ひどく怒られるのだ。結局、私は自分の部屋で忘れ去られた
ある日、ママが私に服を買ってきてくれた。滅多に無い出来事だったので、少し驚いたし、そして嬉しかった。だけど、夕食の時、ママが変な事を言い出した。知らないおじさんとご飯を食べて来い、と言うのだ。私はびっくりして、嫌だと言った。するとママの顔が一気に険しくなり、食卓をコツコツ叩き出した。これは、ママがどんどん不機嫌になりつつありサインだった。
「あんた、新キャラ
「で、で、で、でもママ……」
待った!私、言うの忘れてた!私、
とにかく、ママがこうなると怖いのだ。叩かれたり、物を投げたり、壁を殴ったり、とにかく手が付けられなくなるのだ。私が慌てて行くと言ったら、ママの機嫌も直ったが、私は変な約束をしてしまって気が重かった。
ついに、ママと約束した日がやって来て、私は朝から憂鬱な気分で過ごした。約束の時間が近くなると、ママが急に着替えろと言い出した。ママが先日買ってきた洋服に着替えろ、と言うのだ。私は特に考えもせずママの言う事に従った。私に果たして選択の余地があるのか?ママの言う事に従っていれば、痛い思いも、惨めな思いも、取りあえず目の前から、見えないところに隠せるから、それは消えてしまう訳では決して無いが、しかしそういう誤魔化しがあって、かろうじて私の生活が成り立っていたのだ。そして私はママの用意した洋服を着て、駅前の約束の場所に立って、学校の同級生に見つかれば少し気まずいし、どう言い訳すればいいのか、あれこれ考えながら、その知らないおじさんを待った。
やがてやって来たそのおじさんは、しょぼくれたおじさんだった。痩せたロバの様な目でこちらを値踏みする様に見て、やがて納得したのか、焼肉に行こう、と言った。正直私は緊張のせいであまり食欲が無かったし、早くこの不愉快な出来事から逃れる事しか頭に無かった。しかし、そのおじさんはとても高級な焼き肉屋に私を連れていった。そのおじさんとその高級な焼き肉屋が結びつかず、不意を突かれた感じだった。席に着いて、高そうなジュースが目の前に置かれて、おじさんに促されるままジュースを一口飲むと、何だか楽しい気分になってきた。お上品に盛られたとても綺麗な肉を、おじさんが無造作にピカピカの網の上に載せていくのをぼーっと眺めていると、やがてとてつもなくお腹が空いてきた。
私が肉を頬張っているのを眺めていたおじさんは不意に、こんなアニメを知ってるか?と聞いてきた。それは私も数回は見た事のある物だったので知ってると答えると、おじさんは急に隣の席に移ってきて、スマホでそのアニメを私に見せてきた。そしてうるさい位にそのアニメの解説を始めた。しょぼくれたおじさんが急にいきいきと喋りだしたので、私は戸惑って黙ってそのスマホのアニメを見ているだけだった。しかしそのアニメを眺めてるうちに、ある事に気付いた。そのアニメの主人公の少女の格好がなんとなく今日の私の格好に似てるのだ。それに気付くと、何だか少し怖くなってきて箸も進まなくなった。何だか得体の知れない恐怖感、というか不安に襲われたのだ。不安と満腹でぼーっとしている私を見て、おじさんはゆっくりと帰り支度を始めた。私はそれを見て解放感で気分も大分持ち直した。
駅で別れる時、おじさんは、ああ、そうだ、と言ってぽち袋を渡してきた。さっき見たアニメの主人公がプリントされたぽち袋だった。これは何ですか?と訊ねるより先におじさんは行ってしまったので、私はそこでしばらくぼーっと突っ立っていた。私はぽち袋の中をそっと覗いてみた。結構な金額のお金が入っていた。なるほど、ママの言ってた事はこれか、と納得した私は、色々沸き起こってくる思考を押し殺して、押し殺して歩いた。
結局このおじさんと、五、六回はご飯を食べに行ったと思う。そう言えばこの頃、ママが不意に髪を三つ編みに編んでくれた事があった。どういう心境でそういう事をしたのかは分からないし、あまり深く考えた事もないが、色鮮やかな様々な緑に染まった木の葉、時折吹く風というにはつつましい空気の流れ、どこまでも空に昇っていく入道雲、そして蝉の声、それとママの香水の匂い、ああ、あの一瞬はまさに私の血肉となって消化され、私が焼かれる時に一緒に煙となって消えていくんだろう、あの時の事を思い出すと、本当にそう思う。ママの意思は関係無い、これは私の、私だけの記憶、私を私につなぎ止めてくれる、数少ない記憶だから。
ああ、そうだ、本題に戻ろう。
とにかくこのおじさんが会う度に、段々べたべた触ってくる様になって私は本当にそれが嫌だった。私はママに度々不平をぶつけたが、ママはまったく聞く耳を持たないか、テーブルをがしゃんと叩いて私を黙らせるかのどちらかしかなかった。
私はおじさんと会う日が近づくと段々眠れなくなり、太陽が昇ると家を出て様々な場所をうろついた。とは行っても子供の事だし、行くあても無く結局学校に潜り込んでウサギの檻をぼーっと眺めている事が多かった。丁度その頃、子ウサギが産まれたばかりで、そんな親子のウサギを見ていると、時間の経つのも忘れられる気がして、私はウサギの親子でさえ羨ましく思えたのだ。
空子の話
私はずーっとウサギの当番をやっていた。別に取り立ててウサギが好きとか動物が好きとか、そういう理由では無く、単純にウサギ当番をやりたい人!に誰も手を上げなかったから、私にその役が回ってきただけだった。私は学校では大体受け身で過ごしてきたから、こういう時は逆らわずに受け入れるのが常だった。たまに朝早く登校する必要があったが、やってみるとウサギはなかなか可愛くて、そんなに苦には感じなかった。その日も檻の掃除のために少し早めに登校したところ、彼女がウサギの檻の前で突っ立っているのを見つけた。彼女はウサギを食い入るように見ていたが、しかしその実、何も見ていない様な、とても不穏な雰囲気で檻の前に立っていた。そうだ、もう一つ不穏な雰囲気の原因は彼女が刃がいっぱいに伸びたカッターを持っていた事だった。こういう時、受け身の私としては、見つからない様にその場を離れるのがいつもの事なのだが、その時は、どうしてか彼女の隣にそっと立って一緒にウサギを眺める事にした。彼女は、確か同じクラスの樟葉 七三さんだった。
「ウサギは神様のお使いなんだって、ばあちゃんが言ってた。」
何故かそんな話をした。
「ばあちゃんといっても本当のおばあちゃんじゃないの。」
「……あ、あ、あんたは?」
彼女が夢から醒めた様に、初めてこっちを見て言った。
「私は七川 空子。同じクラスだよ。」
「わ、わ、わたしは……」
私はクラスを色々観察するのが好きなので、もちろん彼女の吃音症も気付いていた。彼女は、まるで夢遊病患者が突然覚醒した様に戸惑っている様だった。
「樟葉さん、保健室に行って少し休んだら?ね?」
「で、で、でも、わたし……」
不意に彼女は走り出した。私は呆気に取られてぐんぐん遠ざかっていく彼女の後ろ姿を眺めていた。私は今でも、脱兎のごとく、という言葉を聞くとその時の彼女の後ろ姿を思い出す。彼女が何から逃げているのか、その時の私には分からなかった。
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